十 終戦と抑留(よくりゅう)生活
◇終戦
◆終戦の知らせ届く
八月二十日過ぎに、ビルマの南西地区の山間に到達し、そこに駐屯していた兵士に出会った。彼等は、前線から退却してきた我々に僅かではあるが、湯茶の接待や味噌汁を作り飲ませてくれた。弱った我々を親切に迎えてくれ、おかげで体の中まで温かくなった。
彼等兵士は、一応服装も整っており、銃剣等も手入れしたものを持っていた。乞食のように汚れ、垢だらけになり破れた服を着た裸足の我々とは余りにも違い、お互いにびっくりした。ビルマで戦争をしても、前線と後方、場所場所によってかなりの差があったことを知った。
このことは、我々がタンガップにいた時、それより前線から帰ってきた兵士が弱り果て、ボロボロになっていたのを見たことがあったが、それと同じように、今は、私達がそんな姿になっているのだ。すべて運であり人のせいではない。
数日後、「小銃に刻印されている菊の御紋(ごもん)を消せ」との命令が下りてきた。今度は「兵器を一ヵ所に集め、返納(へんのう)せよ」との命令がきた。だが私は上官から明確に「敗戦」とか「負けた」とのけじめの言葉を直接聞いたことはなかった。ただ何となく負けたのだと感じ悟ったのである。我々が転進している道のすぐ近くに英軍の将校が立ち、その左右を日本の兵士が護衛し我が軍の状況を監視していたが、その様子から英国が勝ち、日本が負けたのだと実感した。その頃正式ルートから負けたという知らせが我々の耳にも入った。
一日一日と敗戦の実感が心を締めつけてくる。すべての兵器を敵軍に渡し丸腰になった。完全な武装解除である。敗戦兵士の屈辱を味わうことが始まった。
英国とインド軍の指示に従いマルタバン方面に向かい毎日の行軍が続く。英印軍の兵士が武器を持って、我々日本兵を監視警護しながら歩いて行く。
給水車がやって来て、水を配給してくれる。今までの日本軍では無かったことで給水は有難い。群がるようにして水を水筒等に注いでいると、英印軍の兵士がお互いに、「ジャプ ピッグ」「ジャプ ピッグ」と言って笑っていた。日本人野郎の豚がと言っているのだ。馬鹿にされた言葉だが、仕方がない。
久し振りにアスファルトの広い道に出た。裸足の足には余りにも熱い道だった。今までは主に山中で土の上や田んぼの畦道(あぜみち)だったので熱さを感じなかったが、舗装道路では足の裏が焼けるようだった。いくら熱くても一歩一歩煮えて軟らかくなったアスファルトの上を歩かなければならなかった。いろいろの試練があるものだ。
マルタバンに着き何回も何回も人数を調べられ、船に乗せられモールメンに着いた。その後チェジャンジーの村落にしばらく滞在した。それは昭和二十年九月中978e下旬と思う。
五月初旬、アラカン山脈のベンガル湾側のシンゴンダインを出発してから、ここに到着するまで約百四十日間、雨に濡れ野宿し、道なき道を探しつつ、河を渡り、迷ったり、取りはぐれたり、紆余曲折(うよきょくせつ)の道を行きつ帰りつした。千二百キロ、これは岡山〜盛岡間の距離になるが、この長い長い道程を、激戦、転進、敵中突破、飢餓、病魔と戦いながら裸足で歩き通し、やっと戦闘と行軍が終わったのだ。
◆体の回復を待つ
チェジャンジーで民家を借り上げ宿泊した。もう弾丸に当たる心配がなくなり、雨に濡れ食べるものがなく飢餓で死ぬことを極端に心配する必要もなくなり、最悪の状態から抜け出した。
だが、これまでに弱っていた兵士は次々に死んで行った。もちろん、栄養のある食物が有るわけではない。少しでも早く体力の回復をと願い、器用な人が犬を罠(わな)にかけて取り、皆で分けて食べたりした。私も美味しく食べ体力が少しでも回復しそうな気がした。
英軍の支配下に入ったとはいえ未だ過渡期なので、日本軍が今まで管理していた倉庫に行き、米や砂糖その他副食品をもらってくることができた。
毎朝点呼と体操をすることになったが、このところ私の腕は神経痛のため上に挙がらない。真横までしか挙げられないし、耳鳴りは未だ続いており、視力も衰えたままで、声も依然として小さな弱い声しか出せなかった。その頃戦友に「小田、お前の頭はうぶ毛ではないか」と言われびっくりした。
自分では今まで全く気がつかなかった。鏡がある訳ではないし、戦友達もやっと落ち着き私の頭を観察する余裕ができたのだ。私も自分の頭がどうなっているかなど、別に痛くもないし思いもつかないことだった。治るだろうか?と心配になった。
それから、顔だ。自分の顔は自分では見えないが、戦友の顔はみんな土のようで、煙突掃除から出てきたようなすすけた顔、髭(ひげ)は伸び放題で仙人のようだ。将校も下士官も兵隊も皆このような顔をしていた。
