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聖書からのメッセージ

2014年1月20 日

創世記1:1〜2 
 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よあれ。」と仰せられた。すると光ができた。                                                      
                                                  

 壮大なスケール、人の想像するところを超えている。しかし、神が天地万物を造られたその情景を黙想してみた。しかし、それは、なかなか難しいことである。何もないところに、光を造られ、そこからすべてが始まった。

 人は、そのことに目を留め、真剣に神が天地を造られたことを受け止めるなら、もう少し、謙虚になれるのではないだろうか。新旧約聖書を通じて、心低くして歩むことが求められているが、それは、天地を造られた、この壮大な宇宙の始まりを始められた神をどれくらい真剣に受け止めるかにかかってくると思う。


2012年2月19日

礼拝説教からワンポイント

 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしの示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。           創世記12:1〜2 
                                                                                              

 上記のことばは、アブラハムに神様が命じられたことばです。彼は行き先を知らぬままに故郷を出立したと新約聖書へブル書に記されています。聖書に登場してから最後まで、アブラハムの生涯を見ますと、神様への従順な信仰によって歩んだことが分かります。
 しかし、彼も人間としての弱さを持っていたことも分かるのです。神様は、祝福の約束を持って、そんな弱さをもカバーしてくださったことをその生涯を読む時に知ることが出来ます。
 信仰によって歩む現代の私たちも神様の守りの中を歩んでいます。


2011年5月15日

礼拝説教からワンポイント

 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ、福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。                 ローマ1:15〜16 
                                                                                              

 ローマ人への手紙は、パウロがローマにいる人々に書いた手紙です。パウロはローマにこのときまだ行ったことはありませんでしたが、イエスキリストのこと、福音は、すでにローマに届き、クリスチャンが集まっていました。
 そこで、パウロは、まだ見ぬ人々に神の救いの福音を届けたいと願い、この手紙をしたためたのです。福音は民族を超え、世界中に広まっています。それは、福音の中に「神の義が啓示されて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」(17節)と書かれているとおりです。
 その神様の力を多くの人々が体験できますように、と祈ります。何が起こるか分からない時代を生きている私たちです。何があっても心配することのない神様の力によって歩まれますように。


22010年11月14 日 

礼拝説教からワンポイント

 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を 洗ったのですから、 あなたがたもまた互いに足を洗うべきです。                 ヨハネ13:14 
                                                                                              

 最後の晩餐のときに、イエスキリストは、弟子たちの足を洗われました。足を洗うとは、お客様をもてなすときにすることですが、それは当時、奴隷の仕事でした。神であるイエスキリストが弟子の足を洗われたのは、神であられる方が十字架にかかって人を救うと言う最も低くなられるときが間近に近づいているためです。
 イエスキリストに倣って、弟子たちが互いにへりくだり、仕えあって生きていくように、命じておられるのです。これは、今日の私たちも同様です。「それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」とイエスキリストはおっしゃっています。
 キリストのごとく、へりくだって生きる人生は平安と喜びに満ちています。それこそ、霊的な祝福です。


22010年9月19 日 

礼拝説教からワンポイント

 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。                    ヨハネ9:41 
                                                                                              

 生まれながらに目が見えなかった人を癒されたイエス様に対して、ユダヤ人指導者たちは、安息日を守らなかったから罪人だと言います。神様は礼拝し休息を取る日として安息日を定められましたが、安息日に癒しを行ってはいけないと言われたわけではありません。
 しかし、彼らは、癒しを行われたイエス様が「医療という労働をしたから安息日を破った。だから罪人だ」と主張したのです。でもそれは彼らが勝手に作った決まりです。
 自分たちの解釈で決まりを作り、それを守っているから自分たちは正しいとし、自分たち以外の人は罪人だとする彼らに対して
、「あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」とキリストはおっしゃっているのです。自分は正しく、他の人は間違っているとする、そのようなことはないでしょうか。
 イエスキリストに従うときに、心の目が開かれます。目を見えるようにしていただいた人は、肉体の目だけでなく、心の目が開かれ、イエスキリストを信じますと告白しました。本当に正しいことを見極める目が聖書のことばから開かれますように。


22010年8月22日 

礼拝説教からワンポイント

 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って大声で言われた。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
                                          ヨハネ7:37〜38                                                                                               

 流れ出る生ける水の川とは、イエスキリストが十字架にかかられたあと、イエスキリストを信じる者に与えられる聖霊のことが言われています。聖霊は信じる者の心のうちに愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22)を結ばせてくださいます。
 イエス様の下に行って、それらのものが心の奥底から流れ出る経験をなさることができますようにと祈ります。


22010年8月8日 

礼拝説教からワンポイント

 イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
                                          ヨハネ6:35                                                                                               

 イエスキリストがこのことばを語られたとき、人々は、キリストが毎日のパンを与えてくださるのではないかと、イエスキリストを追って来ていました。彼らの求めは、毎日の食べるパンでしたが、イエスキリストは上記のように答えられます。
 イエスキリストを信じる者には、終わりの日によみがえり、永遠のいのちが与えられることが約束されていますが、信じる者には、必要なものを与えてくださることの約束でもあります。ストレス社会に私たちは生きています。けれども、キリストにあるとき、心に平安が与えられて生きることができます。
 私たちが、毎日生きるための必要とは、そういった心の問題だけでなく、確かに食べるためのパンも必要です。しかし、信じて従っていく時に、日常の必要も与えられることが約束されているのです。私たちはまず食べるために心を砕くのではなく、まず、イエスキリストを信じるのです。
 そうすれば、霊的にも肉体的にも、飢え渇くことがないのです。
「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれが、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とはイエスキリストのことばですが、これらのものとは、衣食のことであることが、前の節を見るときに分かります。今日の社会では、将来に不安があります。しかし、イエスキリストを信じる者はその不安をも、神様にゆだねて生きることができるのです。


22010年7月11日 

礼拝説教からワンポイント

 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて帰途についた。
                                          ヨハネ4:50
                                                                                                

 王室の役人がイエスキリストのもとに来て、病気の、しかも死にかけている息子の癒しを願いました。それで、イエスキリストは役人に上記のようにおっしゃたのです。普通、癒しを願ったとき、人は病人のところに来てもらいたいと思うのではないでしょうか。
 しかし、イエスキリストは、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」とおっしゃったのです。
ことばだけです。しかし、役人は、そのことばを信じて、家に戻ったのです。そして、まだ家に帰りつかない道の途中で、息子の病気が治ったことを知らされました。しかも、直った時刻が
あなたの息子は直っています」とおしゃった時刻と同じであったことを知ります。このことは、イエスキリストが離れた場所で発せられたことばだけで癒しを行われたことを示しています。
 今日イエスキリストのことばは聖書の中にあります。私たちはイエスキリストのことばを信じ、この役人のように、ことばに従って歩むときに神の業、しるしを見させていただけるのではないでしょうか。


22010年7月4 日 

礼拝説教からワンポイント

 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません
                                          ヨハネ4:23〜24
                                                                                                

 このことばは、イエスキリストが語られたものです。ですから、とは、神様のことです。イエスキリストが地上においでになったことから、新しい時代が始まっています。それまで、ユダヤ人たちはエルサレムの神殿で、サマリヤ人は、ゲルジム山で礼拝をしていました。
 サマリヤの女性はイエス様とお話している間に、ただの人だと思っていたイエス様がそうではなく預言者だろうかと思い始めます。それで、礼拝場所について質問しました。その時のイエス様の答えが上記のことばです。
 霊とまことによって礼拝する新しい時代が到来したことを告げておられます。エルサレムではなくゲルジム山でもなく、霊とまことを持って礼拝する、それは今日、世界中のあちらこちらの教会で行われていることです。
 このあと、イエス様がメシヤ、キリストだろうかと思い始めた女性が町に行って、 人々に告げたことによって、サマリヤの人々はイエスキリストを救い主として信じました。


22010年6月6 日 

礼拝説教からワンポイント

 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちは信じた。」
                                          ヨハネ2:11
                                                                                                

 このこととは、婚礼の宴会で、水をぶどう酒に変えられた奇跡のことを指します。通常、水がぶどう酒に一瞬にして変化することなど考えられませんが、イエスキリストは、公の生涯の初めに、このことをご自分の栄光を現すしるしとして行われたと語られています。
 それは、イエスキリストがこれから何をなさるかを表しているのです。キリストは神です。水をぶどう酒に変えることはおできなりますから、ご自身が何者であるかを第一にお示しになったと言えます。
 第二に、キリストは十字架にかかるために地上に来られました。血を流されたのは、人類の罪の身代わりであり、人の罪を赦し清めるためでした。キリストの血はぶどう酒に象徴されています。
 ユダヤの人々は、穢れを水で清めるという習慣を持っていましたが、これからは、水ではなくキリストの十字架の贖いによって、清められる時代が到来した、そのことをお示しになったのです。ですから、水をぶどう酒に変えられたことについて、上記のような説明がついています。 


22010年5月16 日 

礼拝説教からワンポイント

 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。・・・・」
                                          ヨハネ1:29
                                                                                                

 人となって地上に来られたイエスキリストは、30歳になって、ヨルダン川でバプテスマを授けているヨハネの元に行かれました。上記の言葉は、イエスキリストを見たヨハネの発した言葉です。イエスキリストは、人類の罪を背負って十字架にかかられました。それを信じる信仰によって、救いがもたらされるのです。
 罪あるままでイエスキリストの元に行き、十字架は自分の罪のためと信じるなら、神からの赦しを受けます。つまり、「罪なし」と見ていただけるのです。イエスキリストは、世の罪を取り除くために地上に来られたのです。


22010年5月9 日 

礼拝説教からワンポイント

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。・・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
                                          ヨハネ1:1,3,14                                                                                                

 ことばと訳されているギリシャ語はロゴスです。ロゴスはことばですが、ユダヤの人にとっては、天地万物は神のことばで造られたので、ロゴスを単なる言葉でないと捉えることができます。また、ギリシャ人にとっては、ロゴスは宇宙を支配する原理そのものでしたので、人となられた神を表すのに、ヨハネはロゴスを用いたのでしょう。
 人となって地上に住まわれた方は、イエスキリストです。イエスキリストは神であり、宇宙の初めにおられ、万物を造られた方として、ヨハネは紹介しています。


22010年4月 25 日 

礼拝説教からワンポイント

 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。  
                                       イザヤ60:1
                                                             

 上記の箇所の少し前に『贖い主が来る』、『悔い改める者の所に来る』、『神の霊がとこしえに離れない』ことが記されています。新約聖書の光に照らしてみれば、イエスキリストの救いと聖霊の内住、すなわち、信じる者に与えられる約束、聖霊なる神が心のうちに住んでくださることを思い起こさせていただけます。 
 起きよ。光を放てと命じられているのは、私たちの努力によらず、輝いてくださるお方の存在があるからです。それが救われた者の幸い、恵みです。 


22010年4月 1 8 日 

礼拝説教からワンポイント

 いと高く崇められ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。  イザヤ57:15

                                                             

