一兵士の戦争体験 ビルマ戦線 生死の境

著者小田敦巳

戦没者に捧げる 鎮魂の誠
若人に伝えたい あの日 あの時
平和を守ろう 幸せを願い

二十歳代の若者が 祖国を守り繁栄を願い 雄々しく散っていった
半世紀過ぎた今も 灼熱の太陽と風雨に曝され 戦友の白骨は眠る
この手記を通じて わが国を愛する心と 平和の有難さを伝えたい

目 次
一 青春の分岐点
◇召集令状
◆電報
◆勤務先へ報告
◆赤紙到着
◇送別会と決別
◆学生時代の友と語る
◆静かな夜に思う
◆会社での壮行会
◆別れ
◆内田君と学友達のその後
◆東京よ さようなら
◇故郷の温かさ
◆河本さんの経験談
◆村役場や近所回り
◆水入らず親子四人
◆氏神様に参拝
二 軍隊教育
◇入営
◆入隊当日
◆内務班での取り決め
◆点呼
◇軍隊生活と教育訓練
◆起床
◆厩動作
◆兵器受領
◆訓練
◆入浴その他日課
◆厩当番
◆飯上げ当番
◆多忙と要領
◆鍛錬
◆輜重兵としての訓練
◆余分な訓練
◆教官の手伝い
◆橘教官のこと
三 野戦部隊の出征
◇野戦部隊の編成
◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊
◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属
◇外泊と肉親
◆惜別の情
◆最後の日
◇青野ヵ原出発
◆瀬澤小隊長の出発号令
◆見送る人、見送られる人
◇宇品港出港
◆積込み作業
◆乗船
◇輸送船内の様子
◆寿司詰
◆船内の生活
◇ビルマへの道のり
◆高雄へ上陸
◆サイゴンへ上陸
◆シンガポール(当時は昭南島)へ上陸
四 ビルマでの軍務と移動
◇ビルマに進駐
◆ラングーン港で荷揚げ
◆ピュンタザの町に移る
◆当時のビルマについて
◇移動は続く
◆モダン村お寺の境内
◆歩哨に立つ
◇レミナの町
◆中隊本部通信班へ所属
◇アラカンの虎
◆虎を捕る仕掛け
◆虎による被害
◆虎の恐怖
◇マラリヤの始まり
◆谷田君の場合
◆第二小隊十二班に帰る
◇輜重本来の輸送業務解除
◆馬や輜重車両全部を他部隊に渡す
◆プローム方面に向う
◆シュエーダン お寺の屋敷に駐屯
◆内地からの便り
五 ビルマ西部海岸警備
◇第一アラカン山脈を目指す
◆イラワジ河を西に渡る
◆第一アラカン山脈を越え
◇タンガップ地区の警備
◆ヤンコ川沿いと山中の生活
◆弾薬倉庫等の警備
◇無線通信教育隊に
◆首都ラングーンへ
◆辺境タンガップとラングーン市内の比較
◆西谷上等兵の病
◇原隊復帰
◆再びタンガップの山中へ
◆久保田上等兵の最期
◆屍の処理
◇悪性マラリヤで死の淵に
◆発熱
◆高熱が続く
◆救いの神
六 戦況不利
◇戦況の推移
◆敵機頻繁に来襲
◆ドイツが負けたというビラ
◆タマンド地区の警備と敵の襲撃
◆橋本上等兵と語る
◆アン河渡河地点の状況
◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
◆懐かしい人に出会う
◆悪性マラリヤまん延
◆内地の短波放送
七 転進作戦
◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
◆敵陣地を攻撃 戸部班長、藤川上等兵戦死
◆悲喜こもごも、大変な一日
◆平田上等兵、萱谷上等兵落伍
◆米の確保
◆またも空襲
◆瀬澤小隊長の戦死
◇イラワジの大河を渡る
◆最後の渡し船
◆渡河後
◆雨期のはしり
◆ポウカン平野を東へ転進
◇プローム街道を突破
◆感激の横断
◆橋本上等兵との別れ
◆遺家族に思いを寄せて
◆編上靴は破れ服も傷む
◆担架搬送と耳鳴り
◆浜田分隊長倒れる
◆命を繋ぐために
◆牛を食うて
◆歌に託す 林伍長
◆戦車の攻撃
八 雨、飢餓、屍
◇ペグー山系の悲劇
◆屍から装具を失敬
◆米を確保し、最後尾で山系に入る
◆盗まれた米
◆筍で命を繋ぐ
◆次々と落伍してゆく
◆命がけの糧秣収集
◆女性哀れ
◆迫撃砲弾炸裂
◆ペグー山系を引き返す転進命令
◆ピュー河を渡る
◇屍が道標
◆白骨街道を行く
◆私の体調
◆雨中の宿営
◆命を支えた二合の米
◆落伍しながらもたどり着く
九 敵中突破
◇マンダレー街道と鉄道突破
◆闇夜の中を
◆重機関銃を収容に行くが
◆玉古班長との別れ
◆血に染まったシッタン平野
◇シッタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
◆シッタン河の悲劇
◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
◆輜重隊の活躍
◆生と死の境
◆戦友友田上等兵を残して
◆旧友との再会
◆うわさ
◆さまざまな戦い
十 終戦と抑留生活
◇終戦
◆終戦の知らせ届く
◆体の回復を待つ
◆水浴
◆シラミ退治
◆蚊とマラリヤ
◆山間へ移動収容
◇草むす屍
◆金井塚輜重聯隊本部付少佐 元第一中隊長を葬る
◆幻想
◆奇遇だ 勇気を出そう
◇俘虜(抑留者)生活
◆パヤジー収容所
◆メイクテイラーでの俘虜生活
◆食物
◆作業
◆たばこについての思い出
◆キャンプ内の娯楽等
◆ビルマ人の好意
十一 復員への道
◇ビルマを後に
◆メイクテイラーを出発
◆辞世の句
◆復員
十二 遥かなるビルマを偲んで
◇慰霊と戦友会
◇ビルマ人との交流 思いつくまま
◇ビルマ戦跡慰霊巡拝の旅
◆慰霊行事
◆旅と雑感
◇慰霊のことば(奉読)

一 青春の分岐点
◇召集令状
◆電報
電車が京浜線田町駅に止まり自動扉が開いた。私は反射的に読んでいた夕刊を折って上着のポケットに入れ、ホームに降りた。もう一年一ヵ月もこの駅で乗り降りしている。いつものように改札口を出て明治製菓の前を通り、箏曲の家元である女優高峰三枝子さんの邸宅の横の道を通り抜け、下宿屋宮木館へ帰った。今日は会社で残業をしたので、帰ったのは八時過ぎだった。
玄関を開けた瞬間、女中のおなみさんが出てきて、「小田さん電報よ。今少し前に受け取ったのよ」と言って差し出した。電報!デンポウ、私はもしかと胸が高鳴った。早速開けて見ると、「コウヨウ キタ 十五ヒ ハイル アトフミ」(公用 来た 十五日入る 後 文)ついに来るものが来たと一瞬思った。召集令状が家に来たことを、父が、東京に住んでいる私に、急いで電報で知らせてくれたのである。二月十五日に入隊せよとの召集令状は、速達で後から送るという意味である。
満二十一歳の誕生日を二月四日に迎えた翌々日、昭和十八年二月六日のことであった。この時勢に、兵隊に入れないのは病弱か、体のどこかに欠陥があるか何かで、使いものにならない男だと一般に言われるような時代であった。だから、私は誇らしいような気がする。しかし、その反面、重くのしかかる現実が待ち受けていることを感じ、その心境は微妙で、表向きは入営したい気持ちであるが、内面は行かずにすむなら行きたくないという気持ちがどこかにあった。
早速、内田富士雄君に電話した。彼とは学生時代からの親友で、学生の頃は同じ下宿の同じ部屋に泊まり共に学び共に遊んだ仲だった。社会に出てから現在彼は浦和の自宅から東京へ通勤していた。私がその時住んでいた宮木館も、区役所に勤めておられる彼のお父さんが見付けて下さったという程の親しい間柄であった。従って、何か事があると気心のよく通じる彼に相談していた。電話をかけた私の言葉はうわずっており、自分の言っていることがよく聞き取れないのではないかと思った。しかし、彼はすぐ「おめでとう、大いに張り切ってやれよ」と言い、「明日夕方勤めの帰りに寄るよ、元気をだして待っておれ」と励ましてくれた。
黒沢茂治君にも電話した。彼も同じく学生時代からの親しい友達で東京へ勤めるようになってからも、よく電話したり、お互いの下宿へ行ったり来たりし、勤務の状況、将来のこと、戦況などを語り合う仲であった。彼は「僕より君のほうが早かったね。一歩遅れてしもうた」などと冗談を言い、「元気でやれよ、送別会を同志でやろうぜ」と勇気づけてくれた。電話のある廊下から自分の部屋に戻ったが、今は何をしてよいのか分からない。
そのうち、女中が夕食を運んで来てくれた。下宿で、しかも食物も配給制で乏しい時節であったが、特に今日はお頭付(かしらつ)きの小さな赤鯛が別に一皿付けてあった。しかし、気持ちが高ぶっており、いつもとは味が違いザラザラとして喉を通りにくい。お汁で流し込むようにして食べた。
やがて、女中のおなみさんとさつきさんが、二人揃ってお膳を下げに来て、「おめでとう」と言って慰めてくれたり、元気づけたりしてくれた。
うつろな下宿の部屋の中は余計にうつろで、何をしてよいか分からない。考えるでもなく考えないでもなく、立ち、また座り、机の上にふんぞりかえってもみた。
町へ出て、慶応大学前の電車通りをしばらく歩いた。もう人通りも少なくなっていた。その内、急に甘いお菓子が食べたくなったので、小さな喫茶店に入りコーヒーとケーキを注文した。軍隊に入ればこのように落ち着いて静かな時を楽しむこともできないだろうと、しばし瞑想にふけった。外に出ると霧が出ていて街灯が乳色ににじんでいた。この景色をいつまた見ることになるだろうかと、感傷的になった。俺は行くのだ兵隊にと、手を握りしめた。
宮木館に帰り、再び机の上の電報を見直した。「醜(しこ)の御盾(みたて)となるのだ」と、力強く一人で言ってみた。
しばらくして階段を上がって来る足音がして、私の部屋の前で止まった。その足音で誰であるかすぐに分かった。この下宿屋の主人である。外から「小田さん」と声がかかる。「どうぞ」と言うと、戸を開けて主人が入って来た。平素からこまめによく働く人でなかなか愛想もよく、小柄だがすっきりとした感じのよい方である。
主人はいつもとは少し改まって「お邪魔します」と言ってきちんと正座し、「小田さん、この度は召集令状が参ったそうで、誠におめでとうございます。今時の人は、兵隊に行かないようではつまらんです。どうせ行くなら早い方がよいですよ。私なんかどうも」と言い、その後「小田さんなんか学校を出ておられるんだから、すぐに幹部候補生で見習士官になるんだ。しっかりやって下さい。いや日本は勝ちますよ、きっと。今日もニュースで米国の航空母艦一艘と駆逐艦二艘やっつけていましたよ」と勇気づけてくれた。
私も、戦争は次第に苛烈の度を増していて、ここで我が国民みんなが頑張らねばいけないのだと強く思っていたので、「入隊したら元気でやりますよ」と言った。そうは言ったものの、軍隊生活は並々ならぬものがあると聞いていたから、これから先の不安が私の心の大半を占めていた。
「それで、お勤めの会社の方は?」と主人は尋ねた。私は、「今までの人がみんな応召(おうしょう)中は給料がもらえているので、もらえるはずですが、明日会社に行ってみないとはっきりしたことは分かりません」と答えた。
「郷里は岡山でしたね、いつこちらをたたれますか?」さすが主人、私の郷里も覚えているし、下宿代の関係、配給米のこともあり、細々(こまごま)と尋ねた。私はまだぼんやりしたままで、そんなことを決めるまで頭の中が回っていなかった。
「そうですね、まだはっきりしないのですが、四、五日先になると思います。会社関係の仕事の整理、いろいろの手続きやゴタゴタとした片付けもありますし、送別会もあるでしょうから…・」と話しているうちに、しておかなければならないことが頭に浮かんでくるようになった。
主人は要点を話し終えると、「どうかゆっくりお休み下さい」と丁寧に挨拶をして出ていった。
もう十一時を過ぎていたので寝床に就いた。
私は徴兵検査(ちょうへいけんさ)の結果第二乙で輜重兵(しちょうへい)と決まっていた。軍隊に入るランクは体格により甲種・第一乙・第二乙の順である。当時甲種と第一乙は現役として四月に入隊し、第二乙は現役ではなくそのうち召集されるのである。
輜重兵は弾薬や食料や戦争に必要な物資を輸送運搬する兵科で、馬によるのと、自動車によるのと二種類あると聞いていた。馬によるのは輓馬(ばんば)と言って荷物を載せた車を馬に輓(ひ)かせるのと、駄馬(だば)と言って車の行かない細い山道を馬の背中に荷物を載せて運ぶやり方とがある。馬を扱うより自動車の方がよいと思い、暇をみてはこの一月から自動車教習所へ通い始めていたが、まだ三、四回しか行っていなかった。こんなに早く召集令状が来るのであれば、もっと早くから習っておけばよかったと思ったが、後の祭りであった。姫路の輜重(しちょう)聯隊(れんたい)に入るのだろうが、手紙が来なければ、はっきりしたことは分からない。それに馬の方になるか自動車の方になるかは入隊してからでないと分からないことで、二月十五日の入隊の日を待つだけである。
ここで参考までに、同じ専攻学科の同級生三十三名のことを言うと、大多数の者は昭和十六年十二月初めには、既に満年令で兵役適齢である二十歳になっていたので、十二月下旬の繰り上げ卒業直前の在学中に学校で一括して徴兵検査を受け、十七年二月には既に大部分の人は入隊しており、一年が経過して、ぼつぼつ見習士官になり始めていた。
しかし私や内田君、黒沢君、中村君達三、四名の者は、俗にいう七つ上りで、その時まだ兵役適齢に達していなかったので、検査もなく、卒業と同時に東京辺りの官公庁や会社に普通に就職し、約一年一ヵ月を経過していた。その間の昭和十七年八月頃私達はそれぞれの本籍地で一般の徴兵検査を受け、現役入隊をするか、またはいつ来るか分からない召集を覚悟していた頃であった。
そんな時、私に、現役兵より二ヵ月も早く召集令状が来たので驚いたのだ。後日聞けば、内田君、黒沢君はその後四月に現役兵として入隊し、中村君は一年以上も後に召集令状が来たということであった。
私達は一般の徴兵検査だったために適材適所等でなく適宜(てきぎ)の兵科に分類された。私は背が低い方なので、輜重兵へ分類されたのだろうと思われる。
◆勤務先へ報告
一夜が明けた。よく眠り、すっきりとした寝覚めだ。時計は六時三十分を指していた。洗面し髪を奇麗にとくと、冷たい空気が身を引き締め清めてくれる。今日は会社へ早めに行って、召集令状の来たことを告げなければならない。
おなみさんが朝飯を持って来てくれた。「よく眠れた?」と聞く。「うん、よく眠れたよ」とにっこり返事をすると、「それはよかったわ。あと幾日もここへ泊まれないのね」と少し寂しげな声で言った。私は「うん」と答えたが、時折冗談を言っていたおなみちゃんが真剣に心配してくれるのが有難く、別れは良いものではないと思った。
通勤電車の窓から眺める外の景色に変わりはないが、私には大きな変化が起きており、人生航路の大きな節目を迎えていたのだった。人の力では、もうどうすることもできない大きな流れ、この大きな流れに逆らうことは絶対にできない。この流れは幸福の里に着くのか、不幸の淵に落ちていくのか、神様のほか知る由もないことである。
会社に着き、所属の課に行くと先輩の上甲(じょうこう)さんと湯浅さんが来ていた。朝の挨拶をするのももどかしく、召集令状のことを話した。
上甲さんは「とうとう来たか!」その言葉には、来るものは何をもってしても阻止できない。男で、元気であれば、召集令状がいつかは来る。皆来るべき運命が次々に訪れる。上甲さん自身にもやがてやって来るであろう。覚悟をしておかなければならないと、自分に言い聞かせているようでもあった。そして、自分より四〜五歳下の小田君に先に来るとはどんなことか?という意味も含まれていた。
私より二歳上の湯浅さんは、「それはおめでとう。いつ入るのですか?」と聞いた。しかし、この言葉の中にもだんだんと身近に迫る現実に言い知れぬ重圧を感じているようであった。
しばらくして、丹羽・森田・七田などの先輩が出勤して来た。ひとしきりその話になった。
「小田君なんか若いのだから、今のうち一回軍隊に行ってきておいたほうがよいかもしれんぞ。二年程行ってくれば、その間は軍隊で養ってもらえるし、その気になれば給料が残り貯金がたまるから・・・・」
「これからは、偉い人になるには兵隊に行って将校になって帰っていないといけないから・・・・」まさしく、そのとおり軍国主義の世の中、将校のみが、いや軍隊の階級序列が、この一般の社会的権力構造までも支配するような時代がくることが予想されるから。
斉藤係長が八十キロを越す大きな体を運んで出勤してくる。丸い顔、大きな声で、いつもと同じように「お早よう」と言って入ってきた。航空無線機製作について重要な人物で、立川航空機製作所等へもよく打ち合わせに行っていた。今日は丁度こちらに顔を出されたのである。私は早速召集のことを告げ、現在取りかかっている仕事が完成近いのに中途で止めることになり、大変迷惑をおかけする旨を話した。
斉藤係長は「そうか」と言って黙っておられたが、しばらくしてから「何にしてもおめでたいことだ。仕事のことは何とかするから、心配せずに行ってくれ給え。二年以上技手(ぎて)という資格でこの会社にいれば、召集免除にすることもできるのだが、そんな訳にもいかないし・・・・」と言われた。
私はその頃、斉藤係長の指示により、陸軍の飛行機に乗せる無線機の一種類の開発を担当し、その試作機を作っていた。納期も迫っており、本当に困るが、軍は何を考えているのだろうか?とも彼は思ったようである。更に斉藤係長は「どうせ一年か二年すれば帰れるんだし、若いうちに軍隊生活をして、見習士官に早くなっておくほうがよいよ。会社の方はそのまま引き継いでいるのだし、帰ればすぐに出てもらえばよいのだから、そのほうは心配いらないから」と、有難い言葉である。「まだ日にちもあるし、事務所の方で手続きをしてもらいなさい。できるだけのことはするから」と親切に言って下さった。
そのうち、現場の工員の人達にも私のことが知れ、作業が始まってからも、そのことが持ち場で話題になっていたようであった。
事務所に行き西崎さんに話すと、「それはご苦労さんだね、こちらの方はよい具合にしておくからね」と半白の髪を少し下げて「それで、いつ東京を発つの?」といろいろ段取りを心配して下さった。
川添課長は私が入社以来特別に面倒を見て下さった方であり、また大変可愛がって頂いた上司である。小柄であるがなかなか元気がよく、大きな声でものを言う課長であった。叱ることもきっちり叱る性質で、信念のある努力家、社内で技術面の第一人者と言われ大変重要な地位にある方であった。
平素から私はこの方を人生の師とし尊敬する人だと思っていた。課長の在否を確かめ課長室に入った。課長は原書を読んでおられたが、眼鏡越しになんだろうという顔つきで私の方を見られた。
一礼して「召集令状が参りました。二月十五日に入隊することになりました」と言った。課長は「若い者には次々に来るな。これも御国のためじゃ、仕方がないわい」とつぶやくように言われたが、それは時の流れ、今の時勢を強く感じておられる声であった。しかし、それはまた、兵器特に高級な無線兵器の開発と生産に直接携(たずさ)わっている技師を一兵卒として召集しなくとも、軍はもっと人の配置を考えてはどうかという気持と、会社の人が次第に減っていくが、会社の経営を今後どのようにすべきかについて憂慮されている様子がうかがわれた。当時は誰も口には出せないが、会社の人材を召集で取られることは、会社にとり損失は大きいものがあった。
私は「課長さん、入社以来一年一ヵ月大変お世話になりました。完成前の仕事があるのに、これを置いて行かなければならないので残念ですが、お許し下さい」と頭を下げた。課長は「いいよ君、そんなこと心配しなくていいよ。まあ元気を出してやり給え」と励まして下さった。
試作係の部屋に帰り、先輩の人達との間で仕事をしながら、いろいろな話をした。「教育召集なら三ヵ月ぐらいで帰れるぜ」「いや、そんなことはない。どんどん教育して若い兵隊を外地へ出しているんだ」と。
「何としても甲種幹部候補生を取るまでは頑張れよ、甲幹さえ取っておけば楽だから」
皆が話をしている間に、私自身はひそかに、今まで順調にここまできたのだから、一度ぐらい兵隊になり苦労を味わってから将校になり、会社に帰れば、いろいろの経験もでき、物分かりのよい温かい人になれるのではないかなどと思ってみたりもした。
その後試作台の所に行き、長く携わってきた航空無線機の試作機を撫でてみた。完成間近で実地試験までは何としてもやりたいと思っていた。機械はものを言わない。それだけに去り難い愛着が沸くのだった。
この無線機が陸軍の飛行機にセットされ性能を発揮できれば、私が一兵士として働くよりもっと役立つはずなのだが。しかし、現実は現実だ。愛情を込めて奇麗にし、工具なども整理した。誰が後を引き継いでくれるのか知れないが、余裕の人はすぐにはいないようだ・・・・。事務机の方も、『立つ鳥跡を濁さず』で整然と片付けた。
送別会を、明晩新宿の「壽楽(じゅらく)」という料亭で関係の深い社員でして下さることに決まった。もう日の丸の旗が用意され寄・せ・書・き・が始まった。「祝小田敦巳君入営」と大きく書かれている。今まで何回も寄・せ・書・き・をしたことはあるが、今度は自分の番だ。社長の次に川添課長の名が書かれ、次々と書かれた。頑張れ! 振れ! 振れ! 少尉を目指せと。こうして私の健闘を真心込めて見守って下さる方々が大勢いると思うと感謝の気持で一杯となった。
そのうち女子事務員、女子工員達も訪ねて来て「小田さんがいなくなると寂しくなるわ」「早く帰ってね」「元気を出して行ってね」と励ましてくれた。女性の言葉にはそれなりに優しく温かい感情がこもり、胸迫る思いがした。
帰る直前に事務の西崎さんから「明日午後三時、会社全員でお送りすることになり、他にも出征する人があるから一緒に挨拶をしてもらうことになった」との知らせ。「そうですか、そんなにして頂かなくてもよいのに」と言ってみたものの、全員千名の前で挨拶をするのは大変だ。とにかく挨拶を考えておかなければならないと思った。
---五十年余り前に、真心込めて送って下さった皆様、今いかがお過ごしでしょうか? こうして書いていると当時のお顔が思い浮かびます。大変お世話になったことを改めて厚く感謝申し上げます。私が無事ビルマから生還できて今日あるのも、皆様のお励ましのお陰があったればこそと思っています。皆様には東京に住み、東京で勤め、空襲を受けて家を焼かれ、会社を潰(つぶ)され、大変な時代を過ごされたことと思います。今更ながら、心から幸せをお祈り申しあげます。この書き物を残すことで長い間の御無礼のせめてもの償いにさせて頂きたく存じます。有難うございました。
◆赤紙到着
下宿に帰ると速達が来ていた。赤い紙の召集令状が入っていた。父の手紙も添えてあり、もう驚くことはなかった。
当時、この召集令状より強い力を持つものはなかった。赤紙こそ絶対の力を持った命令書で、これに背くことはできなかった。これには、入隊日は昭和十八年二月十五日午前九時、場所は姫路の城北練兵場で輜重兵第五十四聯隊衛門前、番号九十三と記載されていた。
間もなく内田君、黒沢君、中村君が次々にやってきた。みんな勤めをすますと直ぐに訪ねてくれたのだが、一刻も早く私の顔を見たかったと言う。
「小田君、いやに早くお召があったじゃあないか」と内田君が言った。
「こんなに早かっちやあ俺達の方が後になってしまったわい。俺達が新兵で小田が古年兵で、絞られることになるわい」と黒沢君が空気を和らげた。
「小田にこんなに早く来るのなら、俺もいつ来るか分からんわい。早くよいことして遊んでおかなきゃあ」と中村君が続けた。
「小田よ、召集されると内地におれないぞ、少し教育を受けたら外地に行かされるかもしれんぞ。覚悟しとかなくちゃあ」と誰かが言った。
「やはり、内地の方がいいなあ」と私は答えた。
「赤紙とやら見せてみい」
「これだ」と言って出すと
「フーンこれか。強いもんだなあ。これ一枚で、人間なんて、どうにでもなるんだからなあ。ところで、輜重兵第五十四聯隊第一中隊か。俺達の同級生は在学中に学校で検査を受けたが、一般で普通の徴兵検査を受けると、こんなことになるのか」
「小田よ、自動車を習っているそうだが上手になったかい?」
「三田の自動車教習所へ、まだ三回ぐらいしか行っていないんだ。こんなに早く召集がくるのならもっと早く始め、免状を取っておけばよかった」
「まあ、しょうがないさ、馬と自動車があるが、馬ではないだろうね」
「そうならいいがね」
◇送別会と決別
◆学生時代の友と語る
続いて「小田よ、いよいよ召集令状が来てみればどんな気がするか?」と誰かが尋ねた。
「どんな気がするかって。うん、来ない方がよいことはよいが、いつ来るかいつ来るかと思って落ち着かないよりは、来た方がさっぱりするよ。今だってどうせ自分の家にいないのだから、ここにおるのも兵隊におるのも余り違わないような気がする。その点、今まで家にずっといた人や、妻子がある人は違うだろうよ。でも甲種幹部候補生だけは早く通りたいなあ」と私が答えた。
「幹候(かんこう)は、学校の教練は少しぐらい悪くても、問題ないらしいよ。入ってから要領よくやればいいんだから」とよいことを誰かが教えてくれた。
「それはそうと、軍隊では早く飯を食う練習をしておかなくちゃいけないぞ。兵隊か・た・は早寝、早飯、早糞。何でも素早く動作することが一番だ。小田、大丈夫かい」
続いて、話は戦況に移った。「しかし、なかなか大きな戦争だからなあ。日本も強いことは強いがねえ。何と言っても海軍力が大したものだから。それに大和魂(やまとだましい)は強いよ」と中村君は言いながら自分で慰めているようでもあった。「勝つ」とすっきり言えるには、誰も程遠い感じであった。
黒沢君は「 『九軍神(ぐんしん)だ、散れよ若木の桜花』と言うが、どうも、僕には宣伝のような気がする。 先日も敵の航空母艦と駆逐艦二艘を轟沈した、わが方の被害軽微、とラジオが言っているが、どうもおかしい」と言った。他の三人は、黒沢君のこの言葉に即座に反応できなかった。
---いずれにせよ、戦争はお伽話(とぎばなし)や絵巻で見るような華やかで派手なものではなく、決して美しいものでもない。無残で血みどろの苦しいもので、泥沼であり地獄であり、殺し合いであり、死である。その時は分らなかったが、戦争を自分が経験してみて初めてそれが分かった。しかも、戦後何年もたってから、黒沢君の勘が当たっていたことが分った。その時はみんな盲目だったのだ。
遠慮なしに言いたい放題のうちに、夜も更けてきたので仕方なくみんな引き揚げていった。
◆静かな夜に思う
みんなが帰って後、父からの手紙をもう一度読み直してみた。「これこそ男子の本懐。そちらを整然と片付け、早く岡山へ帰って来い。今回はこの村からはお前一人だ。岡山の学校の寮にいる妹にも知らせておいた。母も元気でお前の帰りを待っている」と記してあった。
当時、我が身を国へ捧げるのは当り前のことであり、召集が嫌などと言ったものなら、すぐに憲兵(けんぺい)に引っ張られて行く時勢であった。憲兵というのは軍隊内の警察で、軍隊外の一般市民に対しても絶対的な権力があり、当時としては恐ろしい力を持っていた。しかし、我が子が召されていくのが本当に嬉しいのか、誇りになったのか、親としての心境は言い尽くせないものがあったであろう。
私は、何を考えているのだろうか。ただ茫然としていると、両親と妹の顔が浮かんできた。それは緊張した顔で引きつり、沈黙を通していた。やがて母が「早く帰っておいで、今度はえらい目をしなければならないのだから、母のもとでゆっくり休んで行きなさい」と言ったように思えた。
気がつくと外は霰(あられ)が降っていて、風と共に窓ガラスに吹きつけている。カーテンのない窓は冷たく、カタコトと震えている。
明日は会社全体で見送ってくれるということだが、千人もの前で挨拶をしなくてはならないのだ。恥をかかないようにしておかなければならないと思い、うろ覚えの、この前出征した人の挨拶を参考にして、文句を考え一応まとまったので寝床にもぐった。
◆会社での壮行会
一眠りすると、二月八日で、電報を受け取ってから三日目の朝になっていた。雲の多い日である。朝食をすませ、繰り返し挨拶を言ってみた。
「この度は名誉ある応召(おうしょう)を受け、いよいよ軍務に服すことになりました。これは日本男児としてかねがね願っていたところであり、本懐(ほんかい)これに過ぎるものはありません。入営の上は一意専心軍務に励み、皆様の御期待に沿い、もって国のために粉骨砕身(ふんこつさいしん)する覚悟であります。顧みますれば、僅(わず)か一年余りの間ではありましたが、会社に奉職して以来、皆様の温かい御指導と御鞭撻(ごべんたつ)によりまして、つつがなく仕事や勉強をさせて頂き、衷心(ちゅうしん)より感謝致しています。高い所からではありますが御礼申し上げます。本日は会社の皆様には御多忙のところを、わざわざこうして多数の方々がお集まり下さり、見送って頂きまして感謝の外はありません。この感激をいつまでも忘れることなく頑張ります。どうも大変有難うございました」
名調子にはならないが、これで元気を出してやることにした。私は若いが、れっきとした社員で技術者の中でも技手(ぎて)という資格を持った者だというプライドもあり、それだけに堂々とした態度でやろうと、何度か言ってみる内に大体自信がついてきた。これでよしだ。
午前中時間があるので荷物の整理にかかった。読み慣れた本、大切な本、この机ともしばらくお別れだ。いつの日に解いて見ることになるだろうか?荷造りも、慣れない者にとっては案外時間がかかった。
もう十二時少し前になったので身支度にかかった。日頃は背広を着て出勤することが多かったが、今日は国民服を着て行くことにした。当時はカーキ色の兵隊服に似た形のこの服がよく着られており、こんな時にはこの服を着て行かなければならないような時代であり、背広姿だと非常識だと言われるような雰囲気の頃であった。
一人暮らしだが、カッターのみはクリーニングしたもので、ネクタイはこれまたカーキ色で服と似たものを締めた。
鏡の前に立ち、昨日散髪したグリグリ頭を映してみた。平生(へいぜい)中折れ帽子を被(かぶ)っていたが、それでは国民服に似合わない。軍隊の戦闘帽に似たものがあればよいのだが、買っていないので、被らずに行くこととした。今まで頭は七三に分けていたのに丸坊主に散髪したので寒かった。
---この時の髪の毛一つまみを大切に持ち帰り、出征していく前に、我が家へ遺髪として残して置いた。母が大切にしまってくれていたので、復員後懐かしく思い取り出してみた。あれから五十三年余を経過した今でも、貴重品箱の中に保管してある髪は、青春の黒い髪の毛のままである。現在私の頭髪は白いが。
電車は通勤時間でないのでよく空いていた。寿司詰めでないこんな電車に乗ると、ほんとに伸び伸びとした感じであった。冬の日差しが車内に差し込み気持がよかった。
会社に着き待っていると、三時前に拡声器から「これから出征(しゅっせい)兵士を送りますから、手のすいた人は全員中庭に整列願います」と放送があった。いよいよ私が送られる時がきたのだと思うと、このアナウンスの声は腹にこたえた。男も女も社員も工員もみんな大勢の人が集まった。
司会の方が「皆さんどうか前の方へ詰めて下さい。ではこれから、入営される小田さんと松下さんの壮行会を行います」と言う。私の所属課と入隊先及び松下さんのことについての簡単な紹介と、「御健闘をお祈りします」という言葉の後、「どうぞ」と挨拶を促された。
私は三段もある高い台上に上がり静かに礼をし、ゆっくりと力強く練習したとおり挨拶をした。水を打ったような静けさの中、川添課長の顔・斉藤係長・湯浅さんや女子事務員佐野さん達の姿も見えた。私はかくも盛大に送って頂いたことに感謝しつつ、深く一礼し、台を降りた。
次の人の挨拶がすむと、「万歳三唱」の発声により「バンザイ」 「バンザイ」 「バンザイ」と大きな声が怒涛(どとう)の如く起こり、力強く工場全体に響いた。
その後、中庭から正門まで全員が行列を作って私達二人を送ってくれた。私は正門を出る時会社の偉い人や皆さんに何回となくおじぎをし、有難うございましたと叫びながら手を振った。
正門には「東京無線電気株式会社」と看板が掲げてあるのを改めて見直し、今までにない感激を覚えた。しばらく行き立ち止まつて振り返ると、会社の白い建物がくっきりと浮かんでいた。わが会社よ栄えてくれ、この工場よ健やかであれと祈る気持ちで一杯となった。
夜は約束の時間に「割烹壽楽(かっぽうじゅらく)」へ行った。もう上甲(じょうこう)さんと加藤さんが来ていて迎えてくれた。しばらくするうちに、川添課長・斉藤係長もみえ、その他十数名集まって下さった。堅苦しい挨拶は抜きということで、早速酒肴(しゅこう)の宴が開かれた。そして、見事に出来あがった日の丸の寄・せ・書・き・と餞別を頂戴した。
ここで課長が特に「試作中の無線機が完成間際であるのに行くのは残念だろうが、これまでよくやってくれた。また帰って来たらやってくれ」と激励され、感極まって熱いものが込み上げてきた。酒が入ると、「小田君、少しぐらいは遊んでおかなくちゃあ」というような言葉もあった。戦時下で食物も不足しているのに、このような料亭で御馳走を揃えての送別の宴会をして頂いたことを心から感謝し、厚くお礼を申し上げて下宿に帰った。
◆別れ
翌日は朝から、昨日やりかけた残りの荷物の整理をし、自転車に乗せ何回も田町駅まで運び、荷札をつけて発送した。部屋の掃除をきっちりとして、下宿代等全部支払いをすませるともう午後三時を過ぎていた。いささか疲れたので銭湯に行った。まだ早いのでお湯も奇麗で人も少なかった。もう銭湯ともお別れだ。一年間の垢(あか)をよく落としておこうと、ゆっくり洗った。
風呂からあがり、鏡に全身を映してみた。少し背が低いがよい体だと自分でも思った。
---横道になるが、私は旧制中学校五年間皆勤で、その上寒稽古(かんげいこ)も五年間一日も休まず、健康に恵まれていた。好きなものだから剣道や柔道を正科の授業以外にも、人一倍よくやり技(わざ)を磨いていた。また、体操の時にやる腕立て伏せの屈伸くっしん)運動も平素から特別鍛練し、普通の人で二十回までのところを百八十回できる程度になっていた。それで、腕や胸の筋肉が盛り上がり、小柄ながら多少自信があった。
しかし、厳しい軍隊生活に耐えられるだろうかと思ってもみた。風呂上がりの暖かい体に澄んだ空気の肌触りはさわやかで格別の気持ちだった。
下宿の部屋に帰ると、掃除したので奇麗になっており、仰向けに転んで静かに目を閉じた。下宿の一室でも、いざ去るとなると懐かしいものである。
「小田さん頑張って下さい」「小田さん元気でね。早く帰って、東京に来てね」と女性達が目を潤ませ、宿の主人が「見習士官になって下さい」と激励してくれた。「有難う」「有難う、元気で行ってきます」と胸迫り、いつの日再びここに帰れるだろうかと思いながら宮木館を後にした。
内田君達が用意してくれた銀座裏通りの小料理屋へ行くと、相前後して学生時代の友達が四、五人来て送別の会をしてくれた。初めからザックバランな話になった。
「内田はよく学校で教練をサボッテいたので、教練の点が悪かろうから甲幹には通らないぞ。兵隊に入ってから大分頑張らんといかんぞ」と黒沢君が言うと、
「お前だって甲幹には通りっこないよ。大体だらしがないよ。だらだらしているから、絞られる口だぞ」と内田君が返した。
「小田は学校教練はマアマアだろうが、兵隊方はコウバイがキツクないとさしくられてしまうぞ。敏捷(びんしょう)にし、しっかりしろよ」と誰かが言った。
「入営してから本気で要領よくやれば何とかなるらしいぞ、俺達の同級生で去年入隊した連中は、富田も佐藤も石川も丸山達も殆(ほとん)ど全員見習士官になっているからのう。乙幹は数人だけだよ。初めの内は、大分ビンタをとられたりシゴかれても真面目にやっておれば大丈夫だよ。この間も石川君と添川(そえかわ)君が外泊だといって訪ねて来てくれたが、もう指揮刀を下げて、一流だったぞ」と林君が言った。
「ところでみんな、今頃どんな仕事をしているのかね。就職してから丁度一年たったが?」と誰かが尋ねた。
お互いに、米澤高等工業学校(山形大学工学部の前身)で電気通信工学を専攻し、その方面の所に就職していたので、専門的な話題となった。
「俺の所では、シンガポール(昭南島)(しょうなんとう)を陥落させた時、敵の陣地から分捕った方向探知機を真似して似たような物を作り、試験中なんだ。英国軍は既に敵の飛行機がどれぐらいの編隊でどちらの方向から攻めてきているかが分かる探知装置(たんちそうち)(レーダー)を持っていたのだ。やはり向こうの方が随分進んでいるらしいぞ」と他言出来ない内容を内田君が明かすと、
「僕の所は、国内全部にわたり有線電話回線の整備と工事が多いんだが、建設資材が不足し始めているらしく、大変なことらしいよ」と心配そうに黒沢君が言った。
「うちの会社では、陸海軍の飛行機に乗せる無線機を製作しているが、納期を急いでいるので大変なんだ。それに米国から買った機械の構造を取り入れて、設計をしているのだが、技術が遅れているんだ。部品などを真似してみても、向こうのと同じ性能にはならないらしいね。それに近頃では、アメリカの専門書籍が入らないので、困つているんだ」私は本音で話せる人達だけに、日頃から思っていることを率直に言葉にした。
私達は自分のしている専門の仕事を通して、電気通信分野が米国に比べて相当遅れていることは認めていた。しかし、海軍は大きな軍艦を持っているし、性能も優れている。大本営発表のように戦果が挙がっているし、精神力が強いから大丈夫だ。それに、相手の国は国内でストライキ等が起き、内乱になってくるだろうから、戦局は何とかなるだろうといった、一般的な時局認識の話も出た。
しかし、何かしら戦争の重圧が次第にのしかかって来て、押され気味の感じがしないではなかった。もちろん、私は日本のすべての報道が歪められているとは思わなかったが、黒沢君は少し違う批判的な感じ方をしていたようであった。
「こうやって、いつまた会えるだろうか。同級生でも学校を卒業してしまえばなかなか会えないのに、戦争に行ったりすればなおさら会えなくなるだろうなあ」こんな思いは誰の胸の内にもあった。戦況に暗雲が垂れ込めており、すっきりしないからこんな言い方になるのだ。
「戦争でも終わりみんな元の職場に勤めるようになれば、会えるさ」
「しかし、この戦で、散りじりバラバラになれば分らないさ。でも、お互いに手紙だけは出そうぜ」
食事もすみ外に出て夜の銀座をみんなで歩いた。戦時中で以前よりネオンが少ないが、それでも美しい店が並んでおり、今度はいつ来ることだろうかと思いながら歩いた。
「明日は、九時三十分発下関行き急行だから八時半に表中央口で会おう」と約束して別れた。
私は、もう下宿を引き払っており、寝る所がない。内田君の家に泊まらせてもらうことにしていたので、浦和の彼の家に行った。学生時代から何回か、夏休みには実習期間の二十日間もお世話になったことがあり、家族の人とも親しくなりよく知っていたので、余り気兼ねしないでお邪魔することにした。
内田君の御両親と、同居の従妹(いとこ)の静江さんが、入営を祝い励まし勇気づけて下さった。特にお母さんは、ぜ・ん・ざ・い・をして待っていて下さっており、一口食べると非常においしいと思った。この頃はもう砂糖の配給が少なくなっており、下宿していた私は、殆ど砂糖の味を長く味わったことがなかった。お母さんは、貴重品の砂糖を私のために使って下さったのだろう。真心のこもったぜ・ん・ざ・い・を頂戴した後、寄せ書きに名前を書き込んで頂いた。
彼の御両親も、私の応召は特別身近に感じられ、やがてくる我が子の入営を二重写しにされていたようであった。
「元気を出してやりなさいよ、小田さん。小田さんが少し楽になった頃に、うちの富士雄が入るんですから、本当に楽しみがよいですよ」とお母さんが言うと、
「軍隊は叩いたり、ひどい目にあわせるんだってね」と静江さんが心配してくれる。
「当たり前だよ。それがなくては、軍人精神が入らないんだってさ」と内田君が男らしく説明する。
「若い者は一度苦労して来るのもよいさ。富士雄のようななまくら者は・・・・」とお父さんが言うと、
「全くねえ、男の子は兵隊に行かなくちゃあならないし」と母親の実感がしみじみと会話の間ににじみ出てくる。
「大変お世話になりました。一生懸命やって来ますから。また、お手紙を送ります」と私は挨拶をし、夜も更けてきたので休むことにした。
別室で内田君と二人で枕を並べて横になるとすぐに、彼は「お前彼女に知らせたか? 早く知らせておけよ」と言った。それは、西澤とよ子さんのことである。西澤家は山形県の米沢市で上杉藩の上級士族の直系にふさわしい風格と奥ゆかしさを感じるお家であった。一、二年前の学生の頃私と内田君が一緒に下宿し大変お世話になったその家の娘さんのことで、私がほのかな思いを寄せていたのである。「まだだが、早速知らせよう」と自分のうっかりしていたのを恥じながら答えたが、急に彼女が懐かしく思われた。
続いて、内田君が学生の頃から恋愛関係にあった米沢の大和田常子さんのことについて話した。学校を卒業してから一年少々になるが、彼は将来を約束し、手紙などかなり頻繁にやりとりしていること、三回ばかり会いに行ったことなど、愛する人への心の動きを細かく話す。そして彼も四月に入隊が決まっているが、その先どうなるか心配だとの話で、私は聞かされ役ながら、彼と彼女の先々が幸せになることを祈った。
内田君と語り合ううちに、夜は更けていった。
◆内田君と学友達のその後
ビルマ戦線に直接関係の無い余談であるが、学友達のその後についていささか述べておきたい。
まず内田富士雄君であるが、彼は頭も良く勉強も良くできたうえに、理工科系の人には珍しく、人間の情緒、豊かな知識、幅広い教養を身につけた明るい人となりであった。私は彼から多くのことを見習い感化を受けてきた。私の人間性を創るのに、彼が大きな要素となったことは事実で、今でも彼に感謝している。
彼の恋人であった大和田常子さんとは、彼が入隊後も文通は当然継続した。
少尉に任官し内地勤務だった彼は昭和二十年八月十五日終戦となり、間もなく浦和の自宅に復員し、元勤めていた逓信省(ていしんしょう)に復職した。将来を約束していた二人は希望に燃え、浦和と米沢では少々離れていたが、幸福な会う瀬を楽しんでいた。ところがある日、彼女は友人と登山をして雨に濡れたのがもとで、急性肺炎にかかり、終戦後の薬の無い頃で、二十一歳の若い命をはかなく終えてしまったとのこと。私は自分がビルマから復員して後の、昭和二十二年の秋になってから、彼と四年半振りに会い、初めて彼の口から細かく聞かされた。
あまりにもドラマチックな二人の出会いと別れを聞き、唖然とせざるをえなかった。その時は彼女が亡くなってからもう一年以上も経っていたが、私は彼を慰める言葉を探せなかった。
親友内田君の痛手はいかに大きかったか、どんなに悲しいことだったかと思う時、『人生は小説よりも奇なり』と言うが、奇であり起きてはならないことが起きるものであると、私は、人の命のはかなさをしみじみ感じさせられたのである。
黒沢茂治君も、私の召集より二ヵ月後の四月に現役兵として入隊した。彼は早くから、大本営の発表は正しくないという見解を持っていたが、別に反国策分子ではないし、真面目に軍隊生活をして少尉に任官し、内地で終戦を迎え、元の職場である国際電電に復帰し順調に戦後の勤務に取り組んだ。
中村君は第二乙だったので、現役ではなく、ずっと遅く召集がきて、内地勤務だった由であるが、大手メーカーに勤務し順調に戦後を生き抜いてきた。
林君は健康上のことから軍隊には関係がなかったようで、引き続き放送関係に勤務した。
丸山君は岡山二中(岡山操山高等学校の前身)時代からの同級生であり、米沢高等工業学校へ一緒に入学し共に学んだ間柄で深く親しい学友であった。彼は温厚で世の中のことを何でもよく知っていたので、しばしば相談相手となってもらったものだ。彼も現役で入隊し将校になり軍務に服したが、内地勤務だったので、終戦後早く復員し時世の移り変わりをよく知っていた。私は、終戦後二年経過してから内地に復員したので、世情が全く分からず、方向感覚がつかめなくて、どのような気持ちで生きていけばよいのか見当もつかず苦悶した時があった。その時も早速丸山君を訪ね、敗戦後の社会に処する心構えを聞いて大変助かったことがあった。大切で頼りになる友達で、同じ岡山市に住んでいるので、今も時折旧交を温めあっている。
学友達にも若干の戦死者があったが、大部分の者は復員後、従来の勤務先に復帰し、または新しい職場で、戦後の復興と社会の発展に取り組んできた。
今、福岡県出身の河野君、北海道出身の高田君、加茂君、東京都出身の佐藤君、岐阜県出身の野口(旧姓林)君、横浜在住の松田君、京都在住の長(ちょう)君、大阪在住の関口君達は健在のようであるが、歳月の経過と共に、さきに掲げた内田・黒沢・中村・林・石川君等は今より十〜十五年前に他界し、他の学友達も近年急速に減りつつあり、時の流れを感じる昨今である。亡き友人のご冥福をお祈りし、わが人生の終焉(しゅうえん)近きを思う。
◆東京よ さようなら
内田君の家に一泊させて頂き、ゆっくり休ませてもらった。お父さんも内田君も普通の通りに勤めに出て行き、お母さんと静江さんが北浦和駅まで、見送って下さった。ホームで「小田さんお元気に、頑張って下さい」と、お母さんの目にキラリと光るものがあった。静江さんはいくらか赤い顔になり、うつむき、悲しみをこらえていたようであった。私はお母さんの健康と静江さんの幸せを祈り、男らしく大きな声で「では元気で行って来ます、どうかお元気に。さようなら。さようなら」と言っている間に電車は動きだした。
明治神宮にお参りし、玉砂利と高い杉の林の中を歩いて行くと、心も体も清められる心地がした。そのあと宮城にお参りしたが、夕暮れ前のせいか宮城全体の景色がぼんやりとして、涙ぐんでいるように見える。気のせいか、曇り空のせいか、冴えない影をしている。私はなぜか不吉な感じを覚えた。そんなことを考えてはいけないと思いつつも、大変な戦争だ、負けるのではないか? 一瞬そんな思いが頭の中をよぎった。
夜になり、東京駅に行った。私は国民服に日の丸の襷(たすき)をかけ、トランク一つ提げ、凛々(りり)しい姿になっていた。八時半頃になり勤務先の会社の方々、川添課長を始め斉藤さん上甲さん達も次々に見送りに来て激励の言葉をかけて下さった。内田・中村・黒沢・林君達の学友も揃って来てくれた。
「皆さん、有難うございます。お忙しいところを本当に有難うございます」と何回もお礼を言った。
あちらでもこちらでも入営者を送る集団が出来ており、東京駅は軍国調に塗り替えられて、沢山の出征兵士が送り出されていた。ホームには入れないし、混雑し迷惑にもなるので、改札の手前で送ってもらうことにした。
どこからか軍艦マーチのメロデイーが聞こえてきて、いやが上にも志気は高まっていた。
私を囲んで大きな円陣が出来ていた。「小田君、頑張れ」と激励の大きな声がかかったり、沈黙の瞬間もあったが、時間もそろそろ近づいたので、私はひときわ大きい声を出し「大変お世話になりました。遠路のところ誠に有難うございました。心からお礼申し上げます。では元気で行って参ります」と最後の挨拶をした。
誰かが音頭をとってくれ「小田敦巳君の健闘を祈って、万歳三唱」とリードした。「万歳」「万歳」「万歳」と大きな歓声が挙がった。歓呼の声が東京駅の中央口ホール一杯に沸き立ち、私は身の引き締まる思いがした。大きく揺れる旗の波、お世話になった方の顔、顔、顔に別れを告げ、改札を入った。いつまでも去ろうとせず見送って下さった。
急行列車は汽笛と共に緩やかに動きだした。東京よさらばだ。東京の人よさようなら。この駅でどれだけ多くの人が肉親、知人と別れて行ったことだろうか。そしてどれほど多くの人が永遠の別れとなったことだろうか。
就職以来一年一ヵ月間世話になった東京。大東亜戦争が起きてから一年三ヵ月が経過し、戦時下で物資も不足し、暮らしにくくなってはいたが、若い私には魅力ある街であった。なんと言ってもわが国の政治と文化の中心地であり、大きなビルや劇場もあり、学ぶ人にも、働く人にも、また遊ぶ人にも恵まれた環境のこの都会であった。汽車は横浜を過ぎ、大船を通過し、夜の東海道をまっしぐらに走り続けていた。リズミカルな音を聞きながらいつしか眠っていた。
◇故郷の温かさ
◆河本さんの経験談
汽車にゆられて十二時間後、岡山駅に着き乗り換え、山陽線で郷里に近い万富駅に着いたのは、二月十一日の午後二時頃であった。静かな田舎の駅は昔と変わりなかった。先日送った荷物はもう駅に着いていた。何時の列車で帰ると連絡していないので、誰も迎えに来ていなかった。
我が家に帰り、大きな声で「ただ今」と言って玄関を入り、トランクを上がり段に置き靴を脱いでいると、奥から母が出てきた。
「敦(あっ)ちゃん帰ったのか。いつ帰るかと待っていたんだよ。早く帰れてよかったなあ。お前に召集令状が来たので、すぐ電報を打ったが、早く届いてよかった。びっくりしただろう」
「いつかは召集令状が来るだろうとは思っていたが、こんなに早く来るとは思っていなかった。でも大丈夫だよ、お母さん」と私は元気に答えた。
母は久しぶりに私の元気な顔を見て喜び、目が潤(うる)んでいるようでもあった。
「今まで元気でやっていたが、今度は兵隊さんじゃ。元気でやりなさいよ」「近くの人に聞いたら、あそこは馬の部隊と自動車の部隊があるそうだよ。どちらになるか分らないが、お前がエンジニヤ関係だから自動車の方ではないだろうか。いつだったか運転を習っていると言っていたが、上手になったかい?」
「いや、まだ習い始めたばかりなんです」
と答えながら座敷へ上がり、ドッカリとあぐらを組んだ。母は「寒くはないか」と言って火鉢の火をおこしてくれた。次に「腹が減ってはいないか」と尋ねた。「昼食は途中の駅で食べたが」と答えたが、「腹がへっているだろう」と言って、火鉢でお餅を焼きお茶を入れてくれた。子を思う親の心をしみじみ温かく有難く感じた。母とはこんなにも良いものであろうか。
---こうして原稿を書いていると、今は亡き母の面影が懐かしく目頭が熱くなる。お母さん!