この頃になり、嬉しいことに血の小便が止まった。毎日雨に濡れ水に浸かり冷えていたが、終戦後は水に浸かることも逃げることもなく楽になったからだ。
戦争の最中は自分の命を維持し持って逃げるのに一生懸命で、体の細部まで見ることはなかったが、ここにきてよく見ると手の爪が皺(しわ)だらけで黄色く土色をしている。死人のそれのようである。
◆水浴
疲労衰弱の激しい時は水浴する元気もない。水浴すると熱が出るのではないかと思い、転進作戦中から戦後までの五ヵ月間、裸になり体を洗う時間もないし、弱り果て洗おうとする気にもならなかった。転進中は、ただ生き延びること、命を持って逃げることで一生懸命だった。
九月中旬になり、やっと水浴しようかと思う程度に体が回復したので、晴天の日に小川へみんなと一緒に行った。裸になってみると、ひどく両足の間が空いている。二本の足の間に大きく隙間が出来ている。おかしいなと思ってよく見ると、太腿(ふともも)が痩せて細くなってしまっている。全く骨皮だけになっており、びっくりした。太腿に両手の指を廻して測ってみると健康な頃に比べて非常に細くなっており驚いた。
胸を見ると肋骨が一本一本浮きでて、肩の骨はゴツゴツと飛び出し、これ以上痩せることができないぐらい痩せてしまっていた。おそらく、四十キログラムを切っていただろう。小川の流れで洗うと垢が皮膚から剥がれだし、なんと流れる水が薄黒く濁る程であった。
よくもこんなに垢が着いていたものだ。石鹸もないのでこすって垢を落とすだけであったが気持ちがよい。でも一度に垢を落とすと熱が出たり、体調をそこなう恐れがあるので早々に引き上げた。長い間、積もり積もった戦塵の荒落しができたのである。その時は汚れたままの服を着ており、これを洗う程の元気がなかった。
数日後の二回目には着たきりの服を水洗いし干した。干している間は着替えがないので褌(ふんどし)一つで乾くのを待った。乾燥した空気、しかも、太陽が強く照りつけているので三、四時間するうちにほぼ乾いた。
衣服を五ヵ月振りに洗濯し気持ちがよかった。よく見ると服も大分傷んでおり、歴戦の跡を残していた。服の裏の縫い目にシラミとその卵が鈴なりにくっついていたが、この程度の洗濯では半分程しか取れていないようであった。その後も、シラミに食われ続けた。
◆シラミ退治
シラミと言えば転進の半ば頃から次第に多くなり、体中シラミに食われ痒(かゆ)くてたまらない。食われた跡形で体全体がざらざらしている。小休止の間もみんな服を脱ぎシラミ取りに一生懸命だ。
しかし少しぐらい殺したところで繁殖力の方が旺盛で増えるばかりで処置なしである。昼といわず夜といわず痒くて痒くてたまらない。服の内側の縫い目に卵を産みつけ、そのあたりを根拠地として体中を這い回る。深夜あまりの痒さで寝られず、辛抱しかねて跳ね起きる。だが明かりが一つもないので、シラミを取ることはできない。とっさの判断で服を裏返しに着て、シラミが表に回ってくる間に眠るのだ。
ある日、使役で精米所に作業に行ったとき、ボイラーから熱湯が出てきて溜まっている場所があった。
その熱湯の中に浸ければシラミが死ぬだろうと思い、衣服を十分間ぐらい漬けてみた。それでも全部は死ななかった。強いものである。
一番効いたのは、英印軍にD・D・Tを体と装具一式に真っ白になる程かけられた時である。
将兵全員一斉に実施した。以後完全に撲滅した。凄い威力であった。
当時日本軍にはそんな良い薬品は無いし、あったかも知れないが実用化されていなかった。そんなことにも彼我の衛生面での対策に大きな差があることを見せつけられた。俘虜(ふりょ)生活の中だが、シラミのいない生活は健康で衛生的であった。
◆蚊とマラリヤ
ついでに蚊についてだが、蚊に対する防備は当初は頭に被る網の袋だった。まだビルマに着いて三ヵ月ぐらい過ぎた頃、ヘンサタ市方面の渡河作業をし、夕方を迎えた時、物凄い蚊の大群に襲われたことがある。暗闇の中だから、どれぐらいいるのか見えないが、空気の中の半分は蚊ではないかと思われる程であった。
その時、この網を被ってみたことがあるが、うっとうしいだけでどれ程効果があったか分からない。焚火をしたり枯草を燃やして蚊を防いだが、どうにもならなかった。手や足はむきだしであり、顔だけ覆ってみてもむさくるしいだけなので、このネットはその後使用することはなかった。