 神は心砕かれて、へりくだった人とともに住む、と仰せであると記されています。もちろん、神様の前に、へりくだってイエスキリストの十字架を受け入れた人とともに住んでくださることは言うまでもないことですが、ここで記されていることは、前後の文脈から言って、また、ヘブル語の意味から考えて、理由が何であれ、もう立ち上げれないほどに、打ち砕かれている人を意味しています。
 打ちひしがれている人に神は語りかけておられます。神様は神様が造った魂が衰えはてるから、いつまでも怒っていない、彼を癒そう
と16節17節で語られています。どんなに神様に反する生き方をしていたとしても、神様はいつまでも怒っていない、癒そうと大きな愛の心を持って、人が神様の元に帰ってくるのを待っておられるのです。


22010年4月 4日 ハッピーイースター

礼拝説教からワンポイント

 そこで、ふたりは話し合った。「道々、お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」    ルカ24:32
                                                             

 この言葉は、イエスキリストのお弟子が語っていることです。イエスキリストが十字架にかかられたのを目撃した弟子でした。救い主と信じてついてきたのに、何が起こったのか混乱しています。三日目の朝、、女性の弟子たちの「イエス様の墓は空っぽだった、白い衣を着た人がイエス様はよみがえられたと言っていた」という報告を聞きながら、エルサレムを後にしていました。
 何が起こったのかどうなっているのか議論しながら、二人の弟子が道を歩いていると、イエス様が現れて、旧約聖書から、メシヤ、すなわちご自分のことについて書かれていることを解き明かされます。彼らがイエス様だと気づいた瞬間に、イエス様の御姿は見えなくなったと記されています。
 驚いた彼らでしたが、イエス様だと気づかないときでも、聖書をお話くださっている間、思い返してみると、心が燃えていたことに気づいたのでした。
 よみがえる、復活すると言うことは、通常ないことで、不思議なことかもしれません。しかし、イエスキリストは復活され弟子たちにご自分を明らかにされました。イエスキリストはメシヤ、救い主です。復活なさったイエスキリストは今も生きて私たちと共におられます。
 共におられるキリストを知るとき、また、聖書から神の約束を知るとき、私たちの心も燃やされるのです。


22010年3月21日 

礼拝説教からワンポイント

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。 。    イザヤ53:5
                                                             

 ここに記されている彼とはイエスキリストのことである。イザヤ書53章はイエスキリストの受難について描かれている。紀元前700年代の預言者がはるか未来のことについて描いたのは、信じがたいことであるが、新約聖書に記されているイエスキリストの十字架とその直前にあった出来事と53章に書かれていることは、不思議に一致する。
 そしてまた、上記の箇所に記されていることは、十字架の意味である。キリストは「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」と新約聖書のペテロの手紙Tに記されている。
 イエスキリストは、私たち人類の罪の身代わりとなって、十字架と言う苦しみに会われた。そのことによって、私たちは罪の負い目から放たれ、心に巣食う負い目、罪責感から開放される。また、キリストのゆえに、罪からも解放され続けて行く人生が始まる。
 そのことは全人格的いやしとなっていくのではないだろうか。


22010年3月7日 

礼拝説教からワンポイント

 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、あれはたて譲りの地を継がせよう。    イザヤ49:8
                                                             

 イザヤ書のこの箇所は、バビロン捕囚からの救いが念頭に置かれているが、真の恵みの時はイエスキリストにある救いの日である。イザヤは遠い未来にあたるキリストの十字架の救いをこのときも伝えている。それだけでなく、やがて来る終わりの日にある恵み、救いをも重ねて語られている。
 いずれにしても、神様の恵みの日は、一人ひとりに注がれている。悩み求める者に、神は答え、救いの日に助けたと言われる。真の神が見守り、ゆずりの地を継がせようと呼びかけておられる。その声に従っていく、その幸いの中に歩む方が大勢起こされますように。
 


22010年2月21日 

礼拝説教からワンポイント

 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。                                イザヤ46:4
                                                             

 聖書の神は、わたしたち一人ひとりを母の胎内にいるときから、背負ってくださっている神であり、それは、生涯にわたってそうであるとおっしゃる神である。しらがになっても、神は見放すことをしないで、守り導いてくださるお方である。
 不安の多い時代にあって、生まれる前から、、老いるまで、守ってくださるお方のおられることは、何と幸いなことであろうか。それだけではなく、『わたしを信じるものは死んでも生きる』(ヨハネ11:25)とは、イエスキリストのことばである。
 人は老いるだけでなく、必ず死ぬ。しかし、神のご計画であったキリストの十字架による罪の赦しを信じ、神に守られて生きる者は、死んでも生きることになる。あなたは、それを信じることができますか?


22010年2月7日 

礼拝説教からワンポイント

 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。    イザヤ44:6
                        
                                     

 聖書を通して語られる神は唯一であり、永遠から永遠の存在である。聖書の最初の書物である創世記の最初のことばは「初めに神が天と地を創造した」である。天地万物が造られる前には、「地は形がなく、何もなかった。闇が水の上にあり、神の霊は水の上に動いていた」と何もないところに、神はおられたことを記している。
 同志社大学の創立者である新島襄が「初めに神が天と地を創造した」ということばに触れて、クリスチャンとなったということは有名な話であるが、神によってすべてが造られたということは、何もないところに神が存在しておられたということである。

 また聖書はやがて、地上の終わりが来る、終末についても語っているが、その後の世界にも神は存在される。


22010年1月17日 

礼拝説教からワンポイント

 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 
 あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。      イザヤ41:10、14
                        
                                     

 上記のことばは、バビロンに捕囚となる前に神が語られている。背信の罪を犯し続けて捕囚となるのは、実際に起こる。神は選びの民がどうなるか分かっておられのに、それでも、上記のようなことばを語り続けておられる。
 これは今日も同じである。私たちがどのような者であるかをご存知であるにもかかわらず、あなたの神だからとおっしゃってくださる。強め、助け、守るとおっしゃっている。
 贖うとは、代価を支払って買い戻すことを意味する言葉。日本語の贖うは『代価を払って償う」という意味である。しかし、私たち人類の罪はどのような代価を支払っても罪を償うことは出来ないのではないだろうか。出来るとすれば、完全に穢れのない聖なる方の犠牲による以外にない。
 罪のない聖なるお方、イエスキリストの十字架は代価となりうる唯一のものである。キリストが十字架にかかって私たちを贖ってくださったとは、十字架の苦しみと言う代価を払って、本来神のものである私たちを買い戻してくださったのである。

 私たちのすることは、「十字架を信じます。贖いをありがとうございます。罪の赦しをありがとうございます。」と言うことである。


22010年1月10日 

礼拝説教からワンポイント

 草は枯れ。花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。      イザヤ40:8                        
                                     

 上記のことばが語られているのは、イザヤが回復の預言をしている中である。回復とは、イザヤから数百年後に起こるバビロン捕囚からの開放、エルサレムの回復のことである。それは、同時に、さらにその当時から見る未来における本当の開放、すなわち、イエスキリストによる罪からの開放が暗示されている。そして、それだけではなく、私たちにとっての未来である、終わりの日のことも重ね合わせるように、示されているのである。
 イザヤ書にはその様に、イザヤの時代の人々に語られていること、近未来に語られていること、未来に語られていること、そして、これから来る終わりの日について、一つの文章の中で記されている。私たちの時代からさらに未来に起こる出来事、終末にはイエスキリストが再びおいでになる。
 それら聖書全体を通して語られている神のことば、それが永遠に立つ、すなわち、永遠に変わらないことばであると言われているのである。
 人には神のことばとしての聖書がある。永遠に変わらない聖書、神のことばに従うところに、人のまことの生きる道がある。


22010年1月3日 

礼拝説教からワンポイント

 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』        イザヤ12:2                         
                                     

 この箇所の特に、「あなたの名は祝福となる」は日本バプテスト教会連合の2010年度の年間聖句となっている。このことばは神がアブラハムに語られたものであり、アブラハムの名が祝福となる言われているのだが、神の示す地に行きなさいという神の命令がその前に語られている。
 神の命令に従って生まれ故郷を出て行くなら、そうすればと冒頭の言葉に続いているのである。アブラハムは(当時はアブラムと名乗っていた)
信仰の父と呼ばれる人であったが、その信仰によって神の命令に従った。聖書は、新旧約聖書を通じて、アブラハムの信仰について語り、信仰によって救われることを告げている。
 アブラハムが信仰によって神からその名が祝福となると言っていただけたように、今日の私たちも、イエスキリストを信じる信仰によって救われ、祝福を受ける者となっていく。アブラハムの名が祝福となるのは、歴史の中で、アブラハムの信仰に倣う人々によって、神の救いが続いてきたことに表されている。
 全世界のアブラハムの信仰に倣う人々は、信仰によってイエスキリストに従う人々であり、アブラハムの霊的な子孫だと言える。


22009年12月6日 

礼拝説教からワンポイント

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。』        イザヤ9:6                         
                                     

 イザヤと言うのは、預言者の名前です。預言者というのは、神様からのことばを預かって人々に伝える人です。イザヤが神様から上記のことばを預かって語ったのは、今から2700年以上前のことでした。上記のことばは、イザヤが語ったときよりも、700年以上たって、実現しました。
 イエスキリストのご降誕です。歴史の中で、『』の中にあるようなタイトルを持つ方は誰もいませんが、新約聖書には、イエスキリストがまさにこの称号を持っている方であることが記されています。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる』 方は人の罪を赦すために地上に来られました。

 そのことを救いと聖書は語っています。罪赦されたとき、人は、天国に行く約束を得ます。罪あるままでは、天国に迎えてもらえません。人は自分の努力で自分の罪を消すことはできませんが、イエスキリストはそのために地上に来てくださった神なのです。クリスマスの日に、イエスに出会う人がおおくありますように。 


22009年7月19日 

礼拝説教からワンポイント

 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人といったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを省みられるとは。                  詩篇8:3,4        
                                     

 この詩篇は、イスラエルの王ダビデが神をほめたたえているものです。その中で、ダビデは、上記のように、天地万物を造られた神の偉大さに比べて、いかにも小さな者に過ぎない人間に、神が心に留めてかえり見てくださるとは、と驚きの心をもって歌っています。
 人とは何者か、それは古来から人が絶えず議論して来た問題です。あまたの説がある中で、聖書は人とは何者かをはっきりと教えています。神によって造られ、神に似せられて特別な存在として、造られたのが人間です。
 しかし、ダビデも歌っているように、 神の前には小さな愚かな存在、それが人間です。最初の人間アダムとエバから、罪が人間のうちにはいってきて、それゆえに、キリストの十字架による赦しと救いが計画されたのです。
 第二次世界大戦中ナチスドイツに反対し、投獄され殉教したボンフェッファーは「キリスト者であるということは、宗教的人物となると言うことではなく、まさに人間になることを意味する」と語っています。つまり、神によって作られ、まだ罪を犯さなかった最初の姿に真の人間の姿があるのです。キリストを信じることによって本来の人間の姿に戻るのです。
 多くの方が聖書から、人間とは何者なのかを知り、造られた目的に従って生きることができるようにと願います。造られた目的に正しく従って生きてきたなら、地球温暖化と言われるような地球ではなかったのではないでしょうか。


