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名探偵登場

季刊ミステリーナビゲーター 96年春号
赤い館の秘密:アントニー・ギリンガム




 それが幸か不幸かは判らないが、名探偵と呼ばれる人間は社会的に何かが欠落している場合が多いようだ。
 まず己が天才であることを自称する輩が後をたたない。まあ確かに恐ろしく頭の回転の速い連中揃いであるから、回りの人間が愚鈍に見えるのは致し方ないことかも知れない。そこまで自信家でない者たちにしても、なにがしかの変わり者であることがほとんどだ。だから社会から外れた生活を送る隠者や、浮き世離れした富豪の息子という設定が幅をきかせることになる。市民の中に紛れ込み、一般市民と共に生活して差し障りのない探偵は、かなりの所珍しいのではないだろうか。
 さて、今回ご紹介する名探偵はアントニー・ギリンガム。『クマのプーさん』で名高いアラン・A・ミルンの生んだ素人探偵だ。母の遺産で年に4百ポンドが手に入り、生活の保障を得たことを機会に“世界を見るため”旅行に出る。
 一生食うに困らないだけの遺産を相続し、旅行に出かけた男なのだら、さだめし優雅な旅行をするに違いないと思うだろう。ところがさにあらん、このギリンガム、やってきたロンドンであらゆる職業につく。邸宅の執事、新聞記者、煙草屋の店員、ウェイター…。日本では理解しづらい事かもしれないが、階級制度の脈々と受け継がれているヨーロッパの国々で一生遊んで暮らせる保証を得た者が、下層階級の職に就くことは道楽としてもまずあり得ない。
 そうやって就いたあらゆる職業で、彼は自分が有能な人間である事を証明する。大金持ちのお坊ちゃんでありながら、ホテルマンやデパートの店員として優秀だというのである。これは絶対他の探偵にはマネできないことだろう。少なくとも私は、ホームズやポアロが給仕を務めるレストランで食事をする気はない。――考えただけで、消化不良を起こしそうだ。
 物語の中で、彼はワトソン役の友人ビル・ビヴァリーにこう語る。「どうしてホームズは彼らの下宿の階段が何段かなどという役に立たない知識を頭に入れておくんだろう」と。「そんな事は大家にでも電話して聞けばいい」と、こう言うのだ。そうしてやおら知らないはずの彼らの所属するクラブの階段が何段あるかを言い当ててみせる。
 この時の成り行きは、あえてここでは語らない。握手しただけでワトソンの職業を言い当てたホームズよりもあるいは印象的なエピソードなので、ぜひ読者みずからご一読いただきたい。ギリンガムの名探偵としての資格を語ると同時に、それまで多くの職場で彼が如才なく働いてきたことを無理なく納得できるエピソードである。
 ギリンガムの一番の特徴は、他の名探偵のように出し惜しみをしないことだ。「全ての準備が整うまで待ってくれ」などと、ばか高いレストランのコックのようなことは決して言わない。いかにも素人探偵の謙虚さで、思いついたことをそのつど友人のビルに話して聞かせ「どう思うかねワトソン君」とユーモアたっぷりに意見を求めたりする。相棒の意見を聞いてうなずいたり、あるいは「僕は何て大馬鹿者なんだ!」と自分を謗ったり…そうやって自分の推理を修正し、結論へと近づいていく。
 決して天才ではないが注意深く物事を見定める才に恵まれ、謙虚に友人に接することに長けたギリンガムの、友人との子供のような会話のじゃれあい。秘密のたくらみを実行する胸の踊るような高揚感。そして彼の話にキラキラ目を輝かせながら聞き入るワトソン役のビルの存在感。ミルンという童話作家だったからこそ生み出すことのできたこの名コンビの推理劇をとくと味わっていただきたい。
 残念ながら彼が登場する物語はこの世にたった1つだけ。『赤い館の秘密』だけである。もしミルンが童話作家ではなく推理小説家になってくれていたら…などとせんのない事を考えるのは、たぶん私だけではないはずだ。

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