十人程度入れる蚊帳(かや)があったが、まとまって家の中で生活する場合なら役立つが分散した露営には役立たない。その内破れて無くなり、常に蚊に刺されどおしであった。ある平原地帯のビルマの民家にいる時も、アラカン山脈の中に住む時も無防備で、マラリヤを媒介する蚊に刺されぱなしであった。次々とマラリヤの病になるのは当り前のことである。悪性のマラリヤ菌を持つ蚊が一杯おり、昼も夜も所かまわず刺しているのだから、仕方がないことである。マラリヤの特効薬でキニーネがありその錠剤を毎食後飲むことにしていたが、蚊に刺されかたが激しいので、どれくらい効果があるかよく分からなかった。キニーネは胃腸にはよくないし、後にはこれも補給がなくなり対応策無しであった。昔から、ビルマは、し・ょ・う・れ・い・病魔の地と言われているが、まさにマラリヤのはびこる国である。
ビルマ全土で、我が軍は三十三万人のうち十九万人が戦死した。私の概算ではその内十二万人がマラリヤに直接間接関わりがあり、戦死したと言ってよいと思う。それ程までにマラリヤ蚊によって、大勢の兵士が殺されたことになる。
悪性マラリヤにかかれば、四十度の高熱が一週間ないし十日間連続し、亡くなる人が多い。マラリヤとアメーバー赤痢の併発で命を落とす人、間接には高熱で歩いてついて行けなくなり落伍してしまった多くの人々。マラリヤと疲労で弱ってしまい自決した人、マラリヤで体力が奪われ糧秣を取りにゆけず餓死した人も数限りない。マラリヤにかかり衰弱していたのでシッタン河を筏で泳ぎ切ることができなかった人達もある。考え方によるとマラリヤとの戦いに破れたとも言えるのである。
ところで、国が戦争で負けたので一括して捕虜になった場合は俘虜(ふりょ)と言うが、そのビルマでの俘虜生活では、間もなくアースとかD・D・T等が配給され、噴霧器による蚊の退治を徹底するようになり、しかも三ヵ月後には早くも、全員に個人用の蚊帳を配り、防蚊体制が整備された。
俘虜抑留者に対してこれだけのことができるのは大したことだと感心した。このように英印軍の環境衛生対策は、日本軍よりはるかに上であると思った。
戦争中の日本軍のように、「ビルマの山の中には、何でも食べるものがある、本来人間は草食動物であるからそれを食い生きてゆけるのだ。食うものが無ければ敵のを取って食え」と命令したことと比較すれば大きな相違である。人命尊重の思想が全く異なるのである。万事に大きな差異があることが次第に分かってきた。
マラリヤで多くの兵士が死んでいったのも、人命尊重の思想が乏しく安全衛生思想が低く、当然の結果であったとも考えられる。
◆山間へ移動収容
終戦後、英軍の命令により、戦後俘虜だから現地人の家を借りるには不適切であり、現地人に接触しない場所に集めるのが適切だと判断されたのかも知れないが、その後チェジャンジー地区内の民家から離れた山間に移動した。一つには、日本兵の逃亡を防止するためであったのかも知れない。
ここは野宿なので、細い木と木の葉で覆いをしただけの粗末な小屋をこしらえた。幸いにして雨期も終わり、雨も降らなくなっており、助かった。十月上旬から十月中旬にかけてここにいたが、毎日戦争し逃げ回ることもない。そこに休んでいればよいのだから休養ができ、助かった。
米と塩は旧日本軍の倉庫に行って、取ってくればよいので十分あった。しかし副食の肉類や野菜類は欠乏していたので、少し離れた民家の軒先に干してあるとんがらしや里芋の茎をもらってきて食べた。
少しずつ体が回復に向かっており嬉しい。皆の顔がやや丸味を帯びてきた。中には顔が腫れるようになる人もいた。急に沢山食べ調子を狂わす兵士もいた。でもこの頃はまだ、戦争中の疲労が回復しないまま息を引き取る人もあった。
◇草むす屍
◆金井塚輜重聯隊本部付少佐 元第一中隊長を葬る
前にも書いたが、金井塚少佐は五月上旬カバイン付近の戦闘で足を負傷し歩行不能となり、担架や牛の背中に乗せられ、その後は杖にすがりながら、長い苦痛な行軍に耐えてこの地点までたどりついたが、衰弱した体は病魔に冒され息を引き取られた。
昭和二十年十月六日、溝口指揮班長より「小田、お前はレミナにいる頃、中隊長と同じ家に住み、特別縁が深いから、今晩屍衛兵(しかばねえいへい)をやれ」と命じられた。自分は有難いことだと思った。
私が二年八ヵ月前の昭和十八年二月十五日に召集を受け、初めて金井塚中隊長を拝むような気持ちで見上げた時のことを思い、その凛々(りり)しい威厳に溢れたお姿、中隊全員に号令や訓示をされておられた堂々とした様子を思いだす。
また、十九年一月頃レミナの町で中隊長以下溝口曹長達八名で一軒の整った家を借り、通信班として和やかな雰囲気で任務に就いた時のことや、中隊長の人間らしさに触れ感激したことを思いだす。