22009年6月8日 

礼拝説教からワンポイント

 私たちはキリストのからだの部分だからです。        エペソ人への手紙5:30
                                     

 エペソ人への手紙は、教会について書かれています。教会はキリストのからだと表現され、クリスチャンがそのからだの部分であることが語られています。教会とは建物を表すというよりは、イエスキリストを信じる者の集まり、それが聖書が語る教会の定義です。
 ひとりひとりは、キリストのからだの部分であり、それぞれが、それぞれの持ち場立場を与えられ、違うのですが、協力し、一つの教会を成長させていくことが勧められています。人間の体があらゆる部分によって構成され、しかし、一つであるように、教会もそのようであると教えられているのです。
 上記のことばの前後には、夫と妻、子供と親について書かれていますが、妻にはキリストに従うように、夫に従いなさい(仕えなさいの意)と勧められ、夫には、キリストが教会を愛されたように、妻を愛しなさい、と勧められています。
 キリストを信じた者は、キリストの教えとキリストの愛に倣って生きていくのです。教会を語っているエペソ人への手紙の中で、家族について書かれているのは、キリストを信じ集められた者は、神の家族と呼ばれていることとかかわりがあるしょう

 キリストの教えによって、また、キリストの助けを得て、麗しく家庭を築き上げていくなら、今日的な家庭の問題はなくなることでしょう。


22009年5月17日 

礼拝説教からワンポイント

 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はいつまでもあなたがたと、ともにおられるたにです。その方は真理の御霊です。                             ヨハネ14:16
                                     

 聖書は、父なる神、子なる神キリスト、そして、聖霊なる神の三つにして一つの神を表しています。三位一体という言葉は、このことから来ています。
 上記のことばは、最後の晩餐における、イエスキリストのことばです。イエスキリストが十字架にかかられ、よみがえって天に帰られた後のことをここで、弟子たちに告げておられるのです。
 その約束のとおりに、十字架のあと50日後に助け主と呼ばれる聖霊(真理の御霊))が信じる人々の上に下ります。今、十字架を前にして、イエスキリストは、「今しばらくで世はわたしを見なくなります。」など弟子たちにとって、不安な気持ちになることばを語っておられます。
 しかし、同時に、希望のことばをも語っておられるのです。信じる者を助けてくださるお方が、ともにおられるとは、何という励ましでしょうか。これは今日も信じる者にとって真実なのです。



22009年4月12日 ここにはおられません

礼拝説教からワンポイント

 青年は行った。「驚いてはいけません。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。                  マルコ16:6
                                     

 イエスキリストが十字架につけられた後、ユダヤの議会のメンバーの一人がイエスキリストの遺体を自分が用意していた墓に納めました。十字架にと画策したユダヤ人指導者の中にも、イエスキリストを信じる人がいたのです。
 日曜日の早朝、十字架を遠くから見守っていた女性の弟子たちが遺体に香油を塗ろうと墓を訪れた時、墓の中には、青年(天の使い)がいるだけで、イエスキリストの遺体はありませんでした。
復活なさったのです。

 今日、エルサレムに行きますと、イエスキリストが十字架にかかられたゴルゴダの丘はここだという場所が2箇所あって、誰もが訪れます。どちらが本当の場所かはともかく、園の墓と呼ばれている墓の扉には、He is not here.と記されています。日本語で、「ここにはおられません」と訳されている箇所です。
 イエスキリストは復活なさって、今も生きて私たちを導いてくださっているのです。



22009年4月11日 まことに神の子であった

礼拝説教からワンポイント

 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。                  マルコ15:39
                                     

 イエスキリストが十字架につけられた、その一部始終見ていたローマ帝国の百人隊長がいました。裁判から始まって、イエスキリストのその言動は、いわゆる十字架にかかる罪人のようでなかったのです。すべてを見ていた異邦人であるローマの軍人百人隊長が、「この方はまことに神の子であった」といった。のです。
 イエスキリストは、今から約2000年前のこの週(今年は4月10日)の金曜日に十字架にかかられたことになります。今週は受難週として、キリストの十字架を思い、感謝して過ごしました。明日はキリストの復活を祝うイースターです。



 2009年3月22日 十字架の意味

礼拝説教からワンポイント

 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後十字架につけるようにと引き渡した。                     マルコ15:15
                                     

 この箇所は、イエスキリストが十字架につけられる前の出来事です。ピラトは、ローマ帝国の総督として、イスラエルに赴任していました。いつもはカイザリヤの町に駐留していましたが、祭りの日には、エルサレムに来ていました。ローマ帝国内のあちらこちらに住んでいるユダヤ人たちが、祭りのためにエルサレムに大勢来ていたので、治安維持のためだと思われます。
 そのとき、ユダヤの指導者たちがキリストを捕まえ、死刑にして欲しいとピラトの下に連れてきたのです。イスラエルはローマ帝国の属国だったので、死刑の権限は彼らになかったからです。  
 ピラトは、大祭司をはじめユダヤの指導者たちの訴えが妬みによるもので、イエスキリストは無罪であると分かっていました。ユダヤの指導者たちは祭りの日に、ピラトが囚人を恩赦で釈放することを知っていましたので、イエスキリストを釈放されては困ると思ったのでしょうか。殺人を犯したバラバの釈放を求めます。
 群集を扇動し、バラバを釈放し、イエスを十字架につけるよう叫ばせます。そのため、ピラトは暴動が起こるのを恐れ、上記のことばのようにしたのでした。ここに、ユダヤの指導者のねたみから来る罪、ピラトの自分の身の安全を守るために正しいことを選択しなかった罪などなど、誰もが持っている罪が現れています。
 イエスキリストは十字架につけられましたが、実は、そのような人類の罪を赦すために十字架にかかられたのでした。十字架は罪を処罰するものです。罪のないキリストが十字架にかかってくださったのは、私たちひとりひとりの罪の身代わりだったのです。
 自分の罪を認め、十字架が罪の身代わりであったことを信じ、受け入れるなら、神の赦しを受けることが出来ます。たとえどのような人生であったとしても、今、この瞬間、キリストを信じ、十字架をわが罪の身代わりだったと感謝するなら、あなたは、クリスチャン(キリストに属する者)となるのです。



 2009年2月8日 埋葬の準備

礼拝説教からワンポイント

  この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。                     マルコ14:8
                                     

 このことばは、イエスキリスト自身のことばです。この出来事はイエスキリストが十字架にかかられる数日前に起こりました。マリヤという女性がイエスキリストの頭に、高価な香油を注いだことに、弟子たちが香油を売って貧しい人に施しができたのにと憤慨したことに答えてのことばです。
 マリヤはいつもイエスのことばに耳を傾ける方でした。ですから、このときも、イエスキリストの死の予告をしっかりと聞いていました。弟子たちも聞いてはいたのですが、人は自分の考えにそぐわないことを聞いても、真剣に心に留めないのかもしれません。
 イエスキリストは貧しい人はいつでもあなたがたと共にいる、しかし、キリストがいっしょにいられる時間はもうあと少しだと上記のことばをおっしゃったのです。
 マリヤは、死に渡されるキリストを思って、香油を注いだのでした。キリストは「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と続いて語られましたが、そのとおりに、21世紀の私たちは、マリヤの信仰を知るのです。
 素直に耳を傾けていたマリヤは、イエスキリストのことばを正しく捉えました。今日も素直に聖書のことばに耳を傾ける方々が増し加えられますように。


 2009年2月1日 キリストの再臨

礼拝説教からワンポイント

  だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選び民を集めます。              マルコ13:23〜,27
                                     

 このことばは、イエスキリスト自身が語っておられます。人の子とは、イエスキリストのことであります。聖書は、イエスキリストは今から約2000年前に来られただけでなく、やがて再びおいでになることを伝えています。そのときの様子が旧約聖書にも記され、そして、このところでイエスキリスト自身も語っておられるのです。
 イエスキリストが再臨される日は、世の終りの時でもあります。人は、天地万物が滅びること、特に住んでいる地球の崩壊など起こるはずがないと考えているかもしれません。しかし、終りの日の前触れ、前兆として、何が起こるかも、聖書に書かれているのです。それは、今、すべて存在しています。
 たとえば、キリストを名乗る者の出現、戦争や戦争の噂、地震、飢饉、親子・兄弟間の殺人などなどです。それらは終りの日の前兆だとキリストは語っておられます。
 そして、終りの日には上記の聖書箇所に記されていることが起こると語られているのです。キリストが再臨される日は、世の終りですが、キリストを信じる者は、キリストの下に集められるというのですから、幸いです。
 選びの民とは、イエスキリストを信じた人々のことです。誰でも、イエスキリストを神と信じ、十字架が私の罪のためにであったと受け入れる者は、選びの民です。
 終りの日は、いつであるか分かりません。自分が生きている間には起こらないかもしれません。だから、人はみな、未来に希望を持って落ち着いて生活するのですが、同時にいつ来ても不思議でない終りの日が今日来ても大丈夫なように、イエスキリストを信じて歩むことが必要です。


12009年1月11日 生きている者の神

礼拝説教からワンポイント

  モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。                    マルコ12:26,27
                                     

 この箇所は、イエスキリストが十字架につけられる数日前の出来事です。当時のユダヤの祭司長はじめ指導者たちは、イエスキリストを信じることが出来ませんでした。人々が救い主、メシヤだとイエスを歓迎しますから、認めることが出来ない彼らは、腹が立ちます。プライドが傷つ、妬み心で一杯です。
 このときに至るまでにも、イエスを殺そうと考えていました。そして、エルサレムに来られたイエスキリストになんとかわなをかけようと数々の質問をしてきます。その中の一つがここの箇所ですが、復活を信じないサドカイ派の人々の質問に対する答えが上記の答えだったのです。
 サドカイ派の人々とはユダヤの祭司階級や貴族階級の人々が属する派で、モーセに由来する聖書(モーセ五書)だけを重んじ、そこには復活が記されていないとしていました。ですから、キリストはモーセに由来するところから、お答えになったのです。
 イエスキリストはこの数日後に十字架にかかって死なれますが、すぐに復活なさいます。神がモーセに「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった時、アブラハムたちはすでに、数百年前に死んでいました。しかし、神は、ヤコブの神である」と現在形でお語りになりました。そのことは、彼らが今も生きているからだとキリストはお答えになったのです。
 聖書の各所に、復活することが記されています。キリストが復活されたように、キリストを信じる者は、永遠のいのちに預かる、すなわち、復活するのです。神は
生きている者の神です。と、私たちが生きている時も、死んだ後も生きて、神の元にいるのです。


12008年11月12日 子どものように

礼拝説教からワンポイント

  まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることは出来ません。                   マルコ10:15
                                     

