十一 復員への道
◇ビルマを後に
◆メイクテイラーを出発
待ちに待った内地に帰る命令が下りた。メイクテイラー一年半の抑留生活の終わりに当たり、そのキャンプにいる全員が集合し宮崎師団長閣下の訓示を受けた。その要旨は、戦争中の苦労に対する慰労と、抑留生活も秩序を保ち日本軍人の誇りを持ちこの日を待ったことへのねぎらい、戦没者をこの地に残す無念さ、更に人類の歴史において戦争は絶えず起き、決して無くなってしまわないと、いうものであった。
出発の日は早朝に起き、持ち帰る装具一式を外に出し、宿舎を解体し一ヵ所に寄せて燃やした。赤い大きな炎が天に舞い上がった。灼熱の太陽に照らされ、暑く熱く強く印象に残った。完全に後始末をし、メイクテイラー駅に行き列車に乗った。メイクテイラーよさようなら。それは、昭和二十二年六月十四日であった。
首都ラングンーに到着、港近くのテントで四、五日待機し、希望が大きく膨らんだ。それでもまだ『だまされているのではなかろうか』と多少の不安が残っていた。
◆辞世の句
今まで我々が抑留されている間に、ビルマで戦った将兵の内、戦争犯罪者として、英国軍に拘束され刑務所に入れられた人達があると聞いていた。日本の国のために上からの命令で行動してきた者を連合国側はどのような犯罪として咎(とが)めたのか分からないが、多くの人が一方的に裁きを受けた。
我々がラングーンに来て初めて、その人達が戦犯者収容所で処刑されているのを知った。ミンガラドンの掲示板にその方々の辞世の句が貼られていた。復員を目前にした私達の仲間の誰かが、謹んでそれを写してきた。
ここに、そのほんの一部だが紹介し死刑に処せられた戦士の無念さを偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
刑執行の前夜
呼び出しの 沙汰にも声の高らかに 廊を隔てて名残惜しめり

迫り来る 時限りあり 限り無き 思いぞ尽きし この夜短かし


夜もすがら 語りし友ははかなくも 刑の露と今消えてけり

刑場に 唱う万歳 われも又 答えんとして 身を正しけり

辞世 憲兵大尉 松 岡 憲 郎
運命とて ほほえみつゆく 益良雄(ますらお)の 清き心や神ぞしるらん

緑 川 大 尉
消え去りし 友の御霊(みたま)を 伏し拝み 同じ草葉の かげに入るかも

吾が命 二十と八の誕生に 忠義の鬼と 化してゆくなり

鈴 木 曹 長
君が世の 寿(ことおぎ)唱(とな)えて 神の召す 台に上がりて 花とちりなむ

獄 ニ 想 ウ 田 室 曹 長
月 落 百 鳥 啼 破 睡 清 冷 大 気 流 獄 壁
白 魂 清 々 心 満 誠 忘 向 死 憶 皇 路 ■
◆復員
六月十九日復員船熊野丸に乗船した。タラップを上がり日本人の看護婦を見た時、初めてこれで間違いなく日本へ帰れると確信した。
この看護婦の色の白いこと、清らかで美しい姿を見て内地がより一層恋しくなった。安心して所定の場所に荷物を置いた。小型の航空母艦で内部は輸送船に改装されていた。小型にしろ、航空母艦がよくぞ戦火を潜り抜け残っていたものだ。その熊野丸はラングンーの岸壁を離れた。
この地に残した十九万の英霊に鎮魂(ちんこん)の祈りを捧げビルマと別れた。シュエダゴンパゴダが段々遠くなって行く。パゴダよ英霊を守って下さい。いつまでも。
熊野丸は前にビルマに出陣する時の輸送船の寿司詰め状態より大分余裕があり、楽だった。それに船の速度も早く、潜水艦を避けるためにジグザグで航行する必要がなく、一路進むので割合早く日本に帰ることができた。
豊後(ぶんご)水道を通過する時、甲板に上がって見ると漁船が手を振って迎えてくれた。これでやっと内地に帰ることができたのだと思うと感激一入で胸が詰まり、目頭が熱くなった。後に聞いた田端義夫の「帰り船」の歌そのものである。

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