「この度はこの村でお前一人だよ。一月に三人ばかり召集で行き、四月には現役で六人入隊するんだそうだよ。それから、あそこの部隊に行っていた人がある。お前も知っている河本さん、あの河本さんに一度いろいろ輜重隊(しちょうたい)の中のことを聞かせてもらったらよいと思い、頼んだらいつでも聞かせてあげるとのことじゃあ」
「疲れただろうから、今日はゆっくり休みなさい」
「うん、お父さんや妹は?」
「お父さんは晩にならなければ帰ってこられないだろう。今頃は、小学校でも防空訓練やなんやかんやで忙しいんだよ。でも、ずうっと元気で勤めておられるし、静も元気でやっており、この間も手紙があったが、食物が悪く少ないので困っている様子じゃあ。それに、時々勤労奉仕があり、えらいこともあるそうじゃが、これも仕方がなかろう。近いうちに学校から、工場へ泊まり込みで、奉仕に行くことになるかも知れないと言っておったよ」
母は続けて「だんだん戦争が激しくなるし、長くなると物が無いので困るんじゃあ。この間も布が無いので、古い布を引き出しモンペを作ったところだよ。食べる物は砂糖なんかも配給で、ほんの少ししかないので困るけど、幸い、うちには食べるぐらいの米はあるから安心しておあがり、お前が食べるぐらいはあるから。それから先月、松田○○さんが戦死され、役場の庭で慰霊祭があったが、あの家にも長男で、後は女の人ばかりで困っておられるんだよ。お前も、よく気をつけてやりなさいよ」と母の話は尽きなかった。
腹もふくれたので布団を敷いてもらい一眠りすることにした。目が覚めると夕方六時前で、荷物を開けたり庭の方を歩いていると父が帰って来た。
田舎の小学校の校長をしている父も国民服に戦闘帽という格好で、ボロ自転車に乗っている。父も次第に年をとったなあと、つくづく思った。近頃頭を丸坊主にしているせいか、白髪が余計に目立つように思われた。そればかりではない、いろいろと苦労があるのだろう。私が「お帰りなさい」と言うのと、父が「帰ったか」と言うのと同時で、顔がばったり合い、お互いににっこりとした。それはすべてを感じ取った父と子の目と目であった。
「お前元気だったか。いよいよ赤紙がきたので、速達で送ったが召集令状を受け取ったかい」
「受け取った。持って帰ったよ」
「会社の方は仕様がないが、まあしばらく、兵隊生活をしてくるんだなあ。早く将校になるように、よく頑張るんだなあ」と父が言った。
やがて夕食もでき、両親と私の三人で飯台に並んだ。久し振りに母の料理、母の給仕で食べる御飯は美味しかった。私が生まれてから永年育てて下さった母の味であり、それに輸入米でなく、田舎で取れた純粋の白米だったせいでもあった。妹の静がおればみんな揃うのになあ、と思いながら食べた。近所の様子や、東京の土産話等をした。その晩は幼い頃から住み慣れた我が家で、足を伸ばして休んだ。
次の日は、近所や親戚に挨拶と顔見せに行って、田舎の話を聞き、東京の話をし、軍隊の話を聞いたりしているうちに日が暮れた。夜になり、三つ年上の河本梅雄さんが家に来て下さった。
「敦巳(あつみ)さんいよいよ入営だそうですね、それはおめでたいことです」まず当時誰もが交わす、常識的な挨拶をした。「わざわざ、お忙しいのに来て頂いてすみません。こちらからお訪ねすればよいのに」と言うと「いやいやお疲れでしょうから、それにどこで話すのも一緒ですから」と、頭の良い彼は、一年前輜重隊に入っていた時の模様を順序よく、しかも詳しく教えて下さった。
「敦(あっ)ちゃんと昔、子供の頃一緒にやっていたチャンバラごっことは、ちょっと様子が違いますからね。軍隊という所はこの社会とは違った所ですから、ここでは考えられないようなことが、沢山ありますよ」と前置きがあった。
「まず兵隊では、要領が良くなくてはいけないんです。要領の悪い人は叱られたり、殴られたりする回数が多くなりますから、なんと言っても要領が第一です」
父もこの話を一緒に聞いていた。そのうち母もどんな所かと仲間に入り、心配そうに聞いていた。
「入ってしまうと朝から晩まで追い回され、自分の時間など取れないから、今のうちに、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)を覚えておいた方がよいですよ。軍人勅諭とは、軍人として守らなければならない五ヵ条からなる教訓で、かなり長文ですが」
「それから員数合わせということが大事なんです。員数とは各個人に与えられている品物、それには鉄砲、帯剣(たいけん)等の兵器を始め、帽子、軍服、脚半(きゃはん)などの衣類それに雑嚢(ざつのう)、飯盒(はんごう)、水筒、針刺し袋に至るまで、多くの持物の数を常に揃えておかなければいけない。時々その数の検査があるが、その時不足している物があると大変なことになり、いろんな罰が与えられることになるんですよ」
「人の物を盗んででも、自分の持ち物の数、即ち員数を確保して、おかなくてはいけないし、盗むにも、夜寝ている間にとか、人がちょっと脇見している間にサッと盗み、知らぬ顔をしておくこと、これが要領がよいことになるんですよ」
「取られた人、即ち員数の合わない人が、叱られることになっているのですよ。軍隊という所は、取られたらすぐ取り返せ、相手が誰であろうと見つからねばよいのです。軍隊とはそんな所と思っていなさい」と話してくれた。
更に彼は、「自分の良い所を、要領よくこなし目立つように振るまい、まずい所は隠してしまい、知らぬ顔をするんだ」また、「いろいろの動作を荒くても迅速にすることが肝心なんで、サッサッと早くすることが一番、ノロノロしていると叱られるから人より早くすることだ」等と具体的に教えて下さった。
何も知らずに行ったのに比べれば、大変な得をしたことになった。これでビンタ(頬を殴られること)の三つや四つは助かったはずである。夜の更けるまでいろいろ話を聞いた。それから、手に入れた軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の本を二、三回読んでいるうちに眠った。
事前に経験者によく聞いておくことが、どれくらい得になるか、後になってよく分った。
◆村役場や近所回り
次の日の二月十三日の午前中は役場、農協、駐在所を挨拶に回った。
内田村長は「それはおめでとう。入営の時にはわしも一緒に行きますから」と言われた。
私は「それは、お忙しい所を大変お世話になります」と答えた。
「あんたは今、どこへ勤めておられるんですか?」と尋ねられた。
「東京無線電気という会社に勤めています。東京にあるんです」と答えると、
「応召中は、月給なんかはどうなるんですかね」と更に尋ねられた。
「支給されることになっています。毎月家の方に送ってもらえることになっているのです」と答えた。
「それは結構ですなあ。田舎で百姓だけしていたんでは、何もありませんからねえ」と返事をされた。その時改めて、会社の措置(そち)、月給を応召中続けて下さることがどんなに有難いかをはっきりと感じた。
それから村長は、「入営の前日に皆で送って、その晩は私も姫路市内に一緒に泊まり、朝九時までに兵営に行くようにしたいが」と言われた。
私も大体そのようにすればよいと父から聞いていたので、入営の前日十時三十分に万富駅発の列車に乗る予定とし、そこで村長と会うことを約束して家に帰った。
午後は昨日残っている部落内の家々を残らず挨拶して回った。「この度、召集令状が来たので、入隊します。平常こちらに住んでいないのでご無沙汰しています。留守中よろしくお願いします。明日出発します」というような挨拶をした。
「敦巳さん、この度はおめでとうございます。わざわざ来て頂いてすみません。何とぞ元気でやって下さい」と励まして下さった。
短い言葉の中にも、もろもろの感情が通い合い、多くの人の言葉の端に、この人もまた兵隊に行くのか、小さい子供の頃、この田舎で走ったりころんだり、戦争ごっこをしたりして遊んでいたのに、こんなに大きく立派に成長して。しかし、ここで兵隊に取られては、親もさぞかし惜しくもあり寂しくもあるだろう。でも、これも国を挙げての戦争で致しかたのないこと、どうか無事に過ごすようにと願い、励まして下さっているのを有難く感じた。
次々に家を歩いた。もう既に兵隊に送り出した「出征軍人の家」もあり、支那事変で戦死された「誉(ほま)れの家」もあった。当時はそのような表示を、家の入り口に掲げていたのである。
その後、先祖のお墓に参り、入隊の報告をし、守って下さいとお願いをした。
こうした間にも、軍人勅諭を丸覚えするように頑張った。なかなか長い条文で一生懸命にやらないと、覚えられなかった。これこそ軍隊生活で最も重要な基本となる定めであるから、入隊までに覚えておくと大変助かり、その後の負担も軽くなるし、殴られる回数も幾分少なくなるというので、何回も何回も読み、また書き、学校の試験勉強をするつもりで覚えた。
◆水入らず親子四人
多忙なうちに日暮れになった頃、岡山の学校に行っている妹の静が帰ってきた。立派な学生になっている。大きくなったものだなあと感心した。この間まで子供だと思っていたのに、もういい娘である。ただ一人の妹、例えようもなく懐かしく感じた。
「お兄さん、遅くなってご免なさい。今日やっと帰ることができました」平素は比較的よく話をする方だが、今日はあまりおしゃべりはしなかった。でも、久しぶりに親子四人、全員揃っての水入らずであった。物資が無い時代、食物の材料を母がいろいろと工面してくれ、そのうえ鶏を一羽屠(おと)して、手のこんだご馳走をしてくれた。
「敦巳よ、腹一杯おあがり、兵隊ではご馳走もないだろうし、忙しくてゆっくり食べられないだろうから。静もしっかりおあがり、寄宿舎では不自由しているのだろう」母は自分ではあまり食べないで、子供達や父に少しでも多く食べてもらおうと勧めるのだった。父も私も酒好きという程ではないが、今晩は一本つけてもらい、ほろ酔い気分になった。
日の丸の旗の寄せ書きに、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り、父と母と妹が名前を書き込んでくれた。千人針(せんにんばり)へ母と妹が必勝と健康を祈り、固く結び目をつけてくれた。また、今日までに父母が何ヵ所かの神社のお守りを頂いて来ており、母が「このお守りが敦巳、お前を守って下さるから」と言いながら、しっかりと手渡してくれた。両親の祈りが凝集(ぎょうしゅう)したお守りであった。
---このお守りのお陰で、幸運に恵まれ、私は九死に一生を得て無事復員できたのである。敵弾をくぐり抜け、汗と雨と泥にまみれて、ボロボロになっているが、激戦の跡をそのまましるした大切な宝物として、今も我が家の貴重品箱に収めてある。
家族四人揃っての話題は東京の会社での仕事、友達の動向、岡山の町と、女子師範学校の様子、勤労奉仕のこと、父の勤める学校のこと、この田舎の生活等、お互いの話の中に、深い肉親の情をしみじみと感じ、心配し労(いた)わり合いながら話をした。
だが、これから先のことはこの召集で予定が立つ訳もなくなり、話がしぼんでいった。平素は肉親の情など余り感じないが、こんな時には、強く、深く、温かく、言い知れぬ愛を感じるものである。
明日はいよいよ見送りを受け姫路に行くんだ。宿屋に泊まり、そして明後日は入営だと心は決まった。念入りに風呂に入った、これからはこんなにゆったりした気持ちで風呂に入ることはないだろうと思いながら。我が家でゆっくり寝るのもいよいよ今晩限りだ。母が暖めてくれた部屋の優しさに囲まれ静かに眠りに就いた。
◆氏神様に参拝
明ければ二月十四日、出発の日だ。立春を過ぎたとはいえ凍てつくような朝だ。氏神様への参道の土に大きな霜柱が立っていた。この冷たさと、霜柱を踏むザクザクという音に厳粛(げんしゅく)さを感じ、神社の杉の葉先が白く凍っているのを見ると、心が清められる気がした。
神前では、私の祈願に氏子(うじこ)の方が来て、祭壇の準備を急いでおられた。各家から一名ずつの参加で約六十人が集まり、神事が行なわれた。神主の冴えた柏手(かしわで)の音が境内に響き、うやうやしく祝詞(のりと)が奏上(そうじょう)されると、私の気持ちは氷のように一点に凝結(ぎょうけつ)した。
私は神様に忠誠を誓い、氏神様が私を加護して下さることを信じ、留守の一家が無事に日を過ごすことができますように、とお祈りをした。
儀式が終わり、冷たいお神酒(みき)を頂くと、心身共にすがすがしく、勇気が沸き出てくる思いがした。拝殿を外に出て、皆さんに挨拶をした。
「本日はこの如月(きさらぎ)の早朝より、皆様には御多用のところを、わざわざ私のために御祈願して下さり、かくも盛大に送って頂き、衷心(ちゅうしん)より感謝致しています。平素は故郷を離れ、お世話になりながら大変勝手ばかりしております。この度令状を頂きましたが、入隊の上は一意専心軍務に精励し、皆様の御期待に沿うと共に、祖国の為に尽くす覚悟です。皆様方におかれましても、何とぞ御健康に留意されますようお祈り申し上げます。甚だ簡単ですが、入隊に当たりお礼の御挨拶と致します」と、凛々(りり)しく言った。
親戚として参加していた従妹(いとこ)の松嶋智恵子さんが「この挨拶が適切で堂々として良かった、身内として誇らしく思った」と後日、妹の静に話していたとか。智恵子さんも私の入営を自分のことのように思い祈ってくれたのである。
「祝小田敦巳君入営」の幟(のぼり)が大きく目にしみ、私の肩には日の丸の寄せ書きがかかっていた。長い行列が村境の峠まで続き 「万歳」 「万歳」 「万歳」と歓呼の声が山にこだました。
「有難うございました」 「有難うございました」と大きくこたえ、何回も何回もお辞儀をし、そこで皆さんに別れを告げた。
父、母、妹、伯父、伯母、部落の区長達の数人で、峠の坂道を下って行った。可真村(かまむら)弥上(やがみ)の部落よ、郷里の山河よ、さようなら。しばらく皆さんともお別れだ。
朝の太陽が顔を出してきた。私達は山を下って万富(まんとみ)駅に着いた。駅には、遠い親戚の叔父も来ており、内田村長も約束のとおり来ておられ、村長と、父と、私の三人は汽車に乗った。
見送りの母と、妹と、親戚の人、部落の代表者がホームまで出て送ってくれた。私は「元気で行って来ます」と大きな声で応えた。寄書きの旗をしっかりと握りしめ、いつまでもデッキに立っていた。私の運命は決まっている。この列車の如く与えられた方向にレールの上を突っ走っていくのだ。しかし、これからどのような苦労があるのか、どのような試練が待ち受けているのか。
その夜は姫路の宿屋に三人で泊まった。寝心地の良い布団ではなかったが、枕元で、お守りと、千人の女性が結んでくれた千人針と、日の丸の寄せ書きが、私の眠りを静かに見守ってくれていた。

二 軍隊教育
◇入営
◆入隊当日
昭和十八年二月十五日午前九時、輜重兵(しちょうへい)第五十四聯隊(れんたい)前の城北練兵場には、大勢の人が集まっていた。応召者(おうしょうしゃ)と付き添いの者である。空は灰色で太陽の顔は見えず、練兵場の風は冷たい。やがて、衛門(えいもん)から少尉(しょうい)を中心に見習士官、下士官、上等兵等三十人が一組となって出てきた。
他の組もあったかどうか覚えていない。少尉の指揮の元で役割が決められていたようである。向こうの方ではもっと偉そうな中尉(ちゅうい)が全体を眺めていた。
立て札を持った兵隊が、一定の間隔で並び、一〜三十、三十一〜六十、等と書いた看板を立てた。
やがて胸を張った少尉が大きな声で、「応召者は各自の荷物を持って立て札の所に並べ。付き添いの者は、混雑するから後に下がって待て」と言う。この命令が終わると、応召者は各自の番号の所に移動し始めた。しかし、全体では三百人近く、それに付き添いの人もおり、荷物のこともあり、なかなか進まない。みんな右往左往していた。
「ぐずぐずせずに早くやらんか」と、大きな声がした。古参軍曹(こさんぐんそう)であろうか、大きな声が出るものだとびっくりした。ざわめきが止まり、皆急いで自分の所を探している。番号順なので、前後に来る人を確かめ合っている。「付き添いの人は、列に近づくな」と、また大きな声が飛んできた。
一応指示された番号の前に並び終わった頃「これから番号を調べに行くから、番号と姓名を言え」大きな声だからよく聞こえる。その頃には一組ごとに下士官一名、兵隊一名が配置され、二組ごとに一名の見習士官が付いており、その他には先程の少尉の所に台帳を持った軍曹と上等兵が付いていた。
応召者をどのようにして調べてゆくのだろうかと思っていると、先に立札を持っていた兵隊が札をそこに立てておいて、「真っすぐに並ばんかい」と言って前から後まで見て回った。その後を、各組ごとに名簿を持った下士官が、前から順に見ながらやってくる。入隊者が、「一番 大賀俊雄」 「二番 井上弥治」 「三番 山田哲雄」等と告げると、「よし」 「よし」と言いながら顔を覗(のぞ)き込むようにして名簿にチェックしてゆく。番号のみ言って名前を言わない者、名前だけ言って番号を言わない者があり、その都度叱られていた。
私の所は九十一〜百二十番の所で、私は九十三番であった。調べに来ている下士官は伍長(ごちょう)の肩章(けんしょう)を着けており、四角な顔をし一重まぶたの細い目をした人で、体は中背、がっちりとした体格の方であった。一人一人点検を受けた。「九十三番 小田敦巳」と言った。じろりと顔を見られた。「よし」と、太い声が返ってきた。
先程からいろいろ指示や注意があったが、どの言葉も命令的で威圧的である。それだけにはっきりしている。私は今まで殆ど、こんな言い方を聞いたことがなかった。見送りにきた人は、どんな気持ちでこれを聞いたのだろうか。
私が中学(旧制)五年生の頃、岡山駅で、一人の伍長の指揮下にいた三、四名の兵隊が無断でホームに降り、買物をしていた。それを見付けた伍長が大きな声で「貴様達何をするんだ」と怒鳴り、兵隊は震えあがった。そんな光景に接し、物凄いなあと感じたことがあるが、今日も、さすが軍隊は命令用語が多いと感じた。一巡、検査が終わったが、更にここで「前より番号」と号令がかかった。
「一」 「二」 「三」 「四」 「五」・・・・と番号を唱えた。伍長と上等兵はもう一度名簿と人数の確認をした。各組共、同じように念入りに点呼がされていた。
その頃、黒いピカピカの皮長靴を履き背の高いかっぷくのよい中尉が現れて、手を後に組み全体の様子を監督していた。軍曹が全体をまとめ終え、少尉は確実に掌握(しょうあく)できたのだろう、中尉の所に行き敬礼をして、異常の有無を報告した。後で分かったのだが、この中尉が聯隊本部付きの手島中尉であった。
「これから営内に入るから忘れ物のないようにせよ」と少尉が私達に命じた。少尉は見習士官を集め指示を与えていた。第一中隊教育隊一班及び二班、担当見習士官・・・・から始まり、第二中隊教育隊一班・・・・、第三中隊教育隊一班・・・・、重ねて申し付けと確認をした。私達は順序よく営内に入っていった。
小雪がパラパラ降ってきた。右にも左にも兵舎がある。ガラス窓には全部紙が貼られており、薄汚く寒々としていた。
私は第一中隊教育隊の第四班で、第一中隊は馬部隊であることが分かった。第二中隊と第三中隊が自動車の部隊であることも分かった。馬の部隊とは馬で荷物を運ぶ役で輓馬(ばんば)中隊と称するものであった。
第一中隊は一班から順に身体検査を受けることになった。医務室前に並ばされ、「裸になれ」「待っていろ」と言われ、上半身脱いだ。長い間裸のままで待たされた。廊下はよく風が通り寒かった。
やっと順番がきて室内に入った。姓名を名乗り次々と見てもらうのだ。内臓関係、目、耳、口等それから痔と性病関係、いやな所もあからさまにして見せねばならない。まごまごして叱られる者もいる。寒かったがやっと検査も終わり、服を着ると暖かくなってきた。
数名の者が即日帰郷(ききょう)を命じられた。体の状態が良くない人で、入隊が許されず、その日に家へ帰らされるのだ。せっかく歓呼の声に送られて来たのに、体が悪くては仕方のないことで、命ぜられるままに帰らなくてはならない。どのような気持ちだろうかと察し、気の毒に思われた。でも反面、数多い中にはそれを願う人がいないでもないのである。誰しも心の奥の片隅にはその方を願う気持ちがあるのではなかろうか?
他人のことを心配する暇はなかった。私達は元の広場に帰って昼飯をせよとのこと、寒い露天で、お湯も無く持ってきた弁当を食べた。
午後は被服の受領に行った。服の上下二組、襦袢(じゅばん)・袴下(こした)・帽子・靴・靴下などを受け取った。いずれもかなり古いものばかりで、私のように体の小さい者には服も靴も大きかった。しかし文句は言えない。与えられた服に早速着替えた。今まで、個々別々の服装をしていたが、みんな同じ服装になり、兵隊らしく見えてきた。そして階級章も一つ星即ち二等兵のものをもらい、そして今まで着ていた各自の服は風呂敷(ふろしき)に包んだ。更に毛布を四枚ずつもらった。
助教と助手の先導で、中庭からそれぞれの教育班ごとに分かれ、指定された部屋に入った。真ん中が土のままのたたきの通路で下足のまま、両側が三十センチ程の高さの板張りで、一人一人にマットが敷かれていた。マットは厚い布の中に藁(わら)を入れたもので、厚さ約十センチぐらいで、殆ど間隔を置かずに並べてあった。番号の順番にマットが決められた。
参考に教育隊第四班の教育係の担当助教は大仲伍長で助手は大森上等兵で、大仲伍長は別に下士官室がありそこが定位置で寝起きし、助手の大森上等兵はこの部屋の一番奥の位置のベッドに寝起きしていた。
マットが決まったので、毛布を整理して窓側に置き、私物の風呂敷包みを所定の場所に掛けた。上等の服を上装用(じょうそうよう)と言い、平常の服を下装用(かそうよう)と言うが、それ等や下着類を、助手の指導を受け、几帳面に四角にたたんで整理棚に乗せ、その上に上装用の帽子と下装用の帽子を並べて乗せた。
軍隊では、服のたたみ方まで一様にしなければならない。そして、折り目を着けて奇麗に整理しなくてはならないのだ、とは聞いていたが、まさしくその通りである。整理棚には衣服の外に、手箱が各人に一個ずつ与えられており、本や文房具や小物等を入れ整理することになっていた。大森助手の細かい指導を受け、やり方が分かり、整頓をすませ、これで一応落ち着くことができた。
「十分間休憩する」と助教が言った。小便に行く者もあり、服の整理をやり直す者もあった。私は自分の左右の人を改めてよく見た。左は難波という眼鏡をかけた丸顔の男で、右は新谷という背の高い顎(あご)のやや張った男であった。他の人達もみんな初めての環境で、知らない者同士、多くを語る人もいない。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そのうち誰かが「今日は寒かったのう」などと、ぼつぼつ話し始めた。
学生時代には、学校の寄宿舎が大分お粗末だと思っていたが、兵舎はそれの比較ではない。一室の人口密度は高く、僅(わず)かにマット一枚分が自分に許されたスペースだ。即ち、幅二・六尺(八十五センチ)奥行は整理棚を含めて六尺(二メートル)が与えられた面積である。畳は無く板張で、何か不潔で、窓はあるが薄暗い。私達の兵舎は平屋建であるが、屋根は低くもちろん天井は無い。隙間があちこちにあり、風通しがよく寒そうであった。
◆内務班での取り決め
あれこれ見ているうちに、大森助手が「これから兵営生活についての取り決め等について話すから、よく聞いておけ。よく聞いていないと困るぞ」と前置きした。「起床は六時、起床ラッパが鳴ったら起き、毛布をきちんと畳み、中庭に出て乾布摩擦(かんぷまさつ)をし、朝の点呼を受ける」
「点呼がすむと、班内当番は班内の掃除と、飯上(めしあ)げをしてくる。飯上げとは炊事場に行って『飯上げに来ました』と言って飯やおかずや汁をもらってきて、全員の食器につける。食事がすむと、この容器を洗って返すのだ。当番以外は、みな厩(うまや)に行って馬の手入れをするのだ、分かったか」大森助手は注意を続ける。
「朝飯後は教育だ。午前中の教育がすめば、馬に飼いばをやり、それからお前達の昼飯だ。午後も教育を受け、それが終わると、厩へ行って寝藁(ねわら)を入れ、馬運動と馬の手入れだ。それから夕食と入浴時間となる。機敏にしないと間に合わないぞ。夜の点呼は九時からで、これは班内だ。不潔にならないようよく身の回りの手入れをし、洗濯などもよくすることだ」
「それから、いつでも自分の所在をはっきりしておくこと。この大森に、どこどこへ行くと言ってからか、戦友に伝えてから行くことだ」
「次に、敬礼を忘れないようにすることだ。ここにはお前達より上のものばかりだから欠礼(けつれい)するな。それから我々第一中隊の中隊長は金井塚久(かないづかひさし)中尉だ。よく覚えておけ。その他気が付いたことはその都度言うこととする」
「さて、一度、官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言ってみよう」「陸軍二等兵 山田一郎」というようにだ。お前言ってみよと、私の前の者が指された。もじもじしてから「山田一郎」と言った。「自分のを言うのだ」と注意され、浜岡初年兵は今度は「陸軍一等兵 浜岡良夫」と言った。とたんに「お前はいつの間に一等兵になったのか。今日入ったばかりの二等兵ではないか。言い直せ」と、大きい声で注意された。こんどは「陸軍上等兵 浜岡良夫」と言ってしまった。あがったのでこんなことになったのだろうが、「馬鹿野郎、何が上等兵だ、分からん奴だ」と怒鳴られた。私はおかしかったが、笑われもせず気の毒でもあった。四回目にやっと「陸軍二等兵 浜岡良夫」と言った。
大森助手の注意事項は続いた。「早速本日の当番はこちらから四人とするから、晩飯から取りに行け。なお、今日は初めてだから、特に次の四人も当番として食器の受領、班内の用品、煙缶(えんかん)(灰皿)、掃除道具等を、物品倉庫より受け取って来い。今日はこれから、服に名前を着けよ。 そして、夕食までに手紙でも書いて出しておけ」と言われた。言われるままとりかかったたが、時間がなく葉書はやっと一枚書いただけだった。
夕食後は一人一人自己紹介をした。「僕はここに来るまでは・・・・」と言いかけると、助教から、軍隊では「僕」「私」「俺」などと言わないのだ。自分のことを「自分」と言うのだ、と教えられた。しばらくは、私は近年東北や東京に住んでいたので常時使っていた「俺」が出そうであったが、次第に「自分」という表現に慣れてきた。「自分」という言い方は軍隊特有のものである。
「自分は、神戸の造船所に勤めていました。赤井明と言います」
「僕は、いや自分は吉岡太郎と言います。鳥取市で旅館をしていました」
「俺は、満州国で官吏を・・・・、いや、自分は、満州国で官吏をしていました」
漁師もいれば散髪屋もおり、お寺の住職がいれば大工もおり、農家の人もおり多種多様な職業である。
輜重兵で輓馬(ばんば)中隊なのに、特に馬に関係のある人は一人もいなくて、適材適所でないことをここでも感じた。しかし、そんなことを言っている時世ではないのである。この輜重兵の本科は体格の良い人ばかりであるが、教育召集や召集兵は、昔の特務兵とか輜重輸卒(しちょうゆそつ)と呼ばれる名残があり、比較的背の高くない人が多かったように思われた。
軍隊も兵科によって主要任務が異なり、輜重兵は歩兵や砲兵のように華々しい兵科ではなく、弾薬や食料や種々の物資を輸送する任務を帯びた兵科で、重要であるが地味で苦労の多い縁の下の力持ち的な兵科であった。
◆点呼
軍隊では、朝夕、人員の状況を調べるための集合があり「点呼(てんこ)」と言っていたが、その日は夜の点呼前になり、助教の大仲伍長が来て、召集兵の皆を整列させた。「気をつけ」「休め」「気をつけ」「休め」と何回も号令をかけ、また「番号」の号令で「一」 「二」 「三」 「四」・・・・と次々に番号を唱えた。何回もやり直しがあり、その後は一人一人を見て回り、「お前は腰が伸びていない、シャンとせい」「お前は右肩が上がっている、少し下げろ」「ああ、よし」などと注意を与えた。
次は、服装だ。「ボタンが外れている」「衿の掛け金が掛かっていない」「靴下の履き方がだらしない」などと注意を受ける。自分も注意されるのではないかとひやひやする。
ここでも、もう一度「官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言え」と命ぜられ、次々に名乗った。「声が小さい」「発音が不明瞭だ」などと指摘された。
その内、週番士官が赤い襷(たすき)を掛けてやって来た。見習士官であった。週番下士官も付いていた。 教育係班長で助教の大仲伍長が「気をつけ」「敬礼」と号令をかけ、「教育隊第四班、総員三十名、現在員三十名、異常なし」と報告した。入隊最初の点呼も無事終わった。
大森助手が寝床の作り方を教えてくれた。四枚の毛布を上手に敷き包んでそこに入って寝るのだが、何回かやってみた。そして折り畳んで片づけることも早くしなければならないので、みんな練習をした。三回、四回と競争させられた。遅い者は「お前はいつも遅い、ナメクジか」と叱られた。
万事、軍隊は機敏で要領の良いこと、荒くても動作を早くすることが肝心である。やがて、ラッパが鳴った。消灯ラッパだ、みんな用をすまし寝床に入った。電燈が消えた。兵営生活の長い初日を振り返っているうちに、いつしか眠りについた。
◇軍隊生活と教育訓練
◆起床
起床ラッパが鳴った瞬間みんな跳ね起きた。六時丁度である。室内は騒然とし、大急ぎで毛布を折り畳んだ。少々荒くても何でもよい。早く服装を整え靴を履き外へ出た。一番後や後から二番目当たりになると、叱られ気合(きあい)を入れられるからだ。当時軍隊では、早くしろ、元気をだせ、怠けるな、たるんでいる、しゃんとしろと言葉で注意されるだけでなく、鉄拳制裁(てっけんせいさい)をも受けることと、自分自身に対して勇気を出すよう奮起することをも、『気合を入れる』と言っていた。何にしても気合を入れ早く行って整列し、上半身裸になって、ワッショイ、ワッショイと掛け声をあげ乾布摩擦をするのだ。二月の朝六時は薄暗く寒いが、擦(こす)っていると背中がだんだん暖かくなった。
終わるとすぐ上着を着て整列、番号を二、三回繰り返し、やっと人員異常なし。そのうち、週番士官がやってくる。各班ごとに異常の有無の報告がされ、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の奉読が始まる。
一ッ、軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスベシ
一ッ、軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
一ッ、軍人ハ武勇ヲ尊ブベシ
一ッ、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
一ッ、軍人は質素ヲ旨トスベシ
やがて東の空が明るくなってくる。こうして軍人精神を叩き込まれるのだから、強くなるのも当たり前であると思った。私生活においてもこれぐらいの気概でやれば、いかなる仕事も成功するであろうと感心したのである。しかし自分の自由意志のみでは実行することは困難であろう。こうして強制され、皆と一緒だからできるのだ。
体も暖まり、気合いも入ったところで、各班共、当番兵を残して全員厩(うまや)へ隊列を組み駆け足で行くのである。軍隊では大抵の場合駆け足であり、歩いていては間に合わない。ぼつぼつ歩けば、ダラダラしていると言って叱られ、気合を入れられるのだ。
◆厩動作(うまやどうさ)
第四班の厩に行くともう古年兵が来て、馬房(ばぼう)という馬が一頭ずつ繋(つな)がれて休む場所から馬を外に引き出している。新兵の我々がウロウロしていると、古年兵が「こら!教育兵、タラタラせずにやらんか」と怒鳴った。厩に入っても何をどうするのか分からない、その上、馬が恐ろしいから手のつけようもない。「寝藁(ねわら)を外へ出さんか」と言われて、古年兵が馬を連れ出した後の馬房にやっと入ることができた。馬糞(ばふん)まみれになった寝藁を手でつかむと、糞の臭いと汚らしさで何ともいえない。「ぐずぐずせんとやらんかい!」と罵声(ばせい)がまたも飛んできた。
馬の糞と寝藁を担架に乗せて二人で担(にな)って運び出し、広場へ広げて天日に当てて乾かすのである。馬糞の臭いこと、生まれて初めて馬糞を手でつかんだのである。
「何をぐずぐずしているのか」「何をしとるか!」と言われ追い回された。こうなればもう臭くも汚くもない。叱られるのが恐くて一生懸命に藁をつかんでは担架に乗せ外に運び出し広げた。
その内また「お前らは藁ばかり運んで、馬を出さんかい、馬を。お前らはタルンでいるぞ」ときた。さあ大変だ。ウロチョロと箒(ほうき)を持ったり藁を運んで、なるべく馬に触れないようにして忙しいふりをしていたが、もう許してくれそうにない。「馬を連れて出すんだ」と古年兵が言ったかと思うと、あっという間もなく私は馬房の中に突き飛ばされた。
馬は頭を奥にして繋(つな)がれ尻を入り口に向けているので、ちょうど馬の後足の横辺りに押し込まれた格好だ。馬に蹴られるのが怖くて馬に近づかないでいるのに、こうなっては死にもの狂いだ。外へ逃げて行くこともできず、仕方なく馬の腹の横を恐る恐る通って頭の所に行った。咬(か)まれるのではないかと近づいたが、幸い馬はジーッとしていた。しかしどうやって繋いだ金具を外すのか分からない。やっとのことで金具を解き馬を外に連れ出すことができた。他の教育兵達もあちらこちらで、「これぐらいのものが怖いのか、ばかやろう」と怒鳴られていた。
全部の馬が外に出された。馬の手入れが始まったが、昨日入隊したばかりの我々には、全く知らないことばかりだった。
何も教えてくれず「そらやれ、そらやれ」だからかなわない。馬に触ったこともない召集兵ばかりでみんなオドオドしている。
「早く馬の手入れをせんかい、こうやるんだ」「よく見ておけ」といつて、古年兵は馬の前足を引き上げ手入れをし、続いて後足の手入れをした。案外たやすくやっているようである。
「わかったか」「そらやれ」と道具を渡された。あちらでも、こちらでも、馬の手入れがされている。
早くしないと叱られる、恐ろしいが、そんなことを言ってはおられない。何が何でもやらねばならないのだ。
古年兵が傍で見ているのだから仕方がない。恐る恐る馬に近づいた、馬が首を振ってもドキリとする。やっと、前足のところに行き中腰になり足首を持った。思い切って両手で持ち上げた。案外たやすく、足を曲げて持ち上げさせてくれ、先の古年兵がやったように、膝の上に足首を左手で持って乗せた。手が離れて滑り落ち、ポカリと蹴られはしないかと一生懸命だ。
「お前の持ち方は反対だ。逆に持ち替えろ」と注意された。持ち替えるとやはりそのほうがしっかり持てる。右手にへ・ら・を持ち馬の蹄(ひづめ)の裏の汚れを落とした。へ・ら・の当て方によってか、馬が時々足を動かすので無我夢中だった。水の入った鉄製の桶を引き寄せ、た・わ・し・で足の裏を洗った。
二月の水は冷たく手が凍えそうだ。手がかじかんでも馬の足だけは離してはいけない。離すと私の足を踏みつけたり、暴れることにもなる。洗った後は蹄油(ていゆ)を塗っておしまいだが、二本の前足をすましてやれやれと思っていた。
「こら、早く後足もせんかい」と怒鳴られた。前足より後足のほうが一層恐ろしい。一発蹴られたら大変だと思ったが仕方がない。そろりと左足を両手でつかみ引き上げようとしたが上がらない。もう一度力を入れて引き上げた。今度は案外楽に上げてくれた。滑り落ちそうになるのを引き上げ引き上げしながら、どうにか四本の足をすました。非常に長い時間のような気がした。
左右を見ると、今述べたようにして足を洗っている者や、馬の背中を刷毛(はけ)で奇麗にしている者もいた。上等兵達はみんな、のんびりやっているが、新入兵達は恐る恐るしている。
次に馬の胴体の手入作業に入った。大きな鉄製の金櫛(かなぐし)と大きな刷毛(はけ)を使って、胴体や足の方まで奇麗にするのだ。慣れた兵隊がやっているのを見るとわけないようだが、やってみるとどうにもうまくいかない。
刷毛には毛や垢(あか)が一杯つき、それをどうして落とすのか分からない。慣れないことばかりである。前に行けば咬まれはしないかと思い、後へ回れば蹴られはしないかと思い、馬が動けばヒヤリとして、恐る恐る触る始末であった。
それがすむと、馬糧(ばりょう)の豆粕(まめかす)、コーリャン、ボレーマツ、奇麗な藁を小さく刻んで水に漬けたものを混ぜて、馬房の奥にある桶に入れてやり、その他に乾草(かんそう)を一抱えずつ入れて置くのである。
「ヒョロ、ヒョロせずに駆け足でやらんか!」またも気合いがかかり、ドンドンやらされ息つく暇もない。次は馬を元の馬房に連れて入れるのだが、どの馬がどこの場所だったか分からない。
そこは古参兵「その馬はそこだ」「この馬はあそこだ」と、また「金甲は五番目だ」「その金錦は八番房だ」と、馬の名前を呼んで指示する。初年兵の我々は懸命に馬の鼻を捕まえて連れて入れるのである。
金具の外し方、掛け方も考えながらの動作であり、どうしても早くはできない。それに馬がいつどんな動き方をするか分からないから心配だ。やっと馬を全部厩へ入れた。手を充分洗う間も無く、うがい水でガラガラとうがいをしていると、早くも「集合、駆け足」の命令、それぞれの内務班(常に兵隊が起居する所)へ帰る。
朝飯までに、歯磨き洗面終了なのだが、丁寧にする暇はない。当番が、アルミの茶碗に飯を、アルミの汁碗に汁をついでくれている。各人に一杯ずつである。箸もアルミだから割れたり折れたりする心配はない。大急ぎで食べなければ間に合わないのである。味わうような食べ方をする暇はない。とにかく早いこと全部を食べて置かないと次まで腹がもたないのである。
食べ終わらないうちに「全員服装を整え、兵舎前の広場、舎前(しゃぜん)に集合」と助手の大きな声。ちょっと一服といってたばこを吸う間はない。
集合すると「右へならえ」 「気を付け」 「番号」これの繰り返しであるが、その前に「集合が遅い」 「最後の三人は、中隊の兵舎を一周走って来い」と、罰として労働を余計に科せられるか、ビンタかである。その時の風向きによると最後の一人には更に「もう一度走って来い」となる。その人はハアハア息をつきながらやっと帰って来たのに、もう一度とは泣けそうになるが仕方がない。続けてもう一度走りに行った。
その間じゅう、こちらはこちらで皆「気をつけ」の不動の姿勢のままで、服装の検査で帽子の被(かぶ)り方が悪い、服に名前がついていないなど、厳しく注意を受ける。二回兵舎を回った者がやっと帰ってくる。ハアー ハアーと息をし大変苦しそうである。「よし」と言ってやっと許してもらうが、私達教育兵は、いつ誰がこんな目に遭わされるかも知れないのである。昨日から始まった軍隊生活は、新兵の誰にとっても厳しいものであった。
◆兵器受領
大仲助教は、「今日はこれから兵器受領だ」 「駆け足」の号令と共に我々を引率して兵器庫の前まで行った。みんな、三八式騎兵銃(さんぱちしききへいじゅう)と帯剣(たいけん)を受け取った。この兵器の番号を兵器係の人が控えている。また助教から兵器について話があった。「銃には菊の御紋(ごもん)がついている。絶対粗末にしてはいけない。銃の手入れい・か・ん・で、その人の精神状態が分かるから、充分手入れをしなければいけないぞ」
そのような話を聞いている最中に、後の方でガチャンという音がした。皆がハッとしてその方を見ると、新井二等兵がどうしたのか銃をひっくりかえし、急いで拾い上げているではないか。「出てこい!」助教の鋭い声がした。新井二等兵の顔色はなかった。「バカヤロウ」と言うが早いか、ポカリ、ポカリと左右の頬を殴られた。「こんな奴がおるからいけないんだ。バカヤロウ!みんなも気をつけろ」と大きな声がした。「兵器を粗末にしたら営倉(えいそう)だぞ、営倉というのは軍隊の刑務所だが、そこに放り込まれるのだ。分かったか」と脅された。
それから細かく、銃、剣の手入れ方法の説明があり、各自、自分の兵器の手入れをした。私は学校で何年も習ってきたので、たやすいことであったが、これまでにやったことのない人にとっては覚えにくいようであった。「一回言ったら覚えておかんか」と怒鳴られている。すべてこのように強制的に詰め込む教育である。ガンガンと叱りつけて覚えさせるのである。体で当たって悟らさせるのである。気合いを入れ、殴ってでもやらせるのである。学校や会社でのやり方とは大分趣が変わっているが、これが軍隊のスパルタ式教育である。
一通り兵器の分解、組み立て、掃除手入れの仕方等を教えられて班内に帰った。班内の所定の場所、銃を立てかける銃架(じゅうか)に銃を立て架け、枕元の棚の下にある鈎(かぎ)に剣を吊した。他人の物と自分の物と間違えないように、また間違えられないように気をつけなければならない。早速自分の銃と剣の番号と、一目見て分かる特徴を覚え、右から何番目に置いたかを確認した。暗闇でも握っただけで自分の銃が分かるようにしなければならないのだと教えられた。
それがすむと、「全員駆け足で外に並べ」の号令で外に出て並んだ。部隊内の建物や設備の位置を知るため駆け足で一周した。一中隊の位置は分かっていたが、二中隊、三中隊の建物、聯隊本部、お菓子やたばこや日用品を売る酒保(しゅほ)、炊事場、物干場、将校集会所等々を教えてくれた。
まだ十二時前かと思っていたらとっくに過ぎており、そのまま厩に向かって駆け足だ。馬に昼の馬糧(ばりょう)をやりに行くのだ。馬は頭を奥にして繋がれているので、奥にある桶に馬糧を入れるには、馬の尻の側から入り胴体の所を潜るようにして入らなければならない。馬は腹が減っているのでガタガタしている。慣れていない我々には容易なことではなく、またしても恐る恐るの作業である。
それがすむと、やっと兵隊達の昼飯となる。班内に帰って昼飯を食った。飯はいくらか臭いが、腹が減っているので全部食べた。食事がすみアルミ製の食器を洗って、たばこを取り出そうとした。とたんに「貴様らは、食った後の机の上を奇麗に掃除しないのか」と大きな声で雷が落ちた。みんなで、こぼれた飯粒を拾い、机の上を拭いたり床の上を掃いたりした。
軍隊では金物で出来た丈夫な灰皿を煙缶(えんかん)というのだが、「たばこは煙缶の所で吸わなくてはならんぞ」と言われており、やっと火をつけて一服した。今朝から初めての一服であり、何とも言えない美味しさであった。ものも言えず良い気分になりかけていたところ、三分もたたないうちに「これから卷脚半(まききゃはん)をつけて舎前に集合」との号令がかかった。遅くなればなる程叱られ、余分に駆け足をさせられることは分かっている。たばこの火をもみ消し、皆、靴を履き、卷脚半を巻き、外に整列した。
◆訓練
午後の訓練は三班と四班と一緒であった。教官は橘(たちばな)見習士官で我々四班担当の助教大仲伍長、助手の大森上等兵。三班にも助教と助手がついていた。
まず徒手(としゅ)の基礎訓練からである。不動の姿勢「気をつけ」「休め」の繰り返し、敬礼の仕方、歩行中の敬礼、停止敬礼等何回も何回も繰り返しやらされた。午後とはいえ寒風の吹く冷たい日であった。
訓練中に三班の谷田二等兵は教官の目を盗んで、冷たく凍えた手をポヶットに入れた。すぐに見つかり、教官が「コラ出てこい」と一喝したかと思うまもなくビンタ一つ。激しい一撃で彼はよろめき倒れそうになった。教官は皮の手袋をはいていて、いいなあと私は思ったが、仕方がない。今の身分は違い過ぎる。手がいくら冷たくても我慢我慢。その後は駆け足となり、庭を何回も何回もみんなで走った。走ることの苦しさはだんだん増したが、次第に寒さは感じなくなった。
午後の訓練が終わると、また厩行きだ。今度は馬を先ず出して繋ぎ、日中乾かした寝藁を馬房に運び込み、馬糧を桶に入れてやり、それから馬を連れ込むのだ。これらの動作もみな駆け足だ。歩いていると「こら!」と怒鳴られ叱られる。夕方の馬の手入れは簡単で、時間はあまりかからないが、私は馬の出し入れは怖い。やっと厩作業が終わったと思うと「集まれ」の号令、しばらくの間「軍歌演習」をした。先輩の兵隊達に先導され、我々教育兵も小さい声で軍歌を歌った。「知っている歌は大きな声で歌え」と活がはいる。その頃西の空には夕日が沈みかけており、一瞬故郷を思った。こうしていろいろの場面で気合いが入れられ、だんだん兵隊らしくなるのである。
やっと夕食の時間を迎えた。肉と野菜のこってりとした汁と漬物と、ご飯の山盛りだが、腹が空いていたのですぐに食べ終える。その後、めいめい食器を洗いに行くのだが、多くの兵が一度になるので混雑し時間がかかり、そのうえ肉の油でぬるぬるしたお碗は洗いにくかった。
◆入浴その他日課
それから、入浴しなければいかんぞと言われているので大急ぎで行った。風呂場には一杯の人が入っている。脱いだ服を盗まれることがあると注意を受けていた。そんなことにならないように、隅の方に脱いでかため、その上に眼鏡を置いて間違われないようにした。盗まれたらそれまでだ。風呂に入らない訳にはいかない。風呂の中では裸だから、二等兵か一等兵かの位を示す肩章を着けていない。うっかりすれば初年兵の我々は、上級の古い兵隊にいつ叱られるかも知れない。早く洗って出た方が安全だ。それに服を取られるのを防ぐためにも、早い方が良い。「烏(からす)の行水(ぎょうずい)」で、石鹸をゆっくり使う間もなくサッサと出る。風呂から出ても着替え等はなく、脱いだこの服のみである。同じ物を着て同じ靴下を履き、急いで班へ帰るのである。
靴の手入れをしたり寝床を用意していると、助教が「皆床の前に並べ、早く並べ」と言った。三人がまだ班に帰っていないことを確認の上、「整理棚の整理が悪いから直せ」と指摘され、みな懸命に直した。今着ている服が下装用の平生着(へいぜいぎ)で、その他に少し良い上装用の服があり、着替え用の下着も同じ棚の上に並べているのだが、それらの整理が悪いとのことである。服は四角になるよう板で叩いて、きっちり整理しなければならないのだ。
「お前のはなんだ、もっときちんとせい」「お前のは幅が広い。この整理棚に丁度になるようにするんだ」と一つ一つ注意され、やっと終った頃、三人が戻ってきた。
「お前達はどこへ行っていた」助手の厳しい問いに黙っていた。「返事をせい」と言われ「酒保(しゅほ)へ」と小さい声で答えた。「馬鹿者、はや酒保へ行きやあがって、靴の手入れも寝床の用意もできていないじゃあないか。それにお前の整理棚は何じゃあ!」といった調子。三人はあっけにとられていたが、急いで整理にとりかかった。
続いて「中隊長の名前を言える者は手を挙げよ」と問われた。私はすぐに手を挙げた。続いて五人ばかりが手を挙げた。他には手を挙げる者はいなかった。「お前達はもう忘れたのか、昨日教えたばかりなのに」「お前教えてやれ」と私が指名された。「金井塚久(かないづかひさし)中隊長です」と答えた。
「そうだ、皆よく覚えておけ」と助手は言った。このあたりから、私は助手に認めかけられてきたようだ。
---この時初めて「金井塚久中隊長」の名前を口にした私だったが、二年半後にこの方の最期を見届ける屍衛兵(しかばねえいへい)になり、しかもビルマの土地に埋葬する役目を勤めることになろうとは思いもよらないことだった。
点呼前になり助教の大仲伍長が入って来て「気をつけ」の号令に皆不動の姿勢になる。それから一巡回って顔と姿勢と服装を見たあと「今週の週番士官の実行方針は何か」と尋ねられた。みんなポカンとしていた。「まだ知らないのか、教えてやる。今週は森野見習士官が週番だ。一つ規律の厳正、二つ起床動作の敏速、三つ敬礼の正確である。よく覚えておけ」やがて点呼のラッパが鳴った。週番士官が赤い襷(たすき)をかけて入って来た。昨日と同じ人であった。大仲伍長が「第四教育班、総員三十名事故なし。現在員三十名」と報告をした。付き添いの週番下士官が記録をしているようである。森野見習士官は全員を目で追うようにしたが、「よし」と言って立ち去った。
その後も大森助手からいろいろの注意があり、消灯ラッパが鳴ると同時に皆ベッドに潜った。今日もこれで一日終わった。寝ている間は誰にも邪魔されない。
◆厩(うまや)当番
ある日、厩当番に就いた。夜中から朝までの勤務である。私の四班には三十頭の馬がいるがこれらの番を一人でするのだ。立ったままで眠る馬が普通なのだが、中には座ったり、ごろんと横になって寝る馬もあり、中には鼾(いびき)をかいている馬もいる。馬の糞を取って回るのも仕事の内だ。真夜中ともなれば眠くなるが絶対寝てはいけない。いつ週番士官が来るか分からない。立ったままで何かやっていれば、眠ることはない。
ただ、腹が減るのにはかなわない。平常でも腹が減るのに、夜まで仕事をしていると尚更(なおさら)のことだ。だが食べる物は無い。同期の兵隊から「厩には、馬にやる豆粕(まめかす)があるから腹が減ったら食べたらよい、食えるぞ」と聞いていたのを思い出し、粒状の豆粕を一握り取り、少しずつ口に入れ噛み砕いてみると、まんざらでもない。食える。しばらくして、また口に入れたが、もう面倒だと思い大量に口に入れ頬ばっていると、向こうからコツコツと靴の音がしてきた。いけない、週番士官が来るぞ、豆粕を口に入れている場合ではない。
素早く手に吐き出し馬房の中に放り込んだ。馬糞(ばふん)取りの道具を持って、仕事をしている格好をした。週番士官が来たので敬礼をして「第四班厩異常なし」と大きな声で報告した。見習士官はしばらく私の顔を見ている。口のまわりに豆粕が着いているのを見つけたのかと一瞬思ったが、そうではなく「居眠りをせんようにやれよ」と言って次へ行った。やれやれこれで助かったと思った。
深夜午前三時頃、パカパカと馬の歩く音がする。おかしい、全部繋いでおり、離れるはずがないのにと思いながら行って見ると一頭が離れて歩いている。その馬は笹倉少尉の真黒い乗馬で、尻に赤い印がつけてある。蹴る癖があるという目印である。更に頭にも赤い印がついているので、咬(か)む癖もあるという質(たち)の悪い馬である。選(よ)りも選(よ)って、そんな一番怖い馬がどうして離れているんだろう。「どうしよう?」よく見ると、や・け・い・と・う・ろ・く・という頭を繋いだ綱を、全部外しており、捕まえる所が全然なく困ってしまった。しばらく馬の様子を見ていたが、厩の中を歩くだけで外に出る気配はない。でも、近寄れば咬まれるか蹴られるかしそうだ。朝まで放っておくと叱られるに決まっているし、泣くに泣けない・・・・。隣の二班の当番兵が私と一緒に入隊した兵隊だったので、二人がかりならなんとかなるだろうと思い、助けを頼んだところ彼は快く承知してくれた。
だがどうするか?お互いにまだ馬に馴れていないが、思案のすえ、私が馬糧袋に馬糧を入れ、馬が頭をそれに突っ込んでいる間に、彼が上手に、や・け・い・と・う・ろ・く・をはめてくれ、案外難無く繋ぐことができて胸を撫で下ろした。彼は同年兵の明石(あかし)二等兵であったと思うが、本当に有難く感謝した。
---その後彼は、同じ野戦部隊の輜重聯隊で第二中隊の自動車中隊に転属になり、戦争中は別々の行動となったが、同じ方面の戦場で大いに活躍をした。彼の戦闘振りは第二中隊の他の戦友から後日聞いたが、勇敢に敵陣地の兵を撃ち倒したり、終始元気で聯隊長(れんたいちょう)当番をも立派に勤めたと聞いている。抑留(よくりゅう)生活中には私と同じ岡山県の中隊になり、何かにつけ彼に大変親切にしてもらった。軍隊生活の当初から最後の復員までを共にした仲で、私の軍歴は彼と共にあったと言って過言ではない。彼はさわやかな性格、素晴らしい人柄で、その上力持ちで労を惜しまない人であった。
---現在も旧交を温めあっているが、何時までも元気でいてほしい。入隊当初二十一歳の時の彼の姿を今も思いおこす。お互いに年老いたが、いたわりあいながら過ごしたい。
召集を受け入隊した新兵に平穏な日はなく、厩でも内務班でも練兵場でもどこにいても、毎日大小様々(さまざま)な雷が落ち、厳しい教育と鍛錬が繰り返され気合いを入れられ通しであった。だからこそ早く兵隊らしい一人前の兵隊に育つのかも知れない。
◆飯上げ当番
前にも述べたとおり、軍隊生活、特に新兵は腹が減るものだ。いくら飯を食っても不思議なぐらい腹が減って困る。ある日、当番で炊事場へ飯上げに行った。「第一中隊第四班教育班飯上げに来ました」と炊事場の入り口で言うと、炊事当番の古年兵が飯の入った食缶(しょっかん)と汁の入った食缶を出してくれるのである。しかし、もらいに来た教育兵の当番が並んでいないとか、言い方がまずいとかいろいろ文句をつけられ後回しにされる。
時には、スコップのような大きなしゃもじを持ち上げ、叩くようにして脅かされたりするので、飯上げに行くのも新兵にとってはたやすいことではない。ウロウロしていると、炊事班常当番(すいじはんじょうとうばん)の上等兵にビンタをもらったりする。ビンタは、もらっても持って帰ってみんなに分けるわけにはいかないし、自分が痛いだけである。
当番は内務班に持ち帰った飯と汁と副食物を、各人のアルミ製の茶碗とお碗に人数分に分けてついでおくのだ。古年兵には新兵より多いめに盛り付けをして並べて置くのだ。早く分配を終えていないと、皆が訓練や厩作業を終え帰ってくる。遅れると食後の次の作業に差し支えるので、それは当番の責任となり大変だ。
食事がすむと自分の食器は自分で洗うが、大きい食缶は当番が奇麗に洗って炊事場へ返さなければならない。ここでも、洗い方が悪く一粒でも飯粒(めしつぶ)が残っていれば受け取ってくれない。洗い直しである。中には洗い方が悪いと言って缶を頭から被(かぶ)せられている新兵もいた。
私は入隊後間もない頃、当番に当たり食缶を洗いながら、底に残っていた僅かの飯粒を手で取り、少しでも腹の足しになればと思い、とっさに口の中へ入れた。その瞬間炊事の上等兵が来て「貴様!」と言ったかと思う間もなく、飯粒の着いた大きなし・ゃ・も・じ・で私の頬を殴った。ピシャリと大きな音がして頬の皮が裂けたような気がした。しかも顔に飯粒が一杯付いた。自分ながらその姿は滑稽(こっけい)であり、哀れであった。
◆多忙と要領
こうして一日二日と過ぎてゆくが、毎日鞭で尻を叩かれ追い回されて寸刻(すんこく)の暇もない。時間がなく忙しく教育に追われ、厩動作と内務にかき立てられる日の連続であった。その内、みんな朝の起床も要領がよくなり、起床ラッパの鳴る前に目を覚まし、毛布の中で靴下を履き服も上着まで着てしまう。ひどい兵隊は靴まではいて、何食わぬ顔で狸寝(たぬきね)入りしていて、ラッパが鳴ると飛び起きて毛布を畳(たた)んで外に一番早く飛び出す者もできた。寒い時期であり、靴下を履いて寝る者も多く私も靴下を履いて寝ることにした。それも何足か重ね履きした。靴下を履く時間だけ早くできるので助かる。とにかく人より早く行動することが肝心なことであった。
余談になるが軍隊では服や靴に体を合わせることになっている。私は小柄なので靴が大きい。靴の中で足が踊っている。これでは走れないので靴下を何足も重ねて履くことにした。それでやっと調節がついていた。
要領の悪い兵隊がいて、帽子の行方が分からなくなり、帽子を被(かぶ)らず整列した者がいた。軍隊は必ず外に出るときは帽子を被らなければならないことになっているのにこの有様だ。叱られること激しい。助手より「犬になって探してこい」と言われて犬のように四・っ・ん・這・い・になり、ワンワンと言いながら冷たい地面を這(は)わされた。おかしくても笑いもできず、口をつむいで我慢をする始末。いつ自分がそのような羽目(はめ)になるか分からないからである。