 人々がイエス様に触っていただこうと子どもたちを連れてきた時、弟子たちは、叱ったとこの箇所の少し前に、記されています。イエス様が疲れておられると思う配慮のためか、子どもたちが騒がしかったのか、その理由は書かれていませんが、それをご覧になったイエス様が弟子たちに子どもたちを「わたしのところに来させなさい」とおっしゃいました。
 子どもは時には、騒がしいかもしれません。しかし、子どもは無邪気にイエス様の元に行きたかったのです。素直に、イエスキリストの元に行く者が神(天)の御国に入ることができる、とイエスキリストはおっしゃっているのです。
 これは今の時代も同じです。素直に、イエスキリストが神であり、救い主であることを信じ、近づくなら、神の国の住人となれるのです。


2008年10月19日 仕える者

礼拝説教からワンポイント

  イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。 「だれでも人の先にたちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕えるものとなりなさい。」       マルコ9:35
                                     

 上記のことばをイエス様がおっしゃったのは、その前に弟子たちが、イエス様の弟子の中で誰が一番偉いかと議論していたためでした。旧約聖書はメシヤ(キリスト、日本語で救い主)が王として来られると約束していますが、弟子たちは、それが、イエス様であるとだんだん、確信してきたところです。
 しかし、まだまだ、イエスキリストの救いがどのようなものであるか理解できない彼らが、やがて、ローマ帝国から解放してくださる王としてのイエス様のもとで誰が一番偉くなるだろう、誰が右大臣か左大臣かと議論していたことがをうかがわせる箇所がいくつかあります。
 それに対して、イエス様が教えられたのが上記のことです。人間誰しも、低い位置にいるより、偉くなりたい、高い地位にいたいと思うものです。けれども、そのような気持ちがあればあるほど、身を低くして、人の仕える者となりなさい。それがイエス様の教えです。
 この世にある価値観とはまったく違うものですが、身を低くして仕えあうところに平和がもたらされます。また、そこに真実の偉さがあるのではないでしょうか。
 たとえ、地位を得ても、人はみな押しなべて弱い存在です。弱いお互いが弱さを自覚して、イエスキリストの救いの道を歩む中で、真実の強さ、偉さで生きることが出来るのではないでしょうか。そのことに、気づいて生きることの幸いを思います。


2008年8月17日 バプテスマのヨハネの最後

礼拝説教からワンポイント

  王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。                             マルコ6:26
                                     

 上記の王とはヘロデ王のことです。サロメというオペラや映画がありますが、それは、この箇所を題材としたものです。ヘロデ王は自分の兄弟の妻を妻としていましたので、バプテスマのヨハネは、それは罪だと指摘していました。ヨハネはイエスキリストの先触れとして、「神の国が近づいたから、悔い改めなさい」と人々の罪を指摘していました。
 たとえ王であっても、罪は罪です。ヨハネを黙らせるために、ヘロデ王は、ヨハネを捕らえました。妻であるヘロデヤは何とかヨハネを殺したいと殺意を持ちますが、実行できません。ヘロデが保護していたからです。
 しかし、ある日チャンスが訪れました。ヘロデ王の誕生日の祝いの席で、娘のサロメ(前夫の娘)が踊った時、その褒美に何でもあげると約束します。それで、妻は娘にバプテスマのヨハネの首を願いでるように言いました。その時のへロデでの気持ちが上記のことばです。何が正しいかより、自分の面子、多くの人々の前の誓いを優先させたのです。
 ヨハネは人でしたからその人生において罪なしとは言えないかもしれません。しかし、このとき、殺されなければならない罪は犯していないのです。むしろ、正しいことを言い、いわば殉教の死を遂げたのです。
 ヨハネの死はまた、イエスキリストの死をあらかじめ表しているようです。イエス・キリストは罪がないにもかかわらず、ローマの総督ピラトが自分の身の保身のために、十字架にかけたのです。
 しかし、それは、人類の罪の身代わりとする、神の計画でした。その故に、信じる者に罪の赦しと永遠の命の恵みが与えられます。罪に対する神の裁きからの救いを意味します。
 バプテスマのヨハネは、イエスキリストの先触れとしての使命を最後まで果たし続けたと言えるのではないでしょうか。
彼は、神から与えられた使命を全うし、神の元に帰ったのです。地上でどのような人生を生きても、イエスキリストを信じる者に与えられる恵みです。


2008年7月20日 信仰がないのは、どうしたことですか

礼拝説教からワンポイント

  イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」  
                                        マルコ4:40
                                     

 イエスキリストはガリラヤ湖の対岸を目指して、舟に乗っておられました。その時、嵐が襲ってきて舟が沈みそうになりました。弟子たちの何人かはガリラヤ湖で魚を取る漁師でした。ガリラヤ湖に関しては、よく知っている人々でした。また、舟を操ることもプロでしたから、通常ならなんでもないことですが、このときの嵐は、彼らをして、恐れを覚えるほどのものだったようです。
 イエスキリストはその嵐のさなかに船尾で寝ておられましたので、弟子たちは、「先生。私たちが溺れて死にそうでも何とも思われないのですか。」とイエス様に言ったのでした。イエス様は嵐に向かって「黙れ、静まれ」とおっしゃいますと嵐は静まり、湖はまるで、鏡のような状態になったのです。そのとき、キリストは弟子たちに対して、上記の言葉を語られました。
 嵐を静めるとは、イエスキリストが自然界をも支配される神であることを示しています。嵐を静めるなど通常人にはできません。疑う心がわいても仕方のないことかもしれませんが、マルコの福音書が書かれたのは、イエスキリストの十字架・復活・昇天後の30年に満たないときだったと言われています。
 嵐を静めたイエス様の記憶が生きている人々の中にまだある時代です。嵐をも静めるお方、キリストと共にあるとき、どんな嵐の中にあっても、恐がることはないのです。イエスキリストに対して信仰をもち続けるようにと、キリストは今日の私たちにも語りかけておられます 


2008年6月15日 赦されない罪

礼拝説教からワンポイント

  人は犯すどんな罪も赦していただけます。また、神を汚すことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」  
                                        マルコ3:28、29
                                     

 この箇所は、その意味を捉えるのが難解な個所の一つと言われています。神を汚すことを言っても赦されるが、聖霊を汚すなら赦されないとは、三位一体なる神の聖霊に関してだけどうしてそうなるのか、と人は疑問をもたれるのです。
 この言葉の直前に、律法学者たちが、病を癒し、悪霊を追い出しているイエスキリストに対して、悪霊のかしらだから悪霊を追い出すことができると言っています。キリストは、人の姿を取ってこられた神でありますから、悪霊を追い出すことや病を癒すことは当然おできになります。
 実際に大勢の人々の目の前で行っておられることですから、彼らは、その事実を認めざるを得ません。そこで、キリストのなさっていることは悪霊のかしらだからできるのだと言うわけです。
 それに対して、イエスキリストは、例をもって反論されますが、そのあとで、上記の言葉を語られたのです。律法学者たちがイエスキリストは悪霊に取り付かれていると言うことは、イエスキリストを汚していることであります。聖なるお方を悪霊だと言っているからです。聖なるお方、聖霊によってバプテスマを授けるお方であるキリストを拒む者は、神の赦しを受けることが出来ないとおっしゃっているのです。
 イエスキリストは全世界の人々を救うために地上においでになりました。私たちは、イエスキリストの十字架の贖いによって救われます。罪が赦されるのです。けれども、そのことを拒むなら、赦されません。
 神はイエスキリストによって罪を赦し、永遠の命を授けようとしておられます。 


2008年5月4日 神の権威

礼拝説教からワンポイント

  人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威ある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」  
                                        マルコ1:27
                                     

 イエスキリストは、宣教のはじめから、福音を伝え、教えられました。それだけでなく病を癒し、悪霊さえも追い出されたのです。そのようなことを目撃した人々が発したのが上記のことばです。
 「後姿の教育」と言う言葉がありますが、イエスキリストは、ことばで教えるだけでなく、ご自分の生き方を通して教えられましたし、また、病の癒し、悪霊の追い出しといった神でなければ出来ない業をされることによって、人々にご自分が神の権威を持つ、約束の救い主であることを示されたのです。
 マルコの福音書は紀元50年代に書かれています。イエスキリストを実際に知る人々がたくさん生存していた時期に書かれているのです。目撃証言がまだまだ、出てくる時代に、イエスキリストが神の権威を持つお方でなければ出来ないことが記されたということを考える時、これらのことが事実であったことを思うのです。  


2008年4月27日 神の国

礼拝説教からワンポイント

  時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。   
                                        マルコ1:15
                                     

 上記のことばは、イエスキリストが宣教を始められた時の最初のことばです。長い旧約聖書の時代の中で、神は救い主を送ると神のことばを預かる預言者を通して、語ってこられました。その約束がいよいよ時が満ちて、イエスキリストの到来によって、実現したのです。
 神の国は、その時以来、ますます、近づいていると言えますし、また、イエスキリストによって神の国は現実にあると言っても言い過ぎではありません。キリストに導かれて歩む人生は、この世において、神の国に生きているといっても良いからです。
 イエスキリストに出会うことができるのは、まず、自分の罪を認めるところから始まります。罪を悔い改めるとは、方向転換をすることを意味します。今まで、自分の力で生きてきた人生をイエスキリストを信じて、神の力によって生きることを願うならば、人生が変わります。
 福音を信じるとは、イエスキリストの十字架が我が罪の身代わりであったということを受け止めて、感謝することです。つまり、罪を認めて『ごめんなさい。赦してください。そして、イエス様の十字架の身代わりをありがとうございます。』そのことを神の前に告白する時、あなたは、上記のことばを受け止めたことになります。もし、まだイエスキリストを信じていない方で『』の言葉を神に向かって祈ることが出来た、あるいは、そのようにしたいと思われる方、ぜひ、ご一報ください。


2008年4月13日 感謝を持って祈る

礼拝説教からワンポイント

  目をさまして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。   
                                        コロサイ4:2
                                     

 目をさましているということは、24時間起きていなさいということでないことは言うまでもありません。ではなぜこのように言われているのでしょうか。イエスキリストを信じて、歩んでいても、人は絶えず、さまざまなことに心を奪われます。
 仕事のこと、人間関係のこと、趣味のことなど興味のあることなどに。そして、その中で一番大切なものを忘れていくことがあります。
 一番大切なもの、神様を見上げ生きていく、その姿勢をいつも持っているは、結構難しいのかもしれません。ここで目をさましてといわれているのは、信仰の目をいつも開いていることが言われているのです。
 クリスチャンは、十字架と復活の恵みの中に生かされていることを知る者であります。目をさましているなら感謝があるのです。罪赦され、神の前に歩むことのできる幸いを感謝を持って祈る祈りに神は答えてくださいます。 
 その喜びを味わう人々がひとりでも多くあるようにと祈ります。


2008年3月23日 復活の意味

礼拝説教からワンポイント

  このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと、思いなさい。   
                                        ローマ6:11 
                                     

