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名探偵登場

季刊ミステリーナビゲーター 96年夏号
黒後家蜘蛛の会:ヘンリー




 アイザック・アシモフという作家は、有り体に言ってしまえば天才だ。
 なにしろその著作の量がハンパじゃない。一番通りのいいSF作家としての著作だけでもかなり多作の部類であるのに、ほかにも歴史・科学・数学・生物学といった分他の著作も数多い。日本ではSFと科学エッセイぐらいしか翻訳されていないようだが、歴史や数学、生化学から果てはシェイクスピア論まで…まさに八面六臂の活躍ぶりだ。
 ご存知の通りSF創生期から書き続けてきた大御所で、傑作の呼び名も高い作品がいくつもある。ストーリーテラーとしての彼の偉大さは、その作品群が語ってくれよう。科学に対する膨大な知識と柔軟な発想力、そしてヒューマニズムの本質を捉え、それを非常に気持ちよい形で読者に提示する能力はさすがとしか言いようがない。翻って己の身を顧みるに、劣等感のどん底まで突き落としてくれる。物書きを生業とする者にとっては、この上もなくイヤな作家の一人だ。
 そしてあろうことか、アシモフには推理小説の著作まであるのだ。
 長編『鋼鉄都市』シリーズは、刑事とアンドロイドのコンビが事件を解決するSFを舞台とした推理小説だ。この前書きがいかにもアシモフらしくていい。このSF界の大御所の、推理小説という物に対する認識がよく判る。
 とは言え、この本はミステリー小説雑誌であり、SF雑誌ではない。
 今回私が紹介したいのは彼の短編集『黒後家蜘蛛の会』の給仕・ヘンリーである。一部のミステリーマニアの方々からは、これはミステリーなどではないとお叱りを受けそうだが、推理小説家を名乗る私はこれを推さない訳にはいかない。
 ニューヨークの5番街にあるレストランで、月に一度ずつ会合が開かれる。女子禁制のこの会食に集うのは弁護士・作家・画家・科学者・数学者・暗号の専門家――クラブというほど確とした物でなく、気さくな友人の食事会と言うにはいくらか約束ごとの多い集まりだ――ただし変人揃いのメンバーはそんな事は一切気にしてはいない。いささかハイソな異種職業の懇談会とでも思っていただければよいだろう。
 この会合でホストを務める人間は、毎回一人のゲストを呼ぶことができる。このゲストを交えての歓談が、事件の提議になっている。そう、この作品は古式ゆかしい安楽椅子探偵物なのだ。なんという事だろう! SFの巨匠の書いた推理小説が、今日び推理小説家が書けなくなって久しい安楽椅子探偵であろうとは。
 事件は殺人や強盗などではなく、ありふれた日常の些事がほとんどだ。もちろん些事と片づけてしまうにはいくらか難のある謎ばかりである。話を持ち出す人物はかなり困り果てており、なんとか自分の抱えているこの厄介事を解決して欲しいと望んでいる。そしてくせ者揃いのメンバーはさまざまに知恵を絞り、その謎を解き明かそうとする。しかしなかなか収まりのいい答えが見つからない。
 かくして真打ち登場となる。「一言よろしゅうございますか。皆様」メンバーが議論を戦わせている間、よい給仕の見本のように存在を感じさせなかったヘンリーの一言は、どんな尊大な名探偵の「さて皆さん」よりもエキサイティングだ。そして謎は解かれる。言われてみればあまりにも正当すぎて“どうして気が付かなかったのだろう”と呆然とするような解答が用意されている。一読した後、作者・アシモフの会心の笑顔が思い浮かぶのは私だけか。
 なによりも特筆すべきは、この作品の公正さにある。ヘンリーの人柄そのままに、物語は愚直なまでに正直だ。それどころかさりげないヒントまで与えられている。だからこそ謎が解かれたとき、地団駄を踏むほどに悔しい。
 この作品に関しては、ぜひとも謎解きに挑戦して欲しい。そうして思いきり悔しがって欲しい。どれも決して込み入った謎ではない。よく考え、知識を総動員すれば必ず答えの見つかる謎だ。
 もし物語が終わるより先に答えを見つけられたなら、このよい給仕は作法にのっとって近づき、こう囁くだろう。
「ブランデーをもう一杯いかがですか?」
その時は思う存分快哉を叫んでいただきたい。
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