屍の傍に立ち守っていると、今の姿は余りにもお気の毒である。顔を覆う白い布はどこにもないので、緑の葉が多くついた木の枝を折ってきて顔を覆ってさしあげた。冷たく硬直した体を見ていると、草むす屍を思い出し、命のはかなさをしみじみと感じさせられた。
埼玉県出身の陸軍士官学校出の青年将校、レミナにいる時、特に親しくして頂いただけに、悲しく、寂しく、いろいろのことを思い出しながら一夜を屍と共に明かした。最も重要な最後の、屍衛兵をさせて頂き、御恩に報いることができたことを感謝した。併せて溝口准尉のこの配慮を有難く思った。
翌日は溝口指揮班長の指揮により草原に穴を堀り、屍を埋葬し墓標を建て、ねんごろにお別れをした。墓標はどこから用意されたのか、材料も大工道具もないこの宿営の中で、よくぞ用意されたものとだと感心した。
残念だったのは、皆弱っている上に分散して露営していたので、十四、五名ぐらいしか埋葬に加われなかったことだ。号令一下というわけにいかなかったことだ。本来、日本軍の華やかなりし頃の中隊長の葬儀であれば、中隊四百名全員が正装して厳粛盛大な葬儀が行われたのだろうに、敗戦の今は生き残りの兵隊も少なく、命絶え絶えで仕方のないことだった。金井塚久少佐殿、安らかにお眠り下さい。
---あれから五十二年の時が流れたがその時の状況が彷彿(ほうふつ)として思い出される。遠く過ぎた悲しい夢であり、戦争の歴史も遥かに遠ざかってゆく。今でもあの埋葬した草原に草が生え茂り、灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつけているだろうか。合掌。
◆幻想
終戦後の当時、野営中も弱った者を一ヵ所に集めて病室としていた。私も以前より回復してきたが、まだ弱っているのでその病人のいる室に入れられていた。病室といっても別に変わった建物ではなく、地面の上にお粗末な小屋があるだけであり、患者を集めて寝かせているだけのことである。
別に薬がある訳でもない。ただ、炊事を自分でしなくても、誰かが、粥を作ってくれる。それに衛生兵が近くに居るので心丈夫だったし、作業に引き出されることはなかった。いわば患者が枕を並べて寝ているだけだった。
私の隣に井上上等兵が休んでいた。もう三十歳ぐらいで私に比較すれば世間のこともよく知った人であった。「いつまで英印軍に使われるのだろうか、いつ帰れるだろうか」とか、「帰れば花子さんが待っている」とか、「日本の若い女の肌は忘れられない」、「リンゴのような頬にカジリつきたい」などと、面白く話をしていた。特に体調が悪いようでもなく、私も同じようなことを考え、話したり聞いたりしていた。
その夜中、彼が独り言で「船が迎えにきた。ほれ、あそこに復員船が二艘来ているぞ。早く乗ろう。波止場に早く行こう」と言いだした。「あの島は内地の島だ」等と。初めは寝言かと思っていたがどうもおかしい。起きて歩こうともする。薄暗い夜中で明かり一つないので表情が分からないが、どうも気が狂っている。急に脳症を起こしたらしい。衛生兵を探してきたが手の施しようもない。当時薬を持っていないし、成り行きに任せるより仕方がなく、押さえつけて寝かせた。しかし二、三日たった後に息を引き取り、それきりだった。
今我々は俘虜の身であり、いつ内地に帰れるか、一生労働者として使われるか見当がつかない。
あるいは、き・ん・抜・き・にされるのかも知れないと思った。すべては戦勝国側の意志次第であり、誰にも先のことは分からなかった。
◆奇遇だ 勇気を出そう
私の隣の患者はひどく弱っているようだ。年令は私より十歳程上で軍曹の階級章をつけているが、見慣れない顔である。尋ねると岡山の歩兵聯隊所属とのことである。どうしてその聯隊の人がここにいるのか分からないが、とにかく混じっているのだ。
青息吐息なので、あまり話しかけなかった。でも私が「自分は岡山県の赤磐郡の出身だが、岡山県のどこの出身ですか?」と尋ねた。彼は「和気郡(わけぐん)本庄村(今は和気町)の出身だ」と答えた。私が「和気郡山田村(今は佐伯町)に親戚がある」と言うと彼も「山田村に親戚がある」と言う。私が「康広(やすひろ)、という家で、私の母の出所だ」と言うと彼も「康広は親戚だ」と答える。えらい近い話である。私は「母の父は康広治四郎といって山田村の村長をしていた家です」というと、彼の返事が弾んで「そこが、叔母さんが嫁いだ家です」と答える。私は「村長をしていた治四郎は私の祖父で私は外孫です」と言うと「それではお互いに、親戚ではないか」ということで一気に親しくなった。世の中は狭いもので、私の従兄(いとこ)の「栄さん」をもよく知っており本当に懐かしくなった。