 2008年度のイースターは、3月23日でした。イースターはキリストの復活を祝う日です。キリストは、十字架で死んで終りとなられたのではなく、復活されました。葬られた墓の中は空で、その後、弟子たちのいるところに何度も現れて、よみがえりが現実のものだと示されたのです。
 イエスキリストのよみがえりは、私たちにも死んだ後にあるよみがえりの希望を与えるものですが、それだけでなく、罪ある自分に死に、新しくキリストによって与えられた命によって生きることを意味しています。イエスキリストを信じる者に与えられている罪の赦しと新しく生きる力の付与が約束されている、それがキリストの十字架と復活です。  


2008年3月16日

礼拝説教からワンポイント

 

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。   
                                        ローマ3:23,24 
                                     

 聖書は、人類最初の人であるアダムとエバが神のたった一つの命令を守ることが出来なかったゆえに、罪が入ってきたことを告げています。罪は人の心から平安を失わせ、人に苦しみを与えます。人は自分の努力で罪のない生き方は残念ながら出来ません。
 聖書は、上記のように、すべての人は罪を犯したと告げています。罪に対して刑罰のあることは、人間社会においても同じです。神は完全に正しい方なので、人の罪を見逃すことは出来ないのです。しかし、人類を愛される神はキリストを十字架につけて、それを人の刑罰の代わり(贖い)とされたのです。
 イエスキリストの十字架は私の罪のための身代わりであったと信じる人は、誰でも、罪の赦しを得、神に義(ただしい)と認めていただけるのです。神からの罪の赦しを受けるなら、心に平安がもたらされます。
 今年は3月21日が、今から2000年近く前にイエスキリストが十字架にかかられた日(受難日)です。


2008年2月17日

礼拝説教からワンポイント

 

 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって、平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったのです。   
                                        コロサイ1:19,20 
                                     

 コロサイの教会には、間違った教えが入ってきました。それで、パウロはコロサイの人々に間違いに陥らないように、今一度、イエスキリストについて、教えます。上記はその中にある箇所です。
 イエスキリストは、神と同一ですから、神の本質に満ちておられます。そして、地上の生涯の終りに十字架にかかられましたが、十字架は、私たち人類の罪の赦しのためにありました。 
 本来、私たちに罪を問われる神は、私たちの罪を見逃すことは出来ません。しかし、キリストが私たちのひとりひとりのために十字架にかかってくださって、その罪の刑罰を身代わりとして受けてくださいました、そのことを信じる者に、神は和解の手を差し伸べ、もう罪に定めないとおっしゃるのです。
 罪の赦しは、神との間に平和がもたらされます。神との間に平和のある者がまた平和を生み出していけるのではないでしょうか。 


2007年12月9日

礼拝説教からワンポイント

 

 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。   
                                        Uサムエル7:16 
                                     

 上記のことばは、ダビデ王に対して、神様が預言者ナタンを通して語られたことばです。ダビデは、紀元前1000年ごろに生きていた人です。若いときから苦労の連続の中を歩んできましたが、このとき、神様の導きと守りの中イスラエルの王となり、宮殿を建てその中で暮らしています。
 ダビデは、自分が宮殿に住んでいるのに、十戒の入った契約の箱と呼ばれる神の箱がいまだに天幕にあるのに心痛んで、神殿を建てたいと思います。しかし、神はダビデに対してそのようなことは望まれえず、かえって、上記のことばを与えられました。ダビデの王国は、約束どおり、長く続きますが、王家として、今も続いているわけではありません。
 では、とこしえに立つとは、どういう意味でしょうか。それは、
イエスキリストによって成就されたと言えます。イエスキリストはダビデの家系に誕生されました。イエスキリストはこの地上で権力を振るう王ではありませんが、全世界の救い主であり、全世界をまことの意味で統治される王と言えます。
 そして、今も生きて私たちを導いてくださっています。ダビデの王国はとこしえという神の約束はイエスキリストにおいて、今も続いているのです。
 神は今から2000年と少し前にダビデの家系から救い主イエスキリストをこの地上に誕生させられました。そのことを毎年覚えて感謝し、祝います。救い主の誕生それがクリスマスです。
 聖書は、はるか昔から、イエスキリスト、つまり、メシヤ、救い主がおいでになることを様々な形で伝えています。ここもその一つだと言えます。


2007年11月18日

礼拝説教からワンポイント

 

 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、また、そのように行いなさい。   
                                        ヤコブ2:12 
                                     

 旧約聖書の時代、神はモーセを通して、律法を与えられました。その律法を守るなら、人は正しく生きることが出来ます。完全に正しく生きることが出来るなら、人は神に認めていただけます。しかし、問題は誰も律法を完全に守ることが出来ないことです。もし、守ろうと努力するなら、とても、大変です。
 ある人は、新幹線を自転車で追いかけるようなものだと評しました。不可能なことを神は人に求められたのでしょうか。いいえ、イエスキリストの十字架によって、私たちは律法から自由にされたのです。
 キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりとしての意味を持ちますから、信じる者はそれだけで、罪赦されます。罪からの解放自由であります。上記の言葉を記したヤコブは、キリストが解放し自由にしてくださったのだから、それにふさわしく、語り行いなさいと勧めているのです。
 キリストを信じた者には、正しく生きることが出来るように助けて下さるお方(三位一体の神、聖霊)が与えられます。自由の律法の中にある者が、それにふさわしく語り、行うことが出来る力は上から与えられるのです。


2007年10月28日

礼拝説教からワンポイント

 

 試みに遭ったとき、誰でも、「神によって試みられている」といってはいけません。神は悪に誘惑することも、誰をも試みることをされません。人はそれぞれ自分の欲望に惹かれ、誘惑に陥るのです。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。  
                          ヤコブ1:13〜15 (ニューバイブル)
                                     

 苦しみにあったときに、人は多くの場合、人のせいにし、環境のせいにし、さらに、「神がおられるというなら、なぜ、自分はこんな苦しみに会うのか」と問われることがあります。しかし、上記のことばは、それを戒めています。人の苦しみの多くは、すべてがそうだと言うのではありませんが、自分に起因しているのではないでしょうか。
 権力の座について、受けてはならない接待を受けて、証人喚問を受けている方がおられ、世界チャンピオンに勝ちたい一心で
、反則に及んで、自ら苦しみを招いた人もおられます。食品偽装の問題など、その立場立場にあって、欲望の結果であります。今日、この聖書のことばのとおりだと言える例をあげるのに、ことかきません。
 「すべての善い贈り物、すべての完全な賜物は、上から、来るのです。」神を見上げ、信頼して歩むところに、賜物として、よき生き方をする力が与えられます。自らのなかにある欲望に従ってではなく、神の下さる贈り物に期待して歩むときに、行動も変えられていくのです。


2007年10月7日

礼拝説教からワンポイント

 

 そこでイエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。   マタイ22:37〜39
                                     

 イエスキリストを試そうとした律法の専門家が「先生、律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」と質問しました。それに対して、お答えになったことばです。律法とは、神様がモーセを通して与えられた教えや戒めです。それらは十戒をはじめ、膨大なものです。神殿において行う祭儀に関する事柄や今日の法律に当たるものまで、事細かに記されています。
 それらの中でたいせつな戒めと聞かれても、たくさんあって聖書に精通している者でも、一言で答えるのは難しいことでしょう。しかし、イエスキリストの答えは、誰にも反論できないものでした。
 キリストは旧約聖書全体が「この二つの戒めにかかっているのです。」とおっしゃっていますが、まことに、聖書の戒めは、この二つの戒めに要約されると言っても良いでしょう。
 イエスキリストの答えを一言で言うなら、「全身全霊を持って神を愛せよ」ということです。それが第一だとおっしゃっています。なぜでしょうか。パウロは愛の定義をコリント人への手紙T・13章において記していますが、
「愛は寛容であり、」から始まり、「愛はすべてを信じ、期待し、すべてを耐え忍びます。」ということばで終わっています。神を愛するとは、神のすべてを信じ、神にすべてを期待することでもありましょう。
 自分と同じように人を愛することは難しいことですが、神を愛し、すなわち、絶対的な信頼を持って、神に期待するとき、神は私たちの中に本物の愛を備えてくださいます。


2007年9月30日

礼拝説教からワンポイント

 

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。    ヨハネ13:34
                                     

 この、ことばは、イエスキリストの最後の晩餐における命令です。新しい戒めは、互いに愛するようにということでした。十字架にかかられる前夜一番大切な命令を与えられたと言ってもよいでしょう。しかも、キリストが私たちを愛してくださったようにというのです。
 つまり、イエスキリストは神様ですから、神のような愛でと言われています。神のような愛とは、一言で言うなら、敵をも愛する愛です。人類が神に逆らい、神など知らないと敵対しているときから、愛していてくださり、救いの道を備えてくださったそこに神の愛があります。
 キリストが愛したようにとは、大きな自己犠牲に立つ愛です。人のために十字架上で苦しみ死んで下さったのですから。残念ながら、私たちには、そのような愛はありません。ではなぜ、イエスキリストはそのような戒めを与えるとおっしゃったのでしょうか。
 「神には不可能なことはありません」と言われていますように、命令を実行できる道をも備えてくださっています。ぜひ教会にきて、この続きを学んでください。


2007年8月26日

礼拝説教からワンポイント

 

 あなたを形造った方、主は仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときもあなたは押し流されない。    イザヤ43:1b〜2a
                                     

 イザヤは紀元前8世紀に活躍した神のことばを人々に伝える預言者でした。神から離れ、勝手な生き方をしている民に悔い改めて神に立ち帰らなければ、裁きとして外国に捕囚となると神のことばを告げるのですが、人々は聞き入れません。
 そして、やがて、後にそのことは、実現するのです。しかし、神はそのときに思い出すように、上記のことばをイザヤを通して、語られたのです。『贖う』ということばは、もともと『買い戻す』と言う意味があります。買い戻すとは、自分のものが手元から離れてしまっているが、それを代価を支払って取り返すことを言います。
 神は民が神から離れていっても、捕囚となっても、再び、代価を支払ってご自分の下に買い戻す、そして、どんな苦難の中にあっても、ともにいて、守ってくださると語っておられるのです。
 このことは、遠い昔の外国の話のことだけでなく、今日も同じです。神に造られ、神によってこの地上に生み出されているにもかかわらず、人は神など知らないと生きています。けれども、人はもともと神のものなのです。
 今日も神は私たちを贖いたい、すなわち買い戻そうとしておられます。神の元に帰ることの出来る神の支払われる代価こそ、イエスキリストの十字架の犠牲なのです。人間の罪の身代わりとして十字架にかかられたキリストこそ、私たち人間が神の元に帰っていくことの出来る道なのです。
 神は今も一人一人に、「恐れるな。わたしが贖ったのだ(買い戻したのだ)。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と呼んでおられるのです。


2007年8月19日

礼拝説教からワンポイント

 

