大幅改訂増補版『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社刊)の立ち読みできるページ
〈ガイド部分〉
■ 第二章 世界のダンサー&カンパニー
●モーリス・ベジャール 18ページより
 ベジャールといえば、魔王のような口ひげが目に浮かぶ。おそらくは映画『愛と悲しみのボレロ』(81年)でジョルジュ・ドンが踊った『ボレロ』によって、「バレエは見ないけど映画ファン」の知名度もバツグンである。巨大なスケールとスキャンダラスさを恐れぬ作風が特徴である。「ダサさと紙一重のカッコよさと紙一重のやっぱりダサさ?」みたいなところがベジャールの凄さだろう。バレエが居心地のいい「おゲイジュツ」のゆりかごに入らぬよう、挑発し革新し続けてきた功績は大きい。
■第三章 日本のダンサー&カンパニー より
●近藤良平 182ページより
 近藤良平は日本人離れした手足の長さ、キレと野性味にあふれるダンスに加え、目玉は飛び出て、口は耳まで裂けており、まことに舞台映えのする顔の造りだ。
●森山開次 218ページより
 飛び抜けて身体が柔らかいとか、ジャンプが高いといったことはないのだ。しかし身体の回転や個々の動作の流れ、前に出した手を、背中から引いて後ろへ放ち、その流れを身体に巻き込んで上へ伸びる…… といった動きの連鎖が実になめらかで、視覚的な快感を呼ぶ。なんというか、生き物として好き。そんな感じだ。
●北村成美 223ページより
 ガッチリした身体だし、『ラベンダー』02などでセクシーポーズを取られても、見ているこっちが困るわけだが、ダンス自体はとても細やかに作っているのだ。パワフルな筋肉に目がいきがちだが、そういうところを見ていきたい。
〈エッセイ部分〉
■第一章 はじめに
●8ページ
 本書で紹介しているものはバレエ作品として上演されるものもあれば、ほとんど演劇、ほとんど映像、ほとんど動かない、などなど百花繚乱・玉石混淆である。だが本書でジャンル分けの必要性自体を感じないのである。考えてみてほしい。腹が減っている人にとって、「どこまでがラーメンか? 冷やし中華は入るのか? 付け麺は? カップラーメンは? ベビースターはラーメンに入れていいのか?」と問いかけがどれほどの意味があるか。
 うまけりゃいいよ。
というところだろう。本書のスタンスもそうだ。前述した「コンテンポラリー・ダンスの定義っぽいもの」が一面でしかないのはそういう意味である。まずは「今ワクワクするダンス」を見つけること。ジャンル分けは各自でやってくれ。
●9ページ
・1986年を元年とする
 筆者は個人的に「1986年を日本におけるコンテンポラリー・ダンス元年」と考えている。86年は、勅使川原三郎が日本人として初めてバニョレ国際振付コンクールで入賞し、ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団の衝撃的な来日公演があった年である。
 このふたつの出来事が、日本の特に若手ダンサーにとって決定的な意識革命をもたらした。日本で「コンテンポラリー・ダンス」という言葉が本格的に使われ出したのも80年後半からだと思う。
●16ページ
 さて改訂版であっても、目指すところは同じだ。コンテンポラリー・ダンスの裾野が広がり、内容が充実していくことを心から祈っている。ここでは、ある雑誌に書いた文の一部を最後に記しておきたい。

 「背後に広がる、荒野でこそ踊れ」
 すでに固定したジャンルとして存在しているように見えるようだが、コンテンポラリー・ダンスなんぞというものは、いわば荒野みたいなものなのである。なにもない、そのかわり何を持ち込んでもいい、ただ広いだけの場所。だが時間を経るにつれ、だんだん人気のある滑り台やブランコなどが残ってきて、一部「公園」化してきている。それはジャンルとして熟成されてきたということで、悪いことではない。しかし中には「正しいコンテンポラリー・ダンスを知りたい」という、とてもマジメだが見当違いの努力に励む人も出てくる。彼らは「荒野」の広さが目に入らず、目の前の「公園の遊具」こそがコンテンポラリー・ダンスだと思いがちである。
 しかし「コンテンポラリー・ダンスの答え合わせ」みたいな作品はもういいよ。観客も「こういうのを理解してこそコンテンポラリー」みたいに、変に持ち上げるのはやめてくれ。ましてや互いに理解を示しあって「ぬるく幸せな空間」を醸し出すのもカンベンして欲しい。「誰がなんと言おうと、とくに評論家なんぞが何を言おうと、オレが踊りたかったのはこれだ!」という作品をたのむ。それはダンス界のため、なんてことでは毛頭ない。そっちの方が、今いるぬるま湯よりも、何十倍もキモチイイはずだからだ。
 和気藹々の公園に背を向けて、荒野の孤独と、死ぬまで踊る自由さに親しみを持つ者こそが真のダンスを得る。
 僕は、そういう者のためにこそ書く。

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