毎日食事前三度三度馬に接触し世話をしなければならないので、次第に慣れてはくるがやはり恐ろしい。おとなしい馬ならよいが、全部はそうはいかない。
蹴る馬の他に咬(か)みつく馬、前足を持ち挙げて被(か)ぶさるように抱きつく馬等いろいろであるが、中には癖を多く持つている馬もおり危険で、いつ何をされるか分からないので油断できない。そんな気持ちでいる上に取り扱い方が下手だから「これは初年兵だ」と馬の方が先に感づき、馬に馬鹿にされることもあった。
ある時、思いもかけず、馬房内(ばぼうない)の馬に胸をガブリと咬まれた。あの笹倉少尉の乗馬で癖の悪い馬にだ。すぐに後に下がったが、馬の顔を見ると耳を後に立てて、気の立った顔をしている。なぜこの馬は私に咬みついたのだろうか?私が何か悪いことをしただろうか? 考えても分からない。
しかし、馬には気に入らないことがその前にあったのだろう。とにかく畜生だ、いつ何をするか分からない、用心用心。後から服を脱いでみると、胸の所に馬の歯型がくっきりと着いていた。
寝藁(ねわら)に沢山の糞がついていて汚く臭い。それを素手でつかむのだからいや気がする。そんな様子を見ていた上等兵が「馬糞(ばふん)が汚いようでは駄目だ。一度馬糞をお茶漬けにして食べてみい!そうしたら治るわい」これには、みんなダーとなった。
また、「お前達は馬の手入れが悪い。体がピカピカ光る程磨かなければいかんのだ」 「この蹄(ひづめ)の手入れはなんだ、まだ汚れているではないか。舌でね・ぶ・り・と・れ・」と言われ頭をこづかれた。えらいことだなあーとつくづく感じていると、「お前達は葉書一枚の召集で来るが、馬はそうはいかないんだ。馬の方が偉いことを知っておけ」と言われた。
まさに主客転倒だが、事実そうなのである。昔徳川に犬公房(いぬくぼう)将軍がおり、犬を人間以上に大切にしたと伝えられているが、それと同じように馬の方が兵隊より遥かに大切にされているのである。
兵隊は一度だって馬より先に飯を食ったことはないし、馬の手入れをしない日はないが、兵隊は忙しくて風呂に入れないことはしよっちゅうであり、馬の汚れ物に触った手を洗う間もなく飯を食わねばならぬことは、しばしばであった。
「おお、馬よ神様よ」そして自分の手は二月の寒風にさらされ入隊後半月も経過しない間に、皹(ひび)で荒れ、霜焼けになり、ガサガサな汚い手になっていた。
◆鍛錬
厳しい鍛錬が毎日続く。銃を持つ手に冷たい練兵場の風が吹きつける。戦闘訓練では、凍りついた地面の上を、這(は)って進む匍匐前進(ほふくぜんしん)をやらされた。やり方が悪いといって叱られたり蹴飛ばされる。大部分の人は初めてのことで形にならず、やり直しを何回かした後に、やっと「それでよし」と言われ皆ほっとした。ところがその後すぐに「では、その要領で向こうの松の木の所まで行って来い」との号令。見れば松の木までは百メートルもある。「そら行け」で一斉に這いだした。
体で覚えさせる猛烈な訓練が毎日続いた。馬鹿か、阿呆かと言って叱られ、鉄拳制裁を受けながらも歯をくいしばり頑張るより他に仕方がないのだ。
毎日毎回の食事は、次の作業や訓練の準備のために、それに加え、叱られるためにも時間を費やされるので、ゆっくり食べられないのである。この頃は必要に迫られ、食べるのがだんだん早くなってきたが、どれ程早く食べ終え次の仕事にかかっても、遅いといって絞られるのが軍隊である。
この日は軍装を整え銃や剣を持って集合したのだが、「遅い」といって、助教の大仲伍長が怒り、次々にビンタがとんだ。それも握りこぶしで力一杯だから、矢野二等兵はひっくりがえり二メートルも飛ばされた。殴られる前には、眼鏡を外し、殴られても怪我などしないように歯を食いしばり、あらかじめ準備することになっている。私の左の頬にも「ガッン」と一発炸裂(さくれつ)した。体がグラリとよろけ目から火が出た。この日は寒い日であったが、左の頬はいつまでもしびれて熱く火照(ほて)り、右の頬は寒く冷たく大変なアンバランスだった。
今日はガスに対する訓練だ。ガスマスクをかぶる。大森助手が見て回る。大仲助教も、教官の橘見習士も丹念に見て回る。着装の仕方が悪いと空気が入る。「ガスを吸うぞ」 「絞め紐(しめひも)が緩(ゆる)い」 「斜めに被っているぞ」などと指摘され直された。ああでもないこうでもない、といろいろやるうちに大分時間も経過した。やっと全員がしっかりと着装したのを見届けた上で、「駆け足」の号令で走りだした。
銃を肩にしているうえに、マスクを着けての駆け足では空気を充分吸うことができず大変な苦しさだが、止まってはいけない。ドンドンと走る。ここで遅れるとどんな制裁を受けるか?人一倍ひどい目に遭うに決まっている。とにかく、遅れないようについて走るより仕方がない。
目が回りそうで、自然に足が前に出ない。無茶だが走るより仕方がない。ここで、インチキをしてマスクをゆるめるとか、顔とマスクの間に隙間をこしらえれば楽になるのだろうが、銃を持っているのでそう器用に指先が働かない。見つかればこれまた大変叱られることとなる。
いくらきつくても走るより方法がない。教える側も同じくマスクをしているのだが、苦しくないのだろうか?そこはそこ、日頃の駆け足訓練で鍛えているので、さほどでもないのだろう。それに教える側のプライドもあろう。そんなことを考えながら走っていると「コラ、たるむな」と声がかかった。もう寒くはない。汗が顔を流れているのが分かる。
当時使われた言葉で、自分の事を顧みず国家のために尽くすことを「滅私奉公(めっしほうこう)」と言い、それを誓って故郷を送られて出てきたのであるが、まさに死にそうな訓練が続く。私は幹候(かんこう)を目指しており、学課にはある程度自信があるが、このような訓練にも負けないよう耐えてゆかねばならないと心に誓った。
◆輜重兵(しちょうへい)としての訓練
このように、一般の歩兵の訓練の他に輜重隊は輸送業務、特に我が一中隊は輓馬(ばんば)中隊で馬で荷物を運ぶ部隊だから、その訓練が必要なのである。今日は輜重車に弾薬箱を積み上げ、それを太い綱で括(くく)り絞(し)めるやり方の訓練である。「箱の乗せ方はこうするのだ。綱の絞め方はこうするのだ」 「綱がこう緩くては戦争に行って荷物が落ちてしまうぞ」 「やり直しだ、輜重結(しちょうむすび)はこうするのだ、よく覚えておけ」
私がやり直しをしている間に他の人はどんどん次に進んでいる。やっとのことで荷物を輜重車にしっかりと積載固定することができた。
今度は、馬を馬房から出し鞍(くら)を背中に置き固定し、輜重車の所まで連れてくる。車の腕木(うでぎ)の間に馬を尻から押し入れるのだが、なかなかうまく行かない。初年兵にとっては苦労するところだが、やっと馬の鞍の金具と車の腕木の接続を終える。これから出発だ。馬に、荷物を載せた車を引かすことになるが、ここで馬を慌てさせてはいけない。暴れられては大変なことになるし、大怪我のもとにもなる。細心の注意が必要である。広い練兵場に十数台の車が並び歩きはじめた。馬の手綱を握った手に力が入る。この間入隊したばかりなのに、よくぞここまでになったものだと自分ながらに感心する。
懸命になり過ぎて手綱を握っているので、馬も多少窮屈(きゅうくつ)なのだろう。右に左に車を引いて訓練していると、山舛(やまます)二等兵の持った馬が突然走りだした。車を引いたままでガラガラ、ガラガラと暴れたように走るので皆びっくりした。山舛新兵は一生懸命手綱を持っているが、手綱さばきが悪いのか、自分も走って行くだけで、馬を止めることができない。馬はますます早く駈けていく。
凸凹の多い練兵場でつまづいて彼は転んだ。馬は車を引いたままそこを走り抜けてゆく。一瞬轢(ひ)かれたと思った。
馬は遥か向こうまで行って止まったので、皆で捕まえた。普段おとなしい馬でも突然どんなことになるか分からない。
山舛二等兵は幸か不幸か足先を轢(ひ)かれただけですんだ。私達は彼をかばいながら医務室へ連れて行った。「練兵休(れんぺいきゅう)」といって怪我や病気で休むことを公然と認めてくれる制度があり、一週間の練兵休となった。山舛二等兵にとって、とんだ災難だった。
次には道なき道や、やっと通れる細い橋を渡る訓練をした。
更に、駄馬訓練といって、車が行けない山を馬の背中に荷物を振・り・分・け・に載せて行く訓練だ。
『ひよどり越えの坂落し』のような急斜面の岩山を登り下りする訓練をするのである。馬も滑るし、人間も滑る。馬の蹄(ひずめ)で足を踏まれ、馬も人も転がるようにして必死に訓練を受けるのだ。
軍隊に入り、強制だからできるのだが、つい二ヵ月前までは馬のことを全く知らない者が、ここまでできるようになる軍隊教育の早さと厳しさに驚いた。しかし、危険を伴うもので、この訓練中に馬の背中に載せた弾薬の箱で頭を打ち、意識不明になった兵隊もいた。
◆余分な訓練
ある日、午前の演習で絞られ、厩作業を終え班内に帰ってみると、ごったがえしになっていた。
整理箱も整頓して置いた衣服類も引き落とされ、皆ばらばらで誰のがどこに散らばっているのか分からない。ここでは、広峰山(ひろみねさん)という姫路の北の山から吹きおろす風を「広峰お・ろ・し・」というのだが、その風が来て吹き飛ばしたのだと言っている。整理が悪い時の懲(こ)らしめに、教育兵は全体責任を負えという意味の制裁だ。理不尽(りふじん)な思いをしながら片づけるのだが、服を重箱のように四角に畳んで、几帳面(きちょうめん)に直すには大分の時間がかかることになる。
誰がするのか分からないが、こうして教育兵はいじめぬかれるのだ。こんなことをしていると、食事をする時間が更に少なくなるし、午後の演習へ出る時間が遅くなるのだ。やっと飯をかき込んでいると、助教から「午後は輓馬教練だから馬がすぐ出せるようにしておけ」と言われ、昼飯もそこそこに厩へ走らなければならない。
馬を出す用意をしていると、はや教官は自分の馬に乗って来た。
「何をぐずぐずしているのか」 「そこに並べ」との命令だ。横一列に並ぶと、馬の上から指揮刀(しきとう)を持って、皆んなの頭の天辺(てっぺん)を容赦なく次々に叩いた。私も叩かれたが頭蓋骨(ずがいこつ)が割れる程こたえ本当に痛かった。もう少しで脳震盪(のうしんとう)を起こすのではないかと思った。あの時の痛さは今も記憶に残っている。
◆教官の手伝い
一ヵ月二ヵ月過ぎていくうちに、体操は先ず教官が指導し、助教がやって見せる。次に「小田、お前号令をかけて体操をやれ」と言う。また、私を名差して「週番士官の実施目標を言ってみよ」となる。いつ、何を聞かれても、私なら確実に答える。教育を受けた内容をすべて覚えているので、教官、助教、助手から認められ、同期の教育兵からも信頼されるようになった。
中学(旧制)で五年間、更に専門学校(旧制)で三年間教練を正課授業で受けているが、教練という学科は軍隊ですることと同じことを習うので、誰よりもよくできるのは当たり前のことである。私も召集で来ているが、現役と同じ年令で来ており、若い最中なので記憶力はよいし、私より年が五歳も十歳も大きく地方で各種の職業を持ち召集で来た人より学科で一歩先んじているのは当然のことだった。
むしろ、基本の教科が分からない同期の人達によく教えてあげたものだ。そんなことで、模範的存在になり、有難いことだった。また、同期の召集兵だけの時には、常に私が引率者となり号令をかけており、皆も安心して付いて来ていた。
しかし、馬の扱い方や車を引く実務についてはみんなと同じで、自信はなく半分恐る恐るやっており、ただ、事故を起こさないように、特に目立った失敗をしないように心がけ、細心の注意をはらってきた。その結果、馬の扱い方も順調に身につき人並にやれるようになった。馬を扱う実務については、お互いに協力し合ってやることが多いので、皆に助けてもらったことの方が多かったかも知れない。しかし自分自身もよく頑張ってきたと思う。
どこの社会でも同じであるが、軍隊では特に要領が悪いと叱られたり殴られたりすることが多くなる。例えば、指示に従わない、生意気、感じが良くない、さぼっている、不真面目、動作が鈍い、覚えが悪い、事故を起こす等悪い印象を与えてしまうと、メッコを入れられて、叱られ殴られる回数が多くなる。
それは訓練時間中はもちろん、厩にいても、内務班内においても所かまわず、教官、助教、助手を始め、下士官や班内の古年兵からも、その他兵営内の先輩の兵隊からもやられるのだ。軍隊では朝昼晩の区切りはない、眠っている間以外は、二十四時間連続であり、それも激しい制裁だからたまらない。それで鍛えられるのだと言えばそれまでだが。
私は格別要領がよい方ではなく敏捷(びんしょう)な方でもない。でも、入隊前に郷里の河本梅雄さんに聞いたことを大いに参考にして頑張った。それに本来真面目だし、内務班での行動も的確だからおかげで評判も悪くなかった。たまに些細なヘマやミスがあっても機転をきかし要領良くカムフラージュし、上手に息を抜くことも結構やっていた。そうでなけばやっていけないから。
とにかく、体を使い、心も使い、一生懸命にやった。そんなことで、数ヵ月の教育期間をすませ、お陰で検閲(けんえつ)を優秀な成績で終えることができた。軍隊で教育を受ける期間は決して樂ではない。苦しい苦しいの連続であるけれども、皆に認められながら過ごせたことは有難いことであった。今、顧みると、それは私の青春を飾る一コマであったかも知れない。
---本誌は自分史的なものであるので、しばらく横道にそれるが、小田敦巳本人が自分を観察し、若い頃どんな人間であったか、長所短所を含め人物評をしておくのも面白いのではなかろうかと思い、自慢らしいことも並べてお恥ずかしいことだが、書かせて頂くこととする。
先ず、性格や能力等については、頭の働きも体の動作も敏捷でなく、やや遅い方だが正確な方。コウバイはキツクない方で、長男にありがちなおっとり型である。おとなしい性質で、自己の考えを強く表面に出したり口がよく回る方でなく、やや損をする傾向がある。自己の宣伝が下手で目立たない存在である。協調性に富み、当たりさわりが少なく、多くの人に可愛がられ、敵が少ない。難問をドンドン解決するような力強さに欠けている。責任感は強く真面目人間の方で、縁の下を支える型の人間でもある。
社会常識マナーは、まあ良い部類だろう。親分肌で皆を引きつけるというのではなく、召集兵の中で私が一番軍事訓練等について知っており、教官や助教に認められ、みんなからも頼りにされ、同期の皆をリードするようになったまでのことである。
軍隊では心身鍛錬と気分転換のため、相撲をよくとらされていたが大抵(たいてい)勝っていた。ある時勝ち残りにしたら、五人に連続で勝ったのは痛快だった。特に相撲の練習をしたわけではないが、案外腕の力が強く柔道の業を習っていたので、体格の大きい人をも負かせることができた。
学生時代から、マラソンや千五百メートルを走ることは苦手で、中以下であった。軍隊に入ってから、軍装を整え長距離を走ることは苦しく苦手であった。小柄だからコンパスが短く、やや太り目で、ガブガブの靴を履いて走るのだから、尻から三分の一ぐらいの順位で、目立った遅れ者にならないよう頑張った。でも軍隊の訓練は厳しいので次第に駆け足にも馴れてきて、月日がたつと苦しさは緩和し、大分よく走れるようになってきた。
◆橘(たちばな)教官のこと
ある夜、みんな床についた消灯後、教官である橘見習士官が「小田、やってもらいたい用事があるから、将校室に来い」と、第四班の入り口で大きな声で私を呼んだ。今までに何回か書き物や図表等を作成する作業を手伝ったことはあったが、何だろうかと思いながら将校室に入った。当然のことながら電灯は明るくついており他の見習士官(みならいしかん)は本を読んでいた。
「小田、これを食え」と言って出されたものは、箱に一杯入った鮪(まぐろ)寿司ではないか。赤く輝く魚のトロがこんもりと波打っていた。私は思わず胸が迫った。なぜ、私をこんなに可愛がって下さるのだろうかと思いながら「ハイ」と、やっと返事ができただけである。
「遠慮せずに食え」と言われ「有難うございます」と返事はしたものの、教官のあまりの温かさに胸が震えるのである。
「さあ、食え。あまりおそくなってもいかん。早く食って帰れ、今日町へ出てきた時に買ったのだ」と勧められた。
「では、遠慮なしに頂戴いたします」一つ摘(つま)んで口に入れた。久しぶりに食うトロの味はまた格別で何とも言えない美味しさだ。鮪(まぐろ)寿司は大好物で、米沢にいた時も東京にいた時もよく食べに行ったものだ。
入隊後は、初年兵の厳しい訓練を受けているので、毎日腹が減ってペコペコになっているのだから、これ程うまいものがまたとあろうか。ペロリと喉をこし、また一つ摘んでムシャムシャ食べた。とろけるような鮪の舌触り、四っばかり食べたがまだいくらでも入りそうだ。でも、この辺で遠慮しなくてはいけないと思い、一度辞退した。
「遠慮するな、もっと食え」と勧められ更に手を出した。厳しい軍隊の中で教官と初年兵とでは、天地程の隔たりがあるのに、このように特別可愛がって頂き涙が出る程有難く嬉しく、橘教官の情を骨の髄まで感じた。仮に私が教官と同じ立場になったとしても、初年兵に対してこのような温かい心配りをすることができるだろうか? ただ教官のお心に頭が下がるだけであった。
その後、ある時「小田、お前勉強するのなら、将校室の隣に小さい部屋があるから消灯後そこに来てしたらよい」と言われた。当初から幹部候補生の試験は受けたい、それならば、他の人が寝ている間に勉強しなければいけないと考えていたので、本当に有難いことだと感謝し、早速毎晩その部屋を使わせてもらうことになった。
昼間の厳しい訓練で疲れている、その上に勉強するのは容易ではなかったが、頑張った。誰がこんな便宜を与えてくれるだろうか。厳格な軍隊組織の中、融通のきかない堅い兵営生活の中で、橘教官にしても同僚や他の人に気兼ねはあろうに、よくぞ私のために、小室を使わせて下さったことだ。
教官は、召集兵のそれまでの学歴、職歴等を何かの書類で知っているのだろうか?どういうふうになっているのか私には分からないが、少なくとも私から公式に学歴を言った覚えは一切ない。
ただ、その時見習士官をしている人は殆(ほとん)どの人がそれぞれ学校は異なるが、昭和十六年十二月に旧制専門学校や、旧制高等学校を卒業した人で、私と同級生ということになる。私は俗に言う七つあがりで、順調に進学していた結果、在学中に徴兵検査(ちょうへいけんさ)の適齢に届いていなかったので、学校卒業前に検査を受けられず、一年遅れて一般の人と同じく昭和十七年八月頃、本籍地で徴兵検査を受けた。
ところが、この度、私は一般現役の人より少し早く召集を受け、入隊することとなったのである。
橘教官は、私が同学年の旧制専門学校卒業者であることを知って、不憫(ふびん)に思われたのだろうか。
今も感謝の気持ちで一杯である。
いろいろな苦労と訓練を経験をしている間に、桜の花が咲き始め、馬の蹄(ひづめ)を洗う水も冷たさが緩み凌(しの)ぎ易くなった。兵営生活にも馬の取り扱いにも大分馴れてきた。でも、次第に程度の高い訓練となり、それなりに気合いを入れてしなければならない状況の中で、教育が続けられていく。

三 野戦部隊の出征
◇野戦部隊の編成
◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊
昭和十八年四月初めに大規模な動員が下令(かれい)され、野戦部隊が編成された。姫路の輜重兵第五十四聯隊も、その編成の中に組まれ、金井塚中隊長以下殆どの人が動員された。それに加え今までに支那事変に行った軍歴のある人や、経験のない新兵など多くの人が召集され、部隊が編成された。
我々二月に入隊した教育中の者は留守部隊として残された。そしてこの留守部隊は有元隊と名付けられ、我々教育中の者の他に今までの金井塚隊の中にいた人も若干はその留守部隊に残された。それに加えて別に下士官や古年の兵隊が召集され、ここへも穴埋めに大勢入ってきた。
野戦部隊となった金井塚隊は全員姫路の北東二十キロにある青野ヵ原(あおのがはら)演習場の兵舎に集結し、内地を出るまでの間待機しながら訓練を受けることとなった。部隊名は五十四師団で師団長は片山四八閣下、通称「兵(つわもの)兵団」で、輜重兵第五十四聯隊は聯隊長太田貞次郎中佐で通称一◯一二◯部隊と称した。部隊の編成は聯隊本部の他に、第一中隊は輓馬(ばんば)中隊で中隊長金井塚久中尉、第二中隊は自動車中隊、第三中隊も自動車中隊となっていた。
私達はそのまま留守部隊有元隊で、引き続き橘教官の元で訓練を受けていた。しかし大仲助教と大森助手は野戦要員として出て行ったので、助教と助手は他の人に替わっていた。そのような中で私は消灯後の勉強をやっていた。
五月終わり頃のある日、留守部隊有元隊の人事係の大仲准尉(じゅんい)より急に呼び出しがあり「小田二等兵、お前はよくやっているらしいが、幹部候補生の試験を受ける気はあるか?」との質問があった。
これに対し「はい、有ります」と私は即座に答えた。かねがね、この時勢ならば軍隊に三年や四年は引っ張られるから、甲種幹部候補生の試験に合格し見習士官になり将校にならねばならぬと思っていたので、そのように答えた。
「そうか、優秀な者には元気をだし、幹候を通ってもらわなくてはならないんだ。だが、ここの有元隊は留守部隊で幹部候補生の試験は無いんだ」 「外地派遣の部隊五十四師団の輜重聯隊(しちょうれんたい)ならばその試験があるからその方へ行ってはどうか? 今まで金井塚隊にいたことでもあり、なじみもあろうから」と話された。私はいろいろ考え幹候を受けたいし、この間まで所属していた金井塚隊には親近感もあり、それに外地といってもジャワへ行くのではないかとうわさもされており、ジャワなら内地にいるのとあまり変わらないのではないか等と思い、にわかに金井塚隊へ転属することになった。
◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属
私の外に教育兵から二十名ばかりの者が選ばれて転属することが決まった。この転属が後に大変な運命の岐路(きろ)になったのだが、その時は想像もできなかった。
橘教官を初め同期の教育兵達が、みんなで送別会をしてくれた。送別会といっても別に酒や料理があるわけではない。酒保(しゅほ)から僅かな菓子を買ってきて食べる程度のことであったが、野戦へ行く者を心から送ってくれた。その折、橘見習士官が別れを惜しみ歌を歌って下さった。
「今宵(こよい)出船(でぶね)か〜 お名残(なごり)惜しや〜 暗い波間に〜 雪が散る〜 船は見えねど〜 別れの辛さ〜 沖にゃ鴎(かもめ)も〜 啼(な)くわいな〜」と。
---今でもこの歌を歌うと、その時の光景や橘教官の面影が思い出され、言い知れぬ懐古の情が湧いてくるのである。
転属の日、私は同期の兵隊約二十名を引率して、留守部隊の人に挨拶をすませた後、トラック一台に乗り青野ヵ原の輜重聯隊の聯隊本部に到着し、申告(上官へ申し出、伝えること)をした。その時、各人の配属先が指示され、それぞれの中隊、小隊、分隊、班に分かれて行った。
私は金井塚中尉の率いる第一中隊の中の瀬澤少尉の率いる第二小隊で、藤野軍曹の第四分隊で、その第十二班で班長寺本上等兵の配下に編入された。班員は二十名だったと思う。
参考として、輜重聯隊の総数は約八百名で、その内第一中隊の総数は約四百名であった。
第一中隊の中には、編成前の金井塚隊にいた川添曹長(かわぞえそうちょう)や藤野軍曹、助教だった大仲伍長や木下上等兵など、知った顔がさきざきにあった。十二班には寺本班長の次に古参の上等兵や一等兵が約半数おり知らない人ばかりだった。残りの半数はこの度初めて入隊した新兵であった。私も新兵の部類だった。寺本班長は、私が入隊して以来今日までのことや、教育訓練中のことを知っていたらしく、そのように皆に紹介してくれた。みんなも快く受け入れてくれ、殆ど違和感はなかった。むしろ、特に親切にしてくれたように思われた。
南方に行くのだから、それなりの服や装具や兵器が支給された。また、厩に行くと元の金井塚隊から連れてきた馬だから見覚えのある馬が沢山いた。十二班には十七頭の馬とそれに見合う輓馬用車両が十数台あつた。馬には「金月」とか「金並」とか「金紫」等と名前がついており「金月」は橋本二等兵が担当し「金並」は松本一等兵が「金紫」は田中一等兵が担当するようにに責任者が決められていた。いろいろ様子が分かった頃私には「金栗」という名前の馬が割り当てられた。
毎日の訓練や、内務班での生活や厩の作業も、留守部隊の有元隊でしていたこととあまり変わりはなかった。
戦友の誰彼とも仲良くなってきた。馬の運動のため乗馬してかなり遠い小野の町あたりまで行くこともあり、緊張もするが楽しい時でもあった。
◇外泊と肉親
◆惜別の情
内地出発の日が間近に迫ったある日、一泊二日の外泊が許された。
「お前達、もうすぐ外地に向かう。一日家に帰って来い」とのお達しがあり、私も帰らせてもらった。
今まで内地におり、余り感じなかったが、ここ一週間以内に外地に出て行けば、もしかすると再び内地へ帰れなくなるのではないかと、しんみり思うようになっていた。
家には、電報で帰宅の旨を連絡しておいたので、両親と、妹も岡山女子師範学校(岡山大学教育学部の前身)の寮から帰って待っていた。皆、もう私が外地に出発することの覚悟はしていたようであった。私も余り多くを話す気になれなかったが、家族に会えて一泊できたことは確かに嬉しいことであった。
今まで、毎日の内務や訓練で忙しく、「これから外地に行くが死ぬことになるかも知れない」等と深く考える余裕はなかったが、こうして家に帰り静かな時を持つと、しみじみ考えさせられるのであった。
夕闇が迫る頃、縁側に出て庭を眺めると、南天(なんてん)の花が白く咲きかすかな香りを漂わせていた。子供の頃から庭先にあった南天だが、再び生家に帰りこの南天を見ることがあるだろうか? 遠くにたたずむ懐かしい山の輪郭を夕闇が包みこんでいく。
この頃、既に戦況は苛烈(かれつ)の度を加え、悪化の方向に向かっているのを感じていたから尚更(なおさら)、そんなことを思ったのであろう。
その晩は、材料の乏しい時勢ではあったが、母が都合して来てくれた鶏肉の鍋を囲み、親子四人で食べた。お互いに思うことは一つだが、誰も口に出さない静かな夕食だった。
しばらくして、母が、近所の様子や、出征した人の話を次々にした。これらは今の私達にとって、およそ意味のない話でしかないのだが、辛さを紛らわすために話しているのだった。そして自分の置かれている境遇がいかなるものかをつくづく感じさせられた。
久しぶりに、田舎のご・え・も・ん・風・呂・に入った。この四ヵ月の間、ゆっくりした気分で風呂に入ったことはなかったが、今日は入浴中に着ている物を盗まれる心配もなく悠然と風呂を楽しむことができた。
また、柔らかい、ふわふわとした布団の感触に、なんとも言えない幸福感を味わうことができた。それは母に抱かれた幼い日を思い起こすようであった。真っ白い枕カバー、それは王子様になったような気持ちがした。
静かに夜が更けてゆく。隣の部屋の明かりも消えているようだ、枕にポタリと涙が一と滴・・・・眠れない・・・・そうだ、遺書を書いておこう。
「遺書」「お父さんお母さん、いよいよ外地に向かって、出て行くことになりました。僕はもう、二度と帰って来ることができないかもしれません。生まれてからこの方、二十年余り本当にお世話になりました。私は今まで、本当に幸福に過ごしてくることができたと思っています。何とお礼申し上げてよいか分かりません。このご恩をお返しすることもなく出征していきます。私は日本人として恥ずかしくないよう、御奉公してきますから安心していて下さい。たった一人の妹の幸福を願うと共に、僕がいなくても妹と一緒に幸せにやって下さい。また、親戚の人や私の友人にもよろしくお伝え下さい。私はもう何も言えません、ただこれだけを書き留めておきます。もしもの時はこの遺書と、同封の東京で最後の散髪をした時の髪の毛を祀(まつ)って下さい。お元気で」としたため、やっと眠りについた。
夜が明けると、弥上(やがみ)の氏神様「見上(みかみ)神社」と、先祖のお墓にお参りした。
いつの間にか時間がきて、親子四人揃って四キロの山道を歩いて万富駅に来た。妹は岡山行きの列車に乗り、両親と私の三人は姫路行きの列車に乗るので別れた。
その時妹が「兄さん元気でね」と言ってくれたが声は潤(うる)んでいた。
加古川駅につき、青野ヵ原方面行きの軽便列車に乗り換えた。速度の遅い列車が小さい駅に止まり止まりして行く。乗客は比較的多く私達三人は立っていた。
両親といよいよ最後の別れの時が迫ってきた。今生(こんじょう)の別れになるのかと思うと涙が出てきて、ジーンと胸が詰まってきた。だが、「俺は男の子だ。若い立派な兵隊だ」そのプライドで他の乗客に涙を見られたくなく、気づかれたくもなかった。じっと涙をこらえたが、どうしようもなかった。両親はどんな気持ちだっただろうか? おそらく私以上に悲痛な思いであっただろう。もう、惜別の情耐えがたく、話すことも顔を見ることさえもできなくなり、ただうつむいているだけであった。
青野ヵ原駅まで行ってから別れるとなるともっと辛くなるので、一駅手前で父母は下車した。私は別れがこれ程辛いと思ったことはなかった。小さな列車はすぐに発車した。気を取り直し涙を拭き終わる頃、青野ヵ原駅に着いた。我に返り元気よく大門廠舎(だいもんへいしゃ)の門をくぐった。
---四年後、無事復員してから後に、妹から母がその当時何回も「その時の別れが辛かった。敦巳(あつみ)にもう会えないか、もうあれっきり敦巳と別れてしまうのかと思うと悲しくて悲しくて、身が引き裂かれる思いがした。本当に辛い別れであった」と話していた由を知り、親が子を慈(いと)しむ思いの強さに心を打たれた。
◆最後の日
いよいよ、青野ヵ原を出発することになった。どこへ行くのか知らないが長い旅が続くのである。今日一日は携行品の手入れ、検査、兵舎の後片付けなどで忙殺(ぼうさつ)された。馬達も明日の出発を知っているのだろうか?静かに休んでいる。このボロ兵舎でも今日が最後かと思うとやはり懐かしい。もう消灯後三十分も経過しただろうか、静かになった兵舎を不寝番が歩いて行く。その足音だけが耳に残る。
◇青野カ原(あおのがはら)出発
◆瀬澤小隊長の出発号令
いよいよ出発の日だ。慌ただしい数時間が経過し「出発」の号令がかかった。
第一中隊第二小隊は乗馬の瀬澤小隊長を先頭に、第三分隊、次に第四分隊の十班十一班そして私の属する十二班の出発、いよいよ私の番になった。持った手綱を少ししゃくった。私の馬、「金栗」は前へ一歩を踏み出した。引いた輜重車(しちょうしゃ)がゴトリと音をたて動きだした。力強いスタートである。長い長い輜重車の列が続いた。
乗馬は小隊長、分隊長、班長達。輜重車には兵器を積んだ車、弾薬を積んだ車、装具を、食料を、馬糧等を積んだ車が、長蛇の列を作って進んだ。実に壮観、勇ましい征途(せいと)である。
◆見送る人、見送られる人
街道にはあちらこちらに大勢の人が出ていて、見送ってくれている。雄々しい姿ではあるが、六月末の太陽は容赦なく照りつける。これだけの大部隊が行進するのだから砂塵(さじん)はもうもうとたち、体は汗にぐっしょり濡れ、目ばかりがギョロギョロする感じであった。
でも、私達は殊更(ことさら)に元気よく、見送ってくれる人の前を通り過ぎていった。遠くで田植えをしている人達も仕事を止めてこちらに向き、手を振って送り励ましてくれていた。
その時私はその人の名前は知らなかったのだが、有吉獣医下士官も埃(ほこり)にまみれて行軍していた。ふと見ると、その傍(そば)に上品な着物を着た女性が懸命に歩いている。有吉下士官の奥さんであろう。主人を見送るために来て馬部隊についての行軍、離れずついて行かれる姿を見て、大和撫子(やまとなでしこ)の心意気、夫を思う心の熱さに感激した。
他に、そのような父母、兄弟らしい姿を幾組も見かけたが誰々とは記憶していない。夕方姫路の市内に着き、一晩露営(ろえい)した。
次の日は、朝から貨物列車への積込み作業。先ず輜重車を分解して乗せた。次に兵器、弾薬箱、食糧、馬糧、それに各種器材の搬入をした。次に馬を一つの貨車に六頭ずつ積み込むのだが、馬も我々も馴れないことで、案外時間を費やし夕方までかかった。
私は先日両親と別れをしたばかりであるし、会えば別れが余計に悲しくなるので連絡をしなかった。この日は遠い所からわざわざ送りに来ていた方も多かった。
自分と同じ班で、いつも並んだ場所におり、助けあっていた橋本二等兵の奥さんが、二歳位の男の子と年老いた両親を伴って送りに来ていたが、胸の中はいかばかりかと察するだけでも気の毒であった。
そこは鉄道線路脇のバラスがごろごろした貨物の荷揚げ場で、汚くごみごみしていて屋根もろくにない。女や子供にはそこにいるのが痛々しく気の毒に思われた。それに湿度の高い暑い日であった。奥さんの着物は、白地に桔梗(ききょう)の花が紺色に染め出されたすっきりした柄のもので、何故か印象に残っている。
私は未だ一人身だが、こうして愛しい妻があり可愛い子供があれば、どんなに別れが辛いことだろうかと思うと、気の毒でたまらなかった。この五人の家族が元気で再び会えればよいがと、考えずにはいられなかった。
互いに別れを惜しんでいたようであったが、忙しい積込み作業中であり、初年兵の一兵卒に充分な時間は与えられなかった。彼はみんなに気兼ねもあるので早々に別れて積込み作業に加わった。橋本君こそ私と一番仲良しだったので、私はこの時の様子をいつまでも鮮明に覚えている。
やっと握り飯で夕食をすませた頃は、夏の日も暮れていた。それから馬の当番だけを残し、中隊全員で姫路護国神社に参拝し、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り黙祷(もくとう)をした。闇夜で不気味なぐらい静かであった。灯籠(とうろう)の薄い光だけが心に残った。もう何事も決まっているし決心も既にできており、静かに祈りを捧げるのみであった。
それから姫路駅横手から次々に客車に乗車した。何回か人員の点呼があった。もう夜のことでもあり一般人は誰も近づけないようにしており、駅員以外誰もホームにいなかった。汽車が動き始めた。向かいのホームに憲兵が三人立っていた。
列車は堅く鎧戸(よろいど)をおろし、山陽線を西へ下って行った。向かいの席に腰掛けていた久保田二等兵が「いつまたこの汽車に乗れるだろうか」と、私に向かってつぶやくように言った。
しばらくすると、平田古年兵が包みから、ぼ・た・餅・を出して「今日おやじが持って来てくれたんだ。一つだがあげよう」と言ってくれた。我が子可愛さに一生懸命に作ってきたぼ・た・餅・だ。砂糖がよくきいており特別おいしく頂いた。皆は一日の作業で疲れたせいもあり誰も無口になっていた。
私は、この内何人帰れるのだろうか?とそんなことを思っていたが、いつしか単調な列車のリズムに誘われ眠っていた。
◇宇品港出港
◆積込み作業
六月下旬の夜は短く早く明け、目が覚めた時は、列車は宇品駅に着いていた。ここも貨物のホームである。昨日荷物を積み込んだ貨車も、馬を積んだ貨車も横の線路に到着していた。早朝から、荷物や馬を貨車から降ろす作業、それを艀(はしけ)に乗せる作業、艀から輸送船へ積み込む作業が始まった。
分解した輜重車を車体と車輪に分け貨車から降ろす。港が浅いと大きい船は岸壁に着かない。そこで波止場から本船まで、すべての積み荷を、台状で縁に柵のない艀(はしけ)という舟が運搬するのである。艀に荷物を乗せ、二百メートル程沖に停泊中の本船に横着けし、ウインチで巻き上げる。ここでは船舶兵がいて、荷物の置き場所や置き方を厳しく指示しており、専門家の彼らに従わざるを得ない。車体は車体ばかり、車輪は車輪ばかりまとめ、場所を取らないように所定の船倉の奥深い場所から詰めて置くのだが、一回に十台分ぐらいの輜重車がウインチで釣り上げられていく。次から次に運び込んでも限りがない。
兵器や弾薬、各種の装具、馬糧、兵隊の食糧等の積込みがすむと、次は馬の番である。貨物列車から馬を引き降ろし波止場まで連れて来るのだが、馬も昨夜一晩中汽車に揺られて疲れている上に、列車の乗り降りは馴れていないので、踏み板の上を歩かせる時は滑りそうになり大変だった。
それより、艀には縁(へりvに柵が無いのでしっかり鼻を持っていないといけない。一匹の馬でも暴れだすと大変だ。馬は驚き慌てる性質を持っており、海に落ちるようなことになると人間も危ない。
とにかく艀の上でガタガタしないように用心することだ。
次は、艀の馬を本船のウインチで、吊り上げて搬入して行くのだが、馬絡(ばらく)で馬の腹を締めようとすると、ガタガタと暴れる奴も出てくる。そしてウインチで引き上げようとすると急に走りだす馬もおり、また暴れ回る馬もいるので、そんな時は我々は必死で馬の鼻のろ・く・を捕まえておかねばならない。
一歩誤れば、海に落ちてしまう。危ないことこの上もない。馬絡(ばらく)で馬の腹を締めてウインチに掛ける困難な作業は、古年兵でモサの藤川上等兵や横田上等兵達気合いの入った兵隊がやってくれ助かった。馬もガタガタしているが、ウインチで吊り上げられてしまうと、どの馬も観念するのかじっとしてしまう。不思議なもので、一本でも足が地面に着いている間は暴れているが、離れたら自分の力が及ばないと感ずるのか、おとなしくなる。一頭一頭吊り上げては船に入れ、吊り上げては船に入れるのだが、足が船の床に着いたとたんにまた暴れ出すものもあり、緊張の連続であった。
続いて船底の馬房(ばぼう)に入れるのだが、船底の馬房の仕切りは狭く一頭一頭がやっと入れるぐらいの大変窮屈なもので、身動きもできないくらい詰め込まれ、しかも、船に揺られ揺られて何日も動けないのだから、馬も本当に可哀相なものである。このようにして、馬が全部運び込まれるまでには相当な時間がかかった。
やっと終わったと思っていたら、新規に弾薬が沢山送られて来て、それを積み込む作業が別に増えた。みんな蟻のように一列に並んで艀まで弾薬箱を肩に担ぎ、積み込みをすませるとヘトヘトだった。
戦場では弾丸がなければ戦えないし、弾丸が命である。だが、今日の場合疲れきっていた上に、余りに多く重たい弾丸だったので、「有り過ぎるのも困りものだ」などと、苦しまぎれの声も聞こえてきた。
朝から晩まで働き、やっと積み込みが完了した。輜重隊はその名のとおり輸送部隊であるから荷物や持ち物が多く乗船も大変である。長い夏至の頃の早朝より日暮れ前までたっぷり一日かかった。
船内に馬の当番と積み荷の監視当番を残し、日が暮れる頃やっと宿屋に着いた。大勢の兵士が泊まるのだから充分なサービスを期待するのは無理であるが、なにしろ入隊以来五ヵ月も女の人と話したことがないのだから「兵隊さんご苦労ね、明日は外地に出て行かれるの、お元気に」と優しく声をかけてくれ、一生懸命に世話してくれる気持ちが自然に伝わってきて有難く嬉しかった。
ここでは久し振りに畳の上で、軍隊ではアルミの茶碗にお碗、アルミの箸で情緒がないが、お膳で出された飯を食べた。また軍隊では昼夜通し同じ肌着と服なのにここでは浴衣に着替えた。その上軍隊では寝具は毛布だが、ここでは触りの良い夏布団に寝ることができ、内地の娑婆(しゃば)の夜をいささかでも味わうことができた。
「いつの日にか再び畳の上で、お膳の飯を頂くことができるだろうか?」と思いつつ休んだ。みんな寝静まったのか、柱時計がコチコチと時を刻んでいた。
◆乗船
我々は銃と剣そして装具一式を背負い、艀(はしけ)からタラップを登り本船に乗船した。セレベス丸という五千トン級の貨物船である。しばらくして、船内の狭い階段を上がったり下がったりして、私達十二班に与えられた場所へ入っていった。
まことに狭い、高さも広さも。もともと貨物船で荷物を入れる場所を上下二段に仕切っているので、高さ一メートル弱で立つことは絶対できない、這(は)って奥に入るより仕方がない。
一人当たりの面積は五十センチ角も無いようだ。装具を置くと一杯だ。荷物をきちんと置き、人間が座っただけでギュウギュウの箱詰めである。一人が横に寝るためには三人が外に出て行かなければ面積はとれない状態で息詰まるようだ、無茶だ。それに薄暗くて照明も極めて悪く、薄汚く人間のいられるような場所ではない。しかしどうしようもない。それだけの広さと高さしか与えられていないのだ。敵の潜水艦にやられたら、人が一杯で船室から逃げだすことは絶対できない。
装具を置いて甲板(かんぱん)に出てみた。遠くに広島市の北の山が、近くに宇品の町並みが見える。気がつくと他に貨物船が二艘(そう)おり、兵隊を一杯乗せていた。同じ輸送船団を組むのだろう。どの船も水や油の補給をしており、あちこちに連絡用のモーターボートが走っていた。
夕方近くになり錨(いかり)が引き上げられた。何の合図もなく船は動き始めた。他の二艘も動き始めた。
夕闇の彼方に小さな町の灯火が次第に遠退(の)いていく。戦友の橋本二等兵や三方二等兵達といつまでも甲板に立ち舷側(げんそく)の手摺りを固く握っていた。若い兵士の胸に熱いものが込み上げてきて声も出ない。唯(ただ)、黙ったままであった。
これで、いよいよ内地ともお別れだ。父母兄弟、妻や子供の住むこの国を出るのだと重苦しい気持ちに包まれており、征途(せいと)に就くという勇ましいものではなかった。
船での一夜が明けた。甲板へ上がって見ると、関門海峡を通過しているところだった。船団は六艘(そう)になっていた。下関の端の部落へ大きな声をすれば届く程だが、もう内地と私達の間には絶対に届かない遠い遠い隔たりがあった。いつしか船団は五島列島の沖を走っており、漁師が小舟から手を振っていた。船団は南西に向け進んでいる。
次の日、夜が明けてみると、様子がおかしい。どこだろう?「関門海峡を瀬戸内海へ入った所だ」と皆が言っている。確かにそうだが、どうしたのか分からない。船団が忘れ物をして引き返したのでもなかろうが、命令が変わるのだろうか、お粗末なことだ。
戦況がよくないのか、敵の潜水艦が接近したとの情報によるのかも知れないが、上層部が何かにつけ、うろたえているからだろうと思った。次の日はまた出発だ。再び五島列島沖を通過しているが二、三日が浪費されたことになる。
◇輸送船内の様子
◆寿司詰
軍歌で「あーあー堂々の〜輸送船〜」と勇ましく歌われているが、実態は貧しく非常に窮屈(きゅうくつ)である。
どの船も、各船室は兵隊が寿司詰めになっている。船倉の深い部分に輜重車や弾薬を積み、馬も深い船底のあたりにいるが、そこに新鮮な空気を送るために扇状の大きな幕で前進方向からの風を捕らえ、布製の大きなダクトを通して船底の方へ空気を送る仕掛けがされていた。貨物船をにわかに改装したのでこのようになっているのだろう。
それに、千人もの人を急に乗せることになったのだから便所が足りない。当然のことだ。対策は?甲板外側の手摺(てすり)りの外に、はみ出して木組みがされている。丈夫な木と板で出来ているが、屋根もなければ、囲いもない。吹き通しで、床は二枚の板が適当な間隔で渡してあるだけである。
空も周囲も下の海面もよく見える。眺望絶佳(ちょうぼうぜっか)の完全な無臭トイレだ。そこで便をするのだが、始めは余程糞(くそ)が溜まってからでないと、出てこない。それに風の強い日には吹き飛ばされそうだし、下を見ると波頭が上下に五、六メートルも動いており、海面が遠くなったり近くなったりで、大便をするのも恐ろしく勇気が必要となるのだ。
飯と汁を各(おのおの)の飯盒(はんごう)と飯盒の蓋(ふた)へもらって食べるのだが、所定の班内の場所は狭くて入れないので、浮浪者のように甲板のあっちこっちに座り、適当に食べる。食べた後はほんの僅かの水で洗う。おかずは塩干魚(えんかんぎょ)などで変わりばえもしないが、船の飯は蒸気で炊いてあり、幾らか塩気もあり、案外美味しいのがせめてもの慰(なぐさめ)めだ。
その後、船団は東支那海に入ったのか前後左右に大きく傾き揺れるようになった。
私は、宇野・高松間の国鉄連絡船に乗ったことはあるが、こんな大きい船に乗っていながら、こんなに揺れるのは初めてであり、気持ちの悪いことといったらひどいものである。立てばふらふら、よろけどおしである。寝転んでも目がまい、ひどい船酔いで、飯も喉を通らず激しい空嘔吐(からおうと)をするばかりである。
戦友も三分の二以上がひどい船酔いで弱っている。酔っていない者が馬の世話や飯上げなどをしてくれた。どこに行ってもたまらない。気分転換と思い馬の所に行ってみたが、そこは馬糞の臭(にお)いで余計に気分が悪くなるだけで、処置なしである。
二、三日が経過し船の揺れが納まりかけると、船酔(ふなよ)いはけろりと治り、忘れたようになった。飯は食べられるし足取りもしっかりしてきた。甲板に出ると太陽がまぶしい。大分南に来たのだろう。沖縄列島だろうか小さな島が遥かに見えた。
船は昼も夜も走り続けている。だが、いつもジグザグコースで行くので、日にちばかりが過ぎ、案外南への距離は伸びていないようであった。ジグザグコースを取るのは潜水艦の攻撃を避けるためだそうだ。素人の私でさえ、そんなことでは避けられはしないだろうと思った。敵の潜水艦はもっと速度も早いし、優秀な観測機と正確な魚雷を持っているはずである。子供だましもよいところだ。でも、ジグザグをしないよりは、したほうがよいのかもしれないが。
ジグザグコースで蛇行し進んでいるのだが、前の船と次の船の方向の違いは直角といってもいいぐらいなので、五日かかるところを十日かかるのは当たり前のことである。これは昭和十八年七月のことだが、この時既に敵の潜水艦に対し、かくも戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした有様だった。
◆船内の生活
もう一週間ぐらい体を洗っていない。各人、飯盒(はんごう)に一杯の水をもらい、洗うのだが、先ず顔を洗い頭と体に移る。上手に使わなくてはすぐに無くなってしまう。水がこんなに貴重で有難く有効に使えるものとは、今まで思ったこともなかった。幾らか清潔になり気持ちがよかった。
ところで飯盒には、いろいろの使い道があり、水入れ、お米入れ、飯炊釜(めしたきかま)、お汁の鍋、おかず入れの食器として使われる外、このように洗面器代りになったり、場面によっては汚物入れとして使われるかと思うと貴重品入れともなった。もったいないことだが、いちばん安全な保管方法として戦友のお骨入れになることもしばしばであった。まさに万能の道具であり、後の話に出てくるが敗走千里の道で、最後には命の次に大切なものとなるのである。
船の中で割り当てられた場所は非常に狭いので、上甲板(じょうかんぱん)の設備や荷物の間に横たわるだけの場所が見つかればそこへ寝るのだ。場所取りもその日の早い者勝ちである。いつも我々は救命袋を携えており、それを枕にしていた。幸いに熱帯地方の海上だから寒くなくて有難い。雨と露が凌げればよいのだ。
そんな一等場所が取れないと、厩に行き馬と馬の間に渡した境の太い木の枠の上で寝ることになるが案外悪くない。馬も時には大きなお・な・ら・を落とす、丁度私の頭の辺でやるからたまらない。
だがしばらくの辛抱だ。
船の中は狭いので時に総員上艇(じょうてい)という訓練があり大変だったが、平日は朝晩みんなで体操をしたり、軍歌を歌ったりして、士気の高揚を図っていた。
よく晴れた日の航海はたとえ戦場に運ばれていても、緑の島等が見えるとさわやかで楽しいものであり、船が白波を残して進んでいるさまは一幅の絵になると思えた。また、いつ敵の潜水艦にやられるかも知れないと思うと心配でもあったが、どう思ってみても仕方の無いことであった。
ある闇の夜「潜水艦がいる。全員非常体制に入れ」の命令が出た。甲板に上がり救命袋を身に着け、やられたらすぐに海に飛び込める体制で、しばらく緊張の時間が続いた。船の灯火は全部消しており不気味な時が流れたが、幸い攻撃されずにすみ事無きを得た。
何日目になるであろうか、台湾の東側を南に向け航海している。花蓮港(かれんこう)の町には気がつかなかったが、確かに高い山並みが海岸に迫っていた。それに沿って更に南下し台湾の南端の岬をぐるりと回り、進路を北へ取り高雄(たかお)港に着いた。子供の頃に高雄のことを地理で習っていたが、いよいよ来たかと思った。波静かな青い港があり、辺りに南国の樹木が茂り、熱帯の果物が実り何だか不思議な魅力を感じた。
◇ビルマへの道のり
◆高雄へ上陸
「馬を上陸させて休ませよ」の命令である。船底にいる馬を一頭一頭ウインチで吊り上げ波止場に降ろした。この港では直接岸壁へ接岸できて、艀(はしけ)は不要であり幾らか楽であった。しかし、瀬澤小隊だけでも百頭からの馬で、波止場から五百メートルばかり離れた公園らしき場所に連れて行き繋(つな)ぐのだから、全部終るまでには五時間程かかったと思うが、兵隊にとっても馬にとっても大変な仕事である。
陸の上で馬糧(ばりょう)を食うている馬はうれしそうである。新しい水を一杯飲んで体調を整えているのだろう。我々も久し振りに陸地に上がり、大きな風呂に入り体の垢(あか)を落し、さっぱりすると格別な嬉しさが湧いてきた。
台湾の本場でバナナを買って食べたが素晴らしい美味しさである。生まれてこの方こんな美味しいのを食べたことはなかった。
何日ここに泊まれるのだろうか?と思っていると「出発準備」の命令だ。馬を降ろして一晩(十二時間)しかたっていないではないか、何たることか。
それでは、馬も兵隊も疲れるだけではないか。上の方の意志統一ができていない証拠か。だが兵隊達がそんなことを言ってみても始まらない。どの辺の上層部相互の食い違いか知れないが、命令は命令だ。合理性等どうでもよい、命令がすべてを支配するのが軍隊なのだ。
早速、馬を船室に入れる作業に取りかかった。馬絡(ばらく)に縛られ馬は一頭一頭吊り込まれていった。馬もこんなにして吊りあげられるのはいやだろう。全員がかりでまた約五時間かかった。幸い誰にも怪我はなく順調に乗船作業ができ、すぐに出航した。
何のためか知らないが、次はボウコ諸島の馬公(まこう)に錨(いかり)を降ろした。しかし三時間程でそこを出港した。それからもジグザグコースを取りながら南へ南へと航海した。割合平穏で波も静かな日が続き、船内の生活も今までどおりでこんなものかと馴れてきた。
その頃厩当番に就いた。馬の糞を熊手のような物で掻きだし、集めてクレーンに乗せ海に捨てる作業、馬に餌を配分してやる作業、水を飲ませる作業、異常はないかと見て回るのだが、多くの馬だから結構仕事がある。馬との関わりも半年になり、常に用心は必要だが馴れてきた。馬も我々の方に馴れてきたのだろう、言うことをよく聞くようになっていた。
護衛艦(ごえいかん)が高雄(たかお)当たりまで来ていたが、その後この航海にはついていない。どうしたのだろうか。
また、初めの内は飛行機が時々飛んで監視してくれていたのに、今頃は全く姿を見せてくれないのが心配だ。輸送船団は無防備の丸裸、やられればそれだけのことで、助かることは先ずないだろう。
◆サイゴン(現在ホーチミン市でベトナムの首都)へ上陸
数日後、船団は大河メコン河を上り始めた。我々にも当時仏領インド支那のサイゴンに行くことがすぐに分かった。六千トン級の船が自由に航行できる大きな河である。
サイゴンの港に到着すると、すぐに下船(げせん)を命じられた。宇品で乗せたすべての物を降ろして、臨港の倉庫に搬入しておき、兵士は各自の装具一式を携行し、馬と共に市内を行進して兵站(へいたん)宿舎に着き、馬は仮の厩(うまや)に繋いだ。早朝よりまる一日がかりの大仕事であった。前にも述べたように輜重隊は多くの荷物、弾薬、食料等を同時に輸送しているので、船からの積み降ろしが大変なのである。ここでセレベス丸と別れた。よくここまで無事に運んでくれて有難う。
市内を行くと、サイゴンは小パリーと言われるだけに美しい町並み、緑の芝生の中に瀟洒(しょうしゃ)な建物が並び、商店街も奇麗に整い樹木が多く、垢抜(あかぬ)けのした美しい家があり、清潔な感じのする街であった。若い女性が涼しげな美しい衣装で、自転車で往来していたのが印象に残った。
日本軍の佐官や尉官の車が行き来し、時に黄色の旗を立てた将官を乗せた自動車が人目をひいていた。さすが南方総軍指令部のある拠点だけに、日本軍人が威張って町の中を行き来しているようであった。兵站宿舎での給与は良く、食料、砂糖、外国たばこ等を与えてくれた。
宿舎と厩が離れていたので、飼(かい)を与えるためにその間の道を行ったり来たりした。もっと街の様子を見たいと思ったが外出の機会がなく、到着と出発の時に町並みを通っただけで残念だった。
十日ばかり滞在したが出航の日が決まり、その前日に、船から降ろし倉庫に入れておいた弾薬や輜重車等の荷物と馬を、終日かけて輸送船に搬入した。重労働も全員が一致協力して頑張るからやれるのである。
私の馬「金栗号(きんくりごう)」は体格は並みの大きさ、流れ星の栗毛でおとなしい性質で私によく馴れていたが、積込みの合間に「お前も吊られたり降ろされたりで、ご苦労さん」と言って首を叩いてやった。
当日は宿舎を片付け掃除をすませ装具一式を携行して乗船した。美しいサイゴンの街に別れを告げ出港した。緑の平野が広く開ける中をメコン河が流れ、輸送船団はその河を下って海に出た。
南の空は青く澄み、海は静かでキラキラと真夏の太陽に輝く。その中を白波をたてて船団は進んだ。この頃はジグザグコースは止めて、南に向かって一路航海している。鏡のような海の中を右や左に島を眺めながら航海し、数日の後にシンガポールに入港した。
◆シンガポール(当時は昭南島(しょうなんとう))へ上陸
入港の前に船から見る風景、私はこんな美しい景色を見たことはない。海の色は翡翠(ひすい)のように澄んでおり、島の緑がさえている。心がうっとりとし、見惚れるようだ。無銭旅行にはもったいないぐらいだ。
しかし船が着けば重労働が待っていると思うと、気分が落ち着かない。やがて接岸し、当然のことながら下船命令が伝達された。いつものように荷物を全部降ろし、弾薬箱や大型の荷物、分解した輜重車等を波止場に近い倉庫に格納した。馬と兵隊は中兵営の宿舎まで五〜六キロを歩いて行った。朝から晩まで休む間もない作業の連続で夕刻になりやっと落ち着いた。
やれやれと思っていると、一時間もたたない間に、「明日乗船せよ」の命令だ。どうなっているのか?ものも言えない程あっ気にとられたが、命令である。
一夜が明け、馬を連れ装具を持ち波止場に行った。昨日格納したばかりのおびただしい荷物を倉庫から運び出し、ウインチで輸送船に吊り込んだ。次に馬も一頭一頭馬絡(ばらく)で吊(つる)し船倉へ入れた。
もう何回もするので作業には大分慣れてきたが、危険はつきまとい、やはり大変な労働である。
みんな一生懸命したが、たっぷり一日かかり、夜遅くやっと狭い船室に潜り込む有様であった。夜が明け出航はいつだろうかと思い待っていた。
その日は何もなく終わろうとした頃今度は「明日下船せよ」の命令が出された。全く猫の目のようによく変わる、いや、猫の目もこんなには変わらないだろう。
参謀達が、なにかの情報により決めるのだろうが、更にはもっと偉い人が、その他の状況から「それではいかん」として変更になるのかも知れないが、末端では大きく振り回されっ放しだ。しかし、命令は絶対である。絶対だからこそこうなるんだろうが、とにかく大変なロスだ。負け戦の前兆とは、こんなものだろうか?