 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は万事につけ、あなたがたに示してきたのです。                   使徒20:35
                                     

 伝道者パウロは、エペソの教会指導者たちに対する別れの説教の中で、上記のことばを語りました。パウロは語るだけでなく、その生き方を通しても、どのように歩むことが幸いであるかを人々に示してきました。
 パウロは、イエスキリストを伝えていくことを第一とし熱心にいたしましたが、生活のためにも働きました。そしてそれによって、周りにいる人々をも、助けたようです。パウロはキリストの「受けるよりも与えるほうが幸いであるということば実践し、また、その幸いを味わっていたのです。
 パウロが与えた最大最高のものは、イエスキリストの救いの知らせ(福音)でありました。パウロは精一杯、神様から与えられた福音を伝える使命を果たし、また、人々に与えたゆえに、また、たくさんの助けや恵みを受けて生涯を走り抜けた、そのように思います。
 もし、私たちもそのように生きることが出来るなら、その幸いをも味わうことが出来るでしょう。


2007年7月29日

礼拝説教からワンポイント

 

 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にはわたしの民がたくさんいるから」と言われた。                   使徒18:9〜10
                                     

 伝道者パウロが、語り続けてきた結果、大勢の人々がイエスをキリスト(救い主)だとを信じました。そのことを喜び、雄雄しく歩んできたパウロも、ギリシャのコリントの町に来たときには、疲れ、恐れていたようです。今まで伝道してきた町々において、イエスをキリストと認めないパウロの同胞であるユダヤ人たちの迫害にあってきたからです。
 そのようなパウロに、神は上記のように語りかけられました。励ましであると同時に、守りの約束であり、また、この町にまだま大勢のキリストを信じて救われる人々がおられることをパウロに、教えられたのです。
 パウロは神の励ましを得て、さらに一年半に渡ってコリントで伝道します。そして、事実、パウロが恐れていたことから神は守られたのです。神は、恐れる私たちにも、いつも、「恐れるな、わたしがあなたとともにいる」と語りかけてくださるお方です。


2007年7月22日

礼拝説教からワンポイント

 

 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。                                          使徒17:23
                                     

 パウロは、アテネの街に神々の神殿、祭壇、像があるのを見て、心に憤りを感じます。なぜなら、アテネの人々がまことの神様を知らずに、神でないものを神としていたからでした。しかし、その中に、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。
 アテネの人々は、ギリシャ神話の神々や自分たちが神と考え得る神の神殿や像を刻みましたが、それでも、まだ知らない神があるかもしれないと、「知られない神」の祭壇を築いたのでした。
 そのことを受けて、パウロはギリシャの人々が知らない、まことの全知全能の神、唯一の宇宙の創造者である神を紹介していきます。パウロが語ったことは、天地万物を造られた創造者なる神は、人間が造った建物が必要な方でないこと、動きも口も聞けない像が神であるはずではないこと、を語り、神がイエスキリストを送られたことによって、悔い改める時代が来ていることを告げます。
 今から約2000年前に、来られたイエスキリストによって、人類が悔い改める時代は、それ以降ずっと続いていると言えます。今もあなたに、イエスキリストの元に帰っていらっしゃいとまことの神は語り続けておられます。私たち人間は神に造られた存在ですから、神の元に帰るとき、安定して生きることが出来るのです。


2007年7月1日

礼拝説教からワンポイント

 

 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。                                使徒16:31
                                     

 ピリピの街で、パウロたちは牢に入る羽目になります。それは、パウロたちが女奴隷を助けたことによって、奴隷の主人たちの怒りを買ったためでした。虚偽の訴えで入ったのですが、パウロたちは、文句を言うどころか、祈り、賛美を歌っていたのです。他の囚人たちはその祈りの声と賛美を聞き入っていました。
 そのとき、大地震が起こって牢の扉は開き、鎖は解けたのですが、誰も逃げませんでした。もし、逃げ出されていたら、看守は死刑になります。自殺しようとして、パウロに「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と声をかけられ、驚いて、看守は「先生方、救われるために何をしなければなりませんか」とパウロたちに聞いたのです。
 上記のことばは、看守の質問に対するパウロの答えです。看守は、このとき、パウロが伝えているキリストによる救いに関して聞いたのではないかもしれません。
 しかし、看守がどういう意味で聞いたにせよ、パウロは上記のことばと共に、イエスキリストのことばを語りました。その結果、看守とその家族は全員、信じるにいたり、バプテスマを受けたのです。
 人は、「何をしなければなりませんか」と聞きますが、【イエスキリストを信じるだけ】で救われるのです。その救いとは、神からの罪の赦し、天国の希望、永遠のいのちの約束、などなどです。


2007年6月17日

礼拝説教からワンポイント

 

 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いてパウロの語る事に心を留めるようにされた。               使徒16:14
                                     

 ヨーロッパに渡ったパウロは、最初の街ピリピでも、イエスキリストを伝えました。そのとき、聞いていたルデヤがイエスキリストを信じ、また、家族も信じるところとなり、ピリピの教会が作られていきました。
 神の導きに従って、旅を続けていたパウロにとって、人々がイエスキリストの救いを受け入れること以上の喜びはありません。それ以上の励ましはありません。パウロは語りますが、信じるのは聞く人々側の問題です。
 パウロの話を聞いた女性の心を開かれ、キリストについてのことばを心にとめるようにされたのは、神であったと語られています。その結果彼女は、信仰を持ったのです。
 パウロにとって、このことは、神の導きの確かさを覚えることになったことでしょう。私たちの人生においても、神の導きに従うときに、神は働かれるのです。


2007年6月10日

礼拝説教からワンポイント

 

 こうしてムシヤに面した所にきたとき、ピテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。                              使徒16:7
                                     

 これはパウロたちが二回目の伝道旅行に行ったときの出来事です。パウロは一回目の伝道旅行で回った小アジア(今のトルコ)を再び回って、イエスキリストの救いを伝えています。また、すでに出来ていたたくさんの教会を励まして旅をしています。
 ピテニヤとは黒海沿岸地方のことですが、パウロは、そちらのほうに行きたかったようですが、それを留められたというのです。パウロがどのような経験をして、ピテニヤに行くことができなかったのかは記されていませんので、分かりませんが、何らかの方法を持って、イエスキリストは、アジアではなく、ヨーロッパに行くように導かれたのでした。
 パウロたちはこのあと、マケドニヤ(ギリシャ)に行きます。キリスト教がアジアからヨーロッパに渡ったのです。それが神様のご計画だったからです。私たちの人生においても、自分の思ったとおりにいかないことが多々あります。しかし、神様は私たちを確かな道に導いてくださるのです。
 信仰によって歩むとき、神様の道を歩むことが私たちの最善、最高の道であることに気づかされます。


2007年5月27日

礼拝説教からワンポイント

 

 五旬節の日になってみなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。                                  使徒14:17
                                     

 この聖書の箇所は、ペンテコステの出来事が記されています。ペンテコステとは五旬節と訳されている言葉です。イエスキリストが十字架にかかり、復活されたあと、40日の間に弟子たちに何度も姿を現されましたが、その最後のとき、キリストは、弟子たちにエルサレムで待つようにおっしゃいました。
 五旬節の祭りの日に、弟子たちがみなで集まっていたとき、上記のような現象が起こりました。これは何を意味しているでしょうか。キリストは、ご自分が天に帰られた後、聖霊を与えると約束しておられましたが、その聖霊が降られたのです。
 聖霊はイエスキリストを信じたときに、心のうちに与えられる三位一体なる神です。キリスト教会は父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊を持って三つで一つの神を信じていますが、歴史的に始めて聖霊が個々人の上に、降った日、それがペンテコステだったのです。
 激しい風のようなもの、炎のようにと表現されていますが、炎は焼き尽くす火を表し、罪が清められる(赦される)ことを象徴しています。信じるひとりひとりに聖霊が与えられたことを、分かれた舌が現れてひとりひとりの上にとどまったと表現されています。
 今日も、イエスキリストを信じる者には、この2000年前に起こった出来事が起こります。それがどういうことか、ここでは説明するのは、難しいことですが、ぜひ教会に来て、尋ねられることをお勧めします。


2007年5月13日

礼拝説教からワンポイント

 

 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことを証ししないでおられたのではありません。 すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとであなたがたの心を満たしてくださったのです。                                                        使徒14:17
                                     

 使徒パウロがある町で、ギリシャ神話のゼウスやヘルメスに間違えられたとき、自分は神ではなく、まことの神はすべてのものをおつくりになった方であること、自分はそのまことの神を伝えている者に過ぎないと叫びます。
 そして、続いて、上記のことばを語ったのです。「今までは、神は、人間がそれぞれの生き方をするのを許してこられたが、それでも、雨や季節や食べ物を与えて、神ご自身のことを現してこられた」と。つまり、地上にある自然や実りなどさまざまなものを通して、神はその存在を示してこられたのです。
 自然に神が宿るというのではなく、神がすべてを造られたのです。すなわち、自然をも造られた神がおられる、その方がキリストを地上に送ってくださり、人類に救いをもたらされたのです。
 今日の社会は、人間がいかに罪深いかということが良くわかる社会となっています。罪とは、神を神としないことを言いますが、神の存在を認めないところに、実際的な罪が蔓延していきます。旧約聖書に【人はうわべを見るが、主(神)は心を見る】と記されています。神は人の心の中の思いまで知っておられる方なのです。
 それが分かると生き方も変わるのではないでしょうか。


2007年4月22日

礼拝説教からワンポイント

 

 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。                                                                    使徒13:39
                                     

 このことばは、使徒パウロの語ったことばです。パウロは、もともと聖書をよく知っており、神様を信じる信仰に熱心な人でした。しかし、旧約聖書が約束する救い主が、イエスキリストであると分からなかったのです。
 それで、熱心さのあまり、クリスチャンを迫害したほどでした。しかし、復活のキリストに出会って、自分の過ちに気づき回心します。神はパウロを伝道者として、召されたのでした。
 パウロはクリスチャンになる前には、律法を守る努力をして来た人です。しかし、どんなに努力しても、自分の努力では、罪から解放されることのないことをキリストにある解放を知ってよくわかったのです。
 イエスキリストの十字架は、罪の身代わりでしたので、信じる者は罪、赦されます。キリストを信じる者は、キリストのゆえに、永遠のいのちが与えられます。信じる者には、聖霊なる方が心に住んでくださいます。
 ですから、信じる者は、あらゆる点において、解放されるとパウロは語るのです。永遠のいのちの希望によって、死の恐れから解放されます。罪赦されたことによって罪責感からの解放があります。心に住まわれる聖霊に常に導かれるなら、私たちは自分自身を省みる人になっていきます。結果として、罪から離れて生きるようになっていくのです。
 キリストを信じる者は、すべての点について、解放されるとは何とすばらしいことだと思われないでしょうか。