お互いに元気になって必ず復員し、山田村で会おうと約束した。これが大きな励みと勇気づけになった。三、四日の後、国友政夫軍曹はどこかへ転出して行った。復員後聞いたのだが、その時野戦病院に運ばれたとのことであった。幸いに彼も私も元気になり、二年間の抑留生活を別々の所で送ったが、二人とも無事復員でき、約束どおり再び山田村(現在の佐伯町)の康広家で会うことができ、お互いの無事を喜び合った。
◇俘虜(ふりょ)(抑留者)生活
◆パヤジー収容所
昭和二十年十一月初め頃チェジャンジーの山の中の宿営地を後にして列車に乗り、ビルマの中南部地域にある、パヤジー収容所に到着した。
広い原野の中に有刺鉄線に囲まれた大きな収容所があった。数万人の旧日本兵がここに集められ、有刺鉄線の柵の外は自動小銃を持った英印軍兵士が厳重に警戒していた。収容所は竹と椰子の葉で屋根を葺いた小屋が沢山並んでいた。
いよいよ本格的な収容所生活の始まりである。有刺鉄線で囲まれた柵は旧日本兵の逃亡を防止するためと、現地人との接触を防止し警護をしやすくするためだろうが、厳重なものであった。
衛生管理を良くするために深い穴を堀り、便所として蚊や蝿の発生を防止しその捕獲に注意を払っていた。
また、防虫剤や消毒剤のスプレー散布がよく行なわれ、伝染病防止対策がなされていた。これは英印軍の方式によるもので、今までの日本軍では考えられなかったことである。
食料は少なく腹が減って困った。カロリーは十分あるというのだが量が足らない。全体の労働作業の出来ばえにより加減されるのだとか、いろいろ取り沙汰されたが、交渉したので少しだけ増やしてくれた。また配給されたバターやチーズを、ビルマ人が柵の外に持ってくる多量の米と交換し空腹を凌ぐことができた。英印軍の警護兵もこのような物々交換をするのを黙認していた。
日にちがたつにつれ与えてくれる食料は少ないながらも次第に増えてきた。
また、日用品も僅かだが配給された。炊事するための薪に困ったこともあったが、なんとか切り抜けた。服には背中にP・O・W(俘虜)と、大きなスタンプが押してあり、中古ながら清潔な物が支給された。戦争俘虜という烙印(らくいん)を押され、敗戦者という卑屈(ひくつ)な立場に置かれて、毎日労務に引き出されての生活は楽しいものではない。
しかし、食べる物がなく飢え死にしていたペグー山系の中の体の苦痛に比べればましである。労務といっても、病人や留守をする炊事当番などは作業に出なくてよかったのだから、負け戦の最中よりは今の生活の方が体に無理はなく楽だった。作業が相手側のためのもので自分の国のためのものでないことに抵抗を感じ、積極的になれず、言われた作業をすますと、宿舎にさっさと引き上げた。いつも作業が終わる時間が早く来ないかと思うような毎日だった。
パヤジー収容所にいる頃植田大尉が聯隊長として着任され「戦いに敗れたが、日本人としての誇りを持ち、耐えがたきを耐え、統制の取れた組織を保ち、頑張ろう」と挨拶と訓示をされた。
今もその時の様子をはっきりと覚えている。
なお、その頃は土の上に枯葉や枯草を敷き寝ていたが、初めて毛布が一枚ずつ配給され嬉しいと思った。なぜなら、転進作戦の途中から長い間、毛布はなく寒い思いをしていたので。
パヤジーにいる頃のある日、トラックに乗り作業に出た。ついでに、横に寝た姿で大きく有名なペグーの仏像を見た。寝た仏像は珍しいと思ったが、俘虜の身だから降ろしてもらえないので、トラックの上から遠く拝観した。
---戦後ビルマへ二度慰霊団の一員として行った時、再びこれを見て、俘虜当時を思い出し感慨深いものがあった。
◆メイクテイラーでの俘虜生活
パヤジーで二ヵ月を過ごし、二十一年一月に列車に乗りマンダレー鉄道で北に向かいメイクテイラーに到着した。ここは、マンダレーの南西約百五十キロの所で、雨量も少なく、さらりとした気候で暑いけれど住みよい地方だった。大きな湖があり鉄道交通の要衝で飛行場もあった。つい十ヵ月前には彼我の大激戦が展開された地域で、破壊された自動車が山のように一ヵ所に集められていた。町らしい所は見当らなかった。
少し前から、輜重聯隊を今までの一中隊、二中隊、三中隊でなく県単位の兵庫県、岡山県、鳥取県の三つの出身地別に、将校、下士官、兵隊を共に分け直し編成した。これは、今までの軍隊組織、上下階級の意識を多少でも緩和するためであり気分転換を図ったもので、このことはいろんな意味で成功だったと思う。そのようにして、秩序を保ち、節度を守り、抑留生活を過ごした。