命令に従い、再び下船作業を丸一日がかりでやっと終え、その日も夜になり、中兵営に再び帰ってきた。もうクタクタである。思えば忠実な軍隊であり兵隊である。
その後二十日間ぐらい、シンガポールの兵站宿舎であるコカイン兵舎に宿泊した。特別な訓練はなく、馬の世話と点呼と体操、軍歌演習、時に駆け足をして過ごした。市内に出たのは二回ばかり、食糧の受領にトラックに乗り通った程度で、あちらこちらを見物する機会はなかった。でもその時の、朝の霧に包まれたさわやかな空気、奇麗なアスファルトの街路、高いビル街、そこをロバがパカパカと車を引いて軽快に走る美しい街並みの印象は忘れられない。
大きいビルが所々に建っており、その間に椰子(やし)の木が高く伸びて葉を拡げていた。広い庭に緑の芝生を持つた豪華な住宅もあり、素晴らしい南国の都市は見ただけでも、長い船旅の疲れが癒(いや)された。
また、真昼の暑い最中に、夕立のような大粒の雨が三十分間ぐらい降るスコールが毎日あり、なんとも気持ちよく、暑さを忘れさせてくれ有難かった。
市街地から少し離れた場所を通ったとき、その広場におびただしいトラックや自動車の残骸があった。敵味方両方の物であろうが、ただ驚くばかりの量である。一年半前に日本軍がこの地を攻略した時の戦争の爪跡が、ここに鮮明に残っているのである。
シンガポールには南方軍総司令部の一部が置かれ、我々のいる兵営の近くにある立派な邸宅は将校宿舎として使用され、高級将校が乗用車に黄色や赤の旗をなびかせて出入りしていた。このように、街は日本軍の権力下にあった。
私が臨港倉庫の監視当番の任務に就いた時、その近くで英軍の捕虜が車で荷物を運搬している姿を見た。二十人ぐらいの集団を、鉄砲を持った小柄な日本兵が監視して、作業が行なわれていた。暑い熱帯の太陽光線を浴び、帽子も被っておらず、上半身裸である。白人の白い皮膚が赤色に日焼けして汗を流していた。
「哀れだ、気の毒だなあー」と一瞬感じた。「でも捕虜だから仕方がないではないか」と頭の中で肯定した。シンガポール陥落時の山下将軍とパーシバル将軍の会談の姿を思い浮かべた。勝者と敗者の立場の違いはどうすることもできない。二年後よもや逆の姿になろうとは、私は思ってもいなかった。
倉庫の監視当番をしていたが、いささか退屈し、波止場の方に行ってみた。そこでインド系の顔をした現地人と出会い、私の片言英語と彼のシンガポール英語で話を交わした。手真似足真似を加えながら、相対して話をするとかなり意味が通じる。「日本からいつ来たか?何歳か?お前の名前は?兄弟は何人いるか?」等単純な会話をした。しかし、彼はその後に「イングリッシュ、シュワー、ヴィクター」英国が必ず後で勝ち、日本が負けるだろう、と言った。
理由を言ったか否かは今では記憶にないが、戦いの広がりが急だったので、シンガポールでは、英軍の戦闘体制がまだ整わず、戦力を固めていない先に攻撃されたので負けた。しかし、根本的に両者の装備、近代兵器の程度の差を見て、彼らはそう感じていたのだろう。
私も入隊前に友人の内田君が「シンガポールで捕獲した戦利品のレーダーが優れた性能を持ち、日本はその真似をして試作している」と言っていたことを思い出し、嫌な情報としてこの予言者のことが頭の中にこびりついて離れなかった。
シンガポールのコカイン兵舎に駐屯中、特別の訓練はなく、次の命令待ちの状況で時間に余裕があり、のん気に過ごした。幹部候補生の試験のことは、常に頭の片隅にあったが、いつ試験があるといった情報もなく、目的が目の前に無い上に、戦地に向かう途中という気持もあり、それに切瑳拓磨(せっさたくま)する相手もなくて、つい安易な方に陥りがちで勉強らしい勉強もせず、漫然と日を過ごしていた。
南国の夜空は澄み南十字星やサソリ座が美しい。内地は今八月で蒸し暑い夜が続いているはずで、こちらの方がむしろさわやかなように思われた。
二十日ぐらいたったある日、乗船命令がきた。かねてから、ジャワは天国、ビルマは地獄と言われていた。ジャワは気候も良いし戦況も落ち着いているが、ビルマは気候が悪く、病気もまん延しており、しかも戦況が悪いという意味であったが、ビルマで使用する軍票(ぐんぴょう)、その紙幣が渡された。これで行く先は地獄のビルマと決まったのだ。セレベス丸と同じような貨物船を改装した輸送船に、今度も丸一日かけて荷物と馬を運び込んだ。その次の日に、シンガポール港の岸壁を離れた。美しい町よ、さようなら。
船団は六艘ぐらいか、よく分らないが北へ向かって舵が取られたようだ。ペナン沖で輸送船が敵の飛行機にやられ、無残な残骸(ざんがい)をさらしていた。それを目前に見て、我々の船もいつやられるか分からないと思うと、急に不安になってきた。戦地に近づくにつれて、飛行機と潜水艦の恐怖を一層感じるようになった。
更に北上を続けていると、突然「空襲警報」の声。甲板に上がってみると西の空に点々と飛行機が見えた。二機がこちらへ向かって飛んでくる。キラキラと太陽に輝いているなと思って見ていると、爆弾が落とされた。かなり離れた所にいた貨物船が攻撃され一艘が爆撃を受けて沈んだ。
あっという間の出来事で夕闇の迫る頃であった。幸いに我々の船団ではなかった。
翌日船団はラングーン港を目指し大きな河を上っていく。前方の森の上に金色に輝く塔を発見した。大西一等兵が「あれがパゴダだ」と教えてくれた。近づくに従いだんだんパゴダが大きく見えてきた。

四 ビルマでの軍務と移動
◇ビルマに進駐(しんちゅう)
◆ラングーン港で荷揚げ
甲板(かんぱん)に上がり感慨深い気持ちで初めてパゴダ(仏塔)を見た。緑の丘の上に建っており、沈んでいく夕日に赤く彩られた黄金のパゴダは、何とも言えない美しい姿をしていた。これがビルマでの第一の印象だった。夕闇が迫り町の明かりが点々と点(とも)され始める様子を眺めながら「いよいよ目的地ビルマについた」の感を深くした。
日も暮れ、今夜はこのまま船に泊まるものと思っていると「各小隊は班内の部屋に帰れ」との放送があり、帰ってみると瀬澤小隊長から「本日これより下船作業をする。昼間になれば敵機の襲撃を受ける恐れがある。夜間作業だから特に気をつけてやれ」との命令である。
輸送船のブリッジと波止場側に照明灯が明か明かと点灯され、船のウインチがガラガラと音をたてて動き始めた。日本から遥々(はるばる)運んで来た兵器、弾薬、輜重車、馬具類、馬糧、食糧、雑品等多くの荷物を降ろす重労働が続いた。深夜の作業と空腹で、すっかり疲れ果てた時「今夜の作業はこれで中止する」との命令が届いた。それと同時に一人に二個ずつの握り飯が配られた。腹がペコペコなので有難かった。
いつものことだが手袋も無く、素手の作業だから手は汚れに汚れているが、夜のことでどれ程汚れているか分からない。しかし手を洗う水がどこにあるのか分からないし、照明がきく以外の所は暗くて危険である。それに疲れきっているので、汚れた手で握り飯を受け取りムシャムシャと食べた。
やっと一息つき、各自の装具を枕にし臨港倉庫のコンクリートの上に寝転んだ。広々とした大地に足を伸ばして寝るのは久し振りで気持ちが良い。二、三時間寝たのだろうか、夜明けと共に「起床」の声がかかり、再び船から積み荷を降ろす作業が始まった。馬も吊りあげられ、次々と波止場に降ろされた。長旅で疲れているのと、吊られることに慣れたせいか暴れなくなり、扱い易(やす)くなった。私の馬「金栗号」も無事着いた。遥々ビルマまで連れてこられた馬達も可哀相なものだ。すべての荷物を降ろし終え、全員下船したのはもう午後になってからだった。
今度は輜重車を組み立てて弾薬等すべての荷物を乗せた。波止場の倉庫に積んで置くのではなく、港から兵站宿舎まで運搬しなければならない。ここからはいよいよ本番だから、以前とは違い、しなければならない仕事が沢山あって時間もかかり、労力も大変なのである。
長い間、船底に繋がれ運動不足になっていた馬に、いきなり鞍を置いて、弾薬等の荷物を沢山乗せた輜重車を引かせるのは、厳しいことだが、仕方がない。
幸いラングーン港から宿営地まで八キロ程度であまり遠くはなく、平坦な舗装道路であった。その上に、雲の多い日で暑くもなく人馬ともに助かった。船から見えた大きなパゴダはシュエダゴンパゴダといって、ビルマで一番立派で有名なものであるが、その横をぐるりと半周し回って行った。
このパゴダは近くに来て見上げると実に大きく、周囲に小さなパゴダを沢山従えた素晴らしいもので、目を見張った。輓馬で輜重車を引いてそこを通り市内を進み、夜八時頃ラングーン駿河台宿舎に到着することができた。
馬を近くの林の中に繋ぎ飼(かい)を与え、決められた兵舎に入って携帯する装具を片付け終わった時は深夜になっていた。
ここで五日間過ごした。軍馬の手入れ、兵器の手入れ、備品等の員数点検と整備を行なった。長い旅の後、しなければならないことは沢山あった。馬には青草を刈ってきて与えてやらなければならない。林の中に沢山の馬があっちこっちの木の幹に繋がれていた。もちろん屋根もなく小屋もない。
それを見張る当番を交替でするのだが、三日目の夜は私が当番になった。日暮れ前に皆が来て馬糧と水、乾燥の草を与え馬体の手入れをしてくれたが、作業をすますと皆は帰り、その後は我が班では私一人である。
班の馬は十七頭、この夜は雲が多く真っ暗だった。頼りはローソクの灯(あか)りだけで、一頭一頭の顔をのぞいて見る。ゆらゆらするローソクの灯りのせいか、どの馬も元気がなさそうだ。私は休むところがないので、土の上に腰を降ろしていると居眠りがつきそうになる。でも充分見張りをしなければならないので、立ち上がり繋いだ綱が解けないように見直しをした。ローソクも沢山ないので必要のない時は消していた。暗い夜で林の中では、どちらが馬の頭か尻か見当がつかない。
夜中、二時頃だろうか、ポツリポツリと雨が落ちてきた。困ったなあ、と思っている間に凄い雨になった。用意していた外套(がいとう)を着た。立ったままが一番よい。
薄い外套を通して雨が浸透してくる。外套の頭巾(づきん)に雨がザンザンと音を立てて降り注いでくる。
よく、バケツをひっくり返すようなひどい雨だと表現をするが、そんなことではない。ドラム缶の水を頭から浴びせかけられるようだ。
馬には覆う物等何もない。ずぶ濡れになってしまっているが、どうすることもできない。篠突(しのつ)くような雨は一層激しくなり、傾斜地を水が駆けおりて流れてくるのを足に感じる。真っ暗闇の中でどこがどうなっているのか見当もつかない。
馬が時々身震いをしている気配を感じる。私も馬もじっと我慢するより仕方がなかった。早速、ビルマの雨の洗礼を受けたのだ。これが雨期末期九月の雨だった。
先々この五、六、七、八、九月と続く長く激しい雨期の雨に泣かされ、多くの戦友が命を奪われることになろうとは思わなかった。雨期に対し、十、十一、十二、一、二、三、四月は雨は一滴も降らず、乾燥してしまい草は枯れ、灌木(かんぼく)は葉を落としてしまうような乾期となる。それ程気候の変化が激しい風土とは知らなかった。
◆ピュンタザの町に移る
四、五日後、ラングーンを離れ他所へ移動することになり、早朝より丸一日かけて、すべての荷物を兵站から運び出して、輜重車を分解し弾薬箱等多くの荷物を次々に、鉄道の貨車に積み込んだ。列車は機関車、貨車とも小型のものであった。馬も夕方になり天蓋(てんがい)のある貨車に引き入れ、順序よく並べて繋いだ。陸の上だけの作業なので、乗船時のウインチを使用しての作業に比べると楽であった。
しかし、長い踏み板を貨車の端に掛け、傾斜した板の表を馬に歩かせるのだから、滑らないように注意する必要もあり、少しの事故でも起こさないようにしなければならなかった。
積込み作業中、ふと見ると貨車の隅に小型のサソリが二、三匹うずくまっていた。用心用心。
馬に飼を与え厩当番を貨車に残し、我々はその晩は、疲れた体をかばいつつ駅の倉庫の中でごろ寝した。夜中に蚊がぶんぶんと顔を刺しに来たが、はねのけはねのけ眠った。
どこへ連れて行くのか知らないが、我々を乗せた貨車は、北に向かって走っているようだ。貨車の箱には左右に入り口の開口部があるだけで、全く風の入る所がない。日中は天蓋(てんがい)が焼けて暑いこと暑いこと、馬も同様に暑い思いをしているはずだ。山のない広い平野や田園の中を、おもちゃのような汽車は遅いスピードでコトコトと走って行った。
半日ぐらいしてピュンタザという町に着いた。マンダレー街道に沿った町で鉄道の機関庫があるちょっとした町だった。レンガ造りのしっかりした家や、木造でトタン屋根の家が多かった。そのような中程度の町であった。中心に大きな池のある町で、現地人は皆民族の衣装を着ていた。
この町の比較的良い家を借り上げて使用した。我々は異国の兵であるが、一つ場所に別に兵舎を建てて住むのではなく、地域混住のような状態で民家を借りて住んでいるので、町の人々に接する機会が多く、幾らかビルマ人の生活や言葉を見聞した。
この頃は、日本軍の勢力が強く、敵の飛行機はこんな普通の町を空襲して来ないので、安心して地域内に混住出来たのである。
◆当時のビルマについて
民家を借りているのだから、道を通るビルマの子供がやってくる。親しそうに「マスター」「マスター」と言ってくる。どこの国の子供も可愛いいものである。大人達も道を通っていて目を合わせると、にっこり会釈し「日本の兵隊さん、今日は」などと片言の日本語で挨拶をする。

初めて見るビルマ人は、男も女も大人も子供もみんなロンジといって、ちょうど女性の腰巻きに似たもので少し余裕のある筒状になっているものを、前の方で絞り大きく結んで腰に巻き付けている。別の紐(ひも)で縛(しば)っているのではなく、ロンジの端で上手に結んでいるのだが、決して解けて落ちるようなことはない。下には何もまとっていない。上半身にはエンジという、袖のついた薄手の上着を着ている。それだけである。
男のロンジは茶色等地味なものが多く、女のは赤や緑など派手なものが主で、エンジは白い布のものが普通である。普段の作業着とお祭りで着るものとは色も物も違う。また、上流階級の人の身につけているものには、絹地に金糸銀糸を刺繍(ししゅう)したあでやかなものもある。履物は普通、皮草履かサンダルのようなものを履いているが、子供達は裸足(はだし)が多く、大人も農夫等は裸足で固い足の裏をしている。
ビルマ人の大部分は、我々日本人や中国人と同じ黄色人種で、しかも日本人と殆ど変わらないような顔付きをしている。しいて言えば、我々が夏、日焼けしているぐらいの色で、中国系の人は美人も多くスリムなスタイルの人が多い。ビルマ人にもいろいろな人種があり、印度系の人は色が濃くそれなりの顔立ちをしている。だが、多くの人は日本人と似ているのでまず親近感を覚える。
ビルマは長い間英国の支配下にあったのだが、それを駆逐した日本人だということで、敬意をもって戦勝者を歓迎してくれているようでもある。日本軍もビルマ進駐当初より、軍規を守り決して現地人に対し悪いことはしないで、良好な親善と宣撫(せんぶ)工作の結果信頼されていた。
一般的に貧しいが、仏教国で皆が仏心を持っていて、素朴で好感が持てる。後で分かったことだが、民族の主流はビルマ族で、カレン族・シャン族・チン族など多くの部族、種族からなっているようである。
広い平野に恵まれ、米の大産地だが原始的農作業で、牛や水牛による農耕が主である。
田舎に行くほど住居はみすぼらしく、丸木と竹の柱に、竹で編んだアンペラのような物で周囲を囲み、屋根は椰子(やし)の葉で葺(ふ)いたものであった。寒い国でないから、これで住んでゆけるのだ。
日常生活の主な道具は、「オウ」という焼き物の瓶(かめ)で、これに水を入れて運んだり、米を炊いたり、おかずもこれで煮る等万能の器である。女の人が上手にこの瓶を頭の上に乗せ水を運び、また大きな籠(かご)を頭に乗せバナナやマンゴーを売って歩いたり、重い荷物を運んで行き来しているのを見た。
ビルマでは何と言ってもパゴダだ。ラングーンをはじめどんな田舎の町や村に行っても、大小様々なもの、金色に輝くものから白亜に引き立つもの、時には形の珍しいものなどがある。また、仏像が各地にあり様々な形や姿勢をしている。
それにポンジーと称する僧侶が多い。僧侶は地域の指導者で知識人であり、子供を集めて寺子屋式教育をしている。また男の子は一度は小坊主になって修養することになっている。朝は托鉢(たくはつ)に出るのが日課で、大人から子供の坊さんまでが一列に行儀よく並んで歩いているのを見かけた。僧侶が修行のためお経を唱えながら鉢を持って家々を回りご飯やおかず等の施しを受けるのだが、市民もお祈りの気持ちで托鉢に喜捨(きしゃ)をしていた。ビルマ人の心はこのようにして培(つちか)われてきたのである。
また、僧侶はすぐにそれと分かる黄色の法衣(ほうい)を着ているが、格別な地位と考えられている。法衣を女性には触れさせず、母といえども、その例外ではないことになっていて厳格なものとされている。
---以上は五十年余り前の戦争当時の状況であるが、現在は都市ラングーン(ヤンゴン)辺りは自動車も増え単車も走り、テレビも上層階級には普及しており、僅かではあるが高い建築物も建ち、変化している。しかし、その文明開化のスピードは遅く基本的に大きな変化はなく、民情はそのままのようである。なお、政情不安定を伝えられているが、早く平和で文化的な国として発展することを祈念する。
---戦争中、一部には日本軍に敵対行為をした者もいたが、ビルマ人の温かい心に支えられ、終戦後の二年間の抑留(よくりゅう)生活中も、陰になり日向(ひなた)になり、俘虜(ふりょ)の我々日本人を気の毒に思って助けてくれた。その気持と恩を忘れることはできない。これは私個人だけでなく生還した戦友達みんなのお礼の言葉である。
本筋に話を戻そう。ピュンタザの一ヵ月は空襲もなく平穏な日々が過ぎ、ようやく雨期も終わりに近づいた。
汚い話だが、便所に行き下をみると、その辺りで大きな魚が糞まみれになりバチャバチャやっている。今まで雨期で一帯の水溜まりの中を泳いでいた魚が、便所の辺りに来ている間に雨期が終わり、そこに取り残されてしまい、糞魚になって弱っているところだ。このように雨期には家の下まで水が来て、湖になるのだ。
その頃乾期を迎え火祭りが行なわれ、現地人が奇麗なロンジやエンジを着て集まってきた。ビルマの女性は髪にブウゲンビリヤの花を飾るのが好きで、若い女性の華やいだ姿もチラホラ見え、若者達も楽しそうであった。我々は見るだけで、中に加わる程の親しさにはなっていなかった。
どこの国でも、女の子は美しいものだと感じた。メロデイーに合わせて、日本語で「今日は〜楽しい〜水祭り〜水をかけましょう〜あの〜人に〜」と替え歌として歌われていた。こうして季節の変わり目を祝い、豊作を祈願するのだ。
私達のこの頃の楽しみは、鉄道機関区にある大きな風呂に入りに行くことだった。長い期間、水浴だけだったので、お湯に入りのびのびできたことは有難く忘れがたいことであった。以後ビルマにいた四年間でドラムカンで湯を沸かし入ったのを除けば、湯ぶねのある風呂に入ったのはこの時だけであった。
ある日、飛行機が一機飛んできた。「これは日本軍のだ」と誰かが説明した。頼もしく思い飛行機を見上げた。しかし残念ながら私は、その後ビルマにいる間中、友軍の飛行機を一回も見ることはなかった。このように次第に制空権を英印軍に握られてしまうのであった。
平日は内地にいる時と同じように、厩作業や馬運動をし、青草を刈ってきて与え、兵器の手入れをした。また時には士気の高揚(こうよう)図るため野外演習が行われた。
一ヵ所にまとめて炊事場があり、各班は飯上げにそこに行き持ち帰って分けて食べた。
ビルマ米は内地米に比べるとパサパサして味が落ちるが、だんだんと慣れてこんなものかと思うようになってきた。
軍服もぼつぼつ傷みかけ、膝こぶしの所が破れ始めたので、木陰の下で慣れない手つきで補修し、そのあとついでに洗濯をした。
「泥に〜まみれた軍服を〜洗う〜貴方の〜夢を見た〜、本当に 本当に ご苦労ね〜」という歌を口ずさみながら。我が家にいれば母親が針仕事も洗濯もしてくれるだろうなあと、思いつつ身のまわりのことをした。
そのあと多少時間もあり、ビルマに来て初めて軍事郵便の葉書を書いた。両親や、勤務先の東京の会社を始め、米沢の彼女 西澤とよ子さん、内田富士雄君の浦和の家等に送った。検閲(けんえつ)があるので元気にやっていると近況を知らせる型通りの文面にしかならないが、心の中では本当に懐かしい思いを込めて書いた。
◇移動は続く
◆モダン村お寺の境内
その後、十月上旬には移動が命じられ、再び汽車輸送でヘンサダへ行き、そこから河を渡ることとなった。大きい舟がないので馬を泳がせて幅三十メートルぐらいの河を渡ったが、馬も初めてのことで馴れない泳ぎは下手だが一生懸命に泳いだ。小舟に乗った兵隊が手綱を持って誘導し勇気づけてやり、やっと渡ることができた。また、蚊の大群に襲われ眠ることもどうすることもできず、一夜を明かしたことなど、苦しい旅を三、四日続けて後、田園の真っただ中のモダン村という平和な部落に着いた。
我々十二班はお寺の境内の一棟を借りた。他の棟には僧侶や中学生や小学生ぐらいの子供の坊さんが大勢住んでおり、朝夕のお勤めをしていた。我々も一層軍規を厳重に守るよう注意した。同じ境内なので井戸は共同使用で、水浴もお互いに時間をずらしてきまりよくした。広い境内の離れた林の中に馬を繋いだ。
大人の坊さんも青年の坊さんも子供の坊さんも、日本語をよく勉強している様子で「馬を叱らずに一草を与えよ」と標語を書いておくと、それを読むようになっていた。戦いに勝った国の威信は大したものだと思うと共に、僧侶が知識人の上位にあると言われているが、まさにそうだと実感した。
収穫時を迎えた広い平原の田んぼ一面に稲がたわわに実っていた。さすが米の国ビルマであると感じた。
その頃「敵の空挺(くうてい)部隊がグライダーの大編隊で、日本軍の守備の薄い地帯に一気に降りて来るから警戒を充分するように」とのお達しがされたが、この辺りでは全くそんな気配は感じられずのんびりしていた。
◆歩哨(ほしょう)に立つ
深夜一人で歩哨に立って静かに澄んだ月を見ていると、いつしか私の心は内地へ帰っており、内地の月も同じように出ているだろうにと思った。星が美しいが、ここは南に寄っているので内地で見る星座とは少し違う。遥か南の地平線の上に南十字星が十の字をかたどり、サソリ座も大きく端から端まで姿を見せて輝いていた。
今頃家では何をしているだろうか?田舎の小学校の校長として父は、戦時下の教育に苦労しておられるだろうなあ。
母は父の任地の学区で官舎に住み、地元の人との融和に努め、内助する立場だが、わが親ながら素晴らしい人柄だから、きっと円満にやっておられるだろうと信頼している。何にしても物資が無い時勢で苦労されているだろう。妹は学校の寮に泊まり勉強しているが、食物が少なく、それに勤労奉仕で苦しい目にあっているのではないか?と思い巡らすのであった。
私が学生生活をした山形県米沢市。下宿させてもらった西澤家には大変お世話になったが、戦時下で物資の欠乏はそこにも及んでいるだろう、どんなにされているだろうか。とりわけ、ほのかに思いを寄せていた言葉の綺麗なとよ子さんは、当時県立女学校(現在高校)へ一番で合格できたと、お母さんが喜んでおられたが、もう女学校の高学年になり、娘らしくなったことだろう。才媛の面影が懐かしく思いだされてくる。その彼女も今頃はモンペ姿で、勤労奉仕に駆りだされているのだろうか。
青春時代、学生時代を過ごした所は誰にとっても懐かしい所だ。紅葉の吾妻(あづま)山、松川の清流、山並みに輝く雪景色、上杉神社のたたずまい。それに私は米沢市民の礼儀の正しさと人情の豊かさ、親切な心を忘れることはできない。
また、学友達殆どの者が軍隊に入り、気合いを入れ頑張っているだろうが、どこでどんなにしているか?お互いの消息も無いが皆の顔が浮かんでくる。
一年間勤務した東京無線電機株式会社の川添課長や斉藤係長を初め、先輩、同僚達はどんなにされているだろうか?私の手がけた軍用無線機は実用化され活躍しているだろうか?
いつまで、このビルマの地にいなくてはならないのだろうか?丈夫で再び内地へ帰れる日がくるだろうか。戦争に勝って早く帰れればよいが、そうなれば、あの会社に勤め、うんと仕事をするのだが。それから西澤とよ子さんにどのようにして自分の気持ちを伝えようか、などと空想を描いてみるのである。
内地を出発以来、新聞もなければラジオもなく太平洋戦争がどうなっているか全然分からない。
ただ、戦争は容易には終わらない、戦い抜かなければならないらしい。どうも暗雲に閉ざされているようで明るさが感じられない。しかし、負けるようなことはあるまいと、自分に言い聞かせるのである。とにかく、我々はしっかりビルマで戦うのだ。そうすれば、いつかは帰れる日が来るのだ。そんな思いが頭の中で、どうどう巡りをする。
歩哨(ほしょう)に立って、誰にも邪魔されず、このように過ぎし日を懐かしみ、現実を肯定し、自分をいたわり将来を描いていると、交替の兵隊が来る。「不寝番交替(ふしんばんこうたい)」「異常なし」「ご苦労さん」と瞑想(めいそう)は破られる。
こうして、比較的平穏な日々が過ぎていった。しかし鉄道が爆撃を受け直径十メートルもある大きな穴があいているのを見た。この頃から敵の爆撃がビルマの中部平原に対して、ボツボツ始まったようである。このお寺の敷地に宿営したのは二十日ばかりで、また移動した。
今度は鉄道利用、徒歩行軍、その後イラワジ河の支流を舟に乗ってさかのぼり、三日ばかりかけて次の部落レミナへと進んで行った。
◇レミナの町
◆中隊本部通信班へ所属
この町はアラカン山脈の南端山麓(さんろく)の東方二十キロに位置する平地の中にあるのどかな町であった。レミナに到着した頃、中隊本部に、指揮班とは別に金井塚中隊長の側近に通信班が編成され、師団司令部と無線で連絡をとるようになった。通信士、暗号士達が師団司令部等から派遣されて来た。
溝口通信班長、清水通信士兵長、平松通信士上等兵、三枝(さえぐさ)暗号士上等兵、原上等兵、中隊長当番構(かまえ)一等兵、それに無線機器に詳しいということで私、小田一等兵が選ばれ配置された。
中隊本部の全員がいる建物とは少し離れた所に、大きな屋敷の上等な民家を借り上げ、無線アンテナを張りこの八人で一つ屋根の下で日常生活をすることになった。
金井塚中隊長は陸軍士官学校出身のエリート大尉で、公式の場で全員に号令をかける時の威厳は素晴らしく、近寄りがたいものがある。我々兵隊からすれば雲の上の人で、めったに言葉をかけてもらえるものではない。
しかし、起居を共にし八人で毎回食卓を囲んで一家だんらんの形で話していると親しみも増し、中隊長からも内輪的な話や冗談も飛び出し、和やかな雰囲気をかもし出すのである。逆に言えば、トップに立つ人の孤独をいささかでも慰(なぐさ)めることができたのではなかろうか。その頃、内地から何個かの慰問袋(いもんぶくろ)が届き、中隊長が受け取ったその中に、松竹の映画女優水戸光子のプロマイドが入っていた。中隊長は独身でパリパリの最中で大いに喜び、我々にも見せてくれ楽しんだものだった。
二、三日後の夕食の時「今日、この家の持ち主のビルマ人に、このプロマイドを見せ、これが俺のワイフだと言って紹介してやったら、ミヤージカウネー(大変よい)美くしくきれいだ、素晴らしい奥さんを持っておられ幸せだと言ってくれた。たわいのない嘘(うそ)がうまくいった」と話され、明るく「ワッハッハッ。ワッハッハッ」と笑われたものだ。
その頃ビルマのお祭りがあり、奇麗な衣装をまとった婦人が大勢出て、舞ったり踊ったりして楽しく平和でのどかだった。また部落の運動会があり、我々兵隊も参加するなど良い雰囲気であった。
部落民は、中隊長がトップであることを知っているので、この通信班の所へよくビルマのご馳走を作って持ってきてくれた。中隊長のおかげで我々もご馳走を一緒に頂いたが、食うことが楽しみな兵隊には嬉しいことであった。この間、幾らかのビルマ人とも言葉を交わし接触することもできた。また、軍票で買物ができ、現地たばこのセレーや、バナナ、マンゴウ等を買って食べたものだ。ビルマでの戦争中の二年と戦後抑留中の二年の計四年間を振り返って見て、レミナでのこのような生活が一番楽しい時であった。中隊長や溝口曹長(そうちょう)など中隊首脳の方と一緒に住み可愛がって頂き、戦況も穏やかな良い二ヵ月余であった。
---しかしその後の惨憺(さんたん)たる転進作戦で、八人の内五人が戦死され、復員できたのは溝口指揮班長と構(かまえ)兵長と私の三人だけだった。その構君は爽やかな人間性を備え、戦争中も立派な働きをし、復員後も元気で我々ビルマ会の世話をしてくれていたが、四年ばかり前に亡くなられ、今では語る相手は溝口さんと私だけになり、しみじみと寂しさを感じる。皆様のご冥福をお祈りし感慨無量、時は遠くへ流れ去ってゆく。
中隊本部は、このようにレミナに位置していたが、各小隊は当時南部アラカン山脈を横断し、クインガレーから、インド洋側にあるグワ地点に向かって輸送業務を開始していた。険しい山道で、車は使用できず、馬の背中に荷物を乗せて運ぶ駄馬方式で、苦労し、全行程八十キロを六区間に分けて逓送(ていそう)していた。
その頃通信班長の溝口曹長の提案で、第一中隊の新聞を発行しようということになった。皆が一ヵ所に集まれないのでせめてこれにより情報を伝達しようというのである。私に原稿を書くように命令された。新聞といってもB四版で一枚ぐらいのものであった。それをガリバンで刷って各小隊各分隊に配布するのである。
ある時、我が中隊が輸送業務をやっている前線の山中に虎が出るという情報が入った。こちらは武装しているし鉄砲を持っているのだから、その内、虎を仕留(しと)めるだろうと、興味本位に原稿を書いた。
溝口通信班長に見てもらい、いよいよガリバンにかけ印刷し終えた所へ班長が、急いで帰ってきて「新聞はまだ配ってはいないだろうな」と尋ねられた。
「まだです」と答えた。「そうか、それでよかった」「虎が出て兵隊がやられたり、闇夜に出てきて大変らしい。興味本位の記事は差し控えたほうがよい状況だ。もっと深刻な様子らしいぞ」とのことで、その時の配布は取り止めになった。
その後通信班もその輸送ルートの山の中、虎の出没する地点に前進して行った。当時通信班には馬がいないので、現地の小型の牛二頭に引かせる牛車に装具一式を乗せ、山坂や谷を渡りやっとたどりついた。
ここは、本当にみすぼらしい竹で出来た家が五、六軒あるだけの山の中であった。我々通信班も野宿はできないので竹で小屋を造り、虎に備えて周囲を竹の塀で固めた。実際は気休めで、虎が入ろうと思えば、一たまりもない粗末なものであった。輸送を担当する分隊や班がこの近くにも分散して竹小屋を造り休んでおり、馬は近くの林に繋(つな)いでいた。この付近にいる四十人程のために共同炊事場もあり、まとめて飯とおかずを調理してくれていた。輸送班は我々通信班がここへ来る以前から奥へ奥へと山深い中を輸送していた。
◇アラカンの虎
◆虎を捕る仕掛け
我々第一中隊は、昭和十八年十二月から十九年二月頃まで、南部アラカン山脈を横断し、クインガレーからグワへ向かって弾薬、食糧等を輸送する任務を帯びていた。
グワには兵兵団(つわものへいだん)の岡山歩兵聯隊第三大隊(畑大隊長)が警備に就いており、その部隊に補給をしていた。片道歩いて五日ぐらいの山また山の中の道、雑木が茂る細い道を、馬の背中に荷物を乗せて運んでいた。
その間、民家は無く、毎日野宿で山の中にごろ寝をしていたが幸い乾期であった。その頃、現地人から、このあたりに虎がいることを聞いてはいた。
しかし、我々は多勢でいるから心強いし、虎がおれば射ち殺せばよいと思い安易に考え高を括(くく)っていた。夜もみんな平気で無防備のまま露営しごろ寝をしていた。
そのうち、虎が出てくることが分かり虎を獲ろうということになった。虎が通る道と思えるあたりで真夜中に大火を燃やして待っていた。虎は火を嫌うということで、火を焚(た)きそれを十人ぐらいで囲み、みんな外側を向いて、虎が来るのを警戒しつつ虎を獲ろうと銃を持ち弾を込めて待っていた。でも暴発しては危険なので安全装置のみはセットしていた。
「虎の肉はうまいだろうか。皮はどうするか?」等と捕らぬ狸ならぬ、虎の毛皮の胸算用をした。
「虎は死して皮を残すというぐらい、貴重で高価なものと聞くが、どうするか?」等という話の最中に、誰かがたばこの火をつけようと火の方に向いてしゃがみ込み、背中を外側にした。
虎は人間の隙を狙っていたのだろう。瞬間、その兵隊めがけて闇の中から突進してきた。
すぐ隣にいた兵隊がとっさに銃を突き出し構えた。勢いよく駆けてきた虎は急に止まったかと思う間もなく反転して、もと来た方向に駆け出して逃げた。突風のような一瞬の出来事であった。
安全装置を解除し発射したが、もう虎はどこへ逃げたか分からない。闇夜に鉄砲とはこのことで、当たるはずもない。
このように、虎が近くに来ているのに人間は何人いても全く気づかないが、虎は夜行性でじっと人間の様子をうかがっているのだ。相対して構えれば来ないらしいが、隙を狙って襲いかかるものだと分かった。
◆虎による被害
ある日の夜中に馬の啼(な)き声がおかしい。馬は本能的に虎の気配を感知するのだ。馬当番の兵隊は、馬の様子から虎が近くに来たのではないかと感じて、当番兵二人のうちの一人が薪を燃やそうとしてしゃがんだ。その途端虎は後から隙のできた笹山一等兵の首に一撃をくらわした。気絶したか即死したか分からないが、虎は彼を口にくわえて逃げていった。
明くる日、私達十名ばかりが銃を持ちその後をたどり死体収容に行った。野原の草に血がポタリ、ポタリと滴り、虎は兵隊をくわえたまま二メートルもある崖を跳び上がり跳び降り、谷川を渡っていた。
ビルマの虎は大きく小牛でもくわえて逃げると聞いていたが、人間の一人やそこら軽々と、猫が鼠(ねずみ)をくわえたぐらいに走っていた。
虎は山を登り谷を跳び越え、密生した雑木の中を潜り抜けていた。昼間は人間も目が見えるし十人もの目があるからと思ったがそれでも不気味(ぶきみ)だった。大きい山を二つ越えて行くと途中に彼の着けていた卷脚半(まききゃはん)や被服の破れが灌木に引っ掛かっていた。雑草が踏み倒され通った後ははっきり分かった。竹薮(たけやぶ)を通り抜けその奥の茂みの中に無残に食いちぎられた笹山清一等兵の死体があった。彼は私の隣の班で精勤に働いていたのをよく見かけていたのに。
肉が裂け、血が流れ出て余りにも悲惨で見ていられなかった。我々は泣きながら彼の遺体を携帯テントに包み持ち帰り火葬にした。
数日後、こんどは現地人が虎に殺された。その死体を直径四十センチもある大きな木の根元に置き、八メートルばかり上の枝の分かれた所に櫓(やぐら)を組み、明るい内に四人が登り夜になり虎が食残しの死体を食いに来たところを、上から射とうと段取りをして満(まん)を持(じ)していた。
四人はそれぞれ小銃を持ち弾を込め、暴発を防ぐため安全装置をし、いつでも撃てるように準備していた。夜十一時を過ぎ十二時になっても虎は来ない。月も落ち夜が更けて、みんなうとうとし始めた。
その時、虎は一気に大木に飛びつき駆け登り櫓に足を掛け、松本節夫一等兵の太腿(ふともも)に爪をたてた。彼は引き落とされないように木の幹にしがみついた。久山上等兵がとっさに銃を構えたが、慌てているので安全装置が解けない。虎の大きな頭、ギョロリと光る大きな二つの目玉をすぐ目の前にして、動転しながらも銃口で虎の頭を叩いた。虎は構えられたのでスルリと一瞬大木の幹を飛び降り音も無く走り去った。やっと安全装置を解いて撃ったが、むなしいわざである。
虎は食べ残しの死骸を食べるより、生きている人間を襲ってきたのだ。それにその高さまで跳び上がることができるのには驚くばかりである。結局一人の負傷者を出してしまった。松本一等兵はその傷が深く、黴菌(ばいきん)が入ったのかガーゼが太股を通り抜けるようになり、後方の病院に送られたが、その後彼のことは分からない。
◆虎の恐怖
そんなある日、竹で造ったあばら屋で、屋根は椰子(やし)の葉を並べただけの宿舎へ、夜中に屋根から虎が飛び込んで来た。床は竹を割って並べたものだから、ふわふわで太い虎の足を挟み、蚊帳(かや)が虎と人間に巻きつくという騒ぎが起きたが、幸いにして怪我人もでず、虎もびっくりしただろうが逃げていった。
それからは、虎が出そうだとか出たとなると、皆で「ワッショイ、ワッショイ」と大きな声で叫び毛布をバタバタ振り上げて、大きく見せることにした。なお、それ以後は不寝番も外に出ないで、あばら屋ながら家の中におるようにした。
私も時に不寝番をしたが、鹿に似た動物のノロの啼く声をよく聞いた。誰かが虎に追われて啼いているのだと言っていたが、虎が近くに来ているかと思うと、気持ちが悪かった。また、静かな夜中に、小動物が動くのか落葉がカサコソと音を立てると、虎が足音を忍ばせて来ているのではないかと、不気味な感じになったものだ。
ある日の朝「昨夜は馬の様子がおかしかった」と誰かが言った。草原や普通の土の上では虎の足跡は殆ど残らないのに、炊事場近くの土間が洗い水で濡れ軟らかくなっていた所を歩いたのであろう、足跡が窪(くぼ)んでついていたが、足跡全体がはっきりとよく見える程ではなかった。虎はその後すぐに炊事場の大鍋の中を歩いたのだろう、奇麗に洗ってある鉄鍋の中に一個だけ土に汚れた足跡が鮮明に残っていた。大きな足跡で直径二十センチもあった。猫の足跡と体の大きさから比較すると、この足跡だと大変大きな体をした虎であることが想像できた。子牛でもくわえて逃げると言われているが、そのとおりだと思った。
飛行機による爆撃銃撃も恐ろしいが、音がするので分かるし逃げる間がある。けれど虎は音もなく、闇の中から直接人間めがけて襲って来るから恐ろしい。虎は一夜に千里(四千キロ)を走ると昔から過大に言われているが、疾風のごとき早業で、全く夜の魔物である。
他にも虎の被害を幾つも直接見たり聞いたりした。当初虎を捕ろうと意気込んでいろいろ仕掛けをしたが、私の中隊では結局虎を獲(と)った武勇伝は聞くことがなく悲しい被害を被っただけであった。大分後になって他の部隊で、自動車のヘッドライトに幻惑され、虎が轢(ひ)かれたことがあったと聞いた程度である。それ程虎を獲(と)ることはむずかしく、被害ばかりが出て本当に恐ろしかった。
◇マラリヤの始まり
◆谷田君の場合
虎に悩まされている頃、私と一緒に二月十五日に召集で入隊し、同じように金井塚隊に転属してきた谷田一等兵が、マラリヤに侵され毎日高熱で次第に弱っていると聞いた。
我々が今まで一般に聞いていたマラリヤは、二日熱とか三日熱とかで、高熱が出ても出たり引いたりし三日、四日苦しむが、薬を飲み治療し休んでいると、その内大抵治る種類で、死ぬことはないと思っていた。
しかし、ビルマには悪性のマラリヤがあり、元気な人も急に悪寒(おかん)に襲われ、一気に四十度を越す高熱が出てそれが連続して下がらない。何も食べられず水ばかりが飲みたい。薬は今更飲んでも効かないし下痢も始まる。一週間ばかりすると高い熱のため脳症を起こし意識が無くなる。後は三、四日生きているだけで終わりとなる。極めて恐ろしい種類のマラリヤがはびこっているのだ。
私はその時悪性マラリヤのことは知らなかったが、谷田君の熱は悪性マラリヤだったのだ。彼は松江の出身で二十七歳、早大を出てこれまで大手の商社マンとして東京にいたとのことでインテリであった。入隊直後の寒い日の訓練中に彼がポケットに手を入れていたということで、殴られるは蹴(け)られるはで大変絞られたことがあり、あまり軍隊が厳しいので驚き、気の毒に思ったことがあった。
隣の班だが、その時から彼をよく覚えており親しくしていた。そんなことで、私には「これが結婚して五ヵ月目の新妻の写真だ。これが二人で撮った最近のものだ」と言って懐かしみながら見せてくれていた。人生において最も楽しい時でもあり、前途に大きな希望を持っていたことが伺われた。「早く内地に帰りたいなあ、そして会社でウンと働きたいなあ」とよく語っていた。
彼は知識人であり軍事訓練等もよくできるのだが、生意気で真面目でないように古年兵に睨(にら)まれたのか、班内でも気の毒だなあーと感じることがあった。いわば軍隊向きではなく、むしろ文化人で常識家であったのだろう。
その彼が今悪い病に苦しめられているのだ。早速見舞に行くと彼は弱い声で「小田よ、病気だけにはなるなよ。病気したら辛いよ。俺のはマラリヤらしいが、お前も蚊には気をつけなければいかんぞ」と言って注意してくれた。「有難う」と答えたが、私にはマラリヤがどんなものか、悪性マラリヤがどれ程厳しいものかまだピンとこなかった。「元気を出すんだぞ、頑張れよ」と手を握った。高い熱のため熱い掌であった。
三、四人の患者が、ここから後送されることになった。鉄の車輪で出来た輜重車に乗せられ、悪い凸凹のガタガタ道を揺られて行くのである。落ちないように縁に板囲いをしてあるが、鉄の車輪だから直接こたえる。病人を乗せるような車ではない。
しかし山の中で乗り物はこれしかない。輜重車よりは歩いた方がましかもしれない。毛布にくるまって行く谷田一等兵に、無理に大きな声で「後方の野戦病院に着けば薬もあり、看護もよくしてくれるからきっと治るよ。頑張ってこいよ」と激励した。しかし本心、そんな行き届いた野戦病院があるだろうかと不安な気持ちで見送った。
谷田君の身の回りの品物は、少ししかなく、奉公袋(ほうこうぶくろ)と書いた青い袋が目についた。御国のために奉公するとの意味で名づけられたこの袋、国のために働きたいと思っているのに病気になり残念に思っているだろう。この袋の中にあの楽しそうに撮った新妻の写真も入れているのだろうか。いや、もっと体に近い肌の温もりが伝わるポケットに抱いているのだろう。ガタリと音を立て車は動きだした。心より全快を祈った。しかし、願い空しく二週間の後に、小さな骨壷に入れられて彼は中隊に帰って来た。
冷たくなった固体が谷田君だ。発病以来二週間、何を考えどんなに苦しんだことだろうか。戦争に勝って凱旋(がいせん)し、打ち振る日章旗に迎えられたい、楽しい家庭を築きたい、もう一度内地の土を踏みたい。それが叶えられないのならば、せめて華々しく戦って、散りたいと思ったことだろうに。次第に悪化する病魔に抗することもできず涙も出ない苦しい気持ちで逝ったことだろう。
ちょうど一年前の二月に入隊した当時の姿が二重写しとなり哀れをさそった。この遺骨は内地に送還されたが、戦況悪化の折、無事遺族の元に届いたか否か私には分からない。
このクインガレーからグワに向けての困難な駄馬による輸送業務、虎との戦いも終わるのだが、その間に数人の犠牲者を出した。
馬も内地とは異なる気候で馬糧も乏しく重労働。鼻カタルになって鼻から鼻汁を引っきりなしに出し弱っていく病気になったり、せ・ん・つ・う・(激しい腹痛)で、立っている力もなくなり倒れ苦しんだり、いろいろな熱帯の病気で数頭死んだ。
馬は本当に利口な動物で人間の愛情によく馴(な)れ、一緒に生活してきたのに可哀相でならない。戦争がなければ住み慣れた田舎で平和な日々を送っていただろうに。
我々兵隊は、馬のために随分苦労もさせられた。しかし切っても切れない間柄となっている。馬が悶(もだ)え死んで行くのを見ると哀れでならない。馬はどんな気持で息を引き取っておるのだろうか、馬は馬なりに死が分かるのだろうか、可哀相で痛ましい。
◆第二小隊十二班に帰る
三月上旬、命令が下り移動が始まった。山を下りクインガレーから後方に退き、懐かしいレミナの町を通り抜け、ヘンサダの町に来た。その間四日間の行軍が続いた。
その頃、通信班が解散したので、私は金井塚中隊長や溝口班長と分かれて、中隊本部から元の瀬澤小隊の自分の班に帰ってきた。その時、寺本班長は他所に転属し、古参の戸部兵長が班長に任命されていた。
行軍は、輜重車に我々中隊の装備を乗せ馬に引かせて行った。ここしばらく山の中で幾らか標高の高い所にいたので余り暑くなかった。しかし、遮蔽物(しゃへいぶつ)のない平地の道路では日中の暑さはやはりこたえた。南部アラカンの山から降りて、久しぶりに見る町の様子は、子供達が元気で遊び若い娘達が奇麗にしており、なんとなく和やかなものを感じた。
以前から、ビルマでは日本軍は軍紀を正しくしており、現地人からひ・ん・し・ゅ・く・をかうようなことは一切していない。娘さんを見ても、ひやかすようなこともせず、秩序正しい兵隊として行動していた。けれども、久し振りに見る女性の優しい姿に思わず目がそちらの方に向くのは仕方のないことであった。
◇輜重本来の輸送業務解除
◆馬や輜重車両全部を他部隊に渡す
ヘンサダに一週間いたが、私の所属する第二小隊は、その間に他の部隊に車もろとも(各班に一両づつ車を残し)、馬も全部渡すことになった。どんなことでこのようになったのか知らないが。一日がかりで最後の点検整備を行い、申し送りに必要な準備をした。
思えば去年六月以来、共に苦労してきた馬とも今日限りお別れかと思うと胸を締めつけられるものがあった。
馬も、知らない兵隊に使われるのだから馴れるまで辛いことだろう。どこに連れて行かれるのか分からないが、北部ビルマ方面の輸送に使われるとのこと、あまり苦しい目に遭わなければよいが。馬にとってこの暑い国、病気の多い国で、山また山、道なき道を、馬糧も無く、重荷を運び戦うのは辛く苦しいことであろう。思っただけでも可哀相である。
おとなしく利口な愛馬「金栗(きんくり)号」も連れていかれる。私は自分の馬に髭面(ひげずら)を摺(す)りつけ、首を撫(な)で、たてがみをといてやり、しばし別れを惜しんだ。馬は賢い動物だから、すべてを感じているはずである。惜別の情堪え難いものがある。瀬澤小隊百頭の馬よさようなら!元気でやれよ。涙 涙 涙 ああ・・・・
こんなことになって馬と別れるとは、夢にも思わなかった。
引渡し業務がすむと、その次の日から厩作業が無くなり気が抜けた。今まで一日たりとも一食たりとも欠けることなく、餌を与え水を飲ませ、馬体の手入れをしてきていたのに、急にいなくなると寂しくリズムが狂ってしまう。馬の世話は大変だったが、いなくなると虚脱(きょだつ)感で放心したようだ。
◆プローム方面に向う
馬の引渡しがすむと二日後には、また移動出発だ。汽車に乗せられたが今度は今までと違い自分の装具と小銃等携帯の兵器だけなので簡単だ。夕方ヘンサダの駅を出発し夜が明けると、広い平野の中を列車は走っていた。
所々に森があるが、そこが集落や町である。かなり大きな町の駅に止まった。ビルマ人が「マスター マスター」 「セレー、バナナ、マンゴウ」と言って、物売りにやってくる。頭の上に竹で編んだ籠を乗せ、その中にそれらを入れており器用に持ち運んでいる。
私が、ビルマ言葉で「ベラウレ、パイサンベラウレ」お金はいくらかと聞くと「これ五十銭(ゴジツセン)、これ一円(イチエン)」と答え商売になる。ビルマでは日本軍の発行する軍票が通用するので欲しい物が買えるようになっていた。
軍隊でも階級に応じ給料が支給され、我々兵隊にはほんの小遣い程度だがこの軍票が支給されるので、それで買物ができたのだ。
セレーは現地たばこだが、内地の桑の葉のようなものに、たばこの軸とたばこの葉を刻んで入れ、万年筆ぐらいの大きさに巻き乾かした代物である。桑の葉と見えるのもたばこの葉かも知れないが。
用心して吸わないと火の粉がポロリと落ち服に穴があく恐れがある。でも日本のたばこの配給は殆ど無いので、兵隊はこれを買ってよく吸うたものだ。その他にも、トウモロコシの鞘(さや)のような物にたばこの葉を詰めこんだ大きい形の物などいろいろなたばこがあった。あまりうまいたばこではなかったが、そんなことは言っておられなかった。
バナナもいろいろの種類があり、美味しいもの、あまり美味しくないもの、大きいもの小さいもの、種のあるもの、種のないもの等があった。台湾の高雄で食べた程美味しい物はなかったが、我々の命を救い元気をつけてくれたのはこのバナナであった。また、ドリアン、マンゴウ、パパイヤなど熱帯の果物が元気をつけ命を繋ぎ、よみがえらせてくれたのだ。
貨物車の入り口の扉を開けて空気を入れているが、天井の鉄板が焼けつき暑くてたまらない。しかも停車中は風が入らないので特に激しい暑さとなる。いつ発車するか分からないので、降りても汽車の近くを離れることはできない。
列車が走り続ける。どの町にもどの村にも、大きいパゴダや小さいパゴダが、金色に、または真っ白に、美しい姿で建っている。村は貧しいがお寺はしっかりしており、しみじみ仏教の国であることを知らされる。
しばらく行くと、焼けたばかりの大きな町に差しかかった。三、四日前焼夷弾(しょういだん)で焼野ヵ原となっていて、まだくすぶっている所もあり、焼け残りの柱が黒焦げのまま立っていた。しかし、幸いに鉄道線路はやられていなかった。
午前十時頃になって空襲警報が発令され、列車は平野の真ん中に止まった。みんな跳び降り、線路より横方向百メートルぐらいの所にある木立の中に隠れた。幸いに敵機は来なかったので、再び列車に乗り発車した。午後四時頃プロームという駅に到着したが、そこにはホームがあるだけで駅舎等何もなかった。
プロームの町を歩いて行くと、ここも最近の火災で、黒焦げの柱が立ったまま残っていた。かなり大きな町が、無残な灰燼(かいじん)の町と化している。住んでいた現地人はどうしているのだろう、近くに全く人影は見えない。
この町はビルマ西部を流れる大河イラワジの中流部の左岸に位置しプローム鉄道の終点である。
また、ラングーンからここを通り、更に北に伸びていく幹線道路プローム街道の中心地に当たり、ビルマで屈指の人口を持っている。それに、ここからイラワジを渡りアラカン山脈方面へ行く渡船場でもあり、非常に重要な地点である。その町の中心部分をこのように焼かれているのだから、敵の勢力が次第に伸びて来ていることがよく分かる。
◆シュエーダン お寺の屋敷に駐屯(ちゅうとん)
我が中隊はこのプロームの町並みを通り抜け南へ二時間ぐらい歩いた。このあたりはもう長い乾期のため、草は枯れて茶色になり、落葉樹の木からは葉が落ちてしまっていた。内地の秋を思わせる光景の所を過ぎ、大木の茂る森に到着した。
そこには大きなお寺の屋敷があり、それに続き広い森林があった。このお寺の大きな講堂に泊まることとなり、ようやく落ち着いた。
このあたりには、何百年も経った小さなパゴダや、古い壊れかけの仏像が沢山あり歴史のある地方であることが偲(しの)ばれるが、戦争中の仮の宿ゆえ情緒を楽しむ間はない。ここでも馬がいないのですることが無く、体操をしたり班ごとに相撲をしたりして体力と健康の維持に努めた。
中隊全員の約三分の二程度二百五十人ぐらいがここに集結していたが、ある日、全員で会食をした。会食と言っても何もない、各自飯盒(はんごう)を持ち寄り一堂に会して飯を食べ、顔合わせをしたというだけのことであった。しかし、川添曹長が、これまでの苦労をねぎらい、「今後何が起きるか分からないが心身の鍛錬をしておけ」との挨拶をされた。軍隊としては珍しく、和やかな雰囲気をかもしだそうとしたようであった。予定通りの進め方だったのか、下士官の誰かが詩吟をした。続いて田舎歌手の山下一等兵が流行歌を上手に歌った。次第に場が和(なご)み拍手もあった。
次に誰も現われてこない。これだけでは少し寂しいなあ、どんな進行をするのだろうか?と思っていたら、中隊本部の中村伍長の大きな声がして、「第二小隊の小田上等兵やれ」と声がかかった。一瞬ドキリとし、困ったことになったと思った。「いないのか、早く出てこい」と再度声が飛んできた。
もう仕方がない、立ち上がり「ハイ」と答えた。何を歌おうかと思案したが、この場は軍歌ではなく流行歌で軟らかく歌うのがよいと思った。よし映画「愛染(あいぜん)かつら」の主題歌「旅の夜風」を歌おうと決心した。
「花も〜嵐も〜踏み〜越えて〜〜行くが〜男の〜生きる道〜」と大きな声で一生懸命に歌った。
拍手があったかどうか覚えていないが、とにかく責任を果たしてホッとした。
中村伍長は、川添曹長の下で庶務や人事係の仕事を直接やっており、つい最近上等兵の選考をしたらしいから、その時私の経歴や教育期間中の成績、また中隊本部通信班に所属した最近二、三ヵ月の評判等をよく承知していて、少しでも皆にアピールしてやろうとのとっさの気持ちから、指名してくれたのだろう。後から考えると涙が出るほど嬉しく有難かった。余程のことがない限り末端の兵隊にこのようなチャンスが与えられることはないはずなのに・・・・
そのうち、空襲の回数が次第に増え、ある日焼夷弾(しょういだん)により、近くで山火事が起きたので火消しに行った。川添曹長について行ったのだが、長靴を履いているから足が重いはずなのに早く走る。さすがに現役の曹長、気合いが入った人だと驚き感心した。
このお寺の敷地内には、他の部隊も来ており、見知らぬ兵隊とすれ違うことがあった。最近内地から来たのだろうか、彼ら二等兵が私に対して先に敬礼するではないか。照れくさかったが受礼した。初めての出来事だった。そうだ自分はつい最近上等兵になり三っ星をつけているからだ。軍隊に入ってからこのかた、敬礼はいつもこちらが先にするものだと思い込んでいたので、面食らった格好だ。『星の数』とはよく言ったものだ、ここは星の数がすべてを決める社会なのだと実感した。
しかし、同じ中隊の中では顔はよく知っているし、同期のものが少しぐらい早く上等兵になったとて、誰も敬礼などしてはくれない。野戦ではそんなことを言っていられない。我々の部隊に新兵が約一年遅れて補充されて来たが、ほんの小人数なので、我々はいつまでたっても最下位にランクされた兵隊だった。年が経ち、星の数が増え上等兵になろうと兵長になろうと下が来ないので立場は変わらなかった。
プロームの町を目指して敵機がまたも夜八時頃爆音をとどろかしやって来た。真っ暗だから何機いるのか分からない。爆音の響きから四、五機は来ているのだろう。急にパアッ、パアッ、パアッ、と照明弾を次から次にと落とす。十個ぐらいもあり落下傘(らっかさん)に吊るされているので、ふわり、ふわり、ゆっくり落ちて来て地上を明るく照らす。その明るさは六キロ離れたここでさえ影が映る程だから、真下は非常に明るく照らされていることだろう。不謹慎(ふきんしん)なことだが一瞬、美しい眺め、珍しい光景であるとさえ感じさせられた。
ここプロームは、日本軍の兵站基地で、弾薬、食料、衣類等が集結されているので、敵は執念深く攻撃してきているのだろう。
地上を照らし、建造物を確認しておいてから焼夷弾や爆弾を投下するのだから仕方がない。下からは敵機の姿は逆光で全く見えず、それに対空火砲も無いのだから敵の思うままである。やがて「どんー」 「どんー」と爆弾の破裂音が地響きをたてて聞こえ、夜空に火の手が上がるのがよく見えた。あの辺に友軍がおり痛めつけられ、大きな倉庫が燃えているのかと思うと、身震いが止まらなかった。
◆内地からの便り
お寺の境内にいる頃、内地からの便りが届いた。母からのものが二通あった。出したのはもっと沢山だったかも知れない。文面は父は元気に小学校へ勤めているが、学校でも防空演習等で忙しく、本来の勉強や教育をする時間が足りなくなり困っていること。母は内助の仕事をいろいろしており、妹は勤労奉仕で軍需工場へ働きに駆りだされて勉強ができないが、頑張っている由だった。
母が一生懸命に私のことを祈ってくださっていることが、文面からうかがわれ有難く懐かしく読んだ。母の優しい顔が目に浮かび、何物にも勝る親と子の情愛の深さ、切れない太い繋がりをしみじみ感じた。
この時、米沢の西澤とよ子さんからの手紙も受け取った。物資不足で困っていることや、勤労奉仕のことが書いてあった。女学校四年生になったが戦争中のことなので、上級学校をどこにしようかと思っていることなどが書かれてあった。特に印象に残ったのは「小田さん元気で頑張って下さい。米沢のさくらんぼが一生懸命にお祈りし待っています」と書いてある文面であった。
米沢のさくらんぼは淡黄の薄紅色で、甘すっぱく舌触りがさわやかであった。その時代の若者や我々学生達は、初恋の味がするもの、初恋を象徴するものとして愛し食べた特産品だったので、彼女もその意味を込めてしたためてくれたのだ。どんなに胸をときめかしてくれたことか、一文字一文字がどれ程優しく温かく、彼女をどんなに懐かしく思ったことか。清純なセーラー服姿が目蓋(まぶた)に浮かぶ。
当時軍隊に出し入れする手紙は検閲(けんえつ)され、あまり変なことは書けない時代であったが、さくらんぼが待っているのであれば、いくら検閲を受けても誰にも分からない言葉であった。彼女と私にしか分からない大切な味わいのある表現だった。
私はこの手紙をその後何回も何回も読み返し、ずっと服の内ポケットにしまいこんで、肌身離さず持っていた。長い間持ち続ける間に外の封筒は破れ、汗に汚れ雨に濡れ、グシャグシャになってからもしっかり抱きしめ、お守り代りにし、少しでも時間があると開いて見、危険な時もそのことを思い出し勇気をだした。
しかし、敵に追われ、雨に遭い、水に浸かり、弾丸の中を潜る間にいつの間にか不覚にも失ってしまったが、「小田さん、さくらんぼが待っています」という一節はいつまでも心に沁(し)み込んでいて、私を温め勇気づけ励ましてくれたのである。

五 ビルマ西部海岸警備
◇第一アラカン山脈を目指す
◆イラワジ河を西に渡る
昭和十九年三月下旬、前進命令が第一中隊に下りた。大アラカン山脈を越えインド洋に面するタンガップの町に前進することになった。
イラワジ河の東側、左岸渡河地点近くに来た。敵機から見つからないようにネットや木の枝で擬装(ぎそう)し、乗り場に至る道や、船着場を覆うようにしていた。また道端のあちらこちらに止まっているトラックにも充分な擬装をしていた。
ここで、珍しい人に巡りあった。金平操(かねひらみさお)さんである。同郷の可眞(かま)村弥上(やがみ)の出身で家が三百メートルぐらいしか離れていない。可真小学校では兄貴分で、しかも岡山二中に進んだ時も先輩として大変可愛がってもらい、仲良くして頂いた方である。
操さんは、岡山師範学校(岡大教育学部の前身)を卒業され先生になっておられたと聞いていたが、長身でスマートな先輩で懐かしい。こんな所でよくもパッタリ会ったものだ、奇遇という他はない。どこの部隊に属していたのか覚えていないが、本当に嬉しく元気でやろうと励ましあった。南方の軍隊生活で日に焼け、たくましくなっておられ、野戦で苦労されている様子がうかがわれた。
お互いに、軍務の途中でゆっくり話すことができないまま、武運長久を心に祈り誓いあって別れた。その後操さんに会うことはなかった。
---操さんはその後、どこでどうなされたのだろうか?きっと苦労され戦死されたのだろう。ここでもまた、立派な若い先生を失ってしまった。戦争は苛酷(かこく)であり無残である。私は抑留生活二年をビルマで過ごし、昭和二十二年七月に復員し、郷里の弥上部落内を挨拶して回った。当然操さんの生家にも行った。既に戦死の公報がきており、悲しんでおられた。私のみ生きて帰り悪いような気持ちがしたが、イラワジ河畔(かはん)で会った時のことを話してお慰めした。
---その時、彼のお母さんは「戦死の公報は来ていても、まだ操が帰って来ると思う。夜帰ってくるかも知れないから、庭や入り口辺りに物を置かないようにし、操がつまずかないようにいつも片づけているのですよ」と言われた。その時私は、操さんが元気で帰って来られるのならば、ビルマの山河を何ヵ月も裸足で夜道を歩き通し大変な経験をしているのだから、庭先の物や小石につまずくようなことはない、もっとしっかりしているはずだと思ったが、親はこれほど我が子のことを思っておいでかと、目頭が熱くなったことを今も覚えている。
この辺りの河幅は三キロぐらいだったろうか。三十トン程度の船で夜の闇に助けられ何事もなく無事渡河できた。幸いこの頃は乾期のため水量も少なかった。渡ってしまうとなんのことはなかった。でも、渡河後はなるべく早く渡河地点であるセダンを離れなければならない。夜明けまでに十キロ程を歩いた。大した距離ではなかったが装具の重さが肩に食い込んだ。それでも道も良いし平坦地であり夜間の涼しさで思うように行軍ができ、ある部落に着いた。現地人は既に山の中に逃げ込んでどこも空き家になっていたのでそこに入って休んだ。
次の日は朝より行軍だ。西へ西へ向かって歩くうちにアラカン山脈の麓(ふもと)に近づいてきた。次第に林が多くなり、道も埃(ほこり)だらけの道となってきた。時折友軍のトラックが埃を残して走って行った。我々は一個班に一つの輜重車のみは残しており、できるだけそれに荷物を積み、積みきれないものは各自背嚢(はいのう)に詰めて背負い、車を皆で引いて、汗みどろ埃だらけになって歩いた。午後になると緩やかな坂道が曲りくねってきた。夕方になり大休止となったが、もうここは山の中で民家は無く露営である。
山から薪(まき)を拾ってきて、飯盒で飯を炊いた、幾人もの飯盒を並べて炊いた。でき上がる少し前水分が出なくなると一つ一つ取り出し、逆さにしておくと、良く蒸せ美味しくなり、しばらくすると食べ頃になる。もう何回となく使用してきた飯盒なので貫禄(かんろく)がつき、外側は真っ黒になっていた。残りの飯盒で乾燥野菜と乾燥醤油で汁をこしらえる。干し肉や干し魚があるときは良いがこの頃は欠乏しかけていた。木の若芽を摘んで野菜代わりにしてみたがまずかった。
◆第一アラカン山脈を越え
次の日も行軍は続いた。坂道はだんだん急になり谷を渡り山を越えながら登り坂が多くなり、標高も高くなってきた。乾期の最中だから山道の埃は我々が歩くだけでも、もうもうと舞い上がった。
この第一アラカン道は日本軍が二年前に造った道で、一応自動車が通れるように応急的に造ったのだが、ビルマでは粒子の細かい土質の所が多く、切り開いただけの道で、長い間、雨が無く乾き切っているので大変な埃がたつのだ。
三日目からは、昼間の行軍はしないことになった。敵の飛行機に見つからぬよう夕方から夜明けまで歩いた。夜は暑くなくてよかった。
見も知らない曲がりくねった山道を夜行くのだから、どの方向に進んでいるのか全然分からない。全体として西に向かってアラカンを進んでおり毎日登って行った。黙々と前の人に遅れまいと歩くだけである。背嚢(はいのう)を背負い、車を皆で押したり引いたりしながら、時には「ワッショイ ワッショイ」と掛け声をかけ、元気を出して登ったが、疲れていつの間にか黙ってしまうのである。