2007年4月8日

礼拝説教からワンポイント

  Happy Easter

 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」             ルカ24:38〜39
                                     

 このことばは、復活のイエスキリストのことばです。イエスキリストは確かに十字架上で死なれたことを聖書は告げています。イエスキリストは、死んで墓に葬られましたが、三日目の朝、女性の弟子たちが墓に行ってみると墓は空で、キリストがよみがえっておられたのです。 死んだ者がよみがえるということは、誰もが信じることの難しいことですが、キリストはよみがえって後、何度も弟子たちに現れて、お話なさいました。上記のことばは、そのとき、語られたことばです。
 キリストの復活は、確かに現実のことであったからこそ、弟子たちは、伝道していく力が与えられ、キリスト教は世界に広まって行ったのです。


2007年3月25日

礼拝説教からワンポイント

 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」 しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。                        マタイ27:23
                                     

 あの人とは、イエスキリストのことです。ローマの総督ピラトは、イエスキリストに、罪のないことを知っていましたから、十字架につけろと叫ぶ群衆に困惑していました。群集がイエスキリストを十字架につけろと叫んだのは、当時のユダヤ人指導者たちによる扇動の故であったことを聖書は伝えています。
 ピラトはこの叫びが暴動に発展するのを恐れて、キリストを十字架につけることを承認します。ユダヤ人指導者たちは妬みから、ピラトは自分の保身からキリストを十字架につけましたが、神は、キリストの十字架によって、人類を救おうとされたのです。
 十字架は罪を罰する道具です。キリストが私たちの罪を負って十字架にかかってくださったのです。このHPの「ひとり言」のページのBMの歌詞は、次のようなものです。

  赦すためです。主の十字架。 払いきれない死の代価。
   あざけられても打たれても、祈られたのは、誰のため。
  救うためです。主の十字架。  滅ぶばかりのこの命。
   いばらのかむり、釘のあと、耐えられたのは誰のため。
  カルバリ山はぬれたでしょ。 主の流された血と涙。
   ごめんなさいとお詫びして、従いましょう。主の招き。


2007年3月18日

礼拝説教からワンポイント

 それから、イエスは、少し進んで行って、祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようでなく、あなたのみこころのようになさってください。」                        マタイ26:39
                                     

 イエスキリストは、十字架にかかられる前夜、ゲッセマネの園において、祈られました。その祈りが上記の祈りです。杯とは十字架のことです。人類の罪の身代わりとなって十字架にかかるために、地上に来られたのに、なぜ、キリストは十字架を過ぎ去らせてください、と祈られたのでしょうか?それは、十字架の苦しみが、いかなるものかをご存知だったからだと思われます。
 十字架は、罪に対する刑罰です。神であり罪のないキリストが十字架にかかって人類の身代わりとなってくださろうとするとき、苦しみは肉体的な痛みだけでないことを、知っておられたのです。
 罪の赦しがなければ、結果として、神に見捨てられるということになります。人が味わう最もつらいことは、神に見捨てられるという経験です。
 しかし、イエスキリストは、十字架を過ぎ去らせてくださいという願いで祈りを終えられたのではなく、神様のみこころのようになさってくださいと祈られたのです。
 人類の救いは、神の愛によってもたらされたのです。神のみこころがなるようにとキリストご自身の愛が十字架へ歩を進めさせたのです。
 祈り終えられたイエスキリストには迷いはなく、毅然として捕らえるために来た人々の前に立たれます。祈るとき、苦しんで、血をしたたらせるごとくの汗を流されたとルカは記していますが、それにもかかわらず、十字架にかかってくださったのは、私たちへの愛の故であったのです。 


2007年2月25日

礼拝説教からワンポイント

 バルナバはサウロを探してタルソに行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。                        使徒の働き11:25〜26
                                     

 サウロとは後のパウロですが、このころ、アンテオケというローマ帝国第三の都市にイエスキリストを信じる人々の群れができていました。アンテオケの教会は、迫害のあるエルサレムから逃れてきたユダヤ人クリスチャンやユダヤ人でないクリスチャンがイエスキリストを伝えたので、多くの人々がイエスキリストを信じたのでした。
 クリスチャンとは、キリストに属する者、あるいは、キリストに従う者という意味ですが、最初アンテオケでそのように呼ばれたのは、あだ名のように呼ばれたのだと言われています。仮に、最初はあざけりやからかいの意味で、呼ばれたとしても、キリストに従う者という呼び方は、光栄なことです。
 なぜなら、イエスキリストは天地万物をおつくりになった神の救いをもたらすために、地上に来てくださった救い主であり、その方に従う者とされることは、すばらしいことだからです。そのすばらしさとは、罪の赦しが与えられる、神の子とされる、永遠の命が与えられる、天の御国の希望がある、などなどであります。そして、高い倫理道徳の教師とも言うことのできるお方に、従って生きることはどんなにかすばらしいことでしょうか。


2007年2月4日

礼拝説教からワンポイント

 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。                        使徒の働き11:17
                                     

 上記は、ローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族や友人たちがイエス様を信じた時の状況を説明したペテロの言葉です。当時ユダヤの人々は、異邦人(外国人)に神様の救いがもたらされるとは思っていませんでした。だから、エルサレムのキリストを信じる人々にペテロは、確かに、コルネリオたちがキリストを信じたことを説明したのです。
 何を持って、ペテロはそのことをはっきりと知ったのでしょうか。それは、彼らに聖霊が下られたからです。キリスト教は三位一体なる神(父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神)を信じていますが、イエスキリストは、ご自分が天に帰ったあと、信じる者の心のうちに、聖霊を送ると約束されました。そしてそのことが起こったのです。そのことを、ペテロは神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにお授けになったと語っているのです。
 今も、このことは起こります。イエスキリストを心から信じ、十字架を自分の罪の赦しのためであったと受け入れる時、同じ賜物、聖霊が神様から授けられるのです。 


2007年1月21日

拝説教からワンポイント

 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。。。。イエスキリストはすべての人の主です。使徒の働き10:35、 36b
                                     

 使徒の働き10章には、ローマ軍の百人隊長コルネリオがイエス様を信じたいきさつが記されています。当時の地中海世界はローマ帝国の支配下にあり、ユダヤはローマの属領でありました。カイザリヤに駐留していた、イタリヤ隊と呼ばれるローマ軍の隊長だったコルネリオは、聖書に書かれている唯一なる神様を信じ、ユダヤの人々にも施しを行うなど立派な人だったようです。
 ペテロは、神様の導きによって、コルネリオに会い、異邦人であるコルネリオにも神様の祝福があることを確信していきます。正義を行う人と言うのは、コルネリオの施しなどの良き行いをさしていると言うよりは、神様を信じる、キリストを救い主として受け入れる態度が神様の前に正しいとされると言う意味です。
 人は神様を求め、キリストの救いを求めていくときに、神に受け入れられるのです。ペテロは、ユダヤ人でしたから、ユダヤ人だけが神に選ばれ、救われる存在だと教えられて成人しました。しかし、ここで、上記のように神様に教えられて変革されていきます。
 聖書に書き記されている、万物の創造者であり唯一なる神は、全世界の人々の神であり、キリストの救いはすべての国の人々に等しくもたらされるのです。

2006年12月10日

礼拝説教からワンポイント

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。
                                    イザヤ書7:14
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと神は私たちとともにおられる、という意味である。                マタイの福音書1:22〜23

 

 イザヤ書は紀元前700年前に活躍した預言者イザヤに、神が授けられたことばが記されている書物です。旧約聖書の中には、イエスキリストに関しての予言がたくさんありますが、その中でも、もっとも、はっきりとイエスがメシヤ(キリスト、救い主)であることを記している書物がイザヤ書です。
 イザヤ書の中に上記の予言が記され、そして、新約聖書にあるマタイの福音書において今、誕生されるイエスがそのお方であり、旧約聖書の予言が成就したのだ、と語っているのです。
 生まれてくる男の子は、インマヌエルと呼ばれると記されていますが、インマヌエルとは意味が書かれていますように、「神は、私たちとともにおられる」という意味です。クリスマスは、イエスキリストの降誕を祝う日ですが、神が私たちとともに、いてくださることを喜ぶ日であるとも言えます。
 救い主イエスキリストは、神だからです。 
2006年11月26日

礼拝説教からワンポイント

しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。多くの日数がたって後、。。。。。                                                           使徒の働き9章22、23節a

 

 上記の出来事は、サウロ(後のパウロ)が、キリストの声を聞き、回心してすぐに、始めたことです。つい数日前に、クリスチャンを迫害しようとクリスチャン捕縛許可証を大祭司からもらってダマスコの町を目指していたサウロです。
 いったい誰が、まったく正反対のことを言うサウロの言葉に耳を傾けたでしょうか。かつての仲間もキリストを信じる人々もうろたえ、また、信用できなかったことでしょう。
 パウロは「多くの日数」をアラビヤで過ごします。(ガラテヤ1:17)そこで、今一度、静まって、その後、自分の使命を果たすために出て行くのです。
 アラビヤでパウロは祈りを通してイエスキリストと交わる時をもったことと思われます。また、旧約聖書(新約聖書はまだありません)に精通していたパウロは、聖書に書かれている約束のメシヤ(救い主)がキリストであることを検証したことでしょう。
 旧約聖書は一言で言うなら、キリスト(救い主)がおいでになるという予言の書といっても良いくらい、地上を歩まれたキリストのお姿を前もって現しています。パウロは、聖書をさらに深く読み、祈りのときを必要としたのです。
 このパウロの姿は現代の私たちにも必要なことなのです。神の言葉である聖書から神の御声を聞き、祈りを通して、キリストと人格的な交わりをし、そして、神に与えられた人生を生きるのがキリスト者の生き方です。
2006年11月19日

礼拝説教からワンポイント

彼が「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」                               使徒の働き9章5,6節

 

 上記の会話は、パウロとイエスキリストの会話です。このときのパウロは、ユダヤ名であるサウロと名乗っていました。彼は、タルソという都市で誕生しましたが、タルソは、アレキサンダー大王によって作られたヘレニズム文化の色濃い都市でした。ギリシャ的影響を受けて育ちましたが、ユダヤ人の両親から宗教的な教育も受けたことでしょう。さらに、エルサレムで、ガマリエルから律法の教育を受けました。
 サウロは、熱心さのゆえに、キリストの教えを信奉する人々を異端者として、迫害します。このときは、大祭司のクリスチャン逮捕の許可状をもって、ダマスコと言う町を目指していました。その途上で、光とともに、キリストの声を聞いたのです。サウロは驚いて、上記のことばを発します。そして、その質問に対してキリストが答えられたのです。
 サウロの驚きがいかなるものであったか、それは、想像を超えていることと思います。しかし、この経験によって、サウロの人生は、まったく変わりました。人生においてキリストを信じるということは、それまでの生き方の方向転換を示します。パウロもこのときを契機に回心し、まったく変えられた人生を歩みだすのです。すなわち、キリスト者を迫害する者からキリストを伝える者へと変えられていったのです。しなければならないこととは、神がサウロに与えられた天命と言うべき、働きでした。異邦人への伝道者として神は、サウロを誕生のときから摂理のうちに導いておられたのです。
 ユダヤ人でありながら、ヘレニズム文化の中で成長し、またさらに、聖書を深く学んだこともすべて、神の導きでした。そういうパウロだったからこそ、異邦人伝道をなすことができたと言えます。
 サウロはギリシャ名パウロを名乗り、いかなる苦難の中にあっても、キリストを伝えていく器として用いられていきます。それは、自分の罪に気づき、イエスキリストが罪を赦すために来てくださったメシヤであることを知ったからに他なりません。