我々は民家から離れた広い原野へ到着した。一両日すると大きなシートと、小屋を造るための木材と結束(けっそく)材料、それに竹などの材料その他副材料を沢山トラックで運んできた。比較的大きく丈夫なシート張りの小屋を建てた。今までの椰子の葉と竹だけで造ったものとは規模や頑丈さが違ううえに、衛生的な建物であった。
便所は、ここでも深い穴を堀り上に板を渡した簡単なものであったが、消毒剤が常に散布され蝿や蚊の発生を防ぎ、衛生的にされた。初めの内は小川で水浴をしていたが、後にはドラム缶を据えつけて風呂を造り、湯を沸かし入浴した。石鹸の支給もあり体を清潔に洗い、日常生活も次第に向上してきた。またこの頃になると、体の回復と共に、黄色い土色の爪とは全く異なった奇麗な新しい爪が伸びてきて、くっきり段がついた。四〜五ヵ月経ち全部奇麗な爪に生え替わった。
ここまで元気になると、特別な病気に罹(かか)れば別として、衰弱により命を落とすことはなくなったと自信が持てるようになった。健康になるのは本当に嬉しく、心に明るい希望が持てるようになった。
◆食物
食糧の支給は、英印軍のもので小麦粉が主体でバターやチーズ、それに食油類が多く、羊や魚、野菜の缶詰等であった。カロリー的には足りるのかも知れないが、我々日本人は米が主食だから、食べる量が足りない。それに若い最中だから腹が減る。
我々が収容されているキャンプの柵の外にビルマ人が米を持って来て、これをバター類と物々交換をした。ビルマは米の産地で幾らでもあり、現地人の中には英国製の缶詰や珍しい物を食べたい人もあり結構交換が成立した。ビルマ人の日本人に対する好意もあり、それに見張りのインド兵も黙認の形をとっており、お陰でひもじさを補うことができた。
この頃は炊事をする人が専門に選ばれ、皆の分をまとめてしてくれるので、大いに助かった。その人達が物々交換も一括してくれるようになり、次第に食べることの心配がなくなった。
収容所生活では、重い患者は英印軍の病院に入院し、病人と日常の炊事班、班内当番、その他若干の者等何パーセントかの人を残し、あとの全員が使役に出て行くのである。また、全員休日の日も決められ、無茶な労働が強いられた訳ではなく、俘虜に対する扱いとしては苛酷ではなく、比較的正しく扱われたと思う。我々にしてみると、初めの数ヵ月は一生、労働させられるのではないかとの不安があった。しかし、その後はいろいろの情報から、待っていればいつかは内地に復員できるとの希望が出てきた。でも、その時期については全く分らなかった。
余談になるが英印軍の食料は清潔で運搬しやすいように、殆ど全部が缶詰で供給されていた。
戦争中の我々ビルマ前線の飢餓状況を思う時、食糧補給態勢が全く違い、その差異の大きさに驚くばかりであった。
それから食料品の缶詰等の運搬や、倉庫からの出し入れ作業の時に上手に少し失敬して帰ることもあった。これを見つけて怒るニグロ兵、知らぬ顔をしているインド兵等いろいろである。
我々も一年を過ぎると食物が少なくて飢えているのではなく、運搬中に数をごまかしたり少し盗んだりして、実益とスリルを楽しんでいる節もあった。だが、美味しい物を沢山食べたいのは人情であり、若い俘虜にありがちなことである。
食べることに続いて飲むことだが、キャンプ生活が落ち着き、日にちがたつと、器用な人が酒を作ることを始めた。黒い板砂糖から醸造するらしいのだが、案外簡単にできるようであり、酒の好きな人は喜んで飲んでいた。ただしメチルアルコールで悪酔いする傾向があった。私も一、二回飲んでみたが、まあまあの味だった。早く復員して畳の上で日本酒を飲んでみたいと思った。
◆作業
英国印度軍の指示による労働作業であるから、日本の国や自分達のためのものでなく、すべて相手側のためのものだから、釈然(しゃくぜん)としないものがあった。しかし、俘虜の立場では仕方のないことであった。
作業は、近くのメイクテイラーの駅に行き、貨物の上げ降ろしをする作業が多かった。炎天下でする作業は楽ではなかった。でも昼休みは一時間あるし途中で十分間の休憩時間もあった。
時々メイクテイラー空港に行き輸送機へ荷物を積み降ろしする作業もあった。飛行機に乗るのは初めてで珍しかった。その他穴堀り、草取り、土木作業、重量物運搬等いろいろの作業をした。
遠くへ作業に出る時はトラックが来て我々を運ぶのだが、一度に大勢運べるし、必要なら何台でも来て、作業場へ短時間で連れて行くので誠に能率的に作業に取りかかれた。