イラワジ河を渡ってから四日目、やっとニューワンギョという地名の所に着いた。ここはアラカン道の中央で山脈の頂上である。夜明けに着いた。そこには大きいチークの木がたくさん茂っていた。寒い、寒い、標高千二百メートルぐらいだと誰かが言った。携帯の毛布二枚を引きかぶり、やっと寒さをこらえ眠りにつくことができた。昼の間は休み、夕方前にニューワンギョを出発した。しばらく行くと見晴らしのよい所に出た。アラカン山脈の山々が雲海の上に頭を出し、西の山に夕日が沈みかけ赤く染まっている、なんと美しい眺めであろうか。自然の偉大さ、その見事さに、しばし疲れを忘れ、戦を忘れ、目を奪われた。絵にしたらどんなに美しいだろうか、などと思った。
道は次第に下りが多くなった。開けた所は星明かりで助かるが、高い林の間を行く時は真っ暗なので足元が全然見えない。各班に一台ずつの輜重車を皆で力を合わせ引くのだが、下りはガラガラと惰性で早く転がるので、自分が転倒でもすると本当に危険であった。みんな一生懸命に走った。暗闇の中を下っていく時は奈落の底に落ちていくようであった。
当初携行した食糧も次第に減り、途中の倉庫で支給を受けた。しかし、これまた少なく形ばかりの支給であった。飯を、塩とと・ん・が・ら・し・の辛さで食べているようなもので、他に副食は何もない。
私はこの行軍で肩と手が痺(しび)てしまった。銃を持ち、重い背嚢が肩に食い込み、筋肉と神経が麻痺したのだろうか。日に日に痺(しび)れが増し手が殆ど動かなくなってしまった。しかし、そんなことは言っておられない。苦しいのは、自分一人ではないはずである。銃を持つ手が痺れているので、落ちそうになる。足の豆も次第に大きくなり、潰れて汁が出ている。しかし、こんなことで挫(くじ)けてはならないと困苦欠乏の行軍は続く。坂道を下るといっても、中途では登り坂もあり道程は長い。
ニューアンギョを出てから四日目の夜明け前、誰れかが「平地に出たぞ」と叫んだ。印度洋海岸に沿うたタンガップの平野に来たのだ。平坦な道を二キロぐらい行った所で、本道をそのまま四キロばかり直進すればタンガップの中心地に行くのだが、左へ曲がり細い脇道をうねうねと三十分ばかり歩いて林の中に止まり、大休止することになった。もう東の空がほのかに明るくなってきた。
ここまで歩いて来たのがプロームとタンガップを結ぶ第一アラカン道百七十キロの横断道である。野宿野営の毎日だったが、幸い虎にもやられず無事到着したのである。しかし、第二小隊で途中三名の者がマラリヤにかかり落伍してしまった。その後どうなったか知らない。
疲れた体を毛布にくるまり安堵(あんど)の気持ちでぐっすり眠った。
「皆起きろ」という浜田分隊長の声で目を覚ますと、もう太陽は空高く昇っていて時計を見ると十二時だ。「食事の用意をせい」との号令で、近くの川に行き水を汲み、薪を集めて各自飯盒炊事をした。さて、今日はどのようになるのだろう。我々兵隊には予定は分からない。命ぜられるままに、するだけである。午後も休み疲労回復に努めることになった。
◇タンガップ地区の警備
◆ヤンコ川沿いと山中の生活
その次の日からいろいろの作業が始まった。
当分ここに宿営することに決まり、家を建てることになった。竹を切って柱にし、梁(はり)を組み、屋根と床の骨を造り、割った竹で床を張るのだ。屋根は椰子の葉を一枚づつにしたテッケというものを並べるだけ、横の壁に相当する所は、竹を薄く編んだアンペラを取り付けるだけである。主な柱も屋根の椰子の葉もすべて、竹を割ってへぎにしたものを紐(ひも)代わりにして縛(しば)り、固定するのである。竹細工の家である。一個班の入れる宿舎の小屋を建てるのに、一日あれば出来上がる粗末なものである。
もう何回もこのような家を建ててきたので作業も慣れてきた。結構これで住めるのだ。以前に虎が屋根から飛び込んで来たことはあるが、そう簡単に壊れないし壊れたら直すのも簡単である。乾期には、屋根のニッパ椰子の葉が萎(しぼ)み、その間から空が見えていても雨期になり雨が降るとその湿りで葉が広がり案外漏らないのである。その国その地方で気候風土に適した住み方があるものだ。
現地人はダァーという刀か斧(おの)のような道具を一本持っているがこれさえあればすべての大工仕事が出来るのである。我々もダァーの使い方を覚え、器用な兵隊は上手に使うようになった。
設営に当たり、何人かはこうして住居をこしらえる作業をする。また、何人かはタンガップの町外れにある野戦倉庫に行って、食料や嗜好品(しこうひん)を受け取り、幾らかの衣類等も受け取ってくる。また、当分転進がないと見越して、共同炊事をすることになり、大きい鍋を使うため、それ用のかまどを石と土で固めて作るなど、分担して各種作業に精出した。
また野菜や、鶏、家鴨(あひる)等現地人から購入できるものは、そのような収集班を決めて食料の確保をはかった。
次の日は暇を見て川へ水浴に行き、十日間の垢(あか)を落とし洗濯もし、さわやかな気分になった。
その時、急に爆音がしたので、川にはみ出していた大きい木の陰にいち早く隠れた。裸のままだ。双発双胴(そうはつそうどう)の飛行機が二機超低空で飛んで来た。ロッキードだと誰れかが教えてくれた。薄黒い色をしていた。
敵は我々の中隊がここに来ているのを察知したのか、それとも飛行中に今見つけたのかも知れないが、我々宿営地の上空を旋回し二回目には、機関砲をパリパリと射ち込んできた。三回、四回と旋回しては撃ってきた。ピューン ピューン という不気味な音、早くも昨日造ったばかりの宿舎が撃ち抜かれた。私は裸のまま木の下に隠れ身を震わせていた。まだ、ここに到着したばかりで防空壕も掘っていなかったので避難する所もなかった。こちらが一発や二発を撃っても仕方がない。お礼返しが百倍も千倍もくるだけである。だが、どうしたことか攻撃は四回で終わり飛行機は去っていった。やれやれだ。
しかし、兵隊の一人が大腿(だいたい)部を撃ち抜かれて重傷、二人が軽傷を受けた。重傷の人には応急手当をして、直ぐにタンガップの野戦病院に連れて行った。タンガップ地区に来たとたんに、重傷者を出し、敵に小屋を見つけられてしまい、いよいよ最前線へ来たとの感を深くした。その翌日はもっと山奥で大木がありよく遮蔽した場所への移転の作業が早くも始められた。
◆弾薬倉庫等の警備
空から絶対見えない場所を選び、分散して小さい家を建てて宿ることにした。どの分隊もそれぞれ暗い木立の下に粗末な小屋を建てた。ここはヤンコという地名だが民家も何もない山の奥深くであった。
もう日本軍は平地で、部落のあるような所には、住めない程に敵の飛行機に追いつめられていた。
我々瀬澤小隊は、馬がいないので輸送業務はなくなり、タンガップ地区の警備に当たることとなった。この地区にある弾薬倉庫、糧秣倉庫、被服倉庫、燃料廠(ねんりょうしょう)、海岸の警備、野戦病院の使役、その他兵站(へいたん)の各種勤務に就いたのである。
これらの品々はいずれも山の中に分散し敵機に見られないように、遮蔽して野積みにされていた。その監視に当たるのである。
私も弾薬置場の監視に就いた。弾薬置場といっても山すその樹木と草原の交じった寂しい所にある。大きい木の陰に弾薬箱を置き、更にその上を擬装(ぎそう)して集積しており、昼夜三交替の勤務である。監視であるから、銃を持ち節度正しく警備し、周りを歩いて警戒するのであるが、考えることもないし特別することもないので、一人ぽっちで夜空を眺めていると、またしても故国のことが思い出される。これから先のことが明暗いろいろに頭をかけめぐる。
いつの日故国へ帰れるのだろうか?今に新兵が来れば交替して帰れるだろうが。戦いに勝ってしまえば凱旋(がいせん)だが、どんなに嬉しいだろうか。しかし、戦いはどうも見通しが明るくない。今の我々には、新聞もなければ、ラジオもない生活である。うわさだが西南太平洋方面の海戦で次第に押されており、サイパン島も危ないとか?事実ここでも日を追って敵の空襲が激しくなってきており、友軍の飛行機など見たこともない。戦況が次第に悪くなっていくのが分かる。
何であろうと戦い抜いて勝たねばならないのだ。与えられた軍務に精励すれば、それがお国のためなのだと思い返してみるが考えに前進はなく、いつも堂々巡りである。
しばらく深夜の静寂が続く。急に近くの山で、「ごおー」「ごおー」とビルマの山鹿であるノロが悲しそうに啼いた。虎にでも追われ逃げてきたのかも知れない。厳しい現実が襲いかかってきた。銃を握り直し、警戒を続けた。私の空想と現実の隔たりは余りにも大きい。
この辺りはビルマの西海岸アラカン山脈の西側で、辺境地といわれる不便な所で経済的にも価値のない所である。しかし戦略的には、英軍と印度軍がいつ上陸してくるか分からない重要な地点となっており、我が軍もこの地の防備に力を入れている。
ここからアキャブ方面にも通じており、海岸防備のためのラムレ島、チェトバ島への渡航地点にもなっており、行き来する人が泊まる場所となっていた。
私はその後、弾薬庫勤務からタンガップ兵站宿舎の勤務になった。いわば旅館勤務といったところだが、とてもそんな粋(いき)なものではなかった。前線へ向かって行く兵隊は、アラカンの険峻(けんしゅん)を歩いて来たとは言え、衣類も痛んでおらず兵器もきちんと持ち、顔色もよく元気で兵隊らしかった。
しかし、アキャブ方面から帰って来る兵隊は哀れだ。服はボロボロ、シャッもボロボロ、空の背嚢を背負い、兵器は殆ど持っていない。顔色は悪く、杖をついてやっと歩いている。乞食(こじき)のようだ。飯盒と水筒をだらしなく持っている。
兵站宿舎といっても、屋根と座がある程度のお粗末なもので、野宿よりは少しましといったところだ。「兵站はここですか」と細い弱い声で尋ねる。「ここです。どうぞ休みなさい」と答えると、ホットした様子で疲労しきった顔に嬉しさがかすかにうかがわれる。しかし一日二日と泊まるうちに、そこで息を引き取ってしまう兵隊が何名かあった。
負傷したり病気になったり、アキヤブの方から後退を命じられ、乗り物も無くやっとここまでたどり着くが、体力は非常に弱っており、息を引き取ってしまうのだ。気の毒なことと思う反面、これが日本の軍人兵士だろうかと、唖然(あぜん)とするのである。
死体の片づけも私達勤務者の仕事だが、あまりにも、みじめな姿は目を覆うばかりである。
二十日ばかり勤務したその頃、思いがけない命令がきた。
◇無線通信教育隊に
◆首都ラングーンへ
私は、聯隊本部から突然「ラングーンで通信技術の教育があるから、教育を受けに行くように」と命じられた。我が輜重聯隊から、私の他に、藤井、山本、西谷、矢野の各上等兵の計五人が選ばれた。中隊本部へ行き金井塚中隊長に申告した。中隊長はレミナの町にいる時一緒に生活していた関係もあり特に私の方へ向かって「しっかり勉強してこい」と激励の言葉があったように思われた。
それからタンガップの他地域にあった聯隊本部へ行き、ラングーンで教育を受ける旨の申告をした。こんな場合、いつでも同年兵ばかりの時は、私が引率者の立場で号令をかけるのが当たり前のようになっており、皆もそのように認めていた。
この時は後方、ラングーンへ向かう自動車に便乗させてもらうことになり、タンガップを夕方出発し、夜明けには大イラワジ河を渡りプロームまで来た。歩いて八日もかかった山道を一夜のうちに走った。さすが自動車は早い。夜の内なら敵機に見つかることもない。
トラックの荷台に乗せてもらったが、路面は凸凹道だから前後左右に揺れるやら、上下に跳ね上げられてはドサンと落とされるやら、荷台には周囲の枠につかまる以外にはつかまる所がないので、五人は懸命に枠にしがみついていた。
しかし、文句を言うどころではなく、自動車は本当に有難いものだと思った。運転手は一睡もせず大変な仕事だがこれも軍務の中、ご苦労なことである。太陽が上がる前に町外れの木立の茂みの中に入り車を止めた。
大休止の後、夕方になりそこを出発した。プローム街道を南南東に向けて走った。舗装道路だから昨夜に比べれば雲泥(うんでい)の差で、荷台に仰向けに寝転び夜空の星を眺めながら進んで行った。気持ちの良い夜だった。幸い、夜のことでもあったため空襲にも遭わず、次の朝はラングーンに着き、ビルマ方面軍司令部直轄(ちょっかつ)の森部隊の通信教育隊に編入された。
私達の兵兵団(つわものへいだん)(五十四師団)からは姫路の歩兵、鳥取の歩兵、姫路の野砲、姫路の捜索(そうさく)聯隊等からで、他の師団から選ばれてきた者を含めて総数約五十名であった。
教育の内容は無線通信機器の操作技術に加えて、モールス信号の発信オペレーターの技術学習であった。
私は学生時代にそれらの基礎を習っていたので、取りつきもよく、皆よりよくできるし、完全に頭の中にスイスイと入るので楽しかった。全体の雰囲気は良く軍隊の中としてはスマートな教育と言えよう。教育時間外も比較的自由に生活ができるようにされていた。
それだけに、厳しい教え方でなくても頭と体、指先と耳で、早く技術を修得しなければならなかった。
◆辺境タンガップとラングーン市内の比較
時折ラングーン地域にも空襲警報が発令されたが、敵機は現われず被害は出なかった。日曜日には市内に外出することも許された。ビルマ人の住宅地にはブウゲンビリヤの真っ赤な花が咲いており、庭には美しい草花が咲き乱れていた。家庭の温かい雰囲気が懐かしく思い出される。
市街の商店街では、日本の将校や兵隊が見物や買物をしていた。
ビルマの若い女性が髪に花を飾り、奇麗なエンジに、色鮮やかなロンジを纏(まと)い皮製のサンダルを履いて二、三人が歩いている姿を見ると、今までアラカンの山や辺鄙(へんぴ)なヤンコ川岸で警備に当たっていた私には、とても美しく感じられた。このように、和やかな女性の姿を見ることができた。男性も下はロンジだが上はスマートに洋服の上着を着ていたり、垢抜けしたビルマの衣装を身に着けていた。さすがビルマの首都である。我がビルマ方面軍の総司令部が置かれている所だけに、日本人の経営する店もあり、日本人の女の子をウエイトレスにしている喫茶店もあった。
戦友と一緒に早速入ってみた。久し振りに見る日本女性はやはり色が白く天使のような感じであった。コーヒーを一杯注文したが、内気な私は一言二言声をかけただけだった。でも心が和む感じがした。市内にはもっと遊べる所があるのだろうが、我々兵隊には無縁なことだし、どうなるものでもなかった。
ただ、ここで感じたことは、第一線の戦場と後方との大きな違いである。あの、タンガップの村落へ、アキャブ方面から戦いに破れ、食物も無く、息絶え絶えになり乞食のような姿で、ボロボロの服を着て杖にすがり帰って来る兵隊と、後方のラングーンで整った服装に身を固め、便利のよい恵まれた市内を闊歩(かつぽ)している兵隊を比較する時、同じ戦地といっても場所によって大変な籤運(くじうん)の違いがあると思った。
私自身も、数日前まで深い山の中で、虎の出そうな深夜、弾薬庫の警備をしていたことを思うと、その境遇に雲泥の差があり、今をしみじみ有難く感謝した。
ラングーンにも雨期がやってきて、毎日毎晩雨の日が続いた。室内での講義と教育はあるが屋外での実地演習はできなかった。気分も何となく重かった。
その頃のある日、急に寒気がしてきた。ガタガタガタガタと震えだした。生まれてこの方こんな悪寒を感じた経験はない。マラリヤかも知れないと思いながら三時間ばかり毛布にくるまって震えた。
それが終わると、こんどは熱が出てきた。ドンドンと高い熱になり、ご飯もおかずも喉を通らなくなって、お茶だけが欲しくなった。飯を食べないで、お茶をガブガブ飲むと胃に悪いのだが、無性に飲みたい。
皆が学習に行き、自分だけ班内に取り残され熱に悩まされていると、健康の有難さがつくづく感じられる。どうなることかと心配で心細く寂しいこと、何とも形容のしようがない。マラリヤで亡くなった谷田君を始めタンガップで悪性マラリヤで息を引き取っていった兵士達の悲しい姿が思い出され、滅(めい)入ってしまう。
軍医に見てもらい、薬を飲み休むこと数日、悪性でなく三日熱程度のものだったのだろう、幸い三、四日で熱が治まり元気な体に回復した。やれやれと安心し嬉しかった。他に同じ程度の熱発患者が三、四人でたが、皆大事にならなくてすみ、訓練を続けることができた。
◆西谷上等兵の病
この頃輜重聯隊から一緒に来ていた元気者の西谷矯正(にしたにきょうせい)上等兵がマラリヤと赤痢を併発し急激に衰弱した。
同僚であるが私が引率してきた責任もあり、一生懸命に看病した。しかしここでは充分な手当ができないので、ラングーン市内にある陸軍の基地病院に入院することになった。少しばかりの彼の装具やお守り等を持ち、付き添って病院に行った。鉄筋の大きな病院で設備も整っているようであった。
彼は私に、赤痢のことについて「絶対に外で物を買って食べてはいかんぞ、儂(わし)は菓子を食べてからこうなったんだ。お前も気をつけろよ」と後悔の気持ちを込め注意してくれた。
私は「ここは大きな病院だから薬もあり、設備も良いからきっと治るよ」「通信技術の勉強のほうは後から頑張ればよいのだから」と励まして帰った。
その後見舞いに行った時、ちょうど内地から来ている看護婦が「ご案内します」と言つて案内してくれた。まさに日本女性の優しい声である。私の心は疼き、すがすがしさを感じた。白衣が目に痛い程で白い肌が美しく、黒い髪の匂いがほんのりと漂ってくる。なぜ日本の女性はこんなにも美しいのだろうかと思いながら後について行くと「こちらです、どうぞ」と教えてくれた。
少しぐらいの病気をしても、こんな優しい女性に看護してもらえればいいなあ等と、つまらぬことを考えた。
内科の部屋に入るとベッドが幾つも並んでいた。この部屋の人は、みんな重病なのか起きている人はいなかった。案内の看護婦は西谷君のベッドに近づき「ここです」というと、そのまま出ていった。
西谷上等兵は気配を感じてこちらを向いた。私は「西谷、来たぞ」と言うと「有難う、よく来てくれて」と元気のない細い声で答えた。普段でも細い顔が一層痩(や)せて青く、くすんでおり、目はくぼんでいた。これが二十歳台の青年かと疑いたくなる程衰弱していた。
私はあまりの変わり方に多くも語れず「充分養生して早く治れよ。お前は心臓が強いのだから大丈夫だよ」と励ました。それ程に西谷君の病状は重く、平素気丈夫な彼であったが、病魔の侵すところい・か・ん・ともしがたく、闘病の日を過ごしていた。
私が思う以上に、その時の彼は看護婦さんを頼りにし、祈る気持ちだったことだろう。ほかに現地採用のビルマ人看護婦達も甲斐甲斐(かいがい)しく働いているのが印象的であった。
タンガップの野戦病院は病院といっても野宿同様の小屋で薬も設備もなく、死出に旅立つ人の溜(たま)り場のようなものであるが、それに比較し、ここで治療が受けられるのは幸運だと思われる。でも重い病気にはかなわないが。
何回か見舞いに行ったが、一進一退というより心配の方が多くなってきた。励ましてやるのだが、うなずくだけで心なしか目には涙が光っていた。異境の地に来て、華々しい戦いにも出られず、病気に倒れての苦悶(くもん)の日々。さぞ残念であろう。そして故郷の父母兄弟を思い懐かしんでいるのだろう。
そのうち、看護婦二人がリンゲルを打ちにきた。毎日打つのだろうが、大きな針が痩せた太股に刺されている。果たして治るのだろうか?彼が快方に向かうことを祈りつつ兵舎に帰った。
彼が私を頼りにしているのがよく分かるので、学習の合間を縫って何回も見舞いに行った。
◇原隊復帰(げんたいふっき)
◆再びタンガップの山中へ
そうこうしている間に、いよいよ教育効果試験もすみ四ヵ月間の訓練を卒業した。彼を病院に残したままで元の輜重聯隊に復帰した。教育の効果試験の結果は、私がトップだったようである。
先にも述べたが、学生時代に基礎を習っているし、真面目に学習したのだから当り前と言えばそれまでだが、聯隊本部に復帰の申告に行った時、及び金井塚中隊長に申告に行った時も大変褒(ほ)められた。おそらく成績が原隊に通知されていたのではないかと思われた。自分自身にとっては便利のよい首都ラングーンで、前線の苦労から開放されて勉強させてもらった上に、聯隊や中隊内での印象も更に上がり、有難いことであった。
タンガップの中隊本部に帰った頃は、雨期も終りに近い九月中旬だった。私は激しい雨期の期間をアラカンの辺鄙(へんぴ)な山の中でなく、都市ラングーンで食糧にも全く不自由せず過ごせたのだから、そのこと自体本当に有難いことであった。
主要な方に挨拶をすませ、私の属する瀬澤小隊に帰ってみると、山の中の掘っ建て小屋の中に四、五人の兵隊が残っていた。
建物は雨期を過ごしてきたので古ぼけ痛んでおり、いわば乞食の小屋のようであった。殆どの兵隊は各場所に分散して海岸警備等の任務に行っており、警備先でも皆この程度の小屋に住んでいるのだろうが、瀬澤小隊長もどこかの警備の指揮に当っていて、ここにはおられないそうである。この兵隊達はみんな半病人のようで顔色も悪く元気もなく、小屋の中の土間で小さな焚火(たきび)をしていた。
その兵隊達の話によると、中隊も小隊も分散していろいろの所に配置されているが、雨 雨 雨の毎日で、山の中で食物は無く雨期の間に大勢の人が栄養失調やマラリヤで死んでいったそうである。この間もタンガップの倉庫が空襲で焼かれたため、物資がなおさら欠乏し、爆死した人もあったという暗い話ばかりであった。
私がもし、ラングーンに行かずここの警備任務を続けていたら、悪性マラリヤに罹(かか)り、あるいは食糧不足で病死していたかも知れなかった。幸運であった。
その後しばらくして、西谷上等兵が不帰の客になったとの知らせが中隊本部に届いた。やっぱり駄目だったか、と私は暗然とした。元気な頃、彼のお父さんから来た手紙も見せてくれたことがあったが、身内の人が聞いたらどんなに悲しまれるだろうか。彼は立派な病院で、日本人看護婦に見取られて逝ったのだろうが、同じ聯隊の戦友に見守られることもなく、寂しくこの世を去っていったのである。その後、遺骨がどうなったか知らないが、今も在りし日の彼の特徴ある面影が思い起こされてならない。合掌
その頃、ヤンコ川のほとりにある中隊の医務室は患者で満員であった。殆どの人がマラリヤで重い患者が多く赤痢の人もいたが、繁盛するのは医務室ばかりであった。しかし薬も乏しく、悪質な病気にはどうすることもできない状態で、ただ寝させているだけのようでもあった。
◆久保田上等兵の最期
久保田上等兵がマラリヤでもう五日間高熱が続き、全く何も食べていないので入院することになった。彼はこの間まで元気で、作業していたのに四十度の熱が出たきり下がらなくて、それに下痢までするようになったのだ。私が牛車に乗せてタンガップの野戦病院に連れていった。道なき道を行くのだから揺られ揺られて大変な苦痛だっただろう。それにどんな思いをしているのだろうかと心配だった。
やっと、野戦病院についた。「まいったなあ!」と彼が言った。「しっかりしろ大丈夫だ。病院に入れば薬も沢山あるし、少しすれば熱も下がるよ」と勇気づけた。しかし、病院とは名ばかり、我々が住んでいるあ・ば・ら・や・と何ら変わりがない。幾棟かの貧しい小屋が山中の薄暗く湿気の多い場所に、建っているだけである。ここも患者が一杯で空いているところがなかった。やっと、一人分のスペースを見つけそこに入った。奥の方に大勢の患者がいるようだ。でもうす暗くてよく見えず不潔な感じが溢(あふ)れている。こんなところで治るのだろうか?
椰子の葉で造った窓の蓋(ふた)を押し上げて開ける元気もなく、皆寝ているだけなのである。そのため暗く陰気なことこの上ない。
病院はタンガップ地区にいる兵隊ばかりでなく、前線から傷ついて下がって来た者もおり患者で一杯だ。軍医も看護兵も足らず、薬剤も何もかも不足していることは明らかであり、久保田上等兵を寝かせて「また来るから元気を出しておれよ」と勇気づけたものの心配しながら中隊へ帰った。
この野戦病院でどんなに多くの人が死んだのだろうか。金井塚中隊から入院した人がもう五人も死んでいるそうである。恐ろしいことである。
それから一週間後「久保田上等兵の遺体を受領に行って来い」と命令された。やっぱり駄目だったのか彼は死んだのだ。私は愕然(がくぜん)とした。
◆屍(しかばね)の処理
この地で悪性マラリヤにかかれば治ることは殆どない。それに下痢を併発したとあっては、仕方がない。いくら病院といっても、薬は殆ど無く看護する兵隊が病気で倒れ、次から次へと増える患者の世話をすることはできない現状である。
結局、病人や負傷者は自力で回復するより方法が無いのである。すでに弱りきった体では、なすべき手段もなく最期を待つのみである。死んでしまえば、病院側も原隊に知らせるのが精一杯といったところのようである。野戦病院やその勤務者が悪いのではない。戦況がこんなにも悪いのである。
このようにして、薄暗い竹で造った野戦病院とは名ばかりで手厚い看病も充分な薬も与えられず、亡くなって逝つた兵士達は、自分の運命はこれまでかとあきらめながらも、また生への執着と故国への夢には去りがたいものがあったであろう。
案内されて行ってみると、久保田上等兵は昨夜十二時過ぎから様子が変わり午前三時に息を引き取ったとのことである。
遺体には彼の毛布がかぶせてあるだけである。枕元には飯盒と水筒、薬の袋と少しの日用品があった。これが彼の全財産である。余りにも寂しい旅立ちである。彼にも内地に両親があり息子の武運を祈っていただろうに・・・・。浅黒い整った顔立ちの気持の良い男だった彼は、哀れな姿に変わり果てている。
---一年四ヵ月前内地出発の時、姫路駅から宇品駅に行く夜行列車の中で、私の前の席に腰掛けていたが、しんみりと「いつまたこの汽車に乗れるだろうか?」と話しかけてきたことを思い出し、私が彼の最期、遺体の処置をするようになろうとは、つゆぞ思いもかけないことであった。
迎えに行った我々三人は、彼の屍(しかばね)を担架に乗せて病院敷地内の火葬場に運んだ。この病院にそんな仕事をする兵隊もいるのだが、余りにも死人が多く手が回らず、疲労しきっており処理ができないので、原隊の責任でやってくれとのことである。
そこには大きな穴が掘られ鉄の太い棒が数本渡されていた。我々は教えられるままに久保田君の死体をその上に乗せた。近くの山から二時間もかかって薪(たきぎ)を取ってきて、斧(おの)を病院から借りて割り木を作り、窯(かま)の中の方に放り込んだ。屍の上にも一杯積み上げた。病院から灯油を十リットルばかりもらってきて、屍の上や焚き木の上にかけた。それはあらかじめ、このために用意された油であった。
内地からここまで苦労を共にしてきたのに、その友をこうして火葬にしなければならなくなった私、与えられた命令とはいえ余りにも耐えがたいことである。しかし、屍をこのままにしておくわけにはゆかない。今ここでは感傷は無用である。軽く合掌(がっしょう)し点火した。火は油のためかよく燃え広がり、どんどんと燃え久保田君の着ている服にも火がついた。
しばらくその場を外した。その内なんともいえぬ臭いが鼻をつき、気持ちが悪い。体が焼けている臭いだろう。この火葬場で次から次に大勢の人が白骨となったことだろう。嘔吐(おうと)をもよおす臭いが立ち込める。
大分時間も経過したので、臭(くさ)いのを我慢して行ってみると、内臓あたりが焼け切らずジュウジュウと音を立てていた。長い棒でよく焼けるように直し追加の薪を重ね、風上の林の中に行って待つことにした。誰も口をきかない。
私は「人間もこうなってしまえばおしまいで、すべては終わりだ。肉体はこのようになってしまったが、人の魂はどうなるのだろうか?故郷の国へ帰ることができ御仏となることができるのだろうか。せめてそうであってほしい」と思った。
敵機に発見されると攻撃されるので、なるべく煙の出ないように努めやっと焼き終った。多少焼け過ぎてボロボロに砕けた部分もあった。
幸いにこの時間に敵の飛行機が来なくて助かった。骨を入れる壷がなく、適当な容器も無いので、もう必要のなくなった彼の飯盒に骨を拾って入れた。英霊に対しご無礼なことかも知れないが、これが一番安全確実な方法だと思わざるを得ない。大切に中隊本部へ持って帰った。命令とはいえ戦友の屍の処理に当たることは、どんなにつらく悲しいことか。
その日の夕食は吐き気がして、食事が喉を通らなかった。ご遺骨はその後どうなったか、内地まで届いただろうか?それは昭和十九年十一月頃のことで戦況は次第に悪くなり、その可能性は薄いと思われるが。届いていることをお祈りする。
◇悪性マラリヤで死の淵(ふち)に
◆発熱
雨期もすっかり終わり晴天で平穏な数日が続いた。そんなある日、私達四、五人は、タンガップにある野戦の食糧倉庫に、糧秣受領に行った。待っている間に私は急に寒気がしてきた。その悪寒は急激に増し、ガタ、ガタ、ガタと音を立てて歯が震えてくる。幾ら日のよく当たる場所に行ってみても寒いばかりである。
ああ、マラリヤだと感じた。しかし、ラングーンでかかった三日熱ぐらいではなかろうか、そうであって欲しいと思った。そうならば二、三日もすれば熱は引くだろうと思った。しかし、糧秣(りょうまつ)を受け取り帰る間に悪寒(おかん)は急激に増し、次に発熱を感じてきた。中隊に帰るとすぐに医務室に行き診断を受けた。マラリヤだということで医務室に続く病室に入った。ここも粗末な竹の小屋であった。
夕飯はほんの一口食べただけで何も欲しくなく、水やお茶が飲みたいばかりであった。夜になっても熱は一向に下がらない。体温計は四十・五度を指していた。熱のため体からは汗一つ出ず、気持ちが悪い。
夜も更(ふ)けてきたが熱は下がらない。うつらうつらと眠るような眠らないような一夜が明けた。
朝飯は一匙(さじ)おかゆを口に入れてみたが全く味がなく喉を越さない。スッパイ梅干を一個だけやっと口に入れた。食後に苦い液体のキニーネを飲んだ。今飲んでも効くはずがないし、食べていないのに飲むとかえって胃によくないが、せめてもの慰めだ。体温を計ったが四十度のままで変わらない。熱で頭がズキンズキンと痛む。
少しの汗も出ず、つるつるとした肌触りである。毛布を被ってみても気持ちが悪い。熱のために毛布の端がピリピリと震えている。毛布を脱いでみても気分は良くならない。
隣に寝ている戦友が「小田どうか」と尋ねてくれるが、「うん」と答えるだけである。喉が乾く、水筒のお茶をゴクリ ゴクリと飲んだ。なんと美味しいことか。このお茶がたまらなく美味しい、一口では足りなくまた一口また一口と飲む。
「水やお茶をあまり飲むと胃を弱くするからいけない」と軍医から言われているが、欲しくてたまらない。キニーネで胃を傷めているのに、水を飲むと更に胃を傷め下痢となるのだが。
胃に障害が起こり、アメーバー赤痢にでもなれば、余計に衰弱することは明らかである。しかし、今の私にはお茶にまさるものはないのである。こんな時にリンゴとかミカンがあれば食べられるのではないかと思ってみるが、この山あいには果物等何も無い。バナナさえ買うこともできない程の山の中である。また野生の果物がそうそう在るはずもない。実際には果物があっても、この高熱では受けつけないだろうし、いろいろと思ってみるだけである。
ままよと思い、配給になった日本のたばこを口にしてみたが、気持ちが悪いだけで受けつけられるものではない。やがて、石川軍医の診察が始まった。期待して診察を受けたが、「これはマラリヤだ」と言っただけだった。衛生兵がビタカン一本を注射し、キニーネを五粒ずつ飲むようにと言って袋をくれた。午後もその夜も高熱が続き体が次第に弱ってくる。
眠ったり目が覚めたり、うつらうつらしている間にその夜も明けた。だんだんと心細くなってくる。食べる物は何も食べられずその日もお茶を飲むだけである。隣に寝ている戦友が「心配するな、三、四日すればよくなるよ、大丈夫だ」と言って励ましてくれた。
それを聞くと、自分のことはひいき目に考えられ、この熱はきっと下がり自分だけはきっと治ると思った。
小便のために、建物外の便所まで行くのが苦痛になり、ふらふらする体を柱や庭の立ち木につかまりながら、支えて行くのがやっとであった。くらくらと目が眩(くら)む、ああ情けない。小便の色は濃い茶色で、恐ろしい程の濃いさだ。
血が溶けて出ているのではなかろうか。気持ちが悪く長く見ている気もしない。自分の床までやっと帰り身を投げ出すように転ぶ。このようにしてその日も暮れた。石油ランプの明かりも無く暗い静かな夜が更ける。
少しでも寝ようと思っても熱にうなされ眠れない。心臓の鼓動がドキドキと早く脈を打つ。なんでこんなに早く脈を打つのだろうか、果たして治るだろうか?
◆高熱が続く
先日久保田上等兵がかかっていた状態と同じではないか。そして多くの兵士が命を落とした悪性マラリヤではないか。一度発熱したら最後、余程の良い薬があるか、余程の幸運に巡り合わないと高熱はいつまでも続き、一週間もすると下痢を伴い脳症(のうしょう)を起こし意識不明となり、更に三、四日すると死んでしまうと言われている。
私も、まさに同じ症状の三日目である。あの暗い野戦病院行きとなるのだろうか。野戦病院に行けばそこで四、五日すれば脳症を起こし意識不明となる。あと二〜三日であの世行きになるのかと思うと、暗然とした気持ちに襲われ不吉なことだけが頭の中を駆けめぐる。夜明けになりやっと浅い眠りに入ることができた。
朝になり、飯盒に少しの粥(かゆ)を入れてくれた。幾ら塩を入れても苦い、一匙(さじ)二匙口に入れてみたが食べる気がしない。粉味噌で作った汁も苦いだけで飲めないので力なく向こうに押しやった。隣の戦友に後片づけを頼んだ。飲めるのは水筒の水のみである。水がおいしい。でも、昨日辺りから下痢が始まりだんだん回数が多くなってくる。水を飲んではいけないのにガブガブ飲みたい。胃の中はどうなっているのだろうか。素通りして下痢となって排泄(はいせつ)しているだけである。
今日はビタカンの注射をしてくれた。キニーネは胃によくない。続けて飲んでいるが今更(いまさら)効くはずもない。ふらふらしながら、外の便所に行く回数が増えるが、もうたまらない。私は痔が悪く、手術したことがあり肛門の括約筋(かつやくきん)がやや緩いので、漏らさないようにするのが大変なのである。
クラクラする頭、よろめく足元、濃い茶色の小便、血のような粘液物が混じった大便、ああ恐ろしい。
その日も暮れ、夜になったが熱は一向に下がらない。体温計は四十度一分を指したままで、汗は全然出てこない。
衛生兵もこの悪性マラリヤにはホトホト手を焼いている。私も、次々に倒れ死んでいった兵士達の姿を見てきた。先日も久保田君の罹病(りびょう)から最後の姿を見届けたばかりであり、死の恐怖をひしひしと感じる。
でも自分だけはそのコースをとらないでよくなるだろうと、欲目なことを思うのである。椰子の葉で葺(ふ)いた屋根の隙間から残月の明かりが病室に差し込んおり、周囲の患者は寝静まっている。内地から持って来て肌身離さず着けているお守りをもう一度固く握り直してみると、母の姿が思い浮かんでくる。
「敦ちゃん、お母さんが一生懸命信心しているから、元気をだせ」「お前のために一心にお祈りしているから、お前はきっとおかげをいただけるから」と、母がはっきり夢枕にたち、幾らか気分が落ち着いて来た。そして「神様どうか助けて下さい」と深く厚いお祈りをした。声には出さないが悲壮な願いであった。
高い熱にうなされ体を反転させ、うつらうつらしている間に夜が明けた。昼中は今日も暑い日である。発病してから四日になる。一日一日と悪くなっていくだけで、またしても不吉な予感に襲われる。周囲の者も「小田はもう駄目だろう」と感づいているのだろう。誰も声をかけて来ない。今日か明日には野戦病院に行くような命令が来るのではないかと、みんな思っているようである。午後になると熱に加えだんだんと下痢が激しくなってきた。衰えてゆく体、急転直下奈落(ならく)の底に転落するようだ。今日もそのまま日が暮れてきた。
◆救いの神
夕方、志水衛生伍長が病室に入ってきて、「小田どうだ」と尋ねられた。「はあ」と力なく答えた。勇気づけるためかわざわざ笑顔で親しそうに「弱ったか、熱が出て何日かのう」と聞かれた。私は「今日で四日ですが、ずーっと熱が出たきりで下がらないんです。それに下痢も始まり・・・・」と哀願(あいがん)するような気持ちで答えた。神様にお祈りするような心境で、それに知っている人だけに、いささか甘えたい心理も働きつつ答えた。「そうか」と言って衛生伍長は立ち去った。
しばらくして「小田ちょっとこちらへ来い」と呼ばれた。病室を出て奥の部屋にふらふらしながら行った。誰もいない治療室だった。もう室内は薄暗くなり、カンテラに明かりが点されていた。
「腹ばいになって尻をだせ、打ってやるから。この注射は人によってはよく効くんだ。だけどこれはもう殆ど無い、取っておきなんだ。もう補給もないだろうし」と言いながら「痛いぞ、我慢しろ」と言って、グサリとお尻に一本打ってくれ「もう一本だ、こちらの尻だ」と言ってグサリと二本目を注射して下さった。バグノールという薬だそうだが、当時貴重品中の貴重品だったのだろう。兵隊の私にもこんな戦況で辺鄙(へんぴ)な山奥にいる中隊の医務室に貴重な薬品が、沢山在るはずがないことは分かる。それを私に打ってくれたようである。尻の注射は痛かったが、これぐらい有難い痛さはなく、感謝の注射であった。
注射が終わった後、志水衛生下士官は「元気を出しておらんといかんぞ」と一言励まして下さった。
しかし、熱は下がることなく暗い夜は更けていった。やはり駄目なのだ、もう駄目なのだ、私の運命もこれまでかと悩み、不吉なことのみが頭の中を駆けめぐり、眠るでもなく目覚めているでもない状態が続いた。その内いつの間にか眠ったようである。ふと目が覚めるともう朝だった。
少し気分が良いではないか。「少しいいぞ!」心が明るくなった。「シメタ、あの注射が効いたのだ」きっと志水伍長の措置が効を奏したのだ。有難い、志水伍長有難うと思わず手を合わせた。体温を計ってみると三十八度だ。四日間ぶっ通しで四十度続いた熱が下がっている。あのバグノールという注射が私にはよく効いたのだ。病状により、いつでも誰にでもどのマラリヤにも効くのではないようであるが、私には幸運にもピッタリ効いたのだ。
昨日までは何も食べられなかったのに、今朝はお粥(かゆ)が少し食べられた。昨日に比べ今日は本当に嬉しい。夕食のお粥はもっと食べられた。病気が快方に向かう時の嬉(うれ)しさは格別である。希望が湧きその夜はよく眠れた。
翌日、体温は七度五分に下がり下痢も止まった。素晴らしい治り方だ。不思議なぐらい熱が下がり下痢も全く無くなった。私は死の淵から救われ、日々快方に向かい半月もたたない内に元気に働くことができるようになった。三途(さんず)の川まで行って引き返してきた大変な幸福者である。このことはいつまでも忘れられない。復員後戦友会で私はこの命の恩人に時々お目にかかる機会に恵まれている。

六 戦況不利
◇戦況の推移
◆敵機頻繁(ひんぱん)に来襲
山の中で敵の監視を逃れながらひっそりと過ごしている間に、戦況は急速に悪化し敵の飛行機は度々飛来し、爆撃も頻繁になってきた。よく晴れた日に爆音が西の方インド洋のベンガル湾方面から聞えたかと思うと、爆撃機が二十機ばかり見事な編隊を組んで飛んで来る。まだ新しい飛行機だろうか太陽に輝いて銀色にキラキラと光っている。
我々のいる所から三キロ程離れたタンガップの町の上空に差しかかったかと思うと、一斉にパラパラと光る物を落した。飛行機から離れた瞬間のみ見える物体であるが、その後は見えない。十〜十五秒するとドカン、ドカン、ドカンと大きな爆発音が聞こえ、その辺りから土煙が幾つもはね上がった。一帯は煙に包まれてしまい、やがて火災が発生してきた。
日本軍には反撃する手だては何も無く、敵は縦横無尽(じゅうおうむじん)に攻撃をしかけてくる。敵のなすままで、いくら歯ぎしりをしても仕方がない。
これが友軍であれば、どんなに嬉しくどんなに頼もしいことかと思ってみても、敵機だ。残念ながら私はビルマに来てから友軍の飛行機を殆ど見たことがない。
やがて、この頃から敵の大編隊が我々の遥か上空を東に向かって飛んで行くのを見るようになった。どこを爆撃しに行っているのか分からないが、多分ビルマ中部平原の日本軍の拠点や、我が後方の陣地や基地のほか、食糧倉庫や兵器倉庫を爆撃しているのだろう。
そして、偵察機が私達の隠れている山の中を縫うようにして低空で偵察に来るので、身動きもできない状況となってきた。日中は大きくよく茂った木の下に隠れ、煙を出さないようにし、暗くなってから飯盒炊事をする生活を余儀なくされた。
その頃、ビルマの女性二人が我々がいる山深い所へ物売りに来た。一人は中年、もう一人は娘らしく若かった。私はラングーンから原隊に復帰して以来ここ三ヵ月ぐらい現地人、特に女性など見たことがなかった。日本人が餅(もち)が好きだということで、餅を作って売りに来たのだ。軍票の値打ちが下がりかけてはいたが、まだ使えたのでそれで支払いをした。
娘の方は赤いロンジを腰に巻いていたが魅力的で印象に残った。顔にはビルマ風の、木の汁の白いものを塗る化粧をしており、足は裸足だったが、なんと美しいなあと女性を感じた。一服の清涼剤で心の和む一時であった。誰も同じ気持ちだったと思う。ただそれだけのことを今も覚えている。
時まさに昭和二十年一月、ベンガル湾ラムレ島方面に敵の軍艦からの砲撃が開始され、我々の所にもその砲声が遠雷のように響(ひび)いて来た。戦場間近しの感深く様相が大きく変わり、暗い気持ちで正月を迎えた。正月らしい食物も無く、やっと飢えを凌(しの)ぐ程度であった。
だが、経理担当の金田軍曹が餅米(もちごめ)をどこかで調達してきて、炊事班の三木兵長等が丹精込めて餅を作り一個ずつ配ってくれた。
大正天皇の御製に「軍人(いくさびと)国の為にと射(う)つ銃の 煙のうちに年たちにけり」とあるがそれを思い出した。実際ここビルマでの戦況は日に日に悪くなっている中で、私は数え年で二十三歳、満年令でもうすぐ二十二歳になる昭和二十年の正月を迎えた。
その頃は、敵がいつ上陸してきても戦えるように武装したまま仮眠(かみん)する夜もしばしばあった。その後、敵機の偵察から逃れるため、住む場所を変え、より深い山の中で大木の下に、半地下式の穴を堀った。次第に追い詰められてゆくのがひしひしと感じられた。
◆ドイツが負けたというビラ
二月になった頃、「イタリヤが負け、ドイツも降伏した。ヒットラーが死んだ。一葉落ち二葉落ちて天下の秋を知る」と書いたビラを英印軍が播(ま)いていった。それを拾った人から人へと次々にうわさが流れてきた。半信半疑ながら大変なことになったと思った。あれ程強かったドイツ軍が何故負けたのか。日本はどうなるのだろう?負けはしないだろうが、勝つことは難しく憂慮すべき戦況だと思わざるを得ない有様だ。味方からの情報は全く入らない。敵の散布するビラしかない。敵の宣伝を信じはしないが、これを否定する確実なニュースはどこからも入ってこなかった。
この頃、ラムレ島の守備に就いていた鳥取の歩兵聯隊が、物凄い艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けていると聞く。
強大な物量を持つ敵の攻撃に友軍は手も足も出ず、苦心惨憺(くしんさんたん)しているとのことであった。砲声は昼となく夜となく殷々(いんいん)としてここまで聞えてくるようになった。その島に私はいないのでよく分からないが、実際そこで戦っている兵士達がどんなに被害を被り、どんな悲惨な状態に陥(おちい)っているのかと思うと、たまらない。ただ健闘を祈るのみであった。
◆タマンド地区の警備と敵の襲撃
二月中旬に、瀬澤小隊はタマンド地区の海岸警備に当たることになった。ヤンコ川の上流の山中を出て、海岸に沿い北へ向かって最前線に出動した。数日間の夜行軍が続き、タマンドの一部落の海岸に着いた。そこには現地人の家が二十軒ばかりあり、海岸の近くに公会堂のような小屋があったので、そこに泊まることになった。野宿ばかりしてきた者にとって、屋根のある家の中で休むことは有難いことであった。
ここに来たのは第二小隊の一部で、瀬澤小隊長以下浜田分隊長を含め第四分隊の四十名ばかりであった。
この頃、既に小隊の中で第三分隊約四十名は他の方面に分散しており、小隊長の所を離れていた。我々は周囲の状況を良く調査し敵の上陸に対処した。ここは入江になり小さな船着場となっていて、ベンガルの海が前方に大きく開けていた。よく見ると敵英印軍が上陸した形跡があり、携帯食糧を食べた後の包み紙が捨てられていた。
我が方の兵器は軽機関銃が二丁と小銃三十五丁余りで極めて軽装備である。弾丸の数は機関銃と小銃を合わせて二千発も無かったであろう。敵が艦砲射撃をしてどっと上がって来れば、一溜(ひとた)まりもないことは明らかである。しかし我々瀬澤小隊はここを厳守することを命じられたのである。
もうこの頃は充分な食糧も無く、現地人の蓄えていた籾を鉄帽に入れて帯剣の頭で搗いて籾から玄米(げんまい)、玄米から白米へと、時間をかけて食べられるようにし、と・う・が・ら・し・の辛い刺激で食べていた。
ここでちょっと、私の回りにどんな人がいたか思い出してみる。瀬澤小隊長、この人は旧制中学校の図画の先生をしていた方で温厚な人柄であった。私はタンガップにいた頃、この方の将校当番を仰せつかったことがあった。私はあまり気性が鋭い方でないので、充分に食糧を仕入れてきて小隊長に差し上げることができたか否かは自信がなかったが、何かと心が通じあって大変可愛がって頂き、目をかけてもらっていたのである。
浜田軍曹は分隊長で、張り切った下士官といったタイプの人情味のある聡明な方であった。
次に森剛伍長だが、シンガポールかどこかで最近下士官教育を受けてこの分隊に配置されてきたばかりで、いくらか遠慮されており、若く人柄の整うたおだやかな方のように見受けられた。分隊長見習い中といったところであった。
戸部兵長は班長で真面目な方で班内をよく取りまとめており、古参の玉古上等兵は機関銃手として頑張り、機転のきく人であった。戸部班長も玉古上等兵も、私を良い兵隊として常にそのように扱って下さった。厳しい軍隊で野戦の中にいながら、温かい雰囲気の中にいられることは、本当に有難かった。
その他に田中古年兵、前田古年兵、松本古年兵、平田古年兵等がいた。そして、我々と同じ初年兵に橋本、妻鹿(めが)、長代(ながしろ)、三方(みかた)、中村、萱野(かやの)、山崎、中山等、その外同じ班内の人や他の班の人が二十名混じりあって、総員で四十名ばかりが行動を共にしていたと記憶している。
編成当時瀬澤小隊は百二十名いて、二個の分隊で六個の班で編成されていたが、この時は既にいろいろの方面に、分散され配置されていたし、既に数名は亡くなっており、まとまっていたのはこれだけであった。
ここで思い出して書き出した方々は、その後殆ど戦死され、内地へ復員できたのは、妻鹿(十年前死亡)、中村(五年前死亡)、前田(三年前死亡)、田中、長代の諸兄と私だけである。班内でも大部分の方がビルマの地で散っていかれた。痛恨(つうこん)の限りである。
さて、この海岸の警備任務に就くにあたり、森伍長を斥候長として私達三名で海岸線の偵察に出掛けた。我々が陣を敷いている湾は河口でもあり、椰子の木も生えた緑の多い船着場であった。
しかし海に向かって左手の方は岩ばかりの海岸が続きゴツゴツしたところであり、右手の方即ち船着場の河を隔てた向こうはマングローブの茂った浜辺が続いており、我々は重要地点を警備していることを悟った。
警備について二、三日後の深夜のこと、ドゥ、ドゥ、ドゥというエンジンの音がして敵の砲艦がだんだん河口を上って近づいてきた。その時不寝番が「敵襲!敵襲!」と大きな声で叫んだ。皆武器を持ち外に出てあらかじめ用意した壕(ごう)に滑り込み、河口の方を見ていた。
小隊長が「射つな」「射つな」と命令した。「敵が上陸してここまで来てから射つのだぞ。それまでは射ってはならんぞ」と言った。射てばこちらの位置を知られるだけで、こちらが一発撃てば千発お返しが来ることが目に見えている。それにこちらは、数える程しか弾薬を持っていないのだから当然の命令だ。
そうするうちにバリバリ、バリバリと敵の砲艦から砲撃が開始された。曳光弾(えいこうだん)が尾を引いて飛んで来る。高い木の枝が折れる音、飛び散る音が凄い。一旦止んだのでホッとした。しかしそれも束の間、今度は少し角度を降ろして激しく撃ってきた。地上すれすれに曳光弾が飛んで来て、我々は壕(ごう)の中で頭を縮めた。ガガガタと歯が震える。弾丸は我々が泊まっている公会堂を貫いている。凄(すご)い恐ろしさだ。砲艦一艘(そう)でこれだから、軍艦から攻撃を受けたラムレ島やチェトバ島はどんなに激しかったことかと思われた。
敵の火砲と味方の火砲の比較は千対一、いや万対一で、どうにもなるものではない。もう一つ不思議なのは我々がここに来てから、一週間ばかりになるが、敵の偵察機が来たこともないし、見えない沖の方にいる敵の軍艦が、ここを監視しているようでもないのに、どうして我々の存在が分かるのか。常に木の陰に隠れている我々がどうして知られるのか。敵は我々日本軍が想像するより遥かに凄い探知器や観測計器を持っているのだろう。
霰(あられ)のような攻撃が止んだ。静かで不気味な時間である。今にも敵が上陸してくるのではないかと、目を皿のようにし耳をそばだてていた。しかし、敵はエンジンをかけて、もと来た方向に向かって引き揚げて行った。エンジンの音が遠くに去った後、やっと緊張がほぐれた。「凄い奴だなー」と誰かが口を切った。「なかなか、やりやあ〜がるなあ」と誰かが答えた。「皆無事か」と浜田分隊長が尋ねた。やっと、みんな壕(ごう)から這い出て小屋に帰った。幸い誰も負傷してなくて助かった。興奮が納まらず、誰も眠れないようである。
そうしている間に、「マスター」と外で呼ぶ声が聞こえる。何事かと思って出てみるとビルマ人が二人立っている。一人が先程の弾で怪我をしているので手当てをし薬をくれという。中へ入れローソクを点(とも)し、衛生兵を起こした。怪我人は背中を撃ち抜かれ、かなりの重傷である。
部落の長が連れて来たのだが、彼も緊張した趣(おもむき)で手には長槍を持ったままであった。それは彼らの身を守るために用意したものらしい。衛生兵は傷口にヨウチンを流し込み、包帯で縛り丁寧に処置をした。彼らは大変感謝して帰ったが、戦争のために第三者までこんな犠牲になっているのを見て本当に気の毒に思った。
それからはいつ、敵が上陸してくるか分からないので、それに備え、より充分な警戒をした。私は橋本上等兵と共に、後方の少し高い山に行って見張りをするよう瀬澤小隊長より命じられた。それは敵艦が攻撃してくるのを早く見付けるためであったが、後から思うと、そればかりではなく敵が上陸してくると全滅する恐れがあるので、その場合にこの二人を連絡要員として、残して置こうと考えたのかも知れない。
二人は小高い山の上にあがり昼夜続けて見張りをし、敵の砲艦の様子を監視した。そこは海や入江の様子がかなり遠くまで見える適所であった。虎を警戒しながら過ごした。
◆橋本上等兵と語る
橋本梶雄上等兵と私は、私が青野ヵ原に転属してきた時以来、最初から特に仲良く助けあってきた仲で、今までにいろいろと身の上話をしてきたが、ここでは二人だけであり、時間は幾らでもあるので更に詳しく話をした。彼は旧制高梁(たかはし)中学から、秀才の行く旧制第六高等学校を経て、東北帝国大学を卒業し、大阪で一流の会社に勤めるエリート社員で、私より十二歳も年上である。温厚な人柄で、私の人生の大先輩、先生のような人であった。先に述べたように、既に奥さんも子供さんもあり安定した家庭を持った方であった。
私は子供の頃、備中(びっちゅう)の高梁の町に住んだことがあり、岡山市で中学生活をし、旧制高等工業学校は東北地方山形県の米沢市に行ったので、共通した土地の話が合い人生経験を教えられることが多かった。元気で帰ったら、美味しいぜんざい屋に案内するからなどと、内地を懐かしんだものだった。
奥さんの写真を出して何回も見せてくれた。その奥さんの写真の着物の柄は、姫路の駅に両親と子供さんを連れて送りにこられた時のそれである。楽しい家庭が赤紙一枚でこのように別れ別れになるのかと思うと、気の毒でもあり現実の厳しさを感じないわけにはいかなかった。独身の私が想像する以上のものがあったであろう。橋本君は年が三十三、四歳で兵隊としては決して若くない。
若い私が、こんなに苦しい思いをしているのだから、彼の肉体的精神的な苦痛は想像以上のものがあろうが、よく頑張っておられると感心したものだ。
私は自分の蝿(はえ)が追えないのに、気がつけば彼の蝿を追う手助けをする程の親しい戦友であった。
私は独り身であり両親の写真までは持ってきていなかったが、米沢のさくらんぼの話をしながら過ごすうちに、親密さも更に深まり、お互いに無事内地へ帰還できるようにと祈りあった。
◆アン河渡河地点の状況
こうした監視をしている間にも、ここから二十キロ先のカンゴウ方面でも激戦が続き、岡山の歩兵聯隊が苦戦していると聞いた。
この海岸警備は約二十日で打ち切られ次の地点に移動することになった。ここに敵が上陸して来なかったので助かったが、来ていれば全滅していただろう。
更に北東へ行軍し移動が続けられた。その折、灌木の間に陣地を敷いていた捜索(そうさく)聯隊の白井大尉に出会い、瀬澤小隊長が戦況を聞いたところ、ひどい負け戦になり各部隊とも多くの損害を被り対応に苦慮しているとのことであった。私は白井大尉の勇姿を見たのはこの時が初めてであったが、この方面での戦争は日々苛烈(かれつ)になっていることを知った。
何のためにどこを目指しているのか分からないが、牛をもらって肉を食べての夜行軍、昼は木の下に隠れてフクロウのような行動をした。もう、現地のセレーたばこも無くなった。畑にあるたばこの葉を取ってきて乾かし、味が良かろうと悪かろうと吸って凌(しの)いだ。飯盒炊事で少しでも煙を出すと敵機が低空で飛んで来て、機関砲を射ってくるので、よほど注意しなければならない。
敵機に対し何もできず、ただ隠れるだけである。
一両日して第二アラカン道の西の入り口に当たるアン河の渡河(とか)地点にたどりついた。そこで渡河作業をすることになった。アキャブやカンゴウ方面から後退してくる兵士達の渡河を助けたり、ベンガル湾海岸方面より引き上げてくる弾薬等の渡河、運搬作業をした。
大多数の兵士は集団で来るのでまだまとまっているが、落伍してふらふら歩いている兵士達の姿は誠にみじめである。以前タンガップで見た姿よりもっと哀れでみじめであった。ボロボロにちぎれた服、靴は殆ど履いておらず、裸足にロンジの切れ端を裂いた布を巻いている。杖をついてトボ、トボと歩いて一人一人と来る。髭(ひげ)は伸び痩(や)せ衰え、目は虚(うつ)ろで頬は落ち、土色の顔は二十代の若い兵隊の姿ではない。
持ち物は雑嚢(ざつのう)に飯盒、水筒、自決用に手留弾一個を持っているだけである。我々にも彼等を助ける食料もなければ薬等もちろんない。哀れで気の毒にと思うのみでどうすることもできない。我々も野宿だが、彼等も道端の木の陰にごろりと寝転ぶだけである。
休んだままで食べる物もなく、動きもせず二、三日土の上に横になったままで、いつとはなしに事切れていくのだ。あまりにも哀れで悲しい姿である。戦い、戦い、苦しみ、苦しみ、飢餓(きが)に悩まされ、病魔に犯され、若い命が急速に衰え名もなき異境の原野に朽ち果ててしまうのである。
その中で私は一人の知人に偶然出会った。彼は昨年ラングーンで共に無線通信の教育を受けた村井上等兵という鳥取の歩兵聯隊の兵士で、その後ラムレ島に行っていたが、やっとここまで帰ることが出来たとのことである。かつての肉づきの良い紅顔の若武者の姿はなく、今は骨と皮ばかりでどす黒く汚れ垢(あか)だらけとなっていた。彼も他の人と同じように、杖(つえ)にすがっていた。
「ラムレ島に対する敵の攻撃は物凄く、全員の三分の二は海が渡れず、三分の一の俺達だけが、筏(いかだ)を組み夜の間に海を泳いでやっと本土に帰ってきたのだ。舟も無く敵の監視と攻撃が厳しいので、昼間に渡ることは絶対にできない。その島で多くの戦友が餓死(がし)しつつある」と悲痛極みなき話であった。
再会したものの、衰弱した彼は多くを語る力もなく、とぼとぼと去っていった。お互いにこれから大アラカンの山を越えて撤退してゆかねばならないのだ。彼はラムレ島からここまで来たので、もう大丈夫だと言ったが、これからどんなことがあるのやらと、彼の後姿を見送った。
それ以後、村井上等兵の消息を聞いたことはなかった。
◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
瀬澤小隊のアン河の渡河点での作業も一週間ぐらいで終わり、そこから東へ二十キロぐらいアラカン山脈を登り、シンゴンダインという山の中の地点に移動した。深い谷と凄い山の間で、ここに貯蔵している弾薬と燃料等の警備に当たることとなった。
既にこのシンゴンダインには、前線からここまでたどりついたものの力尽き、次々と倒れた多くの将兵の死骸(しがい)が折り重なり、死の谷、恐怖の谷と呼ばれていた。
その近くを通る時、死臭嘔吐(おうと)をもよおす程で、耐えられない臭(にお)いである。我が小隊四十名は、ここで約二十日間、野積みされた弾薬の保管警備の仕事を続けた。この間に、前線から部隊を組み、あるいはバラバラになり、多くの兵士が疲れ果てた姿で、アラカンの大山脈を西から東へと登り後退して行った。
野砲(やほう)聯隊が砲を馬に輓(ひ)かせ、やっとここまで登って来た。馬はもう疲労しきっていたのであろう、幾ら「前へー進めー」と号令をかけても動かなくなってしまった。一晩中「前へー進めー」「前へー進めー」と号令をかけていたが、翌朝までに一キロ程しか登っていなかった。野砲聯隊も大変だなあと思った。馬も食物をろくにもらえないで、重い大砲を引いて険峻(けんしゅん)を登るのだから、可哀相なことである。この地点は第二アラカンを二日程登ってきたところで、まだ登り口である。頂上までにまだ三十キロもあり、これから先が案じられる。
◆懐かしい人に出会う
こうした中、岡山の歩兵第百五十四聯隊が印度洋ベンガル海岸のカンゴウ方面より後退してきた。この折、バッタリ旧制岡山二中の同級生だった内田有方君に会った。まさに奇遇、突然の出会いで懐かしい限りである。彼は少尉の階級章を着けておりたくましい感じの将校姿であった。
既に、カンゴウでの戦闘を経験し多くの戦死者を出した直後らしかったが、彼は元気で精悍(せいかん)な感じさえした。お互いに健闘を祈り固く手を握りあい別れたが、大きな励みとなり心の支えになった。
もう一人は橘秀明(たちばなひであき)教官である。私が姫路で金井塚隊の教育隊に入隊したとき、初年兵教育をして下さった方で、特別に私を可愛がって下さった。見習士官室の隣の部屋を勉強しろといって私のためにわざわざ貸して下さった恩人、橘少尉である。野戦編成になった金井塚隊に私を送り出し、別れを惜しんで下さったのである。
しかし、その後この方も他の部隊に転属になり、こうしてビルマに来ておられ、ここアラカンの山中で思いもかけぬ奇跡的な出会いとなったのである。本当に懐かしく、涙が出る程嬉しい再会であった。よくも、広いビルマの中で会えたものだ。神様の思召しにより会わせて頂いたのだ。
別れてから二年ばかり経っていたのだがお互いにすぐに分かった。
橘少尉は「小田元気か。幹部候補生の試験は?」と先ず訊(たず)ねられた。
それもそのはず、私がこの野戦部隊の金井塚隊に転属になったのは、幹部候補生の試験が留守部隊の有元隊では行なわれず、野戦部隊の金井塚隊に転属すれば受験できるとの人事係准尉の言葉で、私も受験したいばかりに転属することになり、その結果ビルマの果てまで来たことになったのである。その経緯を知っておられる方だけに、試験を受けることがあったかどうか、心配して聞かれたのだ。私が今も普通の上等兵の衿章を着けているから、およそのことは察しながら。
私は「試験は全くないのです。もう戦争ばかりで、試験など行なわれないのです。でも、こうして元気ですし、皆によくしてもらっているので」と答えた。
「こんな戦況では、どうしようもないからのお」と慰(なぐさ)めて下さった。
橘少尉がいつまでも私のことを心配して下さっていることに感激し、胸に熱いものが込み上げてきた。
ところで、将校なのに何故、ここを一人で歩いているのだろうか、当番兵も従えていないで、と不審に思った。一応将校としての拳銃、軍刀等の武器、背嚢(はいのう)等の装具は持っておられるが、落伍しかかっているのではないか?と心配になった。
それ程弱っておられる様子ではないが、何となしに不安を感じた。だが、私の教官であり私を一番可愛がって下さった見習士官、軍隊生活中で最も思い出に残る橘少尉に「どうか元気でいて下さい」と心を込めて言うのみである。
「お前も元気でな」と優しい返事が返ってきた。そして、第二アラカンの山また山へ登っていかれる後姿に心から幸運をお祈りした。
---橘少尉は兵兵団(つわものへいだん)の我々輜重聯隊でないので、その後の様子は全く分らない。生きておられたら、終戦後二年も抑留されている間に風の便りで消息が分かるはずなのに、何の音沙汰も聞くことがなかった。戦況不利の状況から推して、よくないことが想像され、あの時が今生(こんじょう)の別れになったのではないかと思う。
---五十二年の歳月が流れた今も尚(なお)懐かしい。色白、やや丸顔、黒縁の眼鏡をかけた面影が目に浮かんできて堪(たま)らない。橘教官、橘中尉、教育兵の私を特に心にかけて可愛がっていただきました。消灯後わざわざ、外出先から買ってきた寿司を初年兵の私にご馳走して下さったこともありました。
軍隊生活は一般とは別世界の厳しい所ゆえ、人の情はより温かくより強く感じられるものである。これらの御恩は決して忘れてはならないし、私の一生の意義ある思い出、軍隊生活の中の一際(ひときわ)懐かしい思い出として大切にし、いつまでも懐かしみ、いつまでも橘秀明中尉にお礼を申し上げたい。
本来ならば恩人の本籍地を調べ、消息を調べ、感謝し、お礼申し上げなければならないのだが、分からないまま歳月が流れてしまった。凛々(りり)しく優しい面影が今も脳裏に浮んでくる。嗚呼(ああ)!