2006年10月15日

礼拝説教からワンポイント

「もしあの企てや働きが人から出たものなら滅びるであろう。もし神から出てたものなら、彼らを滅ぼすことはできない。」                               使徒の働き5章38,39節

 

 上記のことばは、ガマリエルという人の言葉です。初代教会がイエスキリストを伝えるとき、キリストを十字架にかけたユダヤの指導者たちは、キリストの弟子たちを逮捕したり、尋問などをして迫害しました。そのとき、指導者の一人のガマリエルが使徒(キリストの十二弟子)たちを殺そうとする他の指導者たちを戒めて、上記のことばを言ったのです。
 彼の提案は聞きいれられ、このとき、尋問を受け殺害されそうになっていた使徒たちは、開放されます。ガマリエルの語ったことは、そのとおりで、人の企ては、やがて滅びるのです。しかし、神が計画なさったことは滅びることはありません。使徒たちのキリストを伝える働きが神からでたことであることは、長い歴史の中で証明されているといえるでしょう。2000年にわたってキリストの教えは、世界中で語り継がれ、今日に至っています。

2006年9月3日

礼拝説教からワンポイント

 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」                               使徒の働き3章6節

 

 上記のことばは、使徒ペテロの言葉です。エルサレムの神殿の庭で、物乞いをしていた生まれつき足が悪く歩けない人に対して語ったものです。ペテロは、物乞いする人に「私を見なさい」と言い、上記の言葉を言ったのです。そうしますと、この人は歩き出しました。
 考えてみれば、「私を見なさい」とは不思議なことばです。でも、これは、「私に注目しなさい」と言うような意味で、ここには詳細は書かれていませんが、ペテロは、イエスキリストの十字架の意味やよみがえられたこと、信じる者には、新しい人生が待っていることなど、話したのではないかと思います。
 なぜなら、足が癒された人が立ち上がり、踊り、神を賛美している様子に驚いている人々に、ペテロは「イエスキリストを信じる信仰のゆえに、この人を強くしたのです。イエスによって与えられた信仰が、完全なからだにしたのです」と語っているように、この方にキリストを信じる信仰があったことがわかるからです。
 キリストを信じる信仰は、人に新しい人生を歩み出させます。ペテロのそばに立って神を賛美しているその姿は、そこに立っているだけでキリストというお方を証していたのです。40歳あまりだったと記されているこの男性が長年、歩けないゆえに物乞いをしていた姿を人々はよく知っていたからです。今、彼はすっかり別人のようになっていました。
 神を賛美し喜ぶ姿、その存在によって神を証しする者でありたいと願います。

2006年8月13日

礼拝説教からワンポイント

 「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」                        
                                      使徒の働き1章14節

 

 イエスキリストが十字架にかかられた後、よみがえって弟子たちと何度か会われたとき、「エルサレムで聖霊が下るのを待ちなさい」と命じられました。聖霊とは三位一体なる神様であります。
 キリスト教は唯一なる神様への信仰を告白いたしますが、唯一なる神とは、父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神の三つを持って一つの神なのです。キリストが天に帰られたあとは、聖霊が与えられる、それが聖書の約束です。
 上記の「この人たちは」とはキリストの12弟子のことですが、上記の人々は、キリストの約束を信じ、命令に従って、エルサレムで祈りながら待っていました。そして、それからまもなく、確かに聖霊は下られ、キリストを信じる人々は力を受け、教会が始まりました。
 そして、キリストの約束どおりに今日世界中にイエスキリストの救いは聖書を通して語り継がれ、私たちのところにまで届いたのです。感謝

2006年7月23日

礼拝説教からワンポイント

 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
                           マタイの福音書
2746節

 このことばは、イエスキリストが十字架上で発せられたことばの一つです。多くの人がつまずくことばです。「イエスキリストともあろう方が、十字架の上で、神様に見捨てられたと嘆かれるなんて」それが、人々のつまずきの言葉です。このことをどのように考えるべきでしょうか。
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばで始まる詩篇があります。22篇です。この詩篇は、神に見捨てられたように見える困難の中にある詩人が、困難を神に訴えた後、それでも、
神に信頼すると信仰を告白し、全能者である神を賛美していく詩篇です。ですから、イエスキリストは、詩篇22篇のその意味を歌われたのだという説明をすることができます。

 また、それだけでなく、十字架は全人類の罪の身代わりであったことを考えると、見えてくることがあります。それは、十字架の苦しみが身代わりであるなら、キリストは人が神に見捨てられるという苦しみをも、代って経験してくださった、ということができます。
 主イエスキリストは、もし、罪を赦していただくことのないまま、人生を終えたなら、人が経験しければならない「神に見捨てられる」という苦しみを味わって下さったのです。キリストを信じる者には、罪の赦しが与えられ、永遠のいのちの道が与えられます。
 このメッセージを読んでくださっている、あなたが、もし、まだイエスキリストを信じておられないなら、キリストを信じ、十字架がわが罪の身代わりであったと受け入れ、神様に「罪をお赦しください。十字架を感謝します」と祈ってください。必ず神様が応えてくださいます。


2006年7月16日

礼拝説教からワンポイント

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください

詩篇13923,24

詩篇139篇の作者は、139篇の最後で上記のような祈りをしています。彼は、この祈りを記す前に、神は、私たちのすべての行動をご存知であり、それだけでなく、その心も知っておられること、神はどこにでもおられること、また、私たち人間をお造りになり、その人生のすべてをご計画し、導かれる方であることを告げています。 

作者は、そのような神に自分の心の隅々まで探り、傷があるかないかを調べてとこしえの道に導いてくださいと祈っています。心に傷があるとき、感情が生じます。怒り、憎しみ、嫌悪、様々なマイナスの感情です。それらを持ち続けるなら、平安な人生を送ることはできません。
 
そのような感情を持つことは、傷つけられたときは、しかたないと思われるかもしれませんが、聖書はそのような感情を罪だと言っています。感情に任せて生きるなら、誤った生き方になるのではないでしょうか。罪のあるまま生きるなら、平安はありません。

 感情は自分でどうしようもないできないものです。しかし、上記の祈りをする中で神は、私たちに気づきを与えてくださるでしょう。感情に気づいたとき、赦しを乞うことによって平安が与えられます。キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりでしたので、十字架を信じて赦しをこう祈りによって、罪が赦されるからです。
 とこしえの道へ導いてくださいと祈られているのは、天国への道へと導いてくださいということです。キリストを信じて歩む歩みは、天国への道を歩む歩みです。天国の先取りをして歩む道と言っても良いでしょう。それは、神に従うゆえの平安の道です。

2006年6月11日

礼拝説教からワンポイント

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイの福音書2639

 この祈りは、イエスキリストが十字架にかかられる前夜、ゲッセマネの園において、祈られた祈りのことばです。杯とは、十字架のことですが、十字架はローマ帝国のもっとも過酷な刑です。自らの体を手足に打ち込まれた釘で支えるのですから、その苦しみはいかほどでしょうか。

イエスキリストは、人類の罪の身代わりとして十字架につけられました。罪のないお方だけが罪ある人間の身代わりとなることができるのです。人はみな罪人であると聖書は語っていますが、その罪を負ってくださったのです。

十字架にかかられることはイエス様のご意志でもありました。キリストは三位一体の神ご自身であるからです。しかし、その苦しみは人として来られたキリストにとって、軽いものではありませんでした。また、罪の刑罰は肉体の苦しみだけでなく、神に見捨てられるという精神的な苦しみをも伴います。

しかし、キリストは「わたしの願うようにではなく、あなた(神様)のみこころのように、なさってください」と祈られたのです。人はなかなか、自分の願いを捨て去ることはできません。けれども、神様のみこころこそ、最善の道なのです。イエスキリストは、神の人類の救いという道を歩んでくださいました
 キリストの苦しみは全人類に救いの道を開きましたが、キリストの痛みは私たちに、神の救いという大きな祝福がもたらされるものでした。私たちも「みこころのように、なさってください」と神様に信頼して祈るとき、神のご計画の中を歩むことになります。それは、すばらしい祝福が伴います。

2006年5月14日

礼拝説教からワンポイント

 「『あなたがたの知っているとおり、二日たつと過ぎ越しの祭りになります。人の子は(キリスト)十字架につけられるために引き渡されます。』そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。」マタイの福音書2624

 『』のことばは、イエスキリストが十字架にかかられる三日前に弟子たちに告げられたことばです。なぜ、キリストは十字架につけられるのでしょうか。当時のユダヤの指導者たちの妬みからです。当時ユダヤを属国としていたのはローマ帝国ですが、ローマから派遣されていたユダヤ総督ピラトは、訴えを聞いてイエスキリストには何の罪も認めないと言いながらも、群衆の暴動を恐れて、十字架につけるよう命じます。

 イエスキリストは、そのような大変なことが自分の身に起こることを前もって知っておられ、弟子たちに告げておられたのです。それはなぜでしょうか?そのことこそ、イエスキリストがどなたであるかを示しています。

 キリストというギリシャ語は、救い主という意味です。弟子たちも含めて人々はローマ帝国の圧制から救ってくださる王としての救い主キリストを期待していました。

けれども、キリストは人間にとってもっとも悲惨な罪の問題を処理するために地上に来られたのです。キリストは「あなた」の、そして、「私」の罪の身代わりのために十字架にかかってくださったのです。すべては神のご計画の中にありました。ですから、イエスキリストは十字架を予告することができたのです。


2006年5月7日

礼拝説教からワンポイント

 「人の子(キリスト)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴ってくるとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」マタイの福音書253133

 マタイの福音書24章から25章には終末に関して、イエスキリストが語られたことが記されています。キリストは十字架にかかる前に、弟子たちに大切なことを教えられました。それは、キリストがまたおいでになるということです。

 現代の私たちは、終わりの日の前を生きています。キリストが語られた終わりの日の前兆は、すでに今の世の中にあります。たとえば、「地震、飢饉、戦争、民族紛争」などなどあげることができます。

 世の終わりはいつ来るか分かりません。私たちの生きている時代にあるか、それとももっと未来であるか分かりません。しかし、その日には、イエスキリストがもう一度おいでになって、羊と山羊にたとえられていますが、人類を分けられます。

羊にたとえられた人は、キリストに従って神の教えに導かれ、良き歩みをした人々です。終わりの日はいつ来るか分かりません。ですから、私たちは、毎日を賢明に生きなくてはなりません。どのように生きるかを考え人生を歩むことは幸いです。