ちなみに、私がビルマに来て戦争中の二年間で、輜重隊におりながら、私は一中隊で輓馬隊だが、二中隊も三中隊も自動車隊なのに、トラックに乗せてもらったことは殆どなかった。ただ、通信技術の教育を受けるためタンガップからラングーンの往復に乗せてもらったことがあっただけである。それ程日本軍はトラックの輸送力が貧弱であった。我々はいつもテコテコと日数をかけ疲労困憊して歩くだけであった。
俘虜になり作業に出てみて、彼我の輸送力に何百倍もの違いがあり行動力の桁が全然違うことを痛感させられた。
また、作業のことだが日本人が今までに見たこともない超大型の運搬車を持ってきて必要な特殊運搬をするので、全く比較にならない能率である。それに、土木作業には大型、中型、小型のブルトーザーを持ってきた。人間五十人分にも相当する作業を一気に片づけるのだから全く驚異である。新しい道路を建設するぐらいのことは造作がないのである。
日本兵が百人がかりで十日かかる仕事を、二、三日で完成してしまうのである。我々日本軍がスコップとつ・る・は・し・で、汗を流し流しするのと雲泥の相違である。作業能率が二桁以上違う。こんな相手と戦争をしたのだから勝てるはずがない。相手を知り驚くばかりである。
ともあれ、このような大型機械の間で人の手で出来る部分を割り当てられ作業をした。
作業はいろいろあり、便所の穴堀りから、時には英人将校の日常生活、掃除の手助けを割り当てられることもあった。当たり前だと割り切ればそれまでだが複雑な心境であった。
変わったところでは、私を含めて三人が本隊より離れて泊まり込みで、英印軍の馬二十頭余りの飼育管理の手伝いに十日程行ったことがある。私は通訳をするうちに、二人のロンドン生まれの兵隊と仲良しになり、だんだん会話がよく通じるようになった。
◆たばこについての思い出
たばこについて少し記録しておくと、戦いの最初の内は内地の「誉(ほまれ)」とか「ゴールデンバット」等を配給でもらったり、買って吸っていたが、それが無くなると、現地たばこ(セレー)を買って吸った。前にも述べたが、人差し指ぐらいの大きさにたばこの葉を巻き、中に鋸屑(のこくず)のような物が入っており、比較的辛くないものをよく吸ったものだ。その他にと・う・も・ろ・こ・し・の鞘(さや)にたばこの葉と鋸屑状のものを巻いた太い物、たばこの葉のみをぎっしり巻いた辛口の物等があった。セレーは中の屑がポロポロとこぼれて落ちるので、衣服に火の粉が落ちて焼ける恐れがあり、用心して吸わなければならなかった。
日本軍が優勢な時は軍票で買うことができた。しかし戦況が悪くなり負けてくると軍票の価値がなくなり、買うことができなくなった。それに、山の中を逃げるばかりだから、たばこも欠乏し無くなってしまった。
その後、糧秣収集の時、煙草の葉を失敬してくる。たばこを吸う兵士にとっては米・塩につぐ必需品で大切なものであった。また、運よくどこかでたばこ畑を見れば青い葉をもぎとり携行したこともあった。私自身たばこが好きだったので、これを得るために非常に苦労した。死にそうになる程苦しくても、たばこは欲しくて、止められなかった。でも、転進中の山の中でたばこがなければ、仕方がないことだった。終戦で俘虜となり収容所の有刺鉄線の柵の中に入れられてからは、どうにもならず困り果てた。
その頃から英印軍の命令する作業に出ることになった。「窮(きゅう)すれば通(つう)ず」という言葉があるが、作業場に行くと英印軍兵士の捨てたたばこの吸い殻があり、それを拾って持ち帰り、薄手の紙に巻いてたばこを作るのである。初めの内はやはり日本軍人の誇りがあり、こっそりと拾っていた。乞食でもあるまいしと、自尊心に悩んだ。しかし棒の先に針を着け突き刺すと、かがまなくても楽に拾え、しかも拾っているのを人に気づかれないですむので、情けないことだと思いつつもそんなことをした。「モクヒロイ」と呼んで、かなり長い間みんながやっていた。
俘虜となって、半年ぐらいたった頃から、英国のたばこ「ネビーキャツト」を十日に一箱位配給してくれるようになった。また、作業が個人的なものだったりすると英国の将校が一箱くれる場合もあった。また作業中に盗んだ缶詰や、配給になったバターやチーズをビルマたばこのセレーと交換したりした。そんなことをしてまでたばこを吸った。いずれにしても、戦争中及び抑留中たばこを吸うために、大変な苦労と犠牲、そして恥をかきながら過ごしたのである。
◆キヤンプ内の娯楽等
メイクテイラーへ来た頃から、みんな顔色もよくなり、頭の髪やあごの髭(ひげ)も奇麗に剃り清潔になり元通りとは言えないまでも、元気になり規則正しくリズムある生活ができるようになった。若い者同志であり、体が弱っている間は誰も黙っていたが、健康が回復するに従って、お色気話や女性の話が出るようになった。
