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名探偵登場

季刊ミステリーナビゲーター 96年秋号
天使たちの探偵:沢崎




 ホームズにポアロ、メグレ警部にブラウン神父…恐らくミステリーを一冊も読んだことのない人でも、こういった名探偵の名を覚えている人は多いと思う。映画やあるいはTVドラマの中で、あるいは友達との会話の中で、彼らはその名を“有名な探偵の名”として知り覚えるのだろう。その探偵がどんな事件を解決したのか判らなくても、探偵の名前だけは知っている――ミステリーファンでない人の中には、そんな人が多いのではないだろうか。
 推理小説に探偵役は欠かせない。そして謎が深ければ深いほど、探偵の英知は一層引き立つ。推理小説のストーリーと名探偵の個性は切っても切れない縁で結ばれている。けれどあえて名無しの探偵が登場する場合がある。ダシール・ハメットの“コンチネンタル探偵社の探偵”がそうである。  今回紹介させてもらうのは、そんな珍しい探偵の一人だ。
 彼の名は沢崎。ファーストネームは不明。直木賞作家・原僚が生んだ新宿に事務所を構える名探偵である。
 大変失礼な話になるのかも知れないが、私は常々日本人男性の口数の少なさを憂いている人間だ。海外生活が長いせいかも知れないが、同国人の自己主張の場慣れなさを時として非常にもどかしく感じてしまう。大変気持ちのいい友人が、意中の人の前で緊張のあまりからっきしダメなヤツを演じてしまう場面に出くわしたことはないだろうか? 思わず「違います。彼はいつもはこんな男じゃないんです」と思わず弁明したくなる、あの歯がみしたくなるような感覚だ。
 “不言実行”や“背中で語る”事は悪い事ではない。ストイシズムは万国共通であり、感情を露わに見せない抑制は特に上流階級において美徳とされる。だが、いつも苦虫をかみつぶしたような顔で「この世界はクソダメだ」と吐き捨てるハードボイルドな探偵を私は好きではない。「世界がクソダメ」である事を知りながらジョークを飛ばし口笛を吹き、軽い足取りで渡ってゆく男がカッコイイと思っている。そういう洒落た男性が、日本には少ない気がするのは気のせいだろうか。
 そこでこの沢崎である。
 彼は決して雄弁な男ではない。むしろ恐ろしく無口な男だ。決して感情を露わに見せる事はなく、日々を淡々と生きている。41歳の孤独な、拭いきれない過去を背負ってもいる男だ。そのせいもあるのだろう。彼の一番の特徴は、金銭に関して恐ろしく無頓着ということ。
 セリフがいい。湾曲に金銭ずくの懐柔を持ちかける弁護士に対し、その雇い主に向かって言われるのはこんな言葉だ。
「弁護士を雇えるような身分ではないので、彼の今の忠告を正しく理解できたかどうか自信がないのですが――要するに彼は、ぐずぐず言わずに知っていることを喋ったほうがてっとり早く金になるぞ、と言ってくれているのですか」
この辛辣さ、この洒脱さ、そしてとっさにこれだけの言葉を返せるだけの稚気…背中でしか語れない男達にぜひとも学んで欲しいと思う。会話が高度な技術遊技であることを思い知らせてくれる男、雄弁になるべき時に雄弁になれる男があまりにも少ない。
 ここまで言えばお判りだろう。おそらく彼は日本唯一の、海外のハードボイルド探偵と互角にやり合えるだろう私立探偵なのだ。
 長編『そして夜は甦る』『私が殺した少女』はこういった会話の妙を存分に堪能できる。しかし私が一押したいのは短編集『天使たちの探偵』だ。推理小説の極意は短編にあり。大仕掛けのトリックも派手な引っかけもないこの小品たちは、それでもまぎれもなく推理小説だ。しかもすこぶるつきの名品揃いである。
 沢崎は注意深い男だ。他人の出す信号を決して見落とさない。
 それは生来の才覚で事件を解決する探偵というよりは、経験の積み重ねによる刑事のカンにも近い。相手の視線の揺らぎ具合、言葉、仕草、状況の判断…おそらくは彼が生きてきた人生においては、そう言った事がとてつもなく大きな意味を持っていたのだと思う。彼が一体どんな風にこれまでの半生を送ってきたのか…一読した後、知らずこの男にのめり込んでいる自分に気がつく。
 タフで注意深く、己の中央にしっかりとした芯を持ち、それ故に辛辣にも饒舌にもなれる男。己の不器用さをわきまえ、他人に優しくあれる男。――こんな探偵が住んでいてくれるなら、東京という都市も捨てた物ではない。そんな風に思わせてくれる男である。

※ “僚”は本当は人辺のない文字ですが、当用漢字にないためこの文字を当てました。
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