◆悪性マラリヤまん延
第二アラカンの山中で引き続き弾薬や燃料の警備をしていた。四月下旬頃から五月当初にかけて毎日、敵の大型飛行機二十機ばかりが編隊を組み、我々の遥か上空を東へ向って飛んで行く。どこへ行っているのだろうか?後で分かるのだが、その頃敵はビルマ中部の主要地域や平原に拠点を作り、陣地を確保して我が軍を攻撃し各所で優位に立ち、中部重要地点を占領し支配下に収めつつあったのだ。
我が兵兵団はビルマの西地区、アラカン山脈に取り残された状況となっていたのだが、こうした中でも瀬澤小隊は一番西の最前線で引続き弾薬庫の警備をしていた。もう誰も使うことはないだろう弾薬や荷物の警備はおよそ意味のない仕事になっていた。だが、その命令に従っていた。その間に多くの部隊が我々の所を通りアラカン山脈を越え後退していった。
この山の中は前にも述べた通り、悪性マラリヤの根源地で、兵士は次々に倒れていった。昨日まで元気者で筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)としていた古参の松本上等兵が、急に高熱に冒され日に日に衰弱していった。ここ数日何も食べられず白湯(さゆ)だけ飲んでいる。例の如くやがて下痢が始まった。どこにもよく効く薬はない。各自錠剤のキニーネ薬を僅か持っているが、そんなものは今更効かない。
病の進行を見守り運に任せるだけである。寝ている彼に蝿(はえ)がたかってくるが、もう追い払う力もなく、鼻の穴や唇辺りに群がるにまかせていた。やがて黙ったまま事絶えてしまった。気の毒な末路であった。彼は鳥取の出身でさわやかな感じの人であった。この有様を親や兄弟が見たらどんなに悲しまれるだろうか。
---今も、松本古年兵の白い歯並みが整った面白(おもじろ)の顔が目に浮かんでくるが、それも遠く過ぎし日のことである。
◆内地の短波放送
その日は四月二十九日で天長節の日であったと思う。手元に細々と食べるだけの米や乾パンがあり、敵も我々の所へ襲撃してこなかった。警備保管中の各種器材に混じり、敵から分捕った無線機があった。スイッチを入れてみると、壊れてなく音がするではないか。いろいろ調節していると日本の短波放送が聞こえてきた。もう、二年近く日本の放送を聞いたことがなかっただけに懐かしく、かじりついて聞いた。
放送は「毎日敵機の空襲で次々に家が焼かれている。今日も名古屋市が大爆撃を受けた。家は焼け建物は壊れても、国は焼けないのです。今こそ国民は一丸となって、屍を越え灰燼(かいじん)を踏み越え鬼畜(きちく)米英をやっつけねばなりません。頑張り通そうではありませんか」と悲痛な声である。
内地も大分やられているのだと今更ながら驚いた。ビルマの現地もこのように苦心惨憺(さんたん)しているが、内地も空襲を受けて随分損害を被りながら日本中のみんなが頑張っているのだと思った。
シンガポール港の倉庫監視当番をしていた時、現地人が「先では日本が負ける。英国が必ず勝つ」と言っていたあの言葉が、ふと脳裏(のうり)に浮かんできた。
戦争中の二年及びその後の抑留中の二年を通して、内地の放送を聞いたのは、この時だけである。もちろん、他国の放送を聞いたこともなく、全く放送は珍しいことであった。

七 転進作戦
◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
置き去りになっていた瀬澤小隊に後退転進命令がきた。もう、私達より前線の、西方面に残った部隊はいない。早々に東へ東へとアラカンを登り後退してしまったのだ。我が小隊が第二アラカン方面でいよいよの最後、しんがりの部隊である。
責任者である小隊長瀬澤中尉は、この命令をどんなに待ちわびておられたことだろうか。忘れられてしまったのではないかなど、責任者として考えることも多かったことだろう。
我々の小隊が、日本軍の最後尾を守りながら、シンゴンダインを出発したのは五月三日ぐらいだと思う。遅れているので昼夜を分かたず山を登った。アラカンの東の平地へ出る地点で、どこかの守備隊が待ってくれることになっているので、一日でも一時間でも早く合流しなければならないと、懸命に歩いた。
山を登って行くと、今まで他部隊がいた宿営場所には、壊れた自動車や、倒れかけの小屋が散らばり、駐留していた場所に雑品が残され捨てられていた。廃墟(はいきょ)というか、敗残後の片づけは必要なしというのか虚(むな)しい有様であった。屍を埋めた所も見受けられた。
二日程歩いた所で私は急に悪寒(おかん)を覚えた。マラリヤの発熱前兆(ぜんちょう)だ。しまった、えらいことが起きたと直感した。あのシンゴンダインの凄い奴だろうか?それなら助からないかも知れない。また、半年前にタンガップでマラリヤで死にかけたときのことが思い出されてならなかった。あの時はまだ一ヵ所に駐留して小屋に住んでいたが、今度は毎日歩き通さなければならない悪条件の中であり、ついて行けるだろうかと、暗澹(あんたん)とした気持ちに襲われた。
山を登っているのに汗が少しも出てこない。普通の健康状態なら当然、汗が出るのだが様子が違う。熱が激しくなり、山坂の行軍で疲労はつのるばかりだ。ただ以前のタンガップの時に比べれば、お粥がほんの一口だけだが喉に入る。前回で少し免疫が出来ているのかも知れない。
それに、苦しく弱りながらもどうにか皆について歩いている。ここで落伍すればもうそれまでで、山の中には何も無い。後から来る部隊はもちろん、ただの一人もいない。あるのは死のみである。ついてゆくより仕方がない。泣くこともできない。汗が出ればよいのに全然出てこない。
頂上を過ぎ二、三日坂道をどんどん下ってくると、遥かに平地が見えはじめた。後一日行程で平地に出られそうだ。小休止をした時、荷物を軽くするために鉄帽を装具から外し竹薮(たけやぶ)の中に捨てた。今後の戦闘で鉄帽が必要なことがあるとしても、今の苦しさには耐えられないのだ。瀬澤小隊長がこれを見ていたが、「内地の工場で心を込めて製造してくれた物だが、仕方がないのう」と私の行為を認めてくださった。軍隊で兵器は最も大切なものなのだ。鉄砲と剣が一番ランクが高い。鉄帽はその次のランクだろうか。
そこを出発し山を下って行くと目指す平地では戦闘が展開されているではないか。大砲のドカン、ドガンという音が聞こえ、砂塵(さじん)が濛々(もうもう)と起っている。我々を、アラカン道からの出口であるパダンの交差点で待ってくれている部隊が、戦っているのだ。やがて日が暮れたが、その夜は徹夜で歩いた。肝心のパダンの出口を敵に押さえられていたので山裾(やますそ)の細いかわせ道を進んだのであろう。自分にはよく分らないが人の後を取りはぐれないよう夜道を懸命に歩くだけである。夜の間に少しでも敵から離れた所まで逃げておかなくてはならないのだ。
喉が乾く。水筒の水はとっくに空になっている。マラリヤの熱は依然として自分を苦しめ続けている。苦しく、きつく、ふらふらになりながらも歩きとおした。小休止もなく、荒野の細道を南へ南へと逃れていった。夜が明けたが行軍は続いた。
昨日の朝から二十時間も殆ど休みなく歩きとおしである。この時、小隊長の命令で私達特に弱った者数人に、ビタカン注射をしてくれることになった。たいした薬ではないと思ったが、幾らか元気が出た。これも私には誠に幸運だった。もし、この注射をしてもらっていなかったら、私はここで落伍していたかも知れない。それ程弱っていた。やはりビタカンが効いたので歩けたのだ。
そうしているうちに、敵の戦車が後から追っかけてきた。地響きが聞こえる。小走りに逃げた。
どこをどう走ったか分からないが、いつの間にか、敵戦車は我々と離れたようだ。他の方向に行ったのだ。ああ、助かった。
まだまだ歩き続けた、もう午後二時ぐらいだろう、暑い暑い、喉が乾きカラカラだ。私はマラリヤで特別苦しく汗も出ない。もう、二十時間も歩きとおし、枯れかけた灌木が少し生えている荒涼(こうりょう)とした場所で大休止することになった。
とはいえ、そこは水がない原野の真っただ中である。ふと見ると柿の実が落ちている。小さな実であるが、拾って食べた。なんと、これが少し甘くて食べられた。マラリヤの熱があるのに不思議に食べられた。木の枝にも実が着いていたが、それを取って食べる程の体力はなかった。
小さな柿を二個ばかり食べたので、いくらか元気が出て、水を探してみようとなだらかな起伏のある所を、低い方へ低い方へと下りてみた。すると一番低い所に一メートル四方に水溜りが残っていた。ぼうふらがわいていたが、水を見つけられたのは幸運だった。
飯盒と水筒に水を汲み沸騰(ふっとう)させて飲んだ。干涸(ひから)びた体に白湯(さゆ)の水分が入った。マラリヤに罹(かか)っているのに不思議に、この時は汗が出てきた。汗が出たのが体によかった。そのあと、お粥をほんの僅かだが口にすることができ、携行していた乾パンを少しだがお湯に漬けて食べることもできた。案外あのビタカン注射が効いたのかも知れない、どうあれ有難く嬉しいことだ。乾パンの中に、赤、白、青のコンペイトウが入っていた。子供の頃お祭りで、コンペイトウを買って食べたことが懐かしく思い出された。暑い午後を雑木の間で過ごし、夕方また出発となった。
この日の行軍で、我が班で二人の兵隊が日射病で倒れ落伍してしまった。普通なら涼しい所で静かにしておれば治るのだが、ここではついて歩いて行かなければならないのだ。名前は覚えていないが、私が発熱している状態より、彼らの方が元気であったようなのに、それに班長がだいぶ励ましていたのに、どうにもならなかったのだ。彼ら二人はその後どうなっただろうか?飢餓のため死んだのだろうか、それとも苦悶(くもん)しながら自決したのだろうか?
夜行軍は続けられた。ただついて歩くだけである。どちらへ、どう行っているのか分からないまま夜通し歩いた。
夜が明けると谷のような凹地に入った。日陰一つない照りつける太陽の下でやっと飯盒炊事をすることができた。幸いに空襲を受けないですんだ。私は食事の方は一口しか食べられない。やはり駄目かと心細くなった。
◆敵陣地を攻撃 戸部班長、藤川上等兵戦死
今ここにいるのは、木庭(こば)少将が率いる木庭兵団を主体とし歩兵、野砲、輜重の一部などが一緒になり、約千人の集団のようである。よく分からないが、我らの退路は断たれており、敵は既に堅固な陣地を構えている。
袋(ふくろ)の鼠(ねずみ)としておいて、空から、あるいは地上機甲(きこう)部隊で、殲滅(せんめつ)を図っているようである。我々は何としてでも、退路を遮断している敵の陣地を突破しなければならないのである。
この敵陣を攻撃するため、私はマラリヤで弱り疲労していたが、小隊長から命令された。どんなに、ふらふらしていても従わなければならない。輜重隊から十名が選ばれ、その他の聯隊から来た者も含めて、総員約二十名が歩兵の田中中尉の指揮に入り敵陣地の攻撃に行くことになった。
敵は前方の森のお寺に陣を敷いている。我々は静かにこちらの林の間を縫って近づいて行った。林を抜けるとそこに川があった。先ず水筒に水を入れ元気を出して進むべく、二人が川に下りると敵が急に撃ってきた。パリ パリ パリと機関銃の猛射である。
ここは敵から見えないだろうと思っていたが、敵はよく監視していたのか、こちらがそこに出るや否や素早く弾を浴びせてきた。さきの二人は慌てて引き返し我々も皆窪(くぼ)みに体を隠し伏せた。
そしてジリジリと後に退き、水のことはあきらめて、大きく迂回(うかい)して攻めることにした。
灌木の間を抜けていくとそこに通信線が敷いてあった。それは敵の陣地と我々が今進んでいる道を挟んで、反対側の山の上の陣地を連絡してあるもののようであった。後で分かったが山の上には迫撃砲の陣地が構築されにらんでいたのだ。中尉はこの通信線を切断するよう命じ誰かが切断した。
敵陣地の方に少し進み分散、散開、着剣、弾込め、安全栓を開放して、一斉に攻撃を開始した。雑木が点々と生えており、我らの攻撃を適当に遮蔽(しゃへい)するのに役立つように思えた。私も走ったり伏せたり、小さい灌木の間に体を隠したり、また、敵陣地めがけて前進し、走ったり伏せたりしながら突進した。だが、敵の陣地がある森は分かるが、完全に模擬(もぎ)遮蔽(しゃへい)しているので、いよいよどこに敵の兵隊がいるのか分からないので照準を決めて撃つところまでにならない。
そうするうちに敵の機関銃が撃ってきた。これは自動小銃なのだが連続発射してくるので、我々は機関銃かと思ったのだ。日本軍は自動小銃を持っていないのでそんな兵器があることを知らなかったのだが。ドッ、ドッ、ドッ、パリ、パリ、パリ、ヒュー、ヒュー、ヒューと弾が飛んでくる。しかし、敵陣地攻撃を命じられているので、弾の間を縫うようにして進み攻撃していった。
私の左手を突進していた戸部班長が「やられた!」と叫び転んだ。
ちらりと見ると右腕から赤い血潮が流れ出ているようであった。「うむ」と苦しそうな声を出した。それを横目でちらっと見ただけで、私はなおも進んだ。
次の瞬間、これも私の左側を突進していた藤川上等兵が「あっ、きんだまをやられたッ」と大きな声で叫んだ。「天皇陛下万歳!」と言いながら灌木(かんぼく)の間に倒れ込んだ。彼は支那事変の経験もあり、中隊の中でも一番のモサでならしていた古年兵。荒れ馬もこの人の前に行けばおとなしくなる程の歴戦の勇士で、私の隣の班で初年兵からは恐れられていた人だ。
私は彼の側に行って介抱(かいほう)したり見届ける余裕もなく、敵弾の中でどうすることもできなかった。
灼熱の太陽がギラギラと照りつけていた。感傷にふける場合ではなく、攻撃前進あるのみだ。
◆悲喜こもごも、大変な一日
私は、やおら立ち上がり敵陣目がけてなおも突進した。十歩ばかり駆け出した時、危険を感じ右前方に滑り込むように伏せた。その瞬間敵弾が三〜四発飛んできて、私が走つていた姿に照準を合わせていたのだろう、伏せした私の三十センチ左の地面に土煙をあげた。間一髪、十分の一秒の差で助かった。
更に止(とど)めの射撃か、確認のためか、もう一度同じ地点に三発撃ち込んできた。慌ててはいけない、動くと見つかるので伏せしたままじっと七、八分間辛抱した。長い時間に感じた。その後は伏せたまま後へ後へと這(は)いながら退いていった。二百メートルばかり退いた所に大木があり、その木陰に体を横たえて休んだ。彼我(ひが)の弾丸の音も静かになったようだ。
ふと見ると、地面に大豆が生えて双葉になったように、柔らかい芽が生えている。この数日間、飯もお粥も殆ど食べられず、マラリヤで弱っているにもかかわらず、攻撃隊員となり激しく戦った後だけに疲れ果てており、喉が乾いてたまらないので潤(うるお)いを得たく、若芽の水分を吸収したい衝動に駆られた。この芽が毒かどうか分からないが、この大木から落ちた種が生えたもので、大豆の双葉に似ているから大丈夫だろうと判断した。もしこれが毒で腹痛でも起こせば、それまでのことと決心し、引き抜いて口に入れてみた。噛んでみたが別に悪くはなさそうだ。一本二本と抜いて食べた。美味しいというのではないがまずくもない。水分が喉を僅(わず)かに潤してくれ心地よかった。
マラリヤで熱があるのに、不思議にこの双葉は水分が多いので、噛(か)んでいるうちに喉を越し食べられた。次々と二十本ばかり食べた。
遠くで「集合」と叫ぶ声がありその方に行くと、指揮官の田中中尉は腕を負傷し三角布で縛(しば)り吊っていた。数人が負傷しており痛々しかった。また何人かが戦死しており、みんな元気なく悄然(しょうぜん)としていた。
戸部班長を誰かが抱えてそこまで来ていた。私の直接の班長であり、真面目なお人柄、それに私には特に目をかけて下さった方で、近寄って「元気をだしなさい」と励ました。うつろな目で私を見ていたが、返事はなかった。顔は青ざめ頭から頬を伝って赤い血が細く流れていた。手と腕の方もやられていたのか服を通して血がにじみ出ていた。そのうち、がっくりと頭を落とし、息を引き取られた。
今も、その時の蒼白な顔を思い出す。岡山県阿哲(あてつ)郡の出身だと聞いていた。国に忠誠を誓いながら旅立たれたのである。
藤川上等兵の最期を見届けた兵士によると、草叢(くさむら)に倒れ込んだ後「藤川しっかりせい」と声をかけたが「苦しい苦しい」と悶(もだ)えながら息を引き取られた由である。
この方達は日本の発展を願い、国家に対しての忠誠心を、しっかり持っておられ立派な最期をとげられたのだが、本当に頭が下がる思いがする。
みんな奮戦死闘の攻撃をしたが、攻撃隊は無残に破れ、敵の陣地は攻略できなかった。
真昼中に、敵が陣地を敷いている所を正面より攻撃することは難しいことである。敵の兵力がどれだけあるか知らないが、陣地をまともに正面攻撃したことは無謀であったと、後で思った。しかし、上からの命令はすぐに攻撃し突破せよだったのだろう。夜を待って夜間攻撃でもするのが賢明だったかも知れないが、後から気がつくだけのことである。結局主力部隊約千人は大きく迂回(うかい)して転進するより仕方なく、あれこれと退路の捜索(そうさく)をしていた。
その頃敵の偵察機が二機上空に現われた。そこは大きい遮蔽物のない所で、僅かに高さ二〜三メートルの竹薮(たけやぶ)が点々と団子状に生えているだけで、空から見れば、兵士の姿は丸見え、若干の馬と車もあり隠れるわけにいかない。敵機二機は小癪(こしゃく)にも超低空で旋回する。充分偵察して帰るつもりだろう。
敵機は一発も撃たなかった。友軍からも一発も撃たなかった。この頃は敵機を撃っても無駄であることをみんな知っていた。敵機はしばらくして去っていった。この偵察の結果が報告されると、敵の大火砲や爆撃機にやられると心配した。しかし、その日は空襲がなくて助かった。太陽は容赦なく照りつけ、みんな埃(ほこり)と汗に汚れ顔は泥のようであり汗がギラギラと光っていた。
私は、幸いに食べた豆の双葉のエキスが効いたのか、マラリヤの熱が少し下がったようで凌(しの)ぎ易く感じる。不思議なことだが、この双葉が解熱剤になったようである。汗が出ており何にもまして嬉しく有難いことだ。汗が出れば熱を発散させ次第によくなるだろう。しかし、ここ十日間ばかり体は過労とマラリヤで弱り、食事も殆どしていないので息絶え絶えである。一日も早く完全にマラリヤから治り、体力を回復し元気にならねばならない。
今回のマラリヤは、タンガップで半年前、悪性マラリヤをしていたので、幾らか免疫になっていたのか、あるいは、いくらか軽い種類のものであったのか、とにかく行軍行動や激戦中ながら助かった。これも幸運、紙一重で命が繋がったのだ。
また、私が身を伏せるのが十分の一秒遅かったなら、三発の弾丸が私の体を貫き、更に追い打ちの三発が止めを差していたであろう。敵は、走りながら前進していた私を狙い撃ったが、瞬間早く右手前方に伏せしたので、私の体が過ぎた後、僅(わず)か三十センチの所を撃ち砂煙をあげたのだ。
不思議でならないが、食べられるものか、毒を持ったものか何か分からないが、渇(かわ)きを癒(いや)すため決心して食べた豆の双葉がマラリヤの解熱効果に役立ったらしい。神様のお加護(かご)を二重にも三重にも頂いた運の強い日であった。
大変な一日も日暮れになり、煙を出さないようにして飯盒で炊事をした。マラリヤの熱が少し下がってきたのか、久しぶりにお粥が喉を越した。「嬉しい。粥が僅かでも腹に入れば元気になれるのだ」と希望が湧いてきた。
◆平田上等兵、萱谷(かやたに)上等兵落伍
夕方になり出発となった。平田上等兵が「もう駄目だ、ついて行けない」と言って立上がってこない。「そんなことではいかん、シッカリセイ」と浜田分隊長が叱った。彼はスゴスゴとやっと立ちあがった。もう、小銃も持っていなく帯剣も外していた。持ち物は飯盒と水筒だけで杖をつきながらトボトボと歩きはじめた。
西の空が夕焼けしている。子供の頃、「ゆうやけ こやけで ひがくれて やあまあの おてらの かねが なる ・・・・」と歌ったことを思いだすような美しい夕焼けだ。
しかし、今、この夕焼けはそんな牧歌的なものではない。今夜も夜通し歩く厳しい行軍が待っているだけである。敵に追われ、その目を潜りながらの、逃げる時の夕焼けである。その真っ赤な夕焼けの中を平田上等兵は力なく歩いていたが、遂に道端に崩れるように体を投げ出してしまった。
「コラ、しっかりせんかい」と分隊長が強く気合いを入れた。「許して下さい。放って、行って下さい」と答えた。見上げた目には、キラリと光るものがあった。涙した目、赤い夕日がその雫(しずく)を真っ赤に照らしていた。
私は、彼が姫路駅を出るとき列車の中で、父が持って来てくれたぼ・た・餅・だと言って、私にも分けてくれた時のことが思い出され、そのお父さんが彼の今の姿を見られたら、どんなに悲しまれることだろうかと胸が痛んだ。
だが、部隊は容赦(ようしゃ)なく前進をしていくのだ。我々も部隊の流れに押されて、夕闇の中を声もなく歩くのみだ。真っすぐ進んでいるかと思うと、くねくね曲がって野原の中や部落の間を行ったり来たりした。ザブザブと小川を渡り進んで行く。そのうちに、どちらに進んでいるのか分らなくなったが、イラワジ河のカマの渡河点を目標にして闇の中を歩いていることだけは確かであった。
こんどは、「萱谷上等兵が落伍してしまった」と言う。彼も連日の強行軍と先日の敵陣地攻撃で疲れ果て、ついて歩くことができなくなり、闇の中に残ってしまったのだ。闇夜の落伍はいつの間にか姿がなくなっている。行軍の流れに押されて、前の人に遅れまいと歩いて行ったり止まったりしているが、落伍した戦友を探すために引き返すことはできない。隊列を離れると、方向が分からず自分も行方不明になってしまうから仕方のないことだ。
萱谷君も召集を受け、新兵として入隊以来苦労してここまでよく頑張ってきたのに残念でならない。こうして原稿を書いている今も、彼のやや丸顔で、やや唇が厚い感じや、着ていた服が何故か緑色の濃い目の物だったことなどが鮮明に思い出されてならない。
こうして一人、二人、三人、四人と同じ小隊の人が減っていき、残念で悲しいことが続く。とり残す、とり残される、行く人、止まる人、誠に悲惨な光景である。
◆米の確保
携帯する米も無くなり、一日強行軍しても一合(百五十グラム)の米を炊き、三回に分けて食べ、塩をなめながら空腹と疲労を癒(いや)すのだが、段々乏しくなりそれすらできなくなってきた。
その頃は部隊という形ではなく、切れかかったうどんのようにばらばらと三々五々弱った者同士で歩いていた。我々も同じ班の者七、八人で転進していた。
こんな様子で二、三日歩いたところ十軒程の部落があった。みすぼらしい家並みだった。でも久ぶりに家のある所に来たのだ。ビルマ人は既に避難しており誰一人もいなかった。
すぐに食物を探しに家に入り、沢山の葉たばこと塩の瓶を見つけた。だが、米はない、米は現地人が素早く持ち出してしまったのであろう。探してもどこの家にもなかった。しかし、籾があった。沢山あったが、籾は米にしなければ食べられない。幸い一軒の家に足踏みの石臼(いしうす)があったので早速搗(つ)き始めた。
疲労しきった身体には苦痛だったが、皆で交替しながらやっと玄米にした。籾殻と玄米をさ・び・分・け・る・にはテクニックがいる。でも仲間には農家出の人もおり皆手伝って、三時間ばかりかけてやっと約一斗(十五キロ)の白米をこしらえた。骨が折れたが成功だった。みんなに分け、これで安心だ。
井戸から水を汲み米を磨(と)ぎ、飯盒を並べて薪(まき)に火をつけ一方では水筒に水を入れ沸かした。玉古先任上等兵が班長代理として皆をよくまとめ協力したので、ここまでできたのだ。疲れた体をいたわりながら炊き上がるのを待っていた。
◆またも空襲
その時急に爆音がしたかと思う間もなく敵機が超低空で飛んで来た。ここは幅八十メートルばかりのなだらかな見通しのよい谷間であったが、その上手(かみて)から谷に沿って来た。みんな一気に横っ飛びに走った。家のない側に大きい樹木が二、三本立っていたので、遮蔽するようにそこへ滑り込むや否や、その瞬間飛行機三機が家並みに沿い、谷の上手より疾風の如く急降下しパリ パリ パリと機関砲を撃ち込んできた。弾着がはっきり砂煙で分かった。
旋回し二回三回と繰り返し攻撃して来た。三回目は小さな爆弾をそれぞれの飛行機から一発ずつ落として行つた。民家は燃えだした。よく乾燥した季節であり、木と竹で出来た家だからまことに燃えやすい。
飛行機が去ったことが確認できたのですぐに民家に引き返し、中に置いてきた装具や兵器、それに先程分配した米や塩等を、燃え始めた家の中からやっと取り出してきた。これもやっとのこと、二分も後なら火災が激しく取り出せないぐらい切羽(せっぱ)詰っていた。
飯盒炊事の方は、どうにか飯が炊けていた。だが、長代(ながしろ)上等兵の飯盒はぶち抜かれ、はね飛ばされていた。幸いに兵士に損傷はなく、必要な米や塩をとにかく入手することができた。焼けている部落を後にし、そそくさと荒野に出て行った。
あちらに一塊(かたまり)、こちらに一塊、落伍した者が一人二人三人と歩いている。皆イラワジ河の渡河地点を目指して歩いている。夜の行軍に疲れたのかどうか知らないが昼間もこうして歩いている。
小人数だから、敵機から逃れやすいし、昼の方が道が分かりやすいからであろう。
そこを、負傷し杖にすがりながら歩いている人がいる。よく見ると、先日敵陣地を攻撃したとき指揮を取ったあの歩兵の田中中尉である。元気のよかった彼も負傷したが、その傷の痛みと疲労ですっかり弱っていて、一歩一歩あえぐように歩いている。数日の間にこうも変わるものかと、驚くばかりである。足も傷ついているのだ、誠に歩きにくそうである。戦場で足をやられたら最後と思わなくてはならない。足は生命を支えるために絶対に必要なのに、気の毒な姿だ。私は一瞬靖国神社への道を歩いている姿であるように感じた。戦争に容赦はなく残酷非情(ざんこくひじょう)である。
◆瀬澤小隊長の戦死
とある林に差しかかったとき、他の経路を来た瀬澤小隊長ら二十名ばかりの一団と、運よく私達も一緒になった。合流して安心感も手伝い気分がよく元気になった。
小隊長は元気そうであった。玉古班長代理が手短かに、分かれて以後四、五日間の様子を報告した。再会を喜び小隊長を先頭に平地や森の中を進んだ。小休止があり、お互いに無事を確かめ情報を伝えあった。
更に林の間を行っている時、突如銃声一発、弾は一番前を進んでいた小隊長を直撃した。それも携帯していた手留弾に当たり爆発した。
一瞬にして腹が抉(えぐ)り取られ倒れた。即死である。温厚な丸顔はもう残っていなかった。壮烈な戦死である。その辺りを見回したが、それらしい曲者(くせもの)は見つからなかった。現地人による狙撃(そげき)と判断された。
巨星落つ。第二小隊の芯、大黒柱を失ってしまった。昭和十八年四月編成された金井塚中隊の小隊長として百二十名の部下を率い、温厚誠実な人柄で人望の厚かった方であったが、突如このようなことになろうとは思いもよらないことである。しかし、戦争は殺しあいの場であるから仕方のないことかも知れない。
私達は小隊長の右の親指を切り、遺品として拳銃と時計、万年筆を携行した。屍を埋葬するに道具もなく、疲れ果てた我々にはそれをする元気も無かった。それより私達は一刻も早く渡河地点にたどり着かなければならなかった。イラワジ渡河最後の乗船に間に合うように。残念無念の思いで、みんなで深々とお別れの拝礼をし、屍を残してそこを去った。皆、黙々と沈みながら歩いた。
ところで、私も瀬澤小隊長から信頼して頂き、タンガップの山中にいる時には将校当番を仰せつかった。充分なお仕(つか)えも出来ないのに、可愛がって頂いた関係の深い直属の上官である。
---私の軍隊生活、特にビルマ戦線で忘れられない大切なお方であり、尊敬する立派なお人柄であった。姫路市の出身だと聞いていたので、一度お墓にお参りしたいと思いつつも、年月が過ぎてしまった。せめてこの本に残すことで感謝と慰霊の心を捧げさせて頂きたい。
瀬澤小隊は前述の通り、クインガレからグワへの南アラカン山脈越えの輸送で虎との戦いもあったが、任務を完全に果たした。ベンガル湾タンガップ地区で約一年間、警戒警備、保守管理など苦闘の生活をする間に戦況は悪化した。昭和二十年二月からは更に激戦地のタマンド地区へ前進し海岸の警備をした。その時敵の砲鑑から激しい襲撃を受け、五月始めまで第二アラカン、シンゴンダインを最後尾部隊として守り通し、以後しんがりで転進を開始した。
イラワジ河の右岸で戦闘し敵陣地の攻撃等、瀬澤中尉指揮のもとで堂々と戦い、遺憾(いかん)なく任務を完遂し名声を挙げてきた。
小隊長戦死後、兵力が暫時(ざんじ)減少しながらも、中隊長の直接指揮下に入り、任務を遂行し、小隊の名誉を高からしめた。しかし、編成時百二十名の者が、終戦時には二十名少々になっていた。
悲痛、百名の勇士は帰らぬ人となってしまった。復員後五十年が過ぎ、今は数名になってしまった。以上が瀬澤小隊の戦史である。
ペグー山系辺りまでは誰かが、小隊長の遺骨や遺品を携行していたと思うが、皆が死んだり落伍したりして、その後どうなったのか私にはよく分からない。今は御冥福をお祈り申しあげ、合掌するのみである。
◇イラワジの大河を渡る
◆最後の渡し船
もうカマの渡河地点が近いと聞いて歩きに歩いた。それも工兵隊が渡してくれるのは今日限りで明日からはどうなるか分からないとのことである。やっと夜九時頃渡河点にたどり着いた。暗いから辺りの景色やたたずまいはよく分からない。舟着場近くの平坦地で約一時間程待つと「乗船せよ」の命令がきて、早速十トンぐらいと思える船に乗船した。思いのほか早く乗船できて運がよかった。
昼は船を河岸にある大きな木の下に遮蔽して敵機に発見されないようにし、夜陰に紛れて渡河行動を起こすのだが、その任務に当たる工兵隊の兵隊も大変なことと察する。それにぼろ船だから、兵隊の輸送の外に船の修理もしなければならない。
とにかく船に乗れた。闇の中で対岸は見えないが、河幅三〜四キロと言われている大きな河だ。
今は乾期の終わりで水嵩(みずかさ)も少ないが、雨期の最盛期には凄い水量だろう。船は木造の古いものだが、対岸に向かって案外スムーズに進み始めた。
夜中なので敵の襲撃もなく無事に大河イラワジを西から東へ渡ることができた。実に幸運、最後の渡し船にすれすれで間に合い有難いことだ。工兵隊の人達に感謝し、拝むような気持ちで「有難う」と言った。明日以後はどうなることか?
後で聞いたところでは、次の日の昼間に敵にひどくやられ、船で渡れたのかどうか判然とせず、それ以後カマの渡河地点に遅れて来た兵士達は置いてきぼりになり、自力で渡るより他に方法がなかったとのこと。乾期とはいえ大河で流れもあり、自力の筏(いかだ)で泳いで渡った人は極く僅かしか無かったようである。
◆渡河後
大河左岸の近くの山林に我が師団(兵兵団)主力は一週間程前から集結しており、我々が追いついてから後も更に五、六日間、後続の人が一人でも多く追及してくることを待っていた。私には自分の所属する輜重隊のこと、それも第一中隊の第二小隊辺りの小範囲のことしか目の前に見えないが、この山麓一帯に師団の大部隊が息を殺して待機していたのである。
復員後戦争史を読むと、我々がこうしてイラワジ河をやっと渡河した頃に、マンダレーやメイクテイラーで激戦が展開され、ビルマ方面軍総司令部は既にラングーンを放棄し東方のモールメンに退却しており、兵兵団のみが西地区に取り残された形になっていたのを知った。
ここに集結するまでは輜重聯隊(一◯一二◯部隊)も幾つかに分かれて行動していたため、瀬澤小隊以外の集団がどんな戦闘や苦労をしてきたか知る由もなかったが、ここで太田貞次郎聯隊長が五月十一日サンタギーの戦闘で、敵弾に当たり壮烈な戦死をされたのを聞いた。その時聯隊長の当番をしていた花田上等兵も同時に戦死した由。彼は私と一緒に二月召集で入隊した同年兵で、気持ちの良いにこにことした人で、入隊までは国鉄の職員をしていたと話していた。
またその頃の戦闘で、編成以来昨年十一月まで我々第一中隊の中隊長だった金井塚聯隊本部付き大尉も足を負傷され歩けなくなっているのだ、という暗いニュースも聞いた。更に戦況が大変悪いことも知らされ、その上誰々が行方不明になったとか、誰々が自決したのだというような話ばかりだった。
渡河の翌日午後、我々が昨夜乗船したカマの渡河点を遠望すると、敵の迫撃砲(はくげきほう)が射ち込まれたり、戦車砲も撃ってきているようだ。砲声が聞こえ砂塵が舞い上がっている様子が大河を隔てて遥かに見える。昨夜船に乗れなかった人達や、今日カマに到着したばかりの兵士達が撃たれているのだろう。どうやってこれを逃れ、どうやって船もなく筏で大河を渡ることができるのだろうか。気の毒に思い心配でたまらない。
翌々日の夜明けに四、五人の兵が渡ってきた。その人達の話によると、カマの部落は徹底的に飛行機と戦車でやられたが、どうにか昼間は山の茂みに隠れ、皆で筏を組み、夜になり裸でそれにつかまり命からがら泳ぎ着くことができた。大変な目に遭ったとのことだった。
今我々の部隊が集結している所はイラワジ河の東側(左岸)で、山が多く敵の支配が浸透しておらず、しかも大きな木に覆われた地点で絶好の隠れ場所であった。そのおかげで幸いに飛行機からも、地上部隊からも攻撃をされずに数日を過ごすことができた。
◆雨期のはしり
その二日ばかり後の夜中に大雨が降ってきた。五月中旬だが半年の乾期から雨期に入りかけたのであろう。雨足は凄く真っ暗闇の中だから、どれだけ、どのような降り方をしているのかよく分からないが、とにかく物凄い降り方である。「バケツの水をひっくりかえす」どころではなく、風呂の底が抜けたようで息もできないぐらいだ。それに我々は全くの露天である。
夕方までは、夜中に大雨が降ることなど全然警戒していなかったので、大雨の襲来に対し、あわてて携帯テントを頭から被り装具を中に入れ、じっと小さく縮んでいるだけである。携帯テントは約百二十センチ四角の布で防水も悪くなっており、雨が浸み込んでくる。身にまとった一枚のこの布にバサバサ、バリバリと雨の固まりが打ちつけてくる。雨の固まりは体をゆさぶるようである。南国とはいっても夜中の豪雨は体温を奪い寒気がしてくる。
私は岩の上に場所を取り眠っていたが、その岩にしがみついてこらえた。そこは周囲より少し高かったので幸い水びたしにはならなかった。しかし米を入れた雑嚢が携帯テントの外にはみ出ていたので、中の米が濡れてしまった。暗闇の中、どこがどうなっているのか分からない。以後腐った米を食わねばならぬ羽目になったのだ。
篠(しの)つくような雨は二、三時間も続いただろうか。動けば濡れるだけであり、携帯テントを体に巻き着け、固い貝のようになって長い時間辛抱した。その間誰も何も言わない。声を出しても雨の音で聞こえない。真暗闇の中であり、どこが高い所かどこが低い所か、どんな傾斜になっていて、どこが谷で水がひどく流れているのか見当がつかない。装具をしっかり体に着けていなかったり、少し低い所や谷がかった所にいた兵隊の中には、米も飯盒も装具までも大雨による激流に押し流されてしまった者もいた。
我々と行動を共にしていた衛生兵は、闇夜の鉄砲水で衛生用具や薬を入れた包帯嚢(ほうたいのう)を流されてしまい、夜が明けてから幾ら探しても何も無く茫然(ぼうぜん)としていた。
幸い我々兵士は一人も流されずにすんだが、とにかく大変な被害を被った。どうすることもできない程物凄く激しい雨であった。
夜が明け、昼過ぎてから炊事をするための水を汲みにイラワジ河の岸に行ってみると、濁り水が河一杯になり流れていた。昨日までは筏で泳いで渡ってきた人が僅かでもあったが、この水量ではもうどうすることもできない。何にしても私達はギリギリの最後の日に船で渡ることができたのだ。誠に幸運というほかはない。
ふと見ると、河岸に近い所をビルマ人の死体が流されていた。後手に縛られ、大きく風船のように膨れあがってプカプカと浮いて流れている。水死した場合男はうつぶせになり、女は仰向けになると聞いていたが、その通りにこの男もうつぶせになって流れていた。英国軍に協力したためなのか、日本軍に協力したためか知る由もないが、いずれにしてもビルマが戦場になって戦いに巻き込まれ、こんな憐れな姿になり、上流から流され全く可哀相なことである。
誰に罪があるのだろうか?後手に縛られたうえ、河に流されなければならない時の心境やいかに。彼も一個の人格を持つ人間だ。すべてを覚悟したとはいえ、生への執着は強くあったであろうに。仏教国であり、仏心の強い人達だろうが、どう思いどう諦めたのだろうか?戦争という名のもとにこんな悲劇が繰り返されてよいのだろうか。
集結待ちの時限がきたのか?それとも大河の増水で落伍者の渡河の可能性が無くなりもうこれまでと判断したのか、この集結地を離れて夜間行軍が始まった。
◆ポウカン平野を東へ転進
この平野は大河イラワジの東に沿い南北におよそ三百キロ、東西におよそ六十キロ幅でペグー山系までに広がる大平野である。その間を南北に幹線道路のプローム街道が貫き、ラングーンからプロームそして更に北へ延びマグエからエナンジョン方面に延びている。我々はそれを横断して東へ進むのだ。
初日は夕方からの出発だった。薄暗くなったと・ば・り・の中を、木立の間や草原を縫うように進んだ。谷や小川を渡り、山道を登ったり下ったり、うねうねと曲がった道無き道を、前を行く人の姿を頼りに歩いた。二時間ばかり歩いたところで、行軍は止まってしまった。今日はもう前進しないとのことだが、その理由は分からない。前方に敵が現われて進めないのか?それとも道が分からなくなったのだろうか。
その翌日は林の中をドンドン東の方向に進んだ。多くの兵士が、一列縦隊になっているのだから三978e四キロにもなっているのだろう。前方で何が起きていても分からない。時折パンパンと銃声がして曳光弾(えいこうだん)が飛んでゆく。この辺りは木が生えていない緩い起伏の草原である。星明かりで岡の稜線が見通せる程度であった。こんな隠れる場所のない所なので夜間しか動けないのである。
幾晩か歩いたある夜の行軍中、「陶山(すやま)大隊前へ」「陶山大隊早く来い」との命令が、取継がれ前から後方へ向かって伝達されてきた。最後尾を守っている陶山大隊は、早く先端へ来て任務に着けということらしいが、最前線と最後尾では数キロも離れていて、闇夜の細い道を進んでいるのだから、そう簡単に最前部の発令者の所へ追いつけないだろう。大変だなあと感じ、印象に残った。
後日聞いたのだが、陶山大隊は岡山歩兵聯隊の第一大隊であり、このように我々輜重隊は他の部隊と相前後して、転進していたのである。
◇プローム街道を突破
◆感激の横断
行動を開始してから三、四日目、この日も夕方薄暗くなった頃から行軍を始めた。今夜はプローム街道を横切るのだから、敵に見つからないよう特に注意しなければならないとの命令が伝えられた。前の人に遅れないように一生懸命に歩いた。遅れると闇の中、方向が分からなくなってしまうのだ。
その頃は既に主要道路は敵英印軍の勢力下にあり、昼間はプローム街道を敵軍の戦車や車両が往来していた。その警戒線を見つからないように、敵の警戒の手薄な所を夜の闇に紛れて突破し、東のポウカン平野に逃げ込まなければならないのだ。
真夜中頃に、アスファルトで舗装した幅十二メートル程のプローム街道へ出た。なるべく音のしないように静かに素早く渡った。感激の一瞬であった。前の部隊も後の部隊も幸いに見つからないで無事突破することができた。
我が師団は当時敵を攻撃するのではなく、できるだけ犠牲をださないよう敵中を潜り抜け、ビルマ方面軍の主流がいる東南端のサルウイン地区へ転進するのが目的であった。横断後も歩き続けた。少しでも早く本街道より遠くへ離れるように、小休止もなしに懸命に歩いた。
水筒の水はとっくに無くなり、喉はカラカラでどうしようもない。やがて夜が明けた。そこは大きい木の無い草原で所々に背丈ぐらいの灌木があった。私は草の露で喉を潤そうと試みたが、宿った露はあまりにも薄かったのでうまく採(と)れなかった。朝の内は敵の飛行機も来ないだろうと予測して、遮蔽できる大きい木や林のある場所を見つけるため、日が高くなるまで歩き続けた。
結局適当な場所がなく、干からびた砂漠のような感じの所に大休止することになった。所々に背丈程の葉の少ない刺(とげ)の木状の物があり、その下に休む場所を求めた。太陽が昇るとこんな物は日陰の役を果たさずカンカラ干し同様だ。それに敵機からも見つかり易い場所である。
ここでも先ず水を探したが、乾いた大地のどこにも水はない。よくもこんな所に大休止したものだと腹立たしく思ったが仕方のないこと。それでも誰かが一キロ程先にある井戸を見つけてきた。有難い!こんな兵隊がいるから助かる。井戸は小さかったが、充分に間に合う。飯盒で米をとぎ、水を張り、水筒に水を一杯入れて帰ってきた。橋本上等兵が弱っているので彼の分と自分の分を用意した。米の手持ちも乏しいので粥にし、いざ食べようとすると彼は白湯(さゆ)は飲んだが、マラリヤの熱に冒され米粒は喉を通らず、一口も食べることができない。
「僕は食べられないから、小田お前食え。お前の米は先日、水に浸かって腐っているだろうから、俺のを食ってくれ」と言う。私の米は腐りかけていたが、米の腐ったのは当たらないと聞いていたので、臭(くさ)いにおいがしてうまくなかったが、自分の飯盒から少しの粥を流し込むようにして食べた。
「橋本お前、食わないと今晩の行軍について行けないぞ。なんでも腹に入れておけばよいんだ。お粥だから流し込めばよいんだ」と促した。彼は「うん」と言っただけだ。しばらくして「バナナでもあれば食えるかもしれないが」と言った。バナナを欲しがる彼の気持ちがいじらしいが、この荒野のどこにも食べられそうな物はない。
たとえ高熱で粥が喉を越さなくても、本当に梨やリンゴやバナナもあり、設備の整った病院があり、特効薬の注射でもあるならば、悪性マラリヤでも治ることがあるかも知れない。しかし、敗走の道を毎日たどっているこの状況では本人が頑張るより他に方法がないのだ。患者に与えるマラリヤの良い薬はどこにも無い。衛生兵の手持ちも既に無く、先日の大雨で衛生兵は包帯嚢(ほうたいのう)を失っており処置無しの状況である。お互いに在るのは一握りの腐りかけの米と一匙(さじ)の岩塩のみである。
◆橋本上等兵との別れ
夕方になり、曇り空の間に夕日が残る頃出発した。橋本君も皆と一緒に歩き始めた。日が暮れて段々暗くなってきた。特に暗い夜で前の人について行かないと道がどうなっているのか分からない。広い広い草原で立ち木はなく、道といっても人が通ったので道になっているというもので、くねくねと曲がっている。路面は見えず、闇の中に前の人の姿をようやく写しだすようにして歩く有様だ。私は夜、目が他の人よりやや弱く苦労した。いつも一番前を行く人はどんな良い目をしているのだろうか?また、昼、偵察に行った人はこんな目印も無い野原の中の道を覚えておき、夜部隊を誘導するのだが、素晴らしい方向感覚を持っている人だと感心し、不思議に思うことがしばしばあった。
二時間ばかり歩いて小休止となった。私も崩(くず)れるように地面に腰を降ろす。転がるように横に寝てしまう兵士もいた。しばらくして出発となり、闇の中に立ち上がり歩き始めたが、間もなく「橋本がいないぞ」と誰かが言いだした。しかし、長い隊列は容赦なく暗闇の中を進んで行く。
私達の小隊もこの流れの一部となって最後尾辺りを行くだけで、誰も止まるわけにいかない。引き返し、先程休憩した所まで探しに行きたい気持ちはあるが、そうなると闇夜の中で方向を失い、自分も落伍者になってしまう恐れがあるので、どうにもならない。躊躇(ちゅうちょ)している頃、後方遠くで「ドーン」という手榴弾(てりゅうだん)の爆発音がした。橋本上等兵がやったのだろうか。誰も悲痛のあまりものも言わず黙ったままで闇の中を遅れまいとして歩いた。
私は最も仲良しの戦友を失ってしまった。これまでにも何回か落伍しそうになった彼を浜田分隊長が激励し、皆で支え合い、彼もよくここまで頑張ってきたのに、とうとうこんなことになってしまった。惜しい人を亡くしてしまったが、どうすることもできない。嗚呼(ああ)!