心の中では、いつ帰れるか分からない不安が常にあったが、それはそれとして明るさを取り戻してきた。厚紙を切って碁盤(ごばん)と碁石を作り囲碁を楽しむ者、将棋をする者、マージャンも竹細工で牌(ぱい)を作り遊んでいた。器用な人がいて、飛行機の残骸のアルミ板を切りギターを作る人、それを奏(かな)でる人、習う人、詩や歌を作る人、英会話を勉強する人、戦記や名簿等を整える人、いろいろの趣味で憂(う)さを払い、希望を持ち、人間としての存在を確かめつつ、内地に帰る日を待ちわびた。
毎日全員で朝礼と体操をした。この頃は元の中隊編成でなく県別の編成に切り替わっていたが、階級制度に準じて組織を守りお互いに秩序ある生活をした。
「烏合の衆(うごうのしゅう)」でなく整然とした体制を整えており、これといったトラブルも殆どなかったのは日本軍人の素晴らしいところである。
私も身体が元気になり、英会話を習ったり、バレーボールなどをして楽しんだ。メイクテイラーは雨が少なく生活しやすい環境で、お陰で病気になる人も少なく助かった。作業に出る以外はこれといった仕事もないのだから、のんきといえばのんきな生活であった。
それに、演芸会を見る楽しみができてきた。初めは、誰かが皆の前で歌を歌って聞かせる程度のものだったが、それが好評で次第に規模内容共に充実し、素人ながら役者になる人は労務に出ないで芝居の練習をし、衣装や楽器等も作り劇団を編成した。娯楽のない俘虜生活の中で皆に歓迎された。
皆も作業に出たとき、布切れやペンキを持ち帰り衣装を縫う人に協力した。兵隊の中には器用な人やいろいろの職業の人がいるので、何でもできた。裏方さんが何人もおりカツラでも見事な物を造るし、どこからか白粉(おしろい)を持ち帰り顔に化粧をし、女形の美人に仕上げた。
舞台も兵隊の大工さんがしっかりした物をこしらえ、照明装置も作業に出た時、部品をもらってきて配線した。夜間照明の下では本当の女性かと思われる程に変装し立派な役者が出来上がった。
さらにギターやマンドリン、尺八に太鼓等も手製で作り華やかに演奏した。すべて本式である。こうして、一ヵ月に一、二回芝居が興業された。その度に、ヤンヤ ヤンヤの拍手で皆の楽しみになった。男性ばかりの収容所生活ではこのような女形が大変もて、中にはこの女形に惚(ほ)れる人も出てくる有様だった。
◆ビルマ人の好意
戦争の当初、日本軍がビルマ全域から英国軍を駆逐し、我が軍の勢力下に収めた頃はビルマ人が歓迎し好意を示したのは当然であり、その後平穏な頃も引き続いて良好な関係が続いていた。 しかし、昭和十九年の後半から日本軍が劣勢になってくると、軍票の値打ちも下がり遂にただの紙切れになり、これで物を買う訳にいかなくなった。二十年に入ると我々はいよいよ戦闘態勢に入り、山の中で生活し現地人との友好的接触も無くなり、軍票を使用するような機会も閉ざされた。
食べる物が欠乏し、もらったり、拾ったり、失敬したりしなければ生きて行けなくなり、この頃からビルマ人に迷惑をかけることとなった。こうなるとビルマ人の中の一部の人や、被害を被った地域によっては、日本軍に対して反感を持つ者も出てきた。しかも日本軍が敗れ武装解除され、俘虜収容所に入れられてしまえば全く知らぬ顔でよいのだ。
しかし、そこがビルマ人、仏教国で仏心があるというのか、あるいは同じ黄色人種の親しさからか、あるいは一時にしろ英国を排除した力を尊敬したのか、大多数のビルマ人はいつまでも我々に親切にしてくれた。収容所の回りに張りめぐらしてある有刺鉄線の外に来て物々交換をしてくれたことが、日本兵にとっては大いに助かった。英軍から配給になったチーズやバターなどを沢山の米と替えることができたのは有難かった。
また我々が英軍のトラックに乗せられて、作業のために少し遠い所に出て行った時など、印度兵が運転しているが、休むために部落の中に止まるとビルマ人がすぐに差し入れに来てくれるのだ。
日本兵が俘虜生活で可哀相だと思い、ビルマたばこのセレーを沢山持って来てくれ、バナナやマンゴをくれるのだ。握り飯まで作ってくれることもある。
負け戦の最中には大きな迷惑をかけているのに、すまないと感謝した。印度兵が自動小銃で警備していても、それにかまわず俘虜の我々に与えてくれるのだ。この温かいビルマ人の心を忘れることはできない。私は感激し今も忘れられない思い出である。
このように現地人から恩を受けている私達は、できることがあれば報いたい気持ちで、心よりビルマ人の幸福を願うものである。

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