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質問とお答え    新たなご質問はにお願いいたします

質問 パウロの伝道旅行は3回なされましたが、その3回に共通して訪問した場所はどこですか?
かなり、難しい質問ですね。聖書にしるされている限り、三回共通している場所は少ないと思われます。一回目と二回目の伝道旅行で、名前のあがっている町は、ルステラ(使徒14:21、16:1)があります。また、三回目には、その名前は出てきませんが、パウロが歩いた道筋として、ルステラ、イコニオム、アンテオケ(ピシデヤの)が考えられます。
二回目と三回目に限って言えば、ピリピ、コリント、アテネ、エペソなどありますが、三回全部となると上記のような答えとなるでしょうか。 

質問4聖書について教えてください
 聖書は、今から、約3400年前ないし3300年前に、書き始められています。その前から、断片的な記録があったと思われますが、その時代に生きていたモーセというイスラエルの指導者に出来事を記録するように神が命じておられたことが記されています。
 そして、紀元後100年以内にすべて書き終えられています。つまり、聖書は、約1500年にわたって書き続けられ、完成した書物だと言うことができます。その内容は、天地創造から天地の終わりの日にまで及びます。人間の誰がこのような書物を作り上げることができたでしょう。
 もちろん、聖書の著者はいます。40人以上の違う時代に住む人々であり、その職業や立場はさまざまな人々です。しかし、聖書は「神の霊感によって書かれた」と記されています。高い神観、高い倫理・道徳観は他の追従を許さないでしょう。
 聖書を人生の羅針盤として、指針として歩むことは大きな幸いです。もし、そのように歩む人々が増し加えられるなら、今世の中で起こる事件なども少なくなるのではないでしょうか。日本では、聖書を読む方は少なく、クリスチャンは残念ながら少数派です。ぜひ、聖書を読んで、心豊かな人生を選び取られますように、祈ります。
 

質問3教会では何をするのですか?
 教会では、神様を礼拝することを第一としていますが、聖書の教えを通して、人の生き方を考える所と言っても良いでしょうか。今の世の中は、人それぞれの価値観で生きることのできる時代と言えるのではないでしょうか。それは、すばらしいことでもありますが、もし、自分が間違った価値観で生きていくなら、失敗の多い人生になってしまいます。
 聖書には、人がいかに生きるかの指針が書かれています。聖書は、人間の手によって書かれていますが、その背後にあって、神が導かれたとしかいえない、歴史と内容を持ちます。
 自分の小さな考えでなく、神の教えに従って行くことほど幸いなことはありません。教会で何をしているか、少しでも関心がおありでしたら、来てみてください。集会案内に従って来て下さっても、歓迎ですし、牧師に直接話を聞きたいと言うことであれば、お電話して来てください。
 聖書を知ることは、とても楽しいですよ。
 

質問2 なぜキリスト教にはいろいろな宗派があるのですか?

 この質問にお答えするには、キリスト教の2000年の歴史から紐解かなければなりません。もともと旧約聖書を神のことばとして、唯一なる神を信じてきたユダヤの人々からキリスト教は出発しています

旧約聖書はメシヤ(ヘブル語救い主の意)がやがて到来することを告げていました。人々はそれを待ち望んでおり、キリスト(ギリシャ語救い主の意)が来られました。しかし、それを信じなかったユダヤの人々がいました。その人々は、今もユダヤ教徒として、旧約聖書のみを聖典として、おられます。

 一方、イエスキリストをメシヤ、救い主と信じたユダヤの人々もおられました。キリストを信じる者に対する迫害が起こり、エルサレムから逃げていった信者や使徒たちによって、キリスト教は世界に広まって行きました。

 その後、ローマ帝国の国教となってだんだん権威が集中していくことになります。16世紀になって、マルチンルターによる宗教改革が起こり、そこから、プロテスタントが始まりましたが、様々な国で、宗教改革が起こり、プロテスタントの人々も国の違いや聖書の解釈の相違によって、分かれ行きました。

 簡単に言えば、そのようなことになりますが、聖書が教える中心的な事柄、キリストの十字架の意味復活などにおいて、違いがあるわけではありません。宗派ではなく教派と言いますが、教派が分かれたのは、一言で言えば、人間の集まりだからです。

神様は全能者であり唯一ですが、人間には限界があります。けれども、教派の違いがあっても、今日教派間、教会間の協力は、なされています。


質問1 なぜバプテストというのですか ?

 バプテストとは、新約聖書が書かれた言語ギリシャ語のバプテイゾーということばに由来します。それは、水に浸すという意味です。バプテスマのヨハネと言う方が、「来るべきメシヤ」の公式な宣教活動の前に、「神の国は近づいた。悔い改めてバプテスマを受けなさい」とヨルダン川において、罪を悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授けました。

 洗礼の持つ意味は、悔い改めて神様を信じて新しい歩みをする、そのような意味があります。今日も教会では、自分が罪人であると自覚した人がイエスキリストの十字架が自分の罪の身代わりであったと信じて、バプテスマを受けます。

 今はヨルダン川ではありませんが、バプテスマ槽や川や海で全身を浸す形を取ってバプテスマを授けるのがバプテストの特徴の一つです。