◆遺家族に思いを寄せて
私は終戦後、満二年間そのままビルマに抑留され、昭和二十二年七月に復員して郷里に帰った。
早い内に橋本君の御家族へ戦死された時の状況をお知らせしたいと思っていた。しかし私のみが生還し、彼は帰っていないのだから、御家族にしてみればどのように思われるか分からず、自分としては何も後ろめたいことがあるわけではないが、なかなか足が重く、また余計に悲しませることになるのではないか等と考え込み、お訪ねすることを躊躇(ちゅうちょ)していた。
そのうえ、戦後の混乱期であり、自分の仕事のことや、我が家の再建に追われてもいた。昭和二十四年頃になり思いきって、御魂へのお祈りと御家族への報告を兼ねて訪問した。私は小学生の頃、高梁(たかはし)に住んでいたので土地勘(とちかん)があり、それに彼からも高梁の商店街や彼の家の在る場所までも聞いていたのですぐに分かった。
亡き戦友橋本梶雄君のお父さん、お母さん、奥さん、小学二年生ぐらいの男の子がおられた。内地を出る前に姫路の貨物駅に見送りに来ておられたこの四人のお姿を私はよく覚えていたので、特別に気の毒でならなかった。見送りに来ていた時この男の子は、やっと歩けるぐらいであったと記憶していたが、この六年の間に大きくなっていた。橋本君が健在で復員されているならよいのに、一番大切な主人、大黒柱が欠けている家庭は何と言ってもひっそりと淋しく見受けられる。彼は仏壇に祀られているのである。
特に、ご両親は、私の父や母に比べると十二、三才も老いておられ、六十七、八歳だろうか働くこともできず、一層いとおしく感じた。奥様は彼の年から推測して私より六、七才上で三十二、三才だろうか、専売局に勤務されている由であったが、女一人で家族を養っていかねばならないし、大変なことだと思った。彼が召集を受けるまでは大阪で大会社の若手エリートとして社宅に住み、何不自由のない生活をされていたのだろう。いつの頃からか郷里の高梁に帰って生活し銃後(じゅうご)を守っていたが、彼の戦死公報が届いてからは一家の柱とならざるをえず、働きに出られたのだろうと想像する。一家の主人を失った遺族の家がどんなに苦しいか、淋しくどんなに困られているか、他人からは想像するだけで到底測り知れず、私自身ここに書きながらも、想像の範囲に過ぎず真実は分からない。
戦争はこのように寂しく悲しい家庭を数限りなく作ったのである。為政者は大きな罪を作ったのではなかろうか。
誰がその苦痛を償うことができるか。国は後年僅(わず)かばかりの年金を支払うようにしたが、それで遺家族の測り知れない悲しみや苦痛を癒(いや)せるものではない。
私は仏前に合掌して在りし日を偲んでいると、涙がにじみ出て仕方がなかった。彼と私との親密な戦友としての当時のことを御家族にお話をし、梶雄君が立派な兵士であったことや、素晴らしい人間性を見せていただいたことをお伝えし、最後の決別のことを率直にお話した。
御家族にしてみれば、そんな話は聞いた方がよいのか、聞かない方がよいのか分からない。聞けば余計に辛くなり、聞いたとて生きて帰るわけでもないのだが、私としては自分の心の中にいつまでも残して置くよりは真実をお伝えした方がよいと思いお話をした。子供さんにはまだよく分からなかったかも知れないが、ご両親様や奥様は我が子を我が夫を偲び涙されたことだろう。
その当時何回かお訪ねし心からお慰め申し上げていたが、次第にご無沙汰するようになり、歳月も過ぎた。その間一粒種の息子さんも優秀なお父さんの血を受け継がれ、お母さんの慈愛に満ちた訓育を受け、阪大を卒業され大手銀行に就職されていると聞いていた。更に歳月が二十年三十年と過ぎるうちに、失礼なことだが忘れかけていた。
平成七年秋、終戦後五十年に当たり私は戦争についての思い出の作文をある本の中に載せて頂いた。その作文の中に橋本上等兵のことを書いたので、昔を思い出し、その本を御家族の橋本家へお送りした。
それを機に奥様と二、三回電話でお話し、お墓参りを約束し平成八年春の連休に高梁のお家へ久々にお邪魔した。故人梶雄さんの息子さんは大阪方面の自宅から、郷里の高梁にわざわざ、若奥さん同伴で私に会うために帰ってきておられ、梶雄さんの弟さんも津山からわざわざ来て待っておられた。全く久し振りにお目にかかった奥様も年を召されていたが元気で迎えてくださった。息子さんは五十歳半ば前かとお見受けしたが、それこそ立派な紳士となっておられた。全く世代は交替していた。私も七十四歳、時は大きく流れていた。
平成五年十一月に私は二回目のビルマ慰霊の旅をして、世界で三つの指に数えられるビルマで有名な古代仏教遺蹟パガンを訪ねた。その霊地の原野から拾ってきた握りこぶし大の化石が家にあったので、この時それを持参して差し上げお供えした。それは、彼の遺骨は無く、戦後家族のもとに届けられた英霊の木箱の中には、ビルマのものかどうかも分からない砂が入っていたと聞いていたからである。遅きに失したが遺骨の代わりにでもして頂けたらと思い持参した。また彼が最期の日にバナナが欲しい、バナナなら食べられるかもしれないと言っていたことが脳裏に焼きついていたのでバナナをお供えした。
またこの二回目のビルマのイラワジ河の中洲で慰霊祭をした時に、慰霊文を捧げたが、それと同じものを朗読して供養申し上げた。それから、梶雄さんの立派な人となりや戦地での勤務振りをお伝えした。戦地で私と共に内地を懐かしみ、私に写真を見せてくれながら妻子のことを話されていたことをお伝えした。五十一年経過していても、思い出話をしているとしばしば涙がにじんできた。彼は私の心の中に生きているのだ。
いずれにしても父戦死の後、母と子は懸命に生き、このように成功されているが幼少年期は涙の出るような日々であったことだろう。今もなお、その後遺症が残っていないとは言えない。その傷跡が深く残った家庭、幾らか時の流れとともに癒されたかもしれないが、遺家族の人生はどんなに大きく左右されたことだろう。全国で幾十万幾百万の方々が遺族としていかなる苦痛に耐えてこられたかを心しなければならない。
ここに橋本さんのことを詳しく書いたが、これは私が直面した一事例である。私が特にお世話になった上官や親しかった戦友達、多くの方々のお墓参りを逐一すべきところを、身勝手ながら彼を私の心の中で代表とし参拝させて頂いたようなことであり、お許し願いたいと思う。
◆編上靴(へんじょうか)は破れ服も傷む
敵の監視偵察が厳しいので、我が軍が平地で遮蔽物の無い所を転進する時は夜間行動をせざるを得なかった。実際は退却であるが退却という言葉を避け、少しでも勇気を出すように奮起を促し転進と称したのである。山の中で大きな樹木や林に覆われていて、敵の偵察機から見えない所を進むのならば昼でもよいが、それでも敵は我が軍の行動を不思議によく知っていた。偵察機以外にも、日本軍が及びもつかない観測計器や電波兵器を持っていたのではなかろうか。
ともあれ毎夜の行軍が続き、ポウカン平野を西から東へ、曲りくねった道を横断するのだ。長い期間の行軍のため、履いていた編上靴(へんじょうか)もついに口を空けてしまった。修理できるような状態ではないので捨て、取っておきの地下足袋(じかたび)に履き替えた。この地下足袋が最後の履物だ。長くはもたないかも知れないが、大切に履かなければならない。これが駄目になれば、もう行軍にはついて行けない。これこそ生命の綱である。
各人は持ち物をだんだん捨ててしまい、背負い袋の中には、携帯テント一枚、上衣一枚、貴重品若干、靴下に入れた米、小さな缶に入れたガピーか塩を持ち、背負い袋の外には飯盒をくくりつけ、肩に水筒を掛けていた。ガピーとは小魚と味噌状の物を煮詰めた日本では塩辛のようなビルマの食物である。着ている物は肌着の襦袢(じゅばん)か七部袖のシャツ、ふんどし、袴下(こした)(ズボン)、帽子、地下足袋で、どれも垢と土に汚れた破れかけの物ばかりであった。帯革(たいかく)(バンド)には帯剣(たいけん)と手榴弾をぶらさげていた。小銃を持っていない兵隊もぼつぼつ増え始めていた。
元気な兵士は軽機関銃を担いでおり、軽機関銃用の弾薬を携行している兵隊もいたが、人員も減少し兵器も少なくなり戦闘能力は当初の三分の二ぐらいになっていたと思われる。
聯隊長戦死の後は、足を負傷しているが金井塚大尉が聯隊の中の最右翼で聯隊本部に所属しているので、とりあえず一時指揮をする形となっていた。担架に乗せられての行軍は歩く者以上に苦しいものがあったと思われる。平坦な幅広い道でないので、担架は前後左右に揺れ滑り落ちそうになったことだろう。でも担いでもらっているので文句も言えず、辛抱するより仕方がない。気丈夫な現役軍人の誇りと責任感で、担架の上から配下兵士に大きな声で命令と激励をされていた。間もなく植田大尉が聯隊長代理となって采配(さいはい)を揮(ふる)われたのである。
◆担架(たんか)搬送と耳鳴り
担架と言っても竹で応急にこしらえたお粗末なもので、担ぎにくいものであった。乗っている方も決して乗り心地のよい代物ではなかっただろう。その頃戦闘で歩けなくなった兵士は第一中隊でも五、六人もいたと思うが、見捨てて行くに忍びず担架で搬送するのだが一人を四人で担架に乗せ運んでいた。交替要員も必要であり、その人の小銃等の兵器を代わりに携行しなければならないので、都合直接十人の兵隊に負担がかかった。それでいて乗せられている者も楽ではなく不自由で、大変な気の遣いようであったと思われる。あるいはいっそ死んだ方がましだと思ったかも知れない。
私も毎日毎晩担架を担いだ。それまでに体力の弱っている体で担架を担ぐことは、大変な苦痛であった。こちらが担架に乗せてもらいたいぐらい疲労しているのに、担がねばならないとは辛いが、でも仕方がない。
この頃から私は耳鳴りが始まった。担架を担いでいると耳がガンガンと鳴る。今までに経験したことのない現象で気持ちが悪く、脈拍と同じ間隔でガンガンと継続して耳が鳴っている。えらいことになってしまった。自分の声も耳に響いてくる。しかし、小休止となり地面に横になり転がると止まるのである。起きて歩きだすとすぐにまたガンガンと耳に響いてくる。栄養失調と貧血からくるのだろうと思うが、この耳鳴りはだんだんひどくなり聴力も衰えたように感じた。この苦しさ、耐えがたさは本人でないと分からないと思う。
耳鳴りがする。そんなに弱った自分の体、だが、担架は担がねばならない。一人の負傷者の生命を助けるために、多くの人の労力が提供されたが、気がつくと、担架を担いでいる人が次々に衰弱し落伍したり、動けなくなりだしていた。このようにして私の班や隣の班の田中上等兵、松下上等兵、山本上等兵が行軍から脱落していった。
担架を担ぐために自分の方が先に弱り落伍して、死ぬ羽目になり犠牲になった兵は、どんな気持ちがしたであろうか。担架に乗せられている人も耐えられない思いであったことだろう。だんだん担架を担ぐ人の心もすさみ、戦友である担架に乗っている人を罵(のの)しり手荒く扱うようになってきた。
私も落伍し隊列から離れてしまえば、担架を担がなくてすむと思った。でも落伍したらもう道が分らなくなり、結局は自分自身が本当に行方不明者になり死を選ぶこととなるのが目に見えている。十日ばかりこのような形での夜の行軍が続いた。知らない土地をぐるぐる曲がり、細い道をたどり、岡を越え林を潜り、東へ向かって転進した。広いポウカン平野の間を道なき道が、勝手に作られ、勝手に消えながら部落間を繋いでいる。
その頃のある日、一晩中歩き小休止も何回かした。夜が明けてみると、前夜出発した部落に、回り回って帰ってきているのである。先導者が悪いのか、それとも敵の警備を避けているうちにそうなったのか知れないが、ビルマの道はそれ程までに分かりにくい。夜の闇の中のこととはいえ、不思議なことが起きるもので滑稽でもあり、全くの骨折り損であった。
ポウカン平野の中程、ポウカンという部落らしい所に集結した。そこには、我々より早く来ていた部隊も待っており、また、同じ輜重隊でも第一アラカンからイラワジ河をパトン方面で渡河し、他の経路を通って来た中隊本部や第三小隊等もおり合流した。久し振りに会う戦友達も以前の張り切った姿はなく、疲労し悄然(しょうぜん)としており垢にまみれていた。それに、上官や古年兵や同年兵が負傷したとか戦死したとかいうような暗い話ばかりであった。
とにかく、ここポウカンにはかなり大きな兵力が集まったことになった。その部落に四、五日滞在し、食料等を収集することにしたが、もう軍票は役に立たない。日本軍が負けているから軍票が役立たないことを現地人はよく知っている。従って部落民の米等を失敬するより他に生きる道がない。もちろん部落民は逃げており米と塩を捜した。椰子の実やマンゴーの実をもぎ取り、鶏を捕まえ豚を殺して食べた。「ビルマ人よ許してくれ、我々はもうどうすることもできないのだ、飢え死にしそうなんだ」と心の中でつぶやきつつ。
兵兵団も内地を出発した時は一万六千人だったが、この時点で約八千人に減っていたようだ。それにしてもこんなに大勢がこんな部落に集結したのだから、この土地の現地人には気の毒で大変迷惑なことである。米を取られ塩を取られすべてを失った上に、日本軍が通り過ぎた後には、沢山の屍と動けない瀕死の兵隊が残されているだけであった。
◆浜田分隊長倒れる
ポウカン平野を幾日もかけて歩きペグー山系に差しかかる頃、浜田政夫分隊長がマラリヤに罹(かか)り竹の杖にすがりやっと歩いている。一歩踏み出し、私に「小田よ、儂、もうあかん」と言った。私は「いくら苦しくても、頑張って行こうよ」と答え励ました。しかし私も弱っており大きい声は出なかった。体力が衰えると声も出なくなる。この頃から、声が弱々しくなりヒイー ヒイーというばかりである。かぼそい声しか出ない状態はこの頃から始まり、終戦後半年ぐらい続いたが、体力の回復と共に自然に治った。重病人が弱々しい声しか出せないが、それと同じである。浜田分隊長は続けて「悪性のマラリヤに罹り、飯が食えない。それに下痢をするんだ。高い熱が出て下らないんだ。儂も弱ったわい」と言った。気の毒に思うがどうにも助けてあげる方法がない。今まで、凛々(りり)しい顔立ちの彼、軍人らしい気合いの入った立派な人柄、そんな人が、よもやこんな姿になろうとは想像もできなかった。
「小田よ、マラリヤは苦しいのう。今までこんなに苦しいものとは思わなかった。儂も分隊長として、皆が病気したとき元気をだすようにと気合いを入れていたが、自分がなってみるとよく分かるのう。元気を出そうにも高熱で、ちっとも飯が食えないのだからのう」「水ばかり飲みたくて仕方がない」「どこかにマンゴーかパパイヤでもないだろうか。バナナなら食えるかも知れないが」と問いかけてくる。でも、どこの部落にも果物など残っていなかった。もしあっても、この高熱では喉を越さないだろう。
もう一度元気になりたいと願う彼、なんとしてもこの病気から抜け出さなければならないと祈る彼、しかし日に日に衰弱して行く現実と、迫り来る不吉な思いに悩まされたことであろう。
普通キリリとした服装で立派な下士官、模範的な態度のこの人が、もうそんな風情はなく、破れた靴を履き、小銃も帯剣も既になく、真っ黒に汚れた背負袋をだらりと肩に掛けているのみで、帯革(バンド)に自決用の手榴弾が泥だらけになりぶらさがっているだけである。
もう誰も、自分自身の体を運ぶのに精一杯で他人に手を貸すほどの余力も体力も持っていなかった。自力で治り自力で歩くしかなかったのである。
それから数日後、誰からともなく「浜田分隊長も自決されたのだ」と聞いた。私にとり直属上官の一人がまた亡くなられてしまった。寂しく悲しいことが次々と起きるが感傷に耽(ふけ)っている間はなかった。豪雨に打たれながら、遅れないようにと膝を没する深い泥濘(でいねい)の道を歩かなければならなかった。
ここで、編成当初からの第二小隊第四分隊の分隊長で、浜田分隊長の前任者であった藤野禎久軍曹のことについても記しておく。彼は細かいことに動じない豪快な性格と勇気を持った方であり、体格もよく力持ちであった。ビルマに到着後間もなく他の部署へ転属されたのでよく分からないが、シッタン河渡河前に敵飛行機の爆撃を受け、壮烈な戦死をされた、と風の便りに聞いた。
輜重車の車輪が六十キロぐらいあっただろうが、それをウエイトリフテングの選手のように頭上に差し上げ、ワッハ、ワッハと高笑いされていた豪快な姿が思いだされ懐かしくもあり、戦争の残酷さ、火薬の恐ろしさを痛感させられたのである。前途有為(ぜんとゆうい)なピカピカの青年がこのように帰らぬ人になってしまうとは、戦争とはいえ誠に残念なことである。
藤野分隊長にも父母兄弟があり、また思いを寄せる美しい人があったかも知れないのに、戦いはすべてを引き裂いてしまう。非情なものである。
---お二人の在りし日の颯爽としたお姿を思い浮かべて、ご冥福をお祈りする。遠い昔のことであるが、記憶は今ここに蘇(よみがえ)ってきて、まるで夢を見ているようである。ワープロを打つ手を休め、しばし夢を追う。
◆命を繋(つな)ぐために
米が手に入らない。だが籾のままならあった。ビルマでは籾のまま保存しておき、必要に応じて白米にする。その方が保存しやすく味も失われない。それにそれだけの精米機械が無いからでもあろう。この部落で籾を見つけたが臼がない。現地人が隠してしまったのか、いくら探しても無い。仕方がないので鉄帽に入れて、帯剣の頭で搗いて玄米にし、更に白米にしたのだが、一升(約一・五キロ)の白米を得ようとすれば半日仕事である。疲れ弱り果てた体には大変な労働であるが、食うためには省くことはできない。やっと搗き終わり正午頃飯盒炊事にかかった。
その時敵機の襲撃である。みんなできるだけ煙を出さないように心掛け遮蔽した場所にいるのに、敵はどこから監視しているのか分らないが、突如超低空で襲って来た。この時も三機が西の山を這(は)うように飛来したかと思う間もなく、パリ パリ パリと激しく機銃掃射(きじゅうそうしゃ)をしてきた。田舎道に沿うて弾着が土煙をあげていく。息つく暇もなく三機が次から次にと撃ってくる。ヒュンーという機体が空気を切る音が聞こえる。家の細い柱の陰に隠れたり、床下に隠れたりするが弾丸はそんな物は容赦なく突き破る。
小型爆弾だろうかドーンという大きな音がする。民家はよく乾いており、すぐに燃え始める。襲撃が終わるのを待って、米と装具と飯盒を持って部落を出て行った。
同じ班の妻鹿(めが)殿夫上等兵はこの襲撃で持ち物を失い、装具を焼かれ困っていた。以後の転進や生命維持に大変支障をきたしたことと思うが、どうしただろうか。
昔から鍋・釜提げていくと言うが、生きていくには飯盒と水筒が一番大切な物だ。これを打ち抜かれたり持って逃げる余裕がなくなったりして、置き去りにしなければならない場合もある。それに米と靴が大切であるが、激しい攻撃に遭えば、どうすることもできない。これが戦場であり、負け戦の現実である。もうこの頃裸足(はだし)の人も少し出始めていた。
追われ追われながらも、米を少しでも手に入れておくこと、そして、何かを食うことである。暇さえあれば地べたに転がり、寝て体力の消耗を防ぎ、体力を貯えて置くことである。もう顔を洗う元気もなく、もちろん体も洗っておらず汚れたまま二ヵ月以上が過ぎている。体も服も汗と泥だらけで、みすぼらしい姿であり、乞食より汚く憐れで臭(くさ)いにおいを漂わせ、痩せたドブ鼠(ねずみ)といった有様である。皆んなが臭くて煤(すす)だらけの顔をしているのだからお互いにはかまわないが、まさに死にかけた乞食の憐れな行列であった。
◆牛を食うて
食うことについてこまめな小山上等兵が、あそこの部落に牛がいるから取りに行こうと言い出した。皆疲れきって、牛をとりに行く元気のある者はいない。べったりと地べたに座り込んで、鉄帽に籾を入れて帯剣の頭で搗いて白米にしたり、また別の人は先日取ってきたたばこの葉を紙に巻いて、吸うている者もいた。しかもみんな半病人で、動くこともおっくうである。しかし、小山上等兵はしきりに「おい行こう、牛を取りに行こう、取って食おうではないか、牛を食うたらまた元気がでるぞ、さあ行こう」と強く誘った。六人ばかりが腰を持ち上げ、私も仲間に入った。
目指す部落に着くと、柵(さく)の中に赤毛の小柄な牛が一頭ポッンと立っていた。現地人が逃げる時急いだので、そのまま置いていったものらしい。牛は我々が行ったので、これはただ事でないと感じたのか、柵の中を急ぎ逃げ回りだした。ゆつくり捕まえる余裕はない。どうせ殺すのだから、射殺することにし、早速三丁の銃で頭を狙った。この可愛らしい目をした牛が逃げだした。しかし、一瞬立ち止まったところを狙い撃った。何の罪もない牛、可哀相だと思ったが仕方がない。
パン パン パンと銃声が辺りに響いた。牛は倒れた。一瞬足をピク ピクと震わせたが、そのままで動かなくなった。今まで生きていた牛をみんなで殺してしまったのだ。
誰かが、ダァーで首の皮を切り開いて頚動脈(けいどうみゃく)から血がよく出るようにした。皆で牛の腹に上がり踏み付けると首から鮮血が流れ出た。生(なま)暖かく、どろりとしたものであった。これ以上部落内に長くいることは無用、敵がいつ来るか分からないし、現地人が反感を持ち逆襲してくるかも分からない。大急ぎで四本の足を切り離し、皆で担いで林の中に引き返した。後足を担いだがズッシリと重く、肉量を感じた。みんながかりで料理をして、ありたけの飯盒で煮た。その他は携行でき、保存がきくように焼肉にした。
当時、肉を沢山食べる機会がなかったので、しゃぶりつくように食べたが、マラリヤで熱を出している者は、他人が喜んで食べているのを見るだけで食べられない。それも憐れであった。
その夕方から肉を食べた者の半数が急に下痢を始めた。我々の胃腸は美味しいものを長い間食べておらず、いつもひもじい状態にあったので、急にカロリーの高いものを沢山食べると、こうした異常な現象を起こすことになるのだが、誰もそんなことは考えず空腹を満たしていた。体力をつけるために食べたのがいけなかった。私も沢山食べたためか腹が痛み下痢が始まった。米と塩またはガピーしか食べていない私の胃腸に肉は強すぎたのだろう。一日三回の下痢が始まった。
なかなか治らない。今まで以上に体が弱ってくる。あの時牛肉を食べなかったら、こんな下痢にならなくてすんだのに、と悔んでみても後の祭りだ。夜ごとの行軍は下痢の体には厳しく辛かった。
痔の手術をしている私は、括約筋(かつやくきん)が弱く下痢が漏れそうになり堪え切れなくなる。といって自分だけ立ち止まりお尻をはぐり用をたすと五、六百メートル遅れ、取りはぐれてしまうことになる。汚い話だが、少々漏らしながら歩くこともあった。下半身便に汚れて臭く気持ちが悪いこと、この上もない。
もうポウカン平野の真ん中より大分ぺグー山系に近い所に来ており、やがて山系にたどり着けそうである。北へ向かったり、南へ向かったり、時には西に向かって細い道をたどりながらも、総体的には東へ向かって転進している。千人もの部隊が細い道を行くのだから、前の方で、何が起きているか分からずに、進み方が早くなったり、遅くなったり、止まったり、駆け足になったりし、苦難な行軍である。とにかく前の人に遅れないように、前の人を見失わないように歩くだけである。
いよいよ、雨期に入ったようで、厚い雲に覆われた夜道は一層暗く足元も見えない。大粒の雨が降って来てだんだん激しくなる。携帯テントを頭から被り雨を凌(しの)ぐ。しかし、行軍は続く。テントを通して雨が体を濡らし下半身はいつもずぶ濡れで冷たい。南国といっても、こんな時は寒い。凸凹の激しい道を探るようにして一歩一歩と歩く。冷たい雨が頬を流れる。涙は流していないが歯を食い縛り頑張った。足に豆ができようが、傷つこうが、歩くこと以外に生きる道はないのだ。
一人取り残されればすべてはおしまいである。餓死するか、自決するか、現地人に見つかり殺されるか助けられるか、また、敵英印軍に見つかり殺されるか、助けられて捕虜(ほりょ)になるかのどれかである。いろいろの場面が予想されるが、まず殆どは死神に取りつかれるだろう。何にしても当時の軍人ならば、生きて捕虜の辱(はづか)しめを受けたくない、絶対に捕虜になってはいけないと教育をされてきていた。
捕虜には絶対ならない覚悟であっても、自決する時を失い意識不明の状態の時、敵に見つかれば仕方がない。弾に当たり取り残され、動けないまま昏睡状態の時、敵軍に見つかり、気が付いたら英印軍の病院のベッドの上で生きていた場合もあり、それぞれ特殊な事情のもとにあったことを容認しなければならない。
闇夜の行軍でも、豪雨の中でも、時に十分間ぐらいの小休止があるが、ザーザーと降りしきる雨の中では腰を降ろして休むわけには行かず、立ったままである。しかし疲労が激しい時には、地面が濡れていても、へたへたとしゃがみ込んでしまうのである。どうせ濡れており同じことである。しかし休むとお尻から濡れてきて寒くなる。尻や下腹部が濡れるのが一番こたえる。
私の下痢はだんだんと回数が増え、小休止の度に行かねばならないようになった。近くの草原に駆け込みピイピイやるのだ。ろくに食べていないのに出るのは、どうなっているのか、体内に貯えられた養分が引き出されるのだろう。そのうちに便が粘液性になり、絞るような便通に悩まされる。この絞るような便意はアメーバー赤痢の前兆だとか。栄養不足の体はだんだん痩せ衰え一層弱ってくる。
下痢止めの薬等、どこにも無く自力で直すより方法がない。下半身を暖めればよいのだろうが、雨に濡れ川を渡ることがしばしばで、いつも濡れていたのでは治りようがない。
以前からの耳鳴りがゴー ゴー ゴーと相変わらず続いている。耳の鼓膜もおかしい。人が話しかけてきても、声が鼓膜に跳ね返り、おかしい響きがする。自分で話す声が耳に響きガン ガンして耳もおかしくなってしまった。どうすればよいのだ。
もう、この頃は負傷者を担架で運ぶことを止めた。運ぶ人が次々に死んだり落伍してしまい犠牲が大きいので止めたのだ。そうなると足をやられ歩けなければ自分で処置をしなければならなくなり、自決者が増加してきた。
◆歌に託す 林伍長
平素から優しく温和な人柄の林伍長は、聯隊本部付きで大阪外大の出身、本部でよく仕事ができる人だと漏れ聞いていた。その林伍長が草叢(くさむら)の中に転んでいた。色白童顔の面影は消え去り、昨日から激しい下痢で動くことが出来ない。しかもこの下痢はコレラであった。水を飲んではジャーッと下げ、嘔吐(おうと)もするのである。もう、誰も彼の近くに行こうとしない。「水が欲しい。水が欲しい」と言っている。しかし、その声にも力がなかった。
不治の病で伝染性の強い病気であること、余命一日ぐらいしかないことは彼もよく知っている。
体は弱っていても正確な頭と判断力は薄らいでおらず、決して治ることのないコレラに自分が侵されていると感じた時の彼の気持ちやいかに。数十時間しかない命と知り、悲嘆に暮れない人があるだろうか。荒野の果て薬品一つなく、灼熱の中で苦しんでいるのだ。幾ら冷静に心を保っても喉の渇きはどうすることもできず水筒の水を飲み干し「水が飲みたい。水をくれ」「誰か水を呉れないか」と言っている。水を飲んでは下げ、飲んでは下げして刻々痩せ、萎(しな)びてしまうのがコレラなのだ。
聯隊本部の山本上等兵が自分の水筒に水を汲んできて、竹竿(たけざお)の先に括(くく)りつけ林伍長に差し出した。彼はそれをゴクリと飲み「有難う、俺は助からない、死ぬ・・・・」「山本、わしはここで死ぬがお前が内地に帰ったら、故郷の父母にこの歌を伝えてくれ」と言った。『身はたとえ ビルマの果てに朽ちるとも とどめおかまし大和魂』という辞世の歌を。そして、「みんな、あっちへ行ってくれ」と言い、手榴弾を自分で叩き轟音(ごうおん)と共に散っていった。実に見上げた最期であった。
このことがあってから二、三日後、大西主計中尉もコレラに罹(かか)り自決された。主計は聯隊全部の女房役で財政全般を司る大役をされていた。不治の病気コレラと知り、自分のくるべき運命を悟り、部隊員が休憩している場所から少し離れた所まで這(は)うようにして行き、自分の拳銃でこめかみを撃ち抜いて逝かれた。昨日まで元気な人もコレラにかかれば、当時の戦場では薬も注射もなくもう助かるめどはない。愛国の気持ちに燃えながらも、多くの兵士がコレラやペストで死への道を選ばなければならないのである。私達はこの伝染力の凄(すさ)まじさに恐れおののいた。
◆戦車の攻撃
昨夜は夜間行軍をして昼間は細い道から入り込んだ灌木の間で大休止することになり、飯盒炊事をして飯を食べている最中、後の方向からドロ ドロ ドロという音がかすかに聞こえてきた。
「敵の戦車が攻撃してくる!」と誰かが絶叫した。すぐに兵器や装具を持ってその場を去らなくてはならない。瞬間ポン ポン ポンと戦車からこちらを目掛けて射撃してきた。みんなあわてて雑草や雑木の間に身を伏せた。戦車のキャタビラの音とエンジンの音が近づく中で、緊張し固くなり手を握りしめた。逃げ出せば余計に敵に見られやすいだけである。
とにかく、体を草叢(くさむら)の中に隠しているよりほかに方法がない。いよいよ近づけばその時のことで、見つかってしまえばそれまでだ。私達は戦車に対抗できる何物も持っておらず悲壮な覚悟を決めていたが、戦車は我々の方には目をやらず、どうしたことか通りやすい大きい道の方へ出て行ってしまった。
危機一髪、危うく戦車の攻撃を受けるところだった。山のような戦車を目の当たりにして、彼我戦力の相違を思い知らされた。昼はこのようにして、飛行機と戦車に攻撃され追われるので、できるだけ山の中や樹木の繁った所を選んで逃げ、遮蔽物の無い平坦地を行く時は夜行軍をせざるをえない状況であった。言うならば我が軍には、山の中の木の陰と闇夜だけが味方である。明るい昼と重火器と物量が敵の力であった。この頃、交通の主要点、幹線道路、鉄道、主な町、便利のよい平坦地は完全に敵軍の支配下となり、日本軍は山中に追い詰められ、ペグー山系を東へ横断しシッタン河を渡り、ビルマの東南マルタバン方面を目指して落ち延びて行くのみである。転進作戦と称していたが実際は退却であり、敵中横断一千キロの道程は容易なことではなかった。

八 雨、飢餓、屍(しかばね)
◇ペグー山系の悲劇
◆屍から装具を失敬
やっと山系の西の入り口の部落まで到着した。我々は他の師団より一ヵ月も遅れており、更に同じ兵兵団の中でもしんがりであった。現地人は既に誰もいない。しかも、大きな部隊が通過した後なので、もう米も無く家はもぬけの殻で死体が散らばって残っているだけである。まだ死んで一日ぐらいだろうか、形が崩れていなく、蝿(はえ)が沢山集まっていた。黒い大きい蝿が一杯で気持ちが悪い。その死人の飯盒、水筒は既に取られて無い。もちろん背負い袋の中に米は無さそうである。死を見届けた後に誰かがもらっていったのだろう。この頃は、いろいろの事情から兵器は勿論、飯盒や水筒さえ紛失した兵隊が多く、こうして必要でなくなった死人の道具を譲り受けるのだ。
そんなある日、山岡伍長が戦場で飯盒を無くして困っていた。ちようど道端で死んだ兵隊が飯盒を手に持ったまま倒れており、息もしていないし足でちょっと蹴ってみたが動かないので伍長は飯盒を取り上げた。その瞬間「はんごうー」とやっと聞こえるかすかな声がした。死んでいると思っていた兵隊はまだ生きており、大切な大切な飯盒を取られたことだけは分かり必死で叫んだのだ。まだ生きていたのだ。そのうらめしい細い声がいつまでも耳に残り忘れられないと、彼は話していた。
人情は人情だが、臨終の人に飯盒はもう必要ではない。生きて歩いている人には、飯盒は片時も無くてはならない命の次に大切な物である。無残、憐れなことであるが、戦争とは絶体絶命どうしようもないこんなものである。
上着も軍袴(ぐんこ)(ズボン)も、自分のものが焼けたりボロボロになったり、無くなったりすれば死人のをもらう。自分が裸足なら死者の靴、それも大分くたびれているのでも脱がせて失敬することもある。
ペグー山系の悲劇がこのように始まるのである。
◆米を確保し、最後尾で山系に入る
ペグー山系に入る前、米を集めるために、今まで他の部隊が入ってなさそうな部落を探した。運よく現地人はおらず、籾と岩塩を手に入れ、たばこの葉と、置き残した鶏五羽、豚一頭を捕らえた。
長居は禁物、さっさと村落を引き揚げた。
ちょうど一日行程ばかり山系に入った所で、鉄帽に米を入れて搗いた。これからペグー山系の中に長い期間、滞在することになるらしい。しかも輜重聯隊は師団司令部の将兵の分も確保してこいとの命令を受け、もう一度引き返して部落に取りにいった。その部落はこれまでに日本軍の部隊が通過した形跡がなく、現地人の姿もなく、敵襲にも会わず、相当量の籾と木製の臼を持ち帰ることができた。二日をかけて山の中で皆で籾を搗いて白米にした。しかし、兵兵団の司令部や主力は四、五日先に山の中程へ前進しており、我々はしんがりで山の中を追及(ついきゅう)することになった。
ペグー山系はアラカン山脈のように高い山ではなく、標高二百メートルぐらいで、南北に約四百キロメートル、東西に約八十キロメートル伸びる山塊である。この広大な山系には殆ど民家はなく、行っても行っても山と谷、森林と竹薮の連続である。道といっても獣道(けものみち)を日本軍が最近急に歩けるように開いた山道で、細く柔らかく、ぬかるみ曲がった緩急の坂が混じったものであった。
坂を登り、下り、谷を越え、水に浸かって河川を渡り、ひどいぬかるみの所もあり、困難を極めた悪戦苦闘の道であった。臼で搗いた白米をそれぞれに分配し、五〜七キログラム程度を持ち山系の奥に入って行った。師団司令部へ渡す米を皆で分けて携行しているのだから、衰弱した体には堪え難く重い荷物で、肩に食い込んだ。
もう、完全に雨期に入っていて、雨の降らない日はなく、豪雨性の雨が降るかと思えば、しとしとと降り続く雨もある。よくもこんなに雨が降るものだ。よく降ると感心すればする程、なおさら降ってくる。しかし、我々は全くの野宿だ。雨に濡れながら歩き、雨に打たれて寝る。内地の乞食でも橋の下があり雨宿りできるが、我等にはそれさえもない。
今までに大部隊が何組も何組も通った後のため、赤土の山道は粘っており、田植えする田に入っているようである。いや、それよりもっと粘っこく、赤土で壁土を作っているのと同じような粘さであった。最初の二日は所々だったが、三日目からは、このぬかるみが延々と続くのである。一歩、歩いては、ズッポン、二歩、歩いてはズッポン、ズッポンと、膝までぬかるみに入り足を抜き出すにも力がいり大変である。
一日歩いても四キロぐらいしか進めない。泥濘膝を没すと聞いたことはあるが、まさしくその通りである。力尽きた兵隊が道のほとりにうずくまり息絶えている。息絶えているが小銃をここまで持ってきておる。立派なものだ。一歩ぬかるみ、次の一歩もまたぬかり込み、グッショ グッショ ビチー ビチーと粘り込んだ。粘った土の中に地下足袋はずるりと入る。その足を抜き出すにも力がいる。強く引き出さなければ抜けない。やっと抜いて、次の足を泥の中に突っ込んで進んだ。
どこを通っても泥だらけである。こんなひどい道を私は見たことも聞いたこともなかった。
例えが悪いかも知れないが、臼で搗いた餅の中を歩いているぐらいの粘さである。ここら辺りのビルマの土はきめの細かい赤土で、日本軍によって急いで造られたのでバラス等は全く入っていない。雨期でなければこんなひどいことにはならないが、雨期の最中、大部隊がニヤクリ、ニヤクリして通った後を、最後尾の我が部隊が進んでいるのだから、このようにねばい泥濘になっているのだ。
そんなある日のこと、私が泥濘の中を一歩一歩足を運んでいると、前方のぬかるみの中に兵隊が立って動こうとしない。追いついてよく見ると、自分と同じ班の三方(みかた)上等兵ではないか。動かないはず、息絶えているではないか。立ったまま死んでいるのだ。彼は丸々と頬の張った、ユーモラスな男であったが、その顔も痩せ垢と土に汚れている。しかし彼であることはすぐに分かった。小銃は持っていなかった。足がねばり込んで、抜けないで力尽き果て死んだのだ。重心がそのまま残り、立ったままの姿である。私は唖然とした。世にこんな死に方があるのだろうか?酷(むご)い!
その頃私の班の者は皆銘々勝手に散り散りバラバラに歩いていた。ここでなんと処置してよいか、判断も思考能力もなく弱り果てた。まごまごしていると自分も落伍してしまうことになる。困惑の極みのところへ運よく玉古班長代理と他に二名の兵隊がやって来た。
玉古兵長は「三方(みかた)か、酷(むご)いこと。立ったまま死んでいるのか?」「力が尽きたのか。みんなで道の縁(へり)に運んでやれ」とテキパキと指示した。四人がかりで、やっとぬかるみから引き出し道の縁に寝かせた。
「せめて右親指を切り取り、遺骨として持って行こう」と言った。誰かがビルマのダアー(斧)で指を切り取った。「お前持って行け」と私に指示された。その頃一枚の紙も無いので、私は木の葉に包みポケットに入れた。この遺骨が内地の三方家に届いたら、どんなに悲しまれるだろうか。しかし、考え方では、親指一本でも届けられれば、まだよい方である。今までにも行方不明になった人の遺骨等どんなになっただろうか?遺骨の無い人が大勢あるのだから。
瀬澤小隊長の親指の遺骨も本山上等兵が大切にして持っていたが、彼が行方不明となってしまったし、大西主計大尉や林兵長はコレラだったので屍に近寄れず、遺骨を持ち帰ることができなかったと聞いている。このように、遺骨のない人は大勢いるのだ。「三方君きっとお前の遺骨は郷里に届けてやるからな」と誓った。
その日も夕方までぬかるみの中を歩き露営した。飯盒炊事の時、その火の中で三方上等兵の親指を火葬にした。尊厳なはずの火葬と炊事が一緒で申し訳ないが、負け戦の最中はこんなことである。誰かが小さな布切れを持っていたのでそれに包み、背嚢の奥に遺骨を収めた。
自分のことだがその頃、私の地下足袋には土がべったりひっ付いて重いこと重いこと。
泥濘中の行軍が続き一日の行程が予定の三分の一にも達せず、全く遅れてしまい、ペグー山系横断に予想外の日数を要することになった。もう、靴を無くして裸足(はだし)で歩く人も大勢出てきた。私の地下足袋もこの泥道で急に傷み、ゴムと布との間が口を開けて、履くことができなくなり、裸足になった。
裸足のままでは頼りないので、ビルマ人のロンジの布端を引き裂き、足に巻きつけることにした。しかし、つるりと滑っては転び、滑っては転び、布にも土がべっとりとつき、数日のうちにそれも破れてしまい、いよいよ裸足の行軍が始まったのだ。幸いペグー山系の中では森林が多く敵機に見つからない。昼間の明るい間の行軍ができたので、地面がよく見え障害物を避けて進むことができた。
しかし、裸足でぬかるみを歩くのだから堪(たま)らない。水気で足はふやけて泥だらけ、木の株や竹の折れ端で足を痛めないように用心して歩いた。ここで足を痛めたら最後であり、命取りになるのだ。ひどいぬかるみだが、その中に石も砂もなく、粘土だから割合足を傷めないで歩くことができ助かった。
我々が平地より運び込んだ籾を白米にしたが、それを師団司令部に相当量渡し、残りをそれぞれが分けて持ち、山に入って来たが、日数を重ねるうちにだんだん少なくなり心細い。
蛙を捕まえて食べたこともあるが、めったにいるものではない。食物が無いので、誰かが「この木の実は食べられるぞ」というので、その実をちぎって食べたこともあるが、味もなくがさがさとしたもので、食べられるような物ではなかった。
◆盗まれた米
携行している米が少なくなり、みんな困り始めたある日、道の縁にごろ寝した時のことである。疲労困憊(ひろうこんぱい)した体はいつしかぐっすり眠った。朝、目が覚めてみると背嚢の中の米が無い。『靴下の中に入れていた米がごっそりない!』一粒もないのだ。体の中の血が逆流しそうだ。確かに、昨夜は枕元に背嚢を置いて寝ていたが、眠っている間に一升五合(二・二キログラム)の米が、ごっそり抜き取られてしまったのだ。米がなければ死ななければならず、そうでなくても、ここ数日、米を節約し食い延ばし、ひもじい目をしているのに。だが、誰が盗んだのか証拠がない。聞いて歩く訳にもゆかず、盗まれた盗まれたと騒ぎ立てない方がよいだろう。我慢、我慢、今日一日は食わなくても死なないだろうと思うことにした。
だが、残念でならない。悪い奴がいるものだ、儂を殺す気か。一日中食べずにふらふらと皆について歩いた。腹が立ち、腹が減る。畜生め!
この日は昼歩き、夕方山の凹地で大休止となった。皆は銘々炊飯をして食べているが、私には炊飯すべき米がなく食べるものがない。ああひもじい。何か食べたいけれども何もない、体が弱るが仕方がない。心やすい戦友にねだれば少しぐらいは、くれたかも知れないが、これから何日ももらうばかりはできない。あえて誰にも言わず我慢した。水筒に湯を沸かして飲んだが腹の足しにはならなかった。『今夜盗み返すのだ、それより他に方法がない。飢え死にしてたまるものか。』
乾坤一擲(けんこんいってき)やるのだ、と決心した。この凹地には我が中隊の一部と他の部隊や落伍者達が入り乱れて休んでいた。腹が減って眠れない。それに今晩こそ何とかしなければ自分が死ぬのだと思えば、じっとして夜が更(ふ)けるのを待つより仕方がない。眠ってはいけない、時間を待つのだ、興奮して眠れない。
木の繁った山の谷で、真っ暗い夜だった。自分の休んでいるところを這いだして少し離れた所で四、五人が並んで寝ている場所に行き一つの背嚢の口を開き、靴下に入った米五合を静かに失敬した。更に離れた場所の兵士の背負い袋の中から、靴下に詰めた三合ばかりの米をも失敬した。
一つ取るのも二つ取るのも同じだ。闇の中で半ば手探りで事は成功した。
参考までに軍隊では、内務班にいる時から員数合わせすることが重要なことで、そのためには常に人の持ち物を盗むことが行われており、世間一般での盗みの感覚とは異質なものがあった。
そのような軍隊生活の中でもあり、この場合はまさに生死の明暗を分ける時である。取られた物は取り返さなければ、生きられない絶対の場面で、静かに反省している余裕のない時である。
腹が減って仕方がなかったので、夜中であるが残り火をおこし、早速炊飯して食べた。暖かいご飯が喉を越した時は久し振りで美味しかった。
この米でこれからしばらく命を繋ぐことができるとほっとした。その時一人の兵隊が闇の中からこちらへ歩いてきた。私は飯盒の飯を食べている最中であった。彼は夜中であるが自分の米が盗まれたのを何かで感じて起きてきたのだろう。こんな真夜中に飯を食うている私を闇を通して見ておかしいと思ったのだろう。
「お前飯を食うているが、わしのを取ったのだな?」「わしのを返せ」ときた。私は「自分の物を食うているのが何が悪いか、腹がへったから、自分の米を炊いて食うているのが何故悪いか、人を疑うのも程々にせい」と切り返せばよかったのだが、そう嘘が言えなかった。
黙っていると彼は私が取ったと感じとってしまった。私はとっさに、嘘をついてしまえなかった。「米を返せ」「わしのを返せ」と迫ってきた。「返してやるわい」と言って米の入った靴下をポイと放り出した。かの兵隊はそれを拾ったが、闇の中で私を睨(にら)みつけ三発ゲンコツで殴った。
私は抵抗しなかった。既に腹に入れただけは儲(もう)けである。少々殴られても腹の中では消化されているのだから。それにもう一つの袋の米は私の背嚢の中に納まっているのだから、歩留まり五十パーセントだと思い、殴られるにまかせた。その兵隊は暗闇の中に消えて行った。暗闇の中の出来事で、お互いに顔は分らないままであった。このようにして私は幾らかの米を入手でき生命を繋ぐことができた。
夜が明け山中の行軍が始まった。この頃は飢えのため顔も痩せているはずなのに、殴られて顔が腫(は)れていたので、溝口曹長が直感で「小田、お前顔が腫れているがどうしたのか?」と尋ねられた。私は「蜂に刺されて、腫れたんです」と体裁を整えて答えた。でも久し振りに腹が満ちて元気よく歩けた。
◆筍(たけのこ)で命を繋(つな)ぐ
ビルマの山には竹薮(たけやぶ)が多く、いろんな種類の竹が生えているが、ペグー山系に入った頃ちょうど筍の生える季節で幾らでも生えていた。これ幸いと筍の先の柔らかい部分のみを採ってきて、灰の汁であくを抜きゆがして食べた。お陰で空腹を満たしてくれた。
私は中学生の頃、筍を食べてジンマシンが体一杯に出て大変困り、医者へ行って注射してもらっことがあったので、筍を食うことに抵抗を感じていたが、腹が減るし米を節約しなければならないので用心しながら、少しずつ食べた。しかし、幸いにジンマシンは出ることもなく助かった。初めのうちは塩の手持ちがあったが、塩がなくなってからは、ゆでただけの筍を口にしたが、それは味がなくて食べられなかった。
誰かが「こんな物は栄養にならない」とか、「腹の中を通るだけだ」とも言ったが、食べる物が乏しいのでこれを食べた。沢山食べ過ぎ消化不良を起こした人もいた。中にはこれが原因で体調を崩し命を絶った人も出た。でも全体としては飢えを若干でも凌ぐことになったのではなかろうか。
私は筍のせいではないだろうが、毎日水に浸かり、冷えと体力の衰弱のためか、この頃また下痢が始まり回数が増え苦しい。どこにも下痢止めの薬などあろうはずがない。物知りの兵隊が炭を食べればよいと教えてくれていた。炭は吸湿性がある。内地にいる頃腹痛の時、黒い粉の薬を飲んだ覚えがある。それに燃やしたばかりの炭ならば黴菌(ばいきん)はないはずだ。「そうだ、これを食べよう」と決心した。
早速、飯盒で炊事した後、燃え残りの炭の奇麗そうなところを拾いあげ、ガシガシと噛んだ。甘味も辛味も何もない。燃えさしで炭になっていない部分は吐き出した。炭を口の中に入れてもなかなか喉を通らないが、このまま下痢を続けていると命取りになるから、治したい一心で、薬だと思いかなりの量を歯で砕いて粉にして食べた。確かに効いたようで次第に下痢が治り、ここでも命拾いをし本当に嬉しかった。炭のお陰である。
---ともあれ、ペグー山系の筍は忘れられない。私は、いまだに食卓に筍が出ると一瞬ペグー山系で食べた筍のことを必ず思い出す。複雑な感情で簡単には表現できないが、普通の野菜とは異なり、筍に対しては特別な心の動きをするのである。
◆次々と落伍してゆく
私と一緒に二月に召集を受け、同じようにこの野戦部隊の金井塚隊に転属してきた戦友の小林君や山田君が自決したとか、大井君がポウカン平野で敵弾に倒れたとの悲しい知らせが風の便りに次々に耳に入ってくる。あのしっかり者の小林君、あの機転のきく大井君。姫路に入隊した頃、美人の妹さんが大井君のもとへ面会に来ていたのを見たことがあるが、それももう昔の夢となってしまった。
しんみりと弔う時間も落ち着いて悲しむ余裕もなく、現実に直面して茫然とするのみである。敵弾と飢えと疲労に死にそうな日々が続く。自分の人間らしい温かい感情は薄れてしまったのだろうか。
ペグー山系の転進で、将校も下士官も兵隊も下痢を起こし衰弱し、またはアメーバー赤痢になり歩けなくなり置いてきぼりになる。自分から、「ほおっておいて行ってくれ」と言う者もある。みんな、元気になり病気が治れば、本隊に必ず追い着こうと思っているのだが、実際は一度皆から遅れ山の中に残ると、もう追いつくことはできない。「落伍してはいけない、必ず追及するのだ」と決心はするものの、体がどうにもならない。
僅かな米を持っていても数日分しかない。そこで飢え死にするか、ある時期に自決するかである。このようにして一人、二人、三人と落伍してゆく。彼等はその後どうなったか、実のところ分からない。殆どの人は、その地に朽ち果てたのではなかろうか。
取り残され、動けず、次第に無くなる一握りの米を眺め、自分に残された命の日数を数えることが、どんなに大変なことか。望郷の念耐えがたく、息を引き取って8c5cかれた将兵の心中やいかに。敢えて言うならば、最後に手榴弾を抱いて自決した人にしろ、次第劣りで自決する判断力すら失い、餓死した人にしろ、敵の弾丸に当たり一瞬にして死ぬのに比較すると、考える日にちや時間があり過ぎる程あったはずで、一層哀れである。
内地の土をもう一度踏みたい、父や母の顔を何回も何回も思い出し、一度でよいから会いたいと念じたことだろう。妻子のある人は、写真を出して頬摺(ほほず)りをして別れを惜しんだことだろう。残酷な時間が継続したのだ。あまりにもあわれで悲惨なことである。これが戦争で負け戦である。
私はこのようにして別れた多くの戦友のことがいつまでも忘れられない。同じ班だったかどうか覚えていないが、笠原上等兵は、私と一緒に馬の作業をし、わたしの輜重車が脱輪し引き上げるのに困った時助けてくれたことがあった。軍隊では共同作業が多く助け、助けられるのである。落伍する彼が最後に「小田、わしはもう動けない、少し休んで行くから」と寂しく弱々しい声で言って道端にうずくまってしまった。細い雨が降り雨霧が辺りの山々を包んでいた。彼の顔と山河の光景が網膜に焼き付いており、歳月は流れても忘れることのできない悲しく遠い日の出来事である。
---衣食足りた平和な今日では、到底想像もできないことであるが、日本の国を守り、民族と家族を守り、祖国の発展を祈りながらこのようにして多くの若い戦友が散っていったのである。半世紀を経過した今も、白骨は雨期の豪雨と乾期の炎熱にさらされたままペグー山系の山深くに朽ち残されており、痛恨の極みである。心よりご冥福をお祈りするばかりである。
二十一世紀の若人よ、祖国を守り日本国の発展を願いつつビルマに散っていった二十万人の霊魂が、無念の思いをしながら残っていることだけは、心に銘記しておいてもらいたい。
◆命がけの糧抹収集(りょうまつしゅうしゅう)
ペグー山系の中を苦難の転進をしている頃、我が第一中隊の主力は手島中隊長以下約七十名に減っていた。
内訳は私の所属する第二小隊では、瀬澤小隊長戦死後は誰が小隊長の代理をしていたかも、浜田分隊長戦死後は誰が分隊長代理をしていたかも明確でない。片岡邦夫軍曹が小隊長代理をし、若い森伍長が分隊長代理をしていたのかも知れない。次々に指揮者が戦死し、兵士達はぬかるみの中を息も絶え絶えに歩いている頃で、人事の任命も我々兵隊までには徹底して知らされる余裕もなく、指揮系統も明確でない状況であった。
第三小隊も当初の黒田小隊長の後任である岸本小隊長が戦死されており、各分隊長も次々に戦死され、その頃には片岡東一軍曹が小隊長代理を勤めるなど、指揮者が激減していた。
私には確かな記憶がないが第一小隊は福田中尉が指揮し、別の方面に転進していたのだろうと思う。
いずれにしても、これまでに第一中隊は、編成当初の半分以下に激減していたと思われる。七十名といえば一個分隊の人数より少し多いだけである。そして既に将校は手島中隊長のみで、溝口曹長が指揮班長として細部の命令を直接兵士達に伝達し取り仕切っていた。
第一中隊は手島中隊長以下で、この頃から師団司令部直轄(ちょっかつ)部隊として行動をすることになった。
ペグー山系に入ってから半月以上苦難の行軍を続け、山系中を流れるピュー河を渡り、山系の東に到達した。眼下にシッタン平野が見える。更に進み山を下り、平地に近い山麓の林が覆いかぶさる中に野宿することになった。これから折りを見て平原を突破しシッタン河に挑(いど)むのだろう、もうあの屍の塁々とした苦難の山系へ逆戻りして歩くことはないだろうと私達兵隊は思っていた。
師団司令部は山系の中程に宿営しているのだろうが、手島中隊に米を取って来るようにとの命令を下してきた。我々自身も米が無くなっているので、とにかく糧秣を収集することになった。
山裾の中隊がたむろしている場所から、シッタン平地に点在する現地人の部落へ取りに行くのだが、なかなか容易なことではない。
夜明け前に起き、山を出て平地にある部落を探し、払暁(ふっぎょう)に襲うのである。私達三人は斥候を命じられ、暗闇の中を一足先に部落の様子を探り、報告するために引き返していると、いきなり友軍が機関銃で撃ってきた。まだ夜が明けておらず、薄暗いので、私の方からも機関銃を構えているのが見えず、機関銃手の方からも私達三人の姿が見えなかったから、こんなことになったのだが、命令の不徹底があったためでもある。
私達三人の方向を目掛けて、いきなり薄暗い所から機関銃がダッ ダッ ダッと火を吹いた、ちょうど七、八メートルの至近距離からである。私はびっくりして「友軍だ!友軍だ!」と叫び、仰天し横跳びに走った。他の二人はどう逃げたか知れないが銃口の前を飛び退いた。機関銃の銃口の高さは三十センチぐらいで私の股の間を弾が通ったと感じた。それも三発点射だから三発全部が股の間を通ることはない。どうなったのか知らないが足に当たらなかったのが奇跡的で不思議である。
機関銃は部落民を追い払うために威嚇射撃(いかくしゃげき)をしたのだが、我々斥候三人は撃ち殺されるか、重傷を負わされるところだった。当たるはずの関係位置であり、極めてタイミングもよく、当然撃ち抜かれているはずだが、当たらなかったのだ。その時足をやられたらもうおしまいだ。どうすることもできなくなり死ぬより他に手段のない戦況であった。神様は私を助けて下さったのだ。不思議だ。今思い出しても戦慄を覚えるし、復員後二、三回、夢でこの恐怖を見たことがある。
---この時の機関銃手であった光畑上等兵は、私と共に復員し現在も元気で活躍中である。戦友会で会う度に、「あの時はびっくりした、いきなり闇の中から大声で『オイ!オイ!』と絶叫し小田君が飛び出て来たので『撃ち殺した』『しまった』と一瞬血が逆流した」と話す。「当たらなくてよかった、当たったと思ったがほんとうに幸運だった」と当時を懐古するのである。当たっていれば、光畑君も一生重い心の負担を背負っていただろうから。両者にとり何事もなく誠に運がよかったのだ。
光畑上等兵は戦争中元気で重い機関銃を常に持ち、部隊の先頭に立ち敵軍を懲(こ)らしめ、味方をよく守り、ある時は宮崎師団長閣下の直接護衛をするなど、輜重隊の名誉を高からしめる貢献をした勇者である。彼は終始マラリヤにもかからず、下痢にも悩まされず元気者で通してきた。こんな人は極めて珍らしい。
---戦後彼は私達と共にビルマへ数回慰霊団の一員として参拝して来ているが、今日では数少ない生存者の中で、私と親しい戦友の一人である。彼は敵に直面した回数も多く、激烈な戦闘の話をよくしており貴重な存在である。
話を元に戻すと、平野の中にある十戸ばかりの部落に入る前に、機関銃で威嚇射撃して部落民を追い出した。現地人は素早く反対方向に逃げだしたので、家に入り、米と塩そしてたばこの葉を取って帰った。その時一頭の牛を連れて引きあげた。成果は上々というところであった。この成功で師団司令部に渡す米も目標の三分の一程度と自分用が少し貯えられた。早速飯を炊き久し振りに腹が膨れるぐらい食べた。塩と米だけでも美味しかった。
翌日は昼、斥候に出ることになった。中村伍長と古角上等兵と私の三人が一組の斥候となり、どこに部落があるか道順はどうか等を調べ、明日の未明に糧秣を失敬に行く部落の様子を偵察するためであった。
三人は山麓の隠れ場所を離れ、平地に通じる約二メートル幅の道に出た。そこに西岡軍曹と小谷上等兵、富田上等兵の三人で一組の斥候が道端に休んでいた。私達の中村国男組は先に行くからと言って追い越して前にどんどん進んだ。
三百メートルぐらい先に行った時、敏感な中村伍長が「自動車の音がする」「おかしい、自動車のエンジン音だ、隠れよう」と言って、道の縁(へり)に沿った川の茂みの方へ下り隠れた。隠れるや否や敵のトラックが、英印軍の黒人で頭にターバンを巻いた兵隊十人ばかりを乗せて、目の前を通り過ぎて行った。私達は川の中から見上げた。三メートルも離れていない至近距離だ。気味の悪いこと、見つかればそれまでだ。エンジンの音が軽いのによくも中村伍長は感じたものだと感謝した。西岡組はどうなるだろうかと心配していたら、銃声がパン、パンとし、何発もの射撃音が続いた。見つかったのだ。やがて銃声は聞こえなくなったが、どうもやられたようである。
私達中村組は、もう前進して行く元気もなくなり、さりとて後方に敵がいるのだから、この道を後退するわけにはゆかない。道から直角の方向に離れ、雑木林を横切り大回りして、中隊がたむろしている山麓にやっと帰った。しばらくして西岡軍曹が一人で帰ってきた。「小谷上等兵と富田上等兵は二人ともあそこでやられてしまった。敵は自動車から降りてまでは追って来なかったので、自分は助かったが、二人やられてしまった。残念でならない」とのこと。さすが下士官、激しい攻撃を今受けたばかりなのに、慌(あわ)てず焦らず泰然(たいぜん)とした態度であった。
翌日の夜明けに二人の死体収容に行った。現地人に服を剥ぎ取られており痛ましい姿になっている。誰かが二人の親指を切り取り持ち帰った。たいした弔(とむら)いもできないが許してくれと合掌し、皆で別れを惜しんだ。その日は米の収集はしなかった。
---小谷君は私と同じ二月に召集を受け、後に私と一緒に金井塚隊に転属になってきた兵隊なので縁が深かった。岡山県御津郡(みつぐん)馬屋村(まやそん)の出身だと聞いていたが、こまめによく動き、さわやかな感じの青年であった。小谷お前も死んだのか!小柄でやや角張り気味で少し日焼けした顔が、何故か五十二年前のタイムカプセルを通して現われてくる。
もっと米を集めなければならないので、次の日に、ある部落を目指して五十人ぐらいで徴発(ちょうはつ)に行った。小さな小川があり冷たい砂と水を踏むと気持ちがよい。砂もきめが細かく足ざわりもよかった。靴を履いている兵隊はほんの一部で、私を含め多くの兵士は裸足であった。その時はなんともなかったが、これが後に大変なことになろうとは誰も予測しなかった。
それはさておき、目指す農家は二十軒ばかりの集落である。その部落は約二十メートル幅の川を隔てて向う岸の小高い所にあり、未明の薄暗い中に静かにたたずんでいた。
手前の川岸から機関銃で威嚇射撃をした。それに呼応して、皆一斉にザブザブと腰の上まで水に浸かりながら、川を渡り部落に入った。その時誰もいないと思っていた民家の中から、小銃で撃ってきた。現地人は兵器を持っていたのだ。一昨日のことがあり部落を守るために武器の用意をしたのだろうか、パン パン パンと音が交錯した。変だなと一瞬感じたが、私はかまわず家の中に入って行った。そして約一斗(十五キロ)の米を袋に入れた。かなりの量が取れたので、それ以上は何も捜さなかった。外では銃声が響き犬が気が狂ったように吠えている。中隊の皆も活動が鈍いようだし、家の中に入って来ない。おかしい気配を感じた。
私も早く出ようとしたが、銃声が激しく危ないと感じた。とっさに床の下に米を持ったままもぐり込んだ。しばらくそこにしゃがんで様子を伺った。夜がだんだん明けてくるし、犬はますます吠えたてる。このまま時間を経過すると逃げ出せなくなる。
危ない!と判断するや否や床下より這い出て、一目散に川に向かって走り、重い米を背負い川へ飛び込みザブ ザブと水の中を走った。走ったといっても水の中は歩く程しか進めない。その部落から私を目掛けて弾が飛んで来る。前後左右にその水面に弾着を示すように飛沫(ひまつ)があがり、もう駄目かと思った。だが彼等は現地人だから射撃は上手でないだろう、などと考えてもみた。もし、背中に背負うた米に当たれば、一斗の米は貫かないだろうと思いながら一生懸命に水の中を走った。
走った、といっても、腰の上まで来る水の中では容易に進めない。折角取った米を捨ててはならぬ。濡らしてはならないし転んでは何にもならない。ああ息が苦しい、ああ苦しい。敵からの照準を惑わすように、ジグザグに進んでみたり走ってみたりした。きつくてたまらないがもう少しだ。よろけては駄目だとザブザブと水を分けて走り、やっとのことで岸にたどり着いた。一気に土手を這い上がり土手の頂上から転げ落ちるように反対側の斜面を降りた。
しばらく動けなかったが助かったのだ。引き返してきた中で私が一番最後のようであった。殆どの兵士は状況不利と感じ、部落の中に入らず、米も取らずに引き上げたのだった。結局三人が米を取って来ただけで成果は上がらなかった。それよりもここでまた三人の戦友が帰らぬ人となった。
一昨日斥候に一緒に行った中村伍長は気合いの入った鋭敏な下士官で、今日も真っ先に民家に入りかけ階段を四段程上がった時、家の中から小銃で顔面をまともに撃たれ「う、う、う」と言って倒れ、階段をゴロゴロと転げ落ちた。見ると払暁(ふっぎょう)の薄明りの中で、べっとりと赤い血で顔が覆われ、衣服も真っ赤に染まっている。
だが彼は「わしは、もうおしまいだ」「これを頼む、これは、瀬澤中尉の遺品の拳銃だ、持って帰ってくれ、頼むぞ」と言い終わらないうちに、ぐったりとなってしまったということである。上官瀬澤小隊長の遺品をこれ程までに大切に思い、内地の御家族に届けなければならないと責任を感じていたのである。
私は通信班で中隊本部に一時所属していた縁で、中村伍長には特に親しく可愛がってもらっており、また一昨日の斥候に出た時も彼が敵の自動車の音を感知し敏速な対応をしたお陰で、命拾いをしたばかりなのに。その彼が今日はもう帰らぬ人となってしまった。彼を思い心の中を大粒の涙が流れ、運命の変化の大きさにおののいた。
中村国男伍長は中隊本部で、川添曹長の下で、人事のことなど中隊の重要な仕事を手伝っており、将来が大いに嘱望(しょくぼう)されていただけに一層哀れで悲しかった。
この時縄田(なわた)兵長と、もう一人の兵士も、やられたのか逃げられなくなったのか分からないが、帰って来なかった。結局三名が戦死し糧秣はほんの僅かしか徴発(ちょうはつ)できず、大失敗に終わり中隊はすごすごと山へ引き揚げた。糧秣の確保掠奪(りゃくだつ)も死に物狂いで容易ではなかった。
◆女性哀れ
このペグー山系で米が無くなり糧秣収集もうまくいかない頃、看護婦であったか誰であったか知らないが、婦人三名ばかりが、それも兵隊の汚れた服を着て、山道をあえぐように、いや這うようにしていた。泥に汚れ血の気の無い顔をし本当に痛ましい姿である。
「兵隊さんお米がないの、助けて下さい」と哀願したが、我々自身が自分の体を運んで行くことさえできかねていた時でもあり、やっとお粥で飢えを凌いでいた状況で、可哀相(かわいそう)にと思ったが、どうすることもできず別れた。御国のために御奉公をと誓いながらここまで来て、このような哀れな姿になり気の毒で可哀相でならなかった。
その後再び彼女達の姿を見ることはなかった。当時の状況、場所等から、おそらく助かっていないだろう・・・・心が痛む。泥にまみれ垢に汚れ、痩せ衰え、よろめきながら歩いていた女性達の姿を私は一生忘れることができない。戦争、負け戦は苦しく悲惨で悲しいものである。
◆迫撃(はくげき)砲弾(ほうだん)炸裂(さくれつ)
次の日の昼のことである。突如、迫撃砲弾が山の中で樹木に覆われ絶対見えないだろうと遮蔽している我が中隊を目掛けて飛んできた。
正確に弾が落ちてきた。こちらからはどこから撃ってきているのか見当もつかない。迫撃砲弾は放物線(ほうぶつせん)を描いて来るから、見えない向こうの谷から発射し、弾は途中の山を弧を描いてこちらの谷に、斜め上の方から落ちてくることになるのだ。
敵はどうしてこんなに正確に我々が隠れている所が分かるのだろうか。最近飛行機が私達の隠れ場所の上に飛んできたり、偵察飛行に来た様子はないのに、どうしてこんなに正確に撃って来るのか分らない。
まともに砲弾はヒュル〜 ヒュル〜 ヒユル〜と音がして落下しパン パン パンと癇高(かんだか)い音がして炸裂(さくれつ)するのだ。思いがけない攻撃を受け、私はどこへ避難しようかとあわてたが、少し先に五メートル四角ぐらいの大きな岩があり、それが半分に割れており、ちょうど人間が入れる程度の裂目が自然に出来ていたのをあらかじめ見ていたので、とっさに思い出し、その割れ目に滑り込んだ。願ってもない程よい場所で、よほどのことが無い限りこの裂目に弾が落ちて来ることはないと思った。
息つく暇もなく、ヒュル〜 ヒュル〜 ヒュル〜 パン パン パンとひっきりなしの集中攻撃である。ピン ピン ピンと炸裂音が耳の鼓膜(こまく)を襲う。激しい勢いである。土煙と硝煙(しょうえん)の臭いが岩の割れ目に流れてくる。皆はどうしているのだろうか。誰の声もしない、じっと耐えているのだろうか。そのうちの一発がすぐ近くで炸烈した。生きた心地はなく、思わずお守りを持っているかと確かめた。
かすかに「やられた」とか「ううん」と叫ぶ声が聞こえた。約二十分間続いただろうか、迫撃砲の攻撃は終わった。
しかし、私はしばらく岩の間から出ていく気になれなかった。次第に兵士達の声が多く聞かれるようになってから外へ出てみた。その辺りの木の枝は折れ、葉は飛び散り幹も裂かれ、様子が一変していた。
皆のいる所に行ってみると、隣の十一班の班長である山本嘉兵衛兵長が首をやられ一筋の血が流れ出ている。破片が首に入り、「痛い、痛い」と首を押さえている。
私は三角布を出しガーゼで血を拭き、リバノールをガーゼに湿(しめ)しその上を押さえた。大体流れる血は止まったがガーゼに血が滲んで出て来る。私は首だから助からないのではないかと思うし、山本班長自身も首から出る血を見て、助からないと思ったようである。しかし首の中でも致命的な部分から三、四ミリ外れていたのであろう、命を落とさずにすんだのだが、山本班長はこの傷のために以後の転進や行軍で非常に苦労をされたのである。
その傷をかばうため装具や兵器を背負うにも非常に気を使い、傷が化膿(かのう)しないように手当てをしなくてはならない。しかも薬は無く天候は悪いし、疲労して体力は弱っており毎日の行軍で傷は治らない。傷口に蛆(うじ)がわかないようにしなければならず大変だが、彼は終戦の日までよくぞ頑張ってこられた。戦後収容所生活中、いつも首を傾けていたが、そのまま固まったのであろう。
戦後、俘虜(ふりょ)生活中にも、また復員後も、この破片を取り出す手術をしたものかどうかと考えられたようだが、危険な場所なので、不自由ながらそのまま今日まで生活されてきた。
---最近の戦友会の会合の時にも「わしはよう助かったのだ。首をやられ駄目だと思った。転進中蛆虫がわいて多くの人が苦しんだが、俺は幸運だった。皆に助けてもらい感謝する」と言っておられた。
また、この迫撃砲の攻撃で左肺上部を撃ち抜かれた中村上等兵が、ふら〜っ ふら〜っと私達の所へ歩いて来た。顔は蒼白で襦袢(じゅばん)は胸の所に血がべっとりとつきギラギラと光っている。襦袢は次第に大きく血で彩(いろど)られてゆき、我々の所にたどり着くと同時にばったりとうつぶせに倒れた。背中の側にも血が出て、血塗られた襦袢が体にベットリと着いていた。伏せたままで「苦しい、苦しい」と言っている。
我々は、あまりにも大きい負傷のためどうしてよいか分からず唖然とするばかりであった。そこへ志水衛生下士官がきて「皆の携帯する包帯と三角布で傷の所を縛(しば)ってやれ」と怒鳴った。皆で中村上等兵を抱き起こし襦袢をようやく脱がせたが、深い傷が前から背中まで通っているようで、どす黒いどろどろとした血が固まりかけ体中血だらけで呼吸の度に血が滲み出てくる。
私は気持ちが悪くなり、顔をそむけた。志水衛生軍曹が応急の手当をしたがガーゼはすぐに真っ赤に染まってしまった。頭を高くし仰向けに寝かせたが、彼は興奮のため震え、顔は苦痛のため歪(ゆが)んでいた。
「休んでおれ、治るさ」「元気を出すんだ」と志水衛生下士官は大きな声で言い、もう駄目だろうと思っても、駄目だとは決して言わなかった。
中村上等兵は私の隣の班で、古年兵であったが、私の郷里と同じ赤磐郡(あかいわぐん)で旧西山村(現在は山陽町)(記憶が間違っているかも知れないが)の出身だと聞いていただけに、格別親しさを感じていた。血塗られたこの姿に苦しいだろうなあと、気の毒でならなかった。
今でも山陽町のあたりを通ると、一瞬彼のことが脳裏をかすめる。
また、三木兵長と山岡上等兵は先日分捕(ぶんど)ってきた牛を殺して、肉の料理を始めたところを迫撃砲の直撃を受け即死したのである。三木兵長は炊事班の班長として中隊全体の賄(まかな)いを長い間手がけてきたが、中々上手に料理を作り、皆から三木さん三木さんと慕われていた。激戦中は銘々飯盒で炊くのだが、戦況が落ちついている時は三木兵長がまとめて炊事をしてくれたのである。この日も牛をさばくまでは彼の仕事と考え、山岡上等兵の協力を得てやっていたのだが、そこを襲われたのである。
長い間マラリヤに罹(かか)ることもなく元気で、炊事の料理長役で中隊を支えてくれていたのに、砲弾の破片が帽子を貫き右の頭に入っており、あっという間もなく散っていかれたのである。
山岡上等兵も三木兵長と同時に即死したのだが、殺した牛の傍らで、今まで元気だった二人がこのようになってしまい、我々にはどうすることもできない。
三木さん、貴方はその日も、中隊全員に肉の料理を食わせてやろう、衰弱した兵士に少しでも栄養のある牛肉でスタミナをつけてやろうと、一生懸命に炊事班長としての本分を尽くしておられた。その最中の出来事ゆえ、せめても本望であったのではないかと、敢えて慰めの言葉を探して捧げたい。
日焼けした丸顔、前歯の金がよく似合い、大鍋の汁の味見をされていた姿が今も目に浮かんでくる。
野宿の場所も敵に見つかってしまったし、これ以上糧秣収集することはできず、ここにおればおる程、攻撃を受けるだけである。
我が中隊は一刻も早くここを引き払い、師団司令部本隊に合流しなければならない。師団司令部はこの頃ペグー山系の中程に宿営し、他の地点に集結しその方面からシッタン平野に出る予定にしていた。我らの中隊は糧秣を集めるために今の地点に来ていたのだが、山系中程の司令部の所まで引き返し、更に師団司令部が転進した後を追い他の集結地点に行かねばならないのである。そして、その集結地点からシッタン平野に出ることになるのである。
結局我が中隊は山の中を、行ったり来たりで、十日も十五日も余分に歩かなければならないのだが、総て師団からの命令であり仕方のないことである。
◆ペグー山系を引き返す転進命令
手島中隊長から出発の命令が出された。引き返しとは、ペグー山系を東から西に逆に登って行くのだ。夕方からの出発予定を更に早め、ただちに出発となり銘々米を分けて運べるようにしたり、兵器や装具をまとめた。これからもと来た道を山系の真ん中辺りまで引き返し、そこから分かれ、山の中を迂回して他の地点に集結し以後、別ルートをシッタン平野に向けて出るそうだが、十日間もの行軍がまた始まるとのことである。全く、うんざりだ。ああ、またあのぬかるみの道の行軍か、裸足(はだし)の行軍が続くのかと思うと悲壮な気持ちになった。あの死の行軍が続くのかと思っただけでもたまらない。
しかし、今の地点から糧秣収集したシッタン平野に出て、ここを東に通り抜けるには敵の警備が厳重で敵弾にやられることは明々白々だとの上層部の見解と判断だから仕方のないことである。
出発準備ができた。その時、中村上等兵は動けず、歩いてついて行けない。今誰一人として、元気な者はおらず、担架に乗せて運ぶことなど到底考えられぬ。皆自分の体が運べなくて次々に死んでいる状況である。
手島中隊長は、師団そして聯隊長の命令により中隊を指揮していかねばならない。中隊長は「行軍について行けない者は仕方がない」「片岡軍曹はその旨を、中村上等兵に伝えよ」と命令した。片岡邦夫軍曹は中隊長の命令であり、中隊としてもそうしなければならないのだとは分かっていたが、悪い役を仰せつかったものである。
躊躇(ちゅうちょ)する暇はない。中村上等兵が横たわっている所に行って静かに言った。「中隊は再び、山の中に逆戻りし、行軍することになった。これから出発するが、どうするか?」「ついて行けるか?」
しばらく黙っていた中村上等兵は、「ついて行けません」と答え、またしばらく沈黙が続いた。「自分はもう動けない、どうすればよいか教えて下さい」と言った。彼の体は重傷を負い、自分の装具や兵器、自決用の手榴弾を置いている場所まで、取りに行くことさえもできないのだ。
「自分は、決して恨みません。殺して下さい」「その小銃で」と苦しい呼吸の間でやっとこれだけ言った。息詰まる沈黙の時間が続いた。
軍曹は、この小銃で撃ってしまおうか、本人の願いでもあり、中隊長の命令でもありと思ったが、しかし、共に戦ってきた戦友を自分の手で殺すことはできない。いくら助からない命でも、そんなことはできない。できるはずがない。だが、出発の時間を遅らせることはできない。それに敵がいつまた攻撃してくるか分からない。
早くしないと中隊長に叱られる。考えることはない。断あるのみで軍曹は小銃に弾を込めた。しかし、彼の生命を断つことは忍びなかった。
幾ら戦いに明け暮れたために荒(すさ)んだ気持ちになっていても、また、多くの死体を見ていささか人間の温かい感情が麻痺していても、自分の友を手にかけることはできない。
「これに弾を込めたから、自分の足で引き金を引け」といって銃を渡した。中村上等兵は、死ぬ覚悟を十分していたのだろう、もう静かに考える程の余裕も感情も無かったのだろうか。与えられた銃の銃口を顎の下にあてがい、助けを借りて引き金に足の親指を乗せたと思った瞬間、引き金は落ちてしまった。
顎からも口からも血が流れ落ちた。軍曹は銃を取り上げ、そして手を合わせ心から成仏(じょうぶつ)を祈った。それから、右手の親指を切り取りポケットに入れて別れた。中村上等兵の悲壮な気持ち、片岡軍曹の立場、その心境は図り知れないものがある。
中隊長と兵隊との間に立つ下士官の苦労と心痛は大変なものであった。人の情けと勇気と正しい理性を備えた片岡邦夫軍曹も、それから二十日余り後、シッタン河を渡河した地点で戦死されたのだと後日聞いたが、哀れというか残酷というか、戦場はこのように次々と尊い生命を奪い取ってゆくのである。何ということか。
更に出発に当たり、またあの山を登り歩くのかと前途を悲観して三、四名の者が相次いで自決したと聞いた。
後日聞いた話によると、この迫撃砲で小林軍曹が片手の上腕部を引き裂かれ石川軍医が直ちに止血し手術した。麻酔薬も無く、手術が進むにつれ、激痛に耐えかね、「殺してくれ」と叫んだ。森脇衛生下士官が手助けをして、どうにか、励まし励まし手術は終わった。
しかし片腕を切断する大手術を受けた小林分隊長は負傷の重さに耐えきれず、今後の転進ペグー山系の厳しい行軍について行くことは困難だと前途を悲観し「死にたい」「殺してくれ」と叫んでおられた。本当に悲痛な最期が・・・・その様子は語るに忍びないと、終戦後に森脇衛生下士官から聞いた。
その他、迫撃砲弾で軽傷を受けた人も何人かあったようであり、マラリヤで動けなくなったり、砂擦(ず)れで足を痛めてしまったりした人も多かった。そんな中でついてゆけないと判断した人の手榴弾の炸裂(さくれつ)する音が、谷間に何度こだましたことか。
結局、糧秣収集の一週間だけで、一中隊七十人中十三、四人がこの山麓で命を落としたことになり、さしもの気丈夫な手島中隊長も「優秀な下士官、兵士を次々と失った」と慟哭(どうこく)されていた。
シッタン平野をそこにしながら、また山の中に引き返し東から西に向かい坂道を登ったが、だんだん疲労は募るばかりである。敵機に発見されにくい山中なので昼間の行軍だった。二日ばかり歩いた日の小休止の時、私は下痢のため皆の出発に間に合わずほんの五分ぐらい遅れた。追いつこうと一生懸命に歩いたがもう追いつけない。とうとう日が暮れた。落伍してしまったのだ。中隊がまとまって歩くのは早いが、一人で歩くのはどうしても気ままになり遅くなり追いつけない。この山道は細くても一本道だから間違えるはずはないのだが、完全に落伍してしまった。
夕方から激しい雨が降ってきた。一人で木の枝に携帯テントを括(くく)り着け雨を凌いだが、飛沫(しぶき)や漏れる雨でぬれる。火を作ることもできなくて飯をたくことをあきらめ、死んだように眠り一夜を明かした後、朝からまた歩き始めた。一休みしていると、そこへ玉古班長代理と他の小隊の顔見知りの光畑上等兵と中島上等兵が後から追いついてきた。「どうしているのか」と尋ねる。私は「少しのことで落伍して困っている」と答えた。「では、一緒に行こう」と励ましてくれた。この三人は中隊長から「少し遅れて最後尾を守れ」と命令を受け、三時間程出発を遅らせてきたのだ。
後衞尖兵(こうえいせんぺい)を勤めるぐらいだから元気な三人であった。結局私はこの三人に救われたのであった。
このことがなかったならば、私は追及(ついきゅう)できず、必ず死んだであろう。よい人に合流でき勇気を出し歩いて行った。有難いことであり何という幸運な出会いだっただろうか。
しばらく行くと道端に一人の兵隊が休んでいる。我々中隊の神田上等兵である。「どうしたのか」と尋ねると、「いよいよ、動けなくなってしまった」と答えた。小さな焚火(たきび)をしており、そこに飯盒をかけていた。
「元気を出して、一緒に行こうではないか」と勧めたがすぐに返事は返ってこなかった。「一緒に歩くのも苦しいので、しばらく休んでから」と答え、我々と一緒に行動しようとはしなかった。無理に引っ張って行くわけにもいかずそのまま別れた。その後彼はどうなったか?
山道をあえぎあえぎ登り、時々小川を渡るので、下半身はいつも濡れながら転進した。でも、四人だから心強い、この十日余りの行程を落伍して、一人では生きて行けるはずがない。自決か餓死で九十九・九パーセント死んでいたであろう。これこそ私に運があったのだと、しみじみ思う。
道端で小休止すると堪え難い臭いが鼻をつく。近くで人が死んでおり、その屍の腐乱(ふらん)した臭気である。自分も死んだらあんなに腐るのかと思うとやりきれない。玉古班長代理が私に向かって「小田よ、あんな姿にならないように頑張って行こう」と励ましてくれたが、自分に言い聞かせているようでもあった。私も一層、何が何でも頑張らねばならないと心に期した。そう言った彼もまた、半月後には帰らぬ人となる運命だったのだが・・・・
小休止で一度そこへ腰をおろせば、我々は臭(くさ)いにおいがしようとも、動く元気がなくそこで休むのである。少しでも体力を消耗しないように、余分な動作はしなかった。実際は何をしようにも、できない程弱ってしまっているのである。
毎日雨の中の行軍で携帯テントを頭から被っているが、古びた一枚の薄いテント布だけでは役に立たず濡れ鼠(ねずみ)である。凄い雨が叩きつけてくる。痩せこけた体に容赦なく降り注ぐ。雨が頬を濡らすが、時には自分の涙も一緒に流れていたようだ。体温を奪われて寒い。だが熱帯地方だからこれぐらいですんだのだ。もし、寒い地方であったならば、もっと厳しい苦しさだっただろう。
米は濡らしてはいけない。米は靴下に二重に入れ、塩は小さい缶に入れるか飯盒の中盒に入れていたので、どうにか雨に濡らさずに助かった。
殆どの兵士が裸足で脛(すね)から下はいつも濡れており、冷えと下痢の原因となっていた。私は相変わらず耳鳴りがしており、血の小便をしていた。多くの兵士がマラリヤにやられアメイバー赤痢に侵され、疲労困憊(ろうこんぱい)の極みに達し落伍し取り残されていった。
◆ピュー河を渡る
山坂を歩くうちに、シッタン河の支流でペグー山系の中を流れる、幅三十メートルぐらいのピュー河に出た。この十日程前に渡った時は一番深い所で腹の上あたりであったが今日はもっと水嵩(かさ)が増しているようである。今度は引き返すのだから、下流に向かって左岸から右岸へ渡るのだ。降り続く雨で水は濁り、中程は私の背丈ぐらいありそうだ。
渡れないかも知れない、流されるかも知れないと不安だ。水嵩が少なくなるのを待つ訳にはゆかない。一時も早く中隊の本隊に追いつかねばならないし、水はこれから増してくるかも知れない。今、河を渡る決心をするより他に方法がない。
米の入った背嚢や脱いだ衣服等を頭の上に乗せ河に入っていった。だんだん深くなって背の低い私の首までくる。しかも、かなりの強い流れで、体が流されそうになる。流れては大変と、足を強く踏張り前へ進む。足の下は岩だらけでゴツゴツした所があるかと思えば砂の所もあり、足を踏張れば踏張る程、足元の砂が掘れるので、首から顎まで水がきて流されそうになった。頑張った。更に進むと口まできた。体が浮きそうだ、もう駄目だ、浮き上がり流されそうだ。一瞬不安な気持ちがよぎったが、いよいよ駄目なら荷物を捨てて泳げば、弱っていても五メートルや十メートルは泳げると腹を括(くく)った。若い時から多少の泳ぎはできるので最悪の場合の心構えはできていた。だが、そこが一番深い所だった。次第に浅くなり対岸に上がった。やれやれ一難を凌(しの)いだ。
しかし、若干の兵器等はもとの岸に残したままなので、もう一度取りに帰らなければならない。引き返して、ようやく残りの銃などを運び渡り終わることができた。
もしここで、あと三センチ水位が高かったなら、命は助かっても装具一式は流され、間接的にそれが命取りになっていたかも知れない。このピュー河はそれより一時間後には奥地の降雨によって増水したと推測されるが、まさに、間一髪で命拾いをしたのである。ここでも生死の境を越え本当に幸運であった。
余談になるが、私は均整のとれた丈夫な体だが、背丈が高くない。一般的にはそのことが健康とか生命に直接関係することはない。だが、この渡河こそは身長が命を左右することになろうとした数少ない体験である。幸い三センチのことでギリギリ助かったのだ。また一時間そこに到着するのが遅かったならば事態は変わっていただろう。思うだけでも恐ろしい。
ピュー河を渡った所で大休止することにした。そこに竹を四本突き立てて、木の葉で屋根を作ったお粗末な雨しのぎの小屋が二つあった。夜中に雨が降ってもよいし、露天よりは有難い。新しく作る元気もないし、元気であっても作業は一時間はかかるだろうし大変なので、早速四人は喜んでその一つに入った。
しかし、そこにはお客さんの屍が二体あった。いずれも死んでから日数がたっていないのか、形もはっきりしていた。
まだ臭いもかすかであった。
外に運び出した。いくらお粗末でも小屋は小屋、有難く泊まることとして、濡れた衣服を焚火で乾かし、少しの米を炊いて食べた。
このように死人の近くに並んで寝ることも、次第に麻痺したのだろうか、あまり怖くなくなり当たり前のことになりだした。それよりもなるべくエネルギーを使わないように心掛けるのが生き延びる手段である。不要な労力を費やさないようにし、体をいたわらねばならない。
河の岸辺に馬が死んでいた。内地から運ばれてきた馬だ、可哀相に。誰の乗馬であったか、どこの部隊の輓馬であったか知らないが、もう腐って、河岸の砂の上に屍をさらしている。異様な臭いがする。馬は大きいだけに臭いも激しく、範囲も広くなる。もうこの頃は兵隊が死んでも馬が死んでも、穴を掘って埋めるにも道具一つなく、兵士にそれをする元気も体力も無くなり、残念だが、もう行き当たりばったり死体はそのまま放置される有様であった。
この馬もここまで来るには随分苦労をしたことだろう。人間が食べる物がないぐらいだから馬が食べる物は無く、酷暑の中で作業に従事し、我が軍のために尽くし犠牲になったのだ。このぬかるみの道を人を乗せ、荷物を乗せて歩いて来たのだ。どんなに苦しかったか、どんなに悲しかったか。馬は涙を出さないし言葉は言えないが、心はあるのだ。人間と同じような心を持っているのだ。
馬といえども、平和な内地の自然と愛情に満ちた飼い主のことを、懐かしく思い出し、郷里に帰り楽しい生活、馬として平穏な生き方をしたいと思ったのではなかろうか。馬は賢い動物であるだけに、悲しみながら苦しみながら、死んでいったことだろう。ビルマに渡った何千何万という馬は殆ど全部が、このような状況で死んでいったのだ。可哀相に異境の果てで戦争の犠牲になった馬達を心を込めて弔らってやらなければすまないと思う。
◇屍が道標(みちしるべ)
◆白骨街道を行く
本隊に追いつこうと毎日歩くがなかなか追いつけない。この山道を早い部隊は一ヵ月も前に転進し、十日前に通った部隊もあり様々である。我が手島中隊は半日ほど前に通ったはずである。
そのことを示すようにいろいろの屍が残されている。一ヵ月以前のものは白骨となっており、もう臭気も薄らいでいる。蝿は食べる部分を食い尽くしたのだろうか、もう一匹もいない。虚しさを感じる。「夏草や兵どもが夢の跡」の句を思いだす。
一週間程前の屍は非常に臭く何とも形容できない臭さである。どす黒い汁が流れ出ており見られたものではない。屍によっては黒い大型のピカピカ光った蝿(はえ)が群がっており、黒い大きな固まりがそこにあるように見える。蛆(うじ)がわき、ぞろぞろと、腐った肉を食べているのだろうか這(は)い回っている。気持ちが悪く視線をそらす。
自然で一応清潔な山の中なのにどうしてこんなに沢山の蝿がいるのだろうか?最初は不思議に感じたが、蝿の好む腐れかけの肉があれば旺盛な繁殖力で一気に増えるようだ。
屍、それは尊い命であり、日本軍の兵士の姿なのである。歓呼の声に送られて出征し頼もしかったその人なのである。あまりにも酷い姿であり、あまりにも悲惨な姿である。
半日前とか一時間程前に息を引き取ったのは、道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。そのかたわらに飯盒と水筒は大抵(たいてい)置いている。また、ガスが屍に充満し牛の腹のように膨れているのも見た。地獄とは、まさにこんなところか。その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。それをたどって行けば細い道でも、迷わず先行部隊の行った方向が分かり行けるのだ。皆これを白骨街道と呼んだ。
この道標(みちしるべ)を頼りに歩いた。ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。
雨があがり晴れれば、さすがに熱帯、強い太陽が照りつける。暑い、衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。
米はどうにか食い繋いでいるが塩がない。ここ何日か全然塩分をとっていない。塩分不足のためか、体がだら〜っとした感じでピリッとしたところがない。今までに経験したことのない気怠(けだる)さである。食物不足と疲労だけでない何か別の、ぼんやりして体がなまけたような感覚の苦しさである。自分自身塩分不足と感じた。しかし、塩はどこにも無い。暑いので汗が出た。その出た汗を舐(な)めた。少しでも塩分不足を補うために。体を守るためにいろいろ考えやってみる、これが戦地であり窮地に活路を見出す方法であろう。だがそんなことでは、塩分不足はどうにもならず気怠さが続く。
ところで、相変わらず裸足のままで歩いているが、数日前、糧抹収集に行った時、砂の小川を気持ちよく歩いたが、砂でふやけた足の皮が剥(は)がれ赤裸(あかはだか)になり、ザラザラという表現がよいのかも知れないが、痛いこと痛いこと大変な痛さである。粘くても軟らかい土はよいが砂が悪かった。足の甲あたりの皮膚がむけて痛く、砂・む・け・である。ザラザラで赤裸の足の皮膚である。これは、なった人でないとその苦痛は分からないが、なかなか治らない。そんな時、誰かが豚か鶏の油を塗ればよいと言い出した。何とか油身をもらってきて暇がある度に塗った。これは、痛さを和らげよい治療になった。有難いことであった。兵士達はいろんな知恵を出すものである。
◆私の体調
前にも書いたが私の耳鳴りは続いており、立って歩いている間はいつも脈拍と共にドッキン ドッキン ドツキン と響いており、休憩して横に寝るとその間だけドッキン ドッキン が止まるが、何とも言えない気持ちの悪い苦しさであり、聴力も次第に衰えたようだ。
それに大きな声も出せず、ぼそぼそと弱い声しか出ない。声帯が疲労してしまっているせいか、肺から出る空気の圧力が乏しいためなのか、瀕死(ひんし)の患者が細く弱い声しか出せないのと同じである。力んでみても、ハキ ハキ とした声にならない。
いつの頃からか分からないが両眼とも視力が次第に衰え、真正面が薄暗くしか見えない。上下左右は明るく普通に見えるが、足元が見にくく歩きにくい。恐らく栄養失調と体力減退によるのだろうが次第にその程度が進んでくる。
この頃から小便の終りに、血が赤い雫(しずく)となりポタリ、ポタリと落ちジーンと沁みる。小便中も血が交(ま)ざっているのだろうが見えないだけであろう。弱り果てた体からさらに血が外に出ているので心配だ。おそらく、毎日水に浸かり下半身が冷えているせいか。膀胱炎(ぼうこうえん)だろう。
下痢のことは度々述べたが、絞るような粘液の下痢が続いた。食べていなくても排泄があるということは、体内に蓄えられている成分が体外へ放出されていることになる。下痢は止まったり始まったりの繰り返しである。これによる体力の消耗は激しく、相変わらず一日数回の下痢。お尻をふく紙など無くなって久しい。木の葉を選んでそれで間にあわせる。気持ちが悪いが他に方法がない。この頃は便といっても便らしい便でなくズルズルした物であった。
軍隊では皆んな褌(ふんどし)だがその頃私はその褌も汚れてしまい、予備も無くスットコで軍袴(ぐんこ)(ズボン)をはいているだけであり、それも垢だらけになり、時には便もくっついて汚れに汚れた物であった。その軍袴は雨や水に濡れて腐り、それを火に当てて乾かすのだから、焦げて痛み破れ始めており、裏の縫い目にはシラミが一杯鈴なりに着いておりギラギラ光っていたが、そんな服で体を包んでいた。このように下痢はしていたが悪性のものではなく助かった。
またマラリヤらしい熱が出たり、引いたりしていたがこの頃は、特別激しい悪性のものではなく、かろうじて持ちこたえていた。タンガップでかかったような激しいものだったなら、死の道へ直行していただろうが、いつもすれすれに死の淵(ふち)を通り抜け不思議に助かった。
重い荷物はだいぶ処分していたが、痩せ衰えた肩に背嚢が食い込む。だが小銃だけは持っていた。手が神経痛になり疼(うず)き、麻痺してしまい両腕とも水平より上に挙がらなくなってしまった。もちろん腕の力も無くなり、だらりとぶらさがっている状態である。横目で自分の肩を見るとポキポキと、骨が突き立っているようであった。裸になって自分の胸のあたりを注意して見る暇も余力もないが、どうも肋骨が筋になっており痩せているようだ。そう感じると、心も傷つき弱く弱くなってくるようだ。
だが、自分の命を保ち体を運び、皆に遅れないように歩かなければならない、それが精一杯で自分の体を点検する余裕も、気力も、無いのである。
戦友をよく見ると、頭髪と髭(ひげ)が長く伸び放題で顔は土色で垢に汚れており、それも相当な汚れかたである。若い勇士の顔ではない。顔を洗う暇も元気もないのだ。自分自身の顔は見えないが、同じように汚く痛んでいるはずで、もし自分の顔を鏡に写して見えたとしたら、びっくりしてしまったことだろう。毎日雨に濡れ川を渡り、すぐそこに水が沢山ありながら、皮肉なことに顔を洗うゆとりがなく、ただ生きるために必死なのである。
もちろん水浴するような暇と体力は既に無く、もう二ヵ月も三ヵ月も着たままで体中垢だらけである。先日ピュー河を裸で渡ったが、それは渡るために裸になっただけで、顔や体を洗ったり点検することはしなかった。そのような心の余裕と体力は既になかった。
裸足で砂・む・け・の足をかばいながら歩く。足を傷つけてはいけない。傷つけて化膿でもすれば命取りになる。幸いビルマはきめの細かい土の所が多く、小石や割れた石がなく助かった。昼は足元が見えるが、暗闇の中を裸足で歩くのは、並み大抵の苦労ではなかった。
この頃のことであるが私にとり悲しいことが起きた。前に述べたように、私の班長は寺本班長で、ビルマに到着してから半年程で他の聯隊に転属(てんぞく)になり、その後戦死された。次に戸部兵長が班長をしていたが、この方も敵の陣地攻撃の時戦死され、その後、玉古兵長が班長代理をしていた。
私はこれらの方に終始気に入られ可愛がって頂いていた。入隊以来、上下関係や戦友関係で辛いと思ったことはなく、特に玉古兵長には「小田よ」「小田よ」と言って大事にしてもらっていたのに、ある時急に「馬鹿野郎!」「小田お前はこの頃、何をやらせても動作が遅く、ハキハキしない。隣の班の白髪上等兵等よくやっているではないか、シャンとせい、早くやらんか」と大きな声で叱られた。白髪上等兵は私と同期である。
当時、叱られるのは当然なのだ。悲しいが思うように動けない。今まで信頼してもらっていた先輩上司の信頼を失ったことは、大変悲しく辛い。人間は信頼が最も大切なのに。しかし、残念だが体がどうにも動かない。彼に叱られたことは私には大きなショックで非常に悲しいことであった。
後になってみれば、この頃玉古兵長自身も疲労しており、思うように何事もできず焦っていたのだろう、無理からぬことである。私はこうして気合いを入れられ奮起して頑張った。それが結果的には命を繋ぐ助けとなり、すべてについて彼に有難く感謝している。
体調と言えば生命には直接関係ない軽易な事だが、転進作戦に入る前のタンガップにいた時のことである。ビ・ル・マ・か・い・せ・ん・という風土病の皮膚病にかかり、全身、特に手足一杯にできものができて苦しんだ。親指で押さえたぐらいの大きさだが、無数にできた。片腕に十個ぐらい、片足に十個ぐらい、なぜか顔と頭それに胴体部分には出なかった。痒(かゆ)いこと、痛いこと、できものだから膿(うみ)が出て汚い。数が多いし所構わずだから、包帯の仕様もない。
それらは手の指や足の甲や、男性のシンボルの先端にまで出来、誠に始末が悪い。痒く痛く汁が出てくる。男性ならばおよそどんな様子か想像できるだろうが、深刻で笑いどころではない。石川軍医に見てもらい、薬をもらって約二ヵ月苦しみやっと治った。五十二年経過した今もその痕跡が太股当たりに、薄く残っている。私は幸い戦争による負傷は無いが、このビルマか・い・せ・ん・の痕が当時の戦線の証拠と言えようか。
◆雨中の宿営
晴れの日もあるが、雨に濡れながら歩き、やっと日暮れになり宿る所を探す。なるべく先行部隊がたむろした所で、焚火をし火の気の残っている所、そして一メートル四方でも木の葉で覆いをした場所があればそこにもぐり込んで休むのだが、それは、運がよい場合である。
大抵の場合は地面にごろ寝である。雨が降っているときは竹を背丈ぐらいの長さに切り三、四本並べ、その上に寝転び直接濡れた地面が背中に当らないようにし、装具を枕にし破れかけた携帯テントを体にかけて横たわるのだ。雨が滲み込むので、野生の草や、木の葉で大きいものがあれば、それを携帯テントの上に置き覆うのである。
それでも激しい雨が夜中に降ると、体に巻き付けた携帯テントを通して雨が透つて濡れるし、下からは並べた竹の上まで水が流れてきて浸かり、背中が濡れてくるので起きないわけにはゆかない。熱帯地方といっても、真夜中に背中まで雨に濡れると寒い。
明りが一つもないので地面がどうなっているのか分からない。どんな降り方をしているのか知れないが頭から被った携帯テントを雨が叩き雫が頬を流れる。雨は瀕死(ひんし)の兵士に降りかかり、これでもかこれでもかと苦しめる。
前に通り過ぎた部隊が火の気を残している場合は稀で、大勢の部隊ならマッチを所持する者もいるが、四人や五人ではマツチはもう持っていない。器用な兵隊が布で縄(なわ)を編んで火縄を作り携行していた。それも雨にあい長くはもたなかった。
何とか発火する物を持っていても、燃やし始めになる紙一枚も無い。雨の山中ではグッショリ濡れた竹や木しかない。生の木や竹の密林である。小雨も降っている。
火を燃やし付けるのには困った。しかし窮すれば通じ、人間は考える。生きるために誰かが何かをやる。青い竹の表面の皮の部分を剥ぎ、これを擦って乾かし、細かく割って燃えつきやすい細さにする。竹の表面の皮は湿っていないし、いくらか油気があるので苦労はするが案外燃え始めやすい。だんだん大きい火にし水筒で湯を沸かし、煙に咽(むせ)びながら僅かな米を粥にする。
この頃、ひもじさを癒(いや)すに十分な物はなく飢餓の状態が続いた。私達四名は中隊主力より遅れ、半ば落伍しかかりながら、いよいよしんがりを行った。そんなある日そこらあたりに、馬の蹄(ひずめ)が二個転んでいた。先行した友軍が死んだ馬を心ならずも、処分したのだろう。食べられない蹄のみが捨てられてあった。日にちがたっていたが、蹄だから腐っておらず、何とか食べられないものかと、思案の末、時間をかけて刻んだり削ったりして飯盒に入れて煮た。更によく煮た。塩がなく味がなかったが、少しでも動物性蛋白源になればと思いガツガツと噛み砕いて食べた。そのために下痢が激しくなることはなかった。また、それを食べたためにどれだけ生き長らえたか、どれだけ体力の維持に役立ったかも分からないが・・・・
◆命を支えた二合の米
ペグー山系を行ったり引き返したりしているうちに、日にちの経過とともに、お粥で我慢していたのが、遂に一握りの米も無くなってしまった。夕方露営の地に着いたが、私には炊飯すべき米がない。他の兵隊達はそれぞれに持ち合わせに応じて米を加減し飯や粥を炊いた。私は、仕方なく筍と木の新芽を煮た。食事が始まると中島上等兵が「小田、米がないのか、これを食え」といって、二匙(さじ)、三匙のお粥をくれた。その後で、彼は「小田、米が無いのか、俺は少々持っているから、お前の持っている象牙(ぞうげ)の印材と物々交換しょうではないか?」と言いだした。元々彼は力持ちであり、最初から沢山の米を背負っており、実際「まだ二升ぐらいは持っているから大丈夫だ」と言った。
私のこの象牙は、昨年ラングーに無線技術教育を受けに行ったとき、財布をはたいて買った宝物で、米三十キロにも相当する値段で内地に凱旋する時に持って帰ろうと考えていた大切な物であった。しかし、命には替えられないと判断して、二合(三百グラム)の米と交換した。
彼は私を可哀相に思い、いくらか象牙に関心もあった。私は生きるために米が絶対に必要であったから、この交換ができた。受け取った米を背嚢にしまった。だが、腹が減っていたので、早速、少しを炊いて食べた。美味しかった。身体が暖まり息を吹き返した。この二合の米が二、三日間の命を繋いでくれた。この二合が無かったならどうなっていたか、生命をこの頃落としていただろう。米を沢山持っていた中島上等兵が一緒におり、私の命を助けてくれたのだ。これも誠に幸運である。
七月十九日までにペグー山系の最後の集結地に集まるように命令が出ていることを誰からともなく聞いていたので、一生懸命に歩いた。急がなくては間に合わない。我々四人は、いよいよ最後尾で中隊本部を追いかけて行った。白骨の道標に沿うて裸足で歩き続けた。
◆落伍しながらもたどり着く
さきに象牙の印材と交換した二合の米を、少しずつ粥に炊いて、食い延ばしながら毎日歩いた。
しかしそれも無くなってしまった。みんな弱っていたが、少し元気な玉古班長代理と中島上等兵が先に行き、一人の兵隊と私が更に遅れてしまった。
とうとうその夜は二人きりになってしまい、マッチも火の気も持っておらず、炊くべき一粒の米も無いので、そのまま雨に濡れた地面に倒れるように横になり眠った。幸いその夜は雨が降らず夜が明けた。
朝になりトボトボと杖に縋(すが)りながら歩いて行くと、火を燃やした跡に僅かに火の気が残っていた。そこで一休みし、湯を沸かして飲んだ。少しでも食べていないと今夜が危ぶまれるが、食べる物がない。力なく二人で励まし合い歩いた。「もうあと五百メートル先が集結地点のようだ」と道端にごろりと寝ている兵隊が教えてくれた。そう言えば、その向うに大勢の人の気配を感じる。最後の力を出して歩き、やっとのことで師団司令部などの本隊に追いつくことができた。
決められた集結日の午前中にどうにか、輜重聯隊の手島中隊長配下の自分の班にたどりついてみると、私が遅れていたその十日程の間に、戦友達も途中で落伍して中隊の人数は更に減ってしまっていた。そこにいる者も悄然として衰弱しきっている。
午前中は筏(いかだ)にする竹を切り出すことになり、直径二十センチ長さ二メートル余りの太く大きな筒一本を各自切ってきた。シッタン河を渡るには竹を組んで筏を作り浮きにして、四人ぐらいが組になり筏に掴(つか)まって泳がなければならないので、竹の筒が是非必要である。疲労困憊(こんぱい)し食べるものがなく、足元はふらつき、弱い細い声しか出ないし汗も出ない状態であったが、その体に鞭打ち、やっと竹を取ってきて筒を準備した。
「夕方五時から下山行動開始」との連絡があった。山を下りて平野に出れば何か食う物があるだろう。それまでもう半日の辛抱だが、命が続くだろうか? ひもじいひもじい、少しでも腹に入れておきたいが何もない。耳鳴りが一層激しくなるうえに、体は寒さを感じる。
たまたま、平井兵長が黒く煎(い)った籾を持っていた。私は彼にねだって、一握り足らずをもらった。これは、籾を飯盒の蓋に入れて、火にかけ煎(い)ったもので、殻(から)が黒く焦げたものである。
田舎育ちの私は、玄米の屑米(くずまい)を鍋に入れて煎り「焼き米」にしておやつの代わりに食べたことはあるが、焼いた籾を食べるのはこれが始めてで、普通では食べられるようなものではなかった。
しかし今は違う、焼けた籾の一粒一粒を噛み砕いてガシガシと食べた。籾の焼けた苦みが味となっていた。湿りがこない間はポロポロ砕けるが、湿ると砕けにくく、籾のガサガサした外の殻が喉に引っ掛かりそうだ。しかし、この黒く焼いた籾の百粒ばかりで、幾らかのエネルギーが蓄えられたように思われた。涙が出る程有難く平井兵長に感謝した。
考えてみると、十日間もの間、本隊から遅れながらも、一緒に行動したからこそ本隊に追い付くことができ、下山の日にどうにか間に合ったのだ。一人で落伍しておれば絶対に本隊に追い付くことが出来なかったはずである。もし出発時間に遅れて到着したらペグー山系の中に取り残されてしまっただろう。誠に奇跡的な幸運に恵まれたのだ。一緒に助け合って行動した戦友に感謝の言葉もない。

九 敵中突破
◇マンダレー街道と鉄道突破
◆闇夜の中を
夕方前に集結地を出発した。何千人何万人もの死体と落伍者を残し、地獄のペグー山系と別れた。
みんな、あまり装具も兵器も持っていなかった。私は三ヵ月にわたる死の行軍で、小銃も無くしており、持ち物は帯剣と自決用の手榴弾と、空の背嚢、その中に空の飯盒があり、水筒をぶらさげているだけであった。
筏を組むために用意した青竹はかなり重いが、それをかついで山を下った。平地に出た頃には日は暮れており一回小休止をした。
「間もなく街道と鉄道を横切るが、音を出さないように静かに素早く渡るのだぞ」と改めて注意がなされた。
闇夜の中を歩いた。平原の中、小川の中、田んぼの畔(あぜ)の上を滑り滑りよろめきながら歩いた。水が一面溜まった水田の中をも横切り歩いた。誰もものを言わないで、前の人に遅れると道が分からなくなるので一生懸命に歩いた。
なかなか道路も鉄道も現われてこない。原野の中の道無き道を、ひたすら西から東へ向かって歩き続けた。
どの部隊が、どのような順序で撤退しているのか分からないが、千人余りが私達と同じ梯団(ていだん)を組み師団司令部も一緒であった。
小川を渡る時は腰まで浸(つ)かり、畔(あぜ)を歩くと小さな刺(とげ)の草が裸足にチクチクと刺さり痛かったが、野いちごの刺のように固い物でなくて我慢できた。ぬるぬるの土の上は滑りやすく、暗闇の中に転んだ者もいた。しかし、軟らかい土の上を裸足で歩くのだから、多人数であっても足音を立てずに進むことができた。数時間も休みなく歩きに歩いた。
疲労衰弱した兵士達は喘(あえ)ぎ喘ぎ、ゴチャゴチヤになりながら歩いた。我々の中隊も一丁の重機関銃を銃身と脚に分解し、重いので交替しながら担(かつ)いで行った。私も銃身を担いだ。歩くことがやっとの自分には、五十キロもある銃身は大変な重さである。闇の中を一緒になったり、バラバラになったり取りはぐれたり、よろめきながら歩いた。
三メートル程の溝を渡り土手を上がると、そこに舗装した道路が横に伸びていて一気に横切った。幅約十メートルのマンダレー街道である。続いてマンダレー鉄道をも踏み越えた。感激の一瞬である。しかし立ち止まり感傷にふける時間はなかった。
一刻も早くその地点を離れる必要があった。この幹線は敵の支配下にあり敵が厳重に警備しているラインである。昼間は敵の機動部隊が頻繁に行き来しているので、我が軍は警備の薄い夜、闇に紛(まぎ)れ鼠(ねずみ)のように越えるしかないのである。後日、輜重隊の記録によると二十年七月二十一日午前二時と記されている。
横切り終わると一層速度を早め、田んぼの畔道を東へ東へと突き進んだ。真っ暗闇の中を、前の人に遅れまいとして歩いた。誰がどこを行っているのか全く分からない。直ぐ前を行く兵士の姿のみが頼りであった。
畔を歩いていると畑があった。暗いのでよく分からないが、どうやら砂糖きび畑らしい。急いで一本折ってみると砂糖きびだ。皮を剥(む)いて噛(か)むと甘い汁が口の中を潤してくれる。美味しい、むさぼるように汁を吸った。腹の空いた体に沁み通るようであった。二、三本食べた。重い竹の筒を持ち、歩き歩き食べるのだから、落ち着かないし前を行く人を見失ってはいけない。砂糖きび畑も終わった。
うねうねと曲がった畔を、小休止もせず歩き続けた。もうマンダレー街道を横断してから三〜四時間たっただろうか、夜が明けはじめた。それでも辛抱強く道無き道を東へ向かって進んだ。
こんもりと木の茂った部落に到着した。百軒程の村が田んぼの中にぽつんとあった。部落に入るや米と塩を探した。部落の現地人は驚いた様子で、全く予知しない出来事であったため、逃げるにも逃げられず、抵抗することは無駄であり、親切にしてよいものか、英印軍に知らすべきか否かと迷った様子であった。日本軍が直接ビルマ人に危害は与えないと分かっていても、ろうばいしていた。
その内、ビルマ人は部落の外に逃げて行った。我々は米を手に入れ、早速飯を炊き久し振りにご飯らしいものを食べた。私は玄米しか手に入れることができず、それをよく煮て食べた。玄米だから消化がよくないだろうと思い、よく咀嚼(そしゃく)して食べた。長い間飢えに苦しんでいたので、腹一杯食べた。やれやれ一眠りしようかなと思った時、敵が砲撃をしてきた。
これ以上部落内にいることは危険だと判断し野原に出た。大平原には大きい木もなく、遮蔽物がなかった。我が軍はクモの子を散らしたようにばらばらに散って逃げた。敵の射つ弾丸があちらこちらで炸裂した。しかし、大事に至らないうちに夜の帳(とばり)に包まれ、長い一日が終わった。
分かれ分かれになっていたが、いつとはなしに集まり、中隊はまとまった。昼間は行動ができないので、その日もまた夜道を歩き始めた。一晩中歩いたが夜が明けてみると、元の所に舞い戻っていた。「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」といったところで、ビルマの荒野の中ではいろいろのことが起きる。ブツブツ言っても仕方がない。弱りきった体は余計に疲労するだけである。これも戦争だ。
またも下痢が始まった。玄米を食べたのがいけなかった。長い間ろくに食べていないのに、一気に米のご飯を食べたので、胃腸がついてゆけず下痢となった。下痢が以後も長く続き私を苦しめた。
今夜も夕方から行動を開始し、闇の中シッタン平野を東の方向に歩いた。夜明けに小さい農村にたどりついた。やれやれ大休止だと思い、地面に身体を横たえた。この部落よりシッタン河までは、後三日の行程らしいと聞いた。
◆重機関銃(じゅうきかんじゅう)を収容(しゅうよう)に行くが
その時中隊長から、「伊多(いだ)軍曹と小田、長代(ながしろ)、米田(よねだ)の兵隊三名は、三日前マンダレー街道を横断した際、所在不明になった兵士と重機関銃を助け収容(しゅうよう)してこい」との命令を受けた。「必死の覚悟で捜(さが)し助けてこい」と念を押された。大変なことである。
重機が取りはぐれたのは三日も前のことであり、夜々(よるよる)歩いて来たので道は分からない。分かるのはここより西の方角ということだけである。しかし中隊長にしてみれば、師団司令部から預かった大事な重機関銃を無くしたとなると、幾ら状況が悪いといっても責任を感じることは当然で、この「収容命令」となったのである。丸山班長以下五、六名が取り残されているので、助けてこなければならない。考えてみると、丸山班長以下全員が責任感強く、重機関銃を運ぶために中隊についてこれなくなってしまったのである。それほど重機は重かったのである。
伊多(いだ)軍曹は大変困難なことと思ったが、返す言葉もなく命じられたとおり「行ってきます、ただ今出発します」と答えた。伊多軍曹は三人の兵隊に対し、「我々は生きて中隊に追及できないと思う。ここに一握り砂糖がある。お前達よく味わっておけ」と言って砂糖を少しずつ分けてくれた。この砂糖は昨日か一昨日部落で、せしめたのだろうが貴重品である。
私も決死の覚悟をした。西の方角に向かって出発、とにかく西の方へ草原を歩いた。ある地点で小休止をしたところ、一度休んでしまうと体の自由がきかなくなり、草むらの中に寝込んでしまった。目を覚ますと真昼になっており、太陽が上から照りつける。背丈程の草むらの中だが、日陰が無いので、暑くてたまらない。敵の飛行機が三機飛来してきた。私達は見つからないかと心配したが飛行機は、上空を飛んで旋回(せんかい)し向こうに見える部落を攻撃した。間もなく火の手が上がった。雨期の間でも今日はよく晴れた日で、空には雲一つなく、西には先日まで我々が苦闘した痛恨(つうこん)のペグー山脈が見え、東は果てしなくペグー平地が続き、遥か遠くにシャン高原が見える。
夕方になり目指す西の方向に歩きはじめたが、日が暮れ方向も定まらず、道も分からないので田んぼの中の民家に入り休んだ。飯盒で飯を炊き食べ、弱った体を休めるため眠った。野宿と違い幾ら粗末な家でも、家の中は有難い。それに薪は家の一部を壊せばすぐに間に合うので簡単に炊事ができた。濡れた衣服も乾かすことができて助かった。
翌日も、当てのないことだが、とにかくマンダレー街道の方向を目指し四人で歩いた。雨期の最中だからどこも水びたしで腰を下ろして休む所がない。それに私は下痢をしているので、余計に苦しい。
その時、前方に小さな部落があり、そのとっかかりに寺院があり、その端に二階建てのハウスが目についた。そこに行って休もうと畔道(あぜみち)を伝って進んで行き、もう後五十メートルぐらいまで近づいた時、そのハウスから「パン」「パン」「パン」と突然銃撃してきた。田んぼの水面に弾が当たり水しぶきを上げた。思いもかけないことでびっくりした。
四人の前後左右に弾丸が飛んできた。三丁ぐらいの小銃で狙い射ってくる。とっさに水田の中に身を伏せた。広い水田の真っ只中(ただなか)で遮蔽物は何もない。
我々四人の姿は相手から丸見えだ。いつまでも伏せしている訳には行かない。お互は、めいめい勝手に立ち上がり田んぼの中を走って逃げた。走るといっても水田の中は走れるものではない。
それに敵から真っすぐ逃げたのでは照準(しょうじゅん)にされるので、ジグザグに逃げては伏せ、伏せては逃げ、息の続く限り走った。我々を敵弾が追ってきて水面に「パッ」「パッ」「パッ」と飛沫(しぶき)を上げた。
水面に伏せたり、ジグザグに逃げたりして、敵から四百メートル程離れ一息ついた。幸い誰にも弾が当たらなかった。だが全身水浸しで泥だらけである。背嚢の中まで濡れていた。敵といっても、現地人だろうから、鉄砲の扱い方が上手でなく、我々をもっと引きつけておいてから射ってきていたら、誰かがやられていただろう。彼等も怖かったので早い内から撃ってきたので私達は助かったのだ。ここでも泥んこになりながらも、紙一重スレスレで命拾いをしたのだ。
次の日も天気だったので夕方まで灌木の茂みに体を隠して休んだ。夜になり方向が分からないので、あばら小屋を見付け潜(もぐ)り込んだ。
昼間は敵に見つかるので行動しにくいし、夜は道が全然分からない。疲れ切っているので行動が緩慢で体が動かない。重機収容の任務を帯びているが如何(いかん)ともしがたい。悶々(もんもん)の内に二日三日四日が過ぎて行く。師団司令部や私達の一中隊はシッタン河へ向かって前進しただろう。そんなことを思うと、早く中隊へ追い付かないとシッタン平野に取り残されてしまうことになる。この平野は敵の勢力下にあり動くことも容易ではないのだ。
重機関銃はどうしても見つからない。仕方なく中隊へ追いつくことにした。シッタン平野に下りてからは、米にありつけ塩やガピー等も徴発(ちょうはつ)することができたので、体力も少し回復しつつあった。しかし私は玄米を食べて以来下痢(げり)が続き、一日に幾度も排便するので体調が良いとは言えなかった。焚火の後の炭を下痢止めと思いガシガシと噛んで食べた。
次の日は朝から本隊に追いつくべく東に向かって歩いた。だが、本隊は既に東へ移動し、シッタン河手前二キロの地点に行っていた。月明りの夜遅く師団がたむろしている付近まで追い付いた。これでやれやれひとまず安心だ。シッタン河の手前に取り残されることはないと思った。
翌朝中隊長に重機収容ができないまま復帰したことを告げた。叱られはしなかった。この責任を負わされた伊多軍曹は、それまでに、ペグー山系で迫撃砲弾で頭を負傷し包帯をしていたのに、重い任務を果さなければならない心境はいかがだっただろうか。一兵卒の私とは責任の度合いが違うが、よく判断され、的確な措置を取られたことと感心した。さすが優秀な下士官だと思った。
その後、私は自分の十二班に帰った。帰るといっても散り散りばらばらで誰もいなく、道端で力なくたたずんでいた。
◆玉古班長との別れ
そこへ溝口指揮班長が来て「あそこで玉古(たまご)班長が死んでいるから行ってみよ」と指示された。
遺骨を収拾して葬ってやれとの意味である。
玉古兵長は貧しい民家の中、その片隅の押入れのような所で壁にもたれかかるようにして死んでいた。触ってみるとまだ温もりが残っていた。一週間程前には私は彼と一緒に四人で行動し、彼が引っ張ってくれたからこそ私はペグー山系を歩き通せ助かったのに。私にとって命の恩人がこんなことになってしまった!
思い返せば、私が青野ヵ原に転属した時から「小田よ」 「小田よ」と言って可愛がってくれ、何かと感化を受けていたのに。軍隊では先任の古年兵に好意を持ってもらえることは、特に嬉しく有難いことだった。思い出は尽きないが、今は感傷にふける間はなく、何とかしなければならなかった。
自分もヘトヘトだったが私一人だけである。農家に鍬(くわ)があったので庭先に穴を掘った。土は黒い色をしており雨期でもあり、軟らかくて掘り易かったが、体力が無いので深くは掘れなかった。穴を堀り終えると家に入り彼を抱きかかえ自分の背中に背負った。薄い肌着を通して彼の冷たくなりかけた体が、私の背中にべったりと覆いかぶさってきた。
死人を背負うのはむずかしい。死人は手を貸してくれないから背負いにくかったが、彼は小柄で痩せていたので、どうにか背負って外に出て穴まで運んだ。できるだけ大切にし滑らかに優しく穴に入れようとしたが、私に力が無いので、ぎこちなくドタリと音がして穴に入った。生きた人ならこんな落ち方はしないが、もう一つの物体なのである。丁寧に土を被(かぶ)せて合掌した。疲労しきった自分にはそれだけのことしかできなかったが、悔いは残らなかった。
---その時のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついており忘れられない。私と関係の深かった玉古源吉班長の最期のお世話ができ、いささかでも御恩に報いることができたと思って御冥福を心よりお祈りする。この文章を書いている今も、玉古班長が機敏に動かれていた姿や、額(ひたい)が広く、冴えた目元の顔が思い出されてならない。また彼は大工さんで、頭もきれるタイプで、我々の住む小屋を建てる時にも大いに活躍し、機関銃手としてもよく任務を果たされ、我が班で無くてはならない重要な人であったことを思いだす。
私の属する十二班の歴代班長がこのように次々に去ってゆかれ悲しく、残念至極である。
◆血に染まったシッタン平野
重機関銃収容に行った私達四人は田んぼの中で敵に射たれた時に、筏にする竹の筒を無くしたので、それに替わる物を作らなければならなかった。
それがなければシッタン河は渡れないのだ。この辺りには竹薮がないので、ビルマ人の家を壊しその材料の竹を取り出し何本かまとめて筏を作るのだが、古い竹で割れたのもあり細くて頼りないものだった。それを縛る紐がないのであれこれ算段して、苦心して作るのに一日かかった。
夜になり河を偵察に行ってみた、なるほど凄い。星明かりで対岸はよく見えないが二百メートル以上はありそうだ。その土手一杯に盛り上がるように黒々と水が流れている。岸の近くでも流れは早く、中程では渦を巻いているとのことである。雨期の最盛期で大変な河だ。
これを見て、よほどしっかりした筏でないと駄目だと思った。それに疲労困憊した今の体では耐えられないだろうと思った。そこで筏の組み替えを考えた。「バナナの太い軸が浮力があるのだ」とも聞いたが実行はむずかしい。
ペグー山系を出発してから、シッタン河に差しかかるまでに、我々の梯団(ていだん)は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明になった者、弱り果て自決する者等いろいろである。確実に兵士の数が減少している。
今日も、マラリヤで苦しんでいた北浜上等兵が遂に死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵達四、五人が休んでいた。彼は仲の良かった長代上等兵へ「お世話になったが、わしはゆく」と小さな声で伝え外に出て行った。みんな弱っており、もう誰も止める者もいなかった。止めたところでどうなるものでもない。
彼は死期が近いと覚悟したからだろう。可哀相にと思ってもどうする術(すべ)もなかった。お互いにみんな重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面しており、冷静に考えるゆとりもなかった。私自身もそうであったが、死んだ方が楽だとさえ思ったことがある。
二十五歳の青年北浜上等兵。目元の美しい彼も、長い敗走の間に髪は伸び放題、髭(ひげ)は顔を覆い今は見る影もなく痩せ衰え、垢に汚れ黄色くなった顔、おそらく高熱に冒されていたのだろう。
彼が外に出て行ってからしばらくして「ドガン!」という手榴弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんなことが随所に起りシツタン平野は阿修羅(あしゅら)の巷(ちまた)となった。
今晩渡河予定だったが、予定変更となった。近くに舟があるのを見つけたのでそれを取りに行くことになり、私もその一員となった。シッタン河に沿って四キロばかり上流に行った所に民家がありその軒先に舟があった。十人ばかりで担いだり田んぼの水の上を引いたりして持ち帰り、その夜は数名で舟の整備をした。『舟で渡れるぞ』と喜びゆっくり休んだ。
ここ三、四日は不思議と天気が続き、今日も朝からよく晴れている。いよいよ今晩は渡河だと思うと、大きな期待と恐怖が入り交じってくる。
ところが、日本軍の作戦を知った敵は空陸一体となって攻撃してくる。シッタン河に沿った部落を何回も空襲し、機関砲を射ち、小型爆弾を落としてゆく。我々は家の床下に隠れたり、部落外の田んぼの間にある木の影に隠れたりした。
私は背丈ぐらいある竹で編んだ大きな籾の槽(おけ)の間にうずくまり、一日中そこにいた。敵のするがままで他に良い方法はない。嵐のような機関砲の弾、耳をつんざく爆弾の破裂音、逃げたとてどうしょうもない。弾が当たれば当たれだ、当たるなら即死するように当たれとさえ思う。
ふと母からの手紙を思いだした。母が金光教(こんこうきょう)を一心に信心してくれているから大丈夫だ、敵弾は当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。また、西澤とよ子さんから来た手紙の一節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死なないと予言してみるのである。
部落の一部が燃えだした。固唾(かたず)を飲んで様子をうかがい思わずお守りを握りしめていた。この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた由、苦労してここまで来たのに誠に残念で悲しいことだ。
このように、我々手島中隊は師団司令部と一緒に行動し戦火の被害を受けているが、その他の聯隊でも大変な犠牲者があり多くの血がこの平野に流されたのである。
英印軍(えいいんぐん)の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏につかまり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後まで戦いとおすか、自決するかの決断に迫られた。多くの者は渡河手段を選択したが、既に負傷したり、体力が衰弱した者は泳げないのでここに残らざるをえなかった。残った兵士は、以後数日間、敵弾にさらされ、生命を落とすこととなったかと思われる。
---終戦後に分かったことだが、傷つき意識不明となり、いつの間にか、現地人に助けられた者もあった。また、自決できないままやっと生きているところや、昏睡(こんすい)状態のところを、英印軍に拾われ捕虜になった者もあった。戦争中に、あるいは抑留(よくりゅう)期間中にビルマ人になった人が沢山あると当時から聞いていたが、このような状況の中で、いろいろの運命をたどらざるを得なかった。
余談になるが、竹山道雄の「ビルマの竪琴」とか、梶上英郎の「ビルマ曼陀羅」などの書籍にビルマ人になり生活している状況が書かれているが、多くの日本兵がビルマ人となってしまった。その経過はいろいろだろうが、辛く、悲しく、耐えがたい困難があったに違いない。私が想像するような単純なものではなく、大変な犠牲を被(こうむ)られた方々である。戦争のために、生きていながら日本に帰れず、人生が全く変わったのである。
---私は昭和五十八年一月、ビルマ慰霊の旅に行った際、トングーという町に泊まった。トングーは、我々がシッタン河を渡河した地点の近くで、多くの戦死者を出した所である。この町にはホテルが無いので、校長先生の家に泊まらせてもらった。朝市を見てぶらりと歩いていると、一人の中年の女性が私の傍に来て、「日本人か?」と尋ねる。「イエース」と答えた。すると、手真似とビルマ語でこちらに来てくれと誘う。女に誘われて行くのは危険かとも思ったが、普通の女であり朝市の買物帰りである。それにビルマ人だから日本人に好意を持っての話であり、悪だくみがあってでないことはすぐに分かった。その時私は一人であったので多少の警戒はしながらついて行った。
二百メートルばかり行くと、醤油屋のような大きな構えの家に案内された。家族で朝食をしている様子であったが、家の主人を紹介してくれた。この主人は英語で話かけてきた。「日本人ですか、ごくろうさん、ちょっと待ってください」と言って、十六、七歳の女の子を連れてきた。
「この子のお父さんは日本の兵隊さんです」「この子のお父さんは日本人です」と紹介してくれた。私の心はジーンと痺(しび)れた。この可愛らしい娘の中には日本人の血が流れているのかと思うと、いじらしく不憫(ふびん)に感じられた。彼女はもちろんビルマ語しか話せない。ビルマ人の多くは中国系で日本人と殆ど変わらない。見た目には普通のビルマ人であるが、とにかく日本の血を引いているのかと思うと胸にこたえ、戦争の落とし子の幸せを祈らずにはいられなかった。
「お父さんは今いますか?」と尋ねると、「二年程前に死にました」という答えが返ってきた。
お父さんは実際はまだ生きているのかも知れないが、何かの都合で出てこない方がよいので、死んでしまったことにしているのかもしれない。せんさくは無用である。戦争の影響の大きさとその深さを肌で感じさせられた。
この子のお父さんは、どのようなことで生き残り、ビルマ人にならざるをえなかったのか知る由もないが、あの戦争で生死の境をさまよっている間に、このような運命を歩むしかなかったのだろう。誠に気の毒なことである。私の心は疼(うず)いた。彼女はビルマ語、私の英語を主人が通訳して伝えてくれるもどかしさはあったが、宿に帰り日本から持ってきた土産物、日本製の布地、シャープペンシル、ライターなど沢山持ち出し彼女に渡し、「幸せにやりなさい」と祈り別れた。
これは、私が直面した一例であるが、ビルマに残った人の幸せと、日本ビルマ混血児の幸福を心から祈った。
話を本筋に戻そう。
◇シツタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
我々手島中隊の者は舟でシッタン河を渡ることになった。昨夜舟を収拾(しゅうしゅう)してきた苦労が報われた訳だ。
私はその時、日にちの感覚は明確でないが、輜重兵ビルマ戦線回顧録(かいころく)によると、シッタン河は五つの作戦区分に分かれ渡河したが、第一中隊は師団司令部等と同じ右縦隊中央突破縦隊に属しており、渡河した日は二十年七月二十六日と記されている。
日が暮れると行動が開始された。渡河地点まで約一キロを歩いて行った。部隊ごとに順序よく並ぶ。舟は小さいので四人しか乗れない。漕ぐ人が別に二人乗り計六人である。この突破縦隊は何百人もおり、一晩では渡りきれない。この地点に、もっと部隊がいたのか、他にもう一艘あったのかも、私にはよく分からない。私達は三時間程待つ内に順番がきたので河岸に行き、装具を持って舟に乗った。暗闇の中に水は岸に溢れんばかりにと・う・と・う・と流れていた。水はどれ程濁っているか分からないが黒いうねりのように見え、大変な水量で圧倒されそうである。流れの速さも凄く目測で毎秒三メートルと記録されている。
岸を離れ兵隊二人が一生懸命に漕いでいる。我々は兵隊の指示どおりに飯盒で舟の底に溜まる水を汲み出した。舟の整備もしたのだろうが、かなり浸水しているようである。みんな祈るような気持ちで乗っていると、舳先(へさき)を上流に向けて漕いでいるのに、流され流されしている。暗いのでよく分からないが流れは渦を巻いたり、わき上がるような所もあった。
河の中程を過ぎると、対岸が黒ずんで薄く見えだした。次第に近づく。もう直ぐだ。舟が岸に着いた!岸にしがみつき草の根を固く握りながら這(は)い上がった。三、四メートルも土手をよじ登った。こちらの平地の方が水面に比べ大分高いようだ。とにかくシッタン河を無事に渡ったのだ。筏を押して泳いで渡るのではなく、舟に乗り労せずして渡れたのだ。
漕手の兵士に心から「有難う、有難う」と感謝のお礼を言った。まさに「生」への喜びの一瞬である。
小舟は次の人を迎えるために帰っていった。舟の着く位置も多少異なるし、暗闇の中では先行した人がどこにいるか分からない。岸の小高い草むらに腰を下ろして暗黒の流れを振り返り眺めていると、私達は非常な幸運に恵まれ、小舟のお陰で渡れたのだと感激一入であった。
誰が漕手をしたのか知らないが、その兵隊だって弱っていたはずである。もともと漁師か何かで舟を漕ぐことに慣れていたのかも知れないが、大変な仕事だったと思う。その漕手で、皆を渡してくれた人は、果たして最後まで転進をし内地に帰ったのだろうか?幸運に私達の第一中隊主力は夜明けまでに渡河を完了したようだ。
---最近本誌の執筆に当たり、当時指揮班長をされこの渡河についても細部の取り仕切りをされていた溝口登元准尉に聞いたところ、その時の漕手は堀、三枝、山崎の各上等兵で、この人達がよくやってくれたので、みんな渡河できたと感慨を込めて教えて下さった。
他の部隊の一部は、夜が明けてしまい渡河できずそこに残ったままと思われる。昼は敵の飛行機が偵察し、流れている日本軍兵士がいると機関銃で撃ってくるし、下流の岸からは敵や現地人が撃ってくるので、舟であろうと、筏であろうと渡河は不可能である。それに長時間水の中にいると、弱り果て筏から手が離れ溺死してしまうのである。
私は、渡河地点近くに民家があったがそこには入らず、バナナ畑に入って休んだ。日が高くなった頃敵機が数機飛来して、昨日まで我々がいた対岸の部落を目がけて銃撃し始めた。ここから見ると約千五百メートル離れた所であるが、こちらが高台なので手に取るように見える。小型爆弾の炸裂する音や、機関砲の音も聞こえてくる。やがて、火の手が上がり煙と炎が遠望される。まさに地獄絵図さながらである。あれ程やられると全滅したのではないかと思われた。よくぞ昨夜、十時間前に渡河していたものだ。一日遅れていたらあの硝煙の中にいるのだ、と思うと何とも言えない戦慄(せんりつ)をおぼえた。
敵は、我々が渡河点前に集結していると思い、徹底的に攻撃をしているのだ。またまた、シッタン平野に多くの若い血が流されているのだ。敵の攻撃を受け傷つきながらも、運のある人はその夜、筏にすがり渡河してきた。だが多くの人は濁流の藻屑(もくず)と消えた。
その夜渡ってきた人に聞いたところによると、その日の攻撃は物凄く、大変な犠牲者が出て、屍が累々として重なり、渡河も各人の筏で銘々(めいめい)に泳いできたので、多くの人が流された、とのことであった。
◆シッタン河の悲劇
既にビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されていた。敵の勢力下にある地帯を突破する悲壮な作戦である。そのために突破梯団が組まれ、渡河区分も大きく五つに分かれ、渡河地点も三十キロにわたる長い展開であった。場所によって河幅も流れの速さも異なり、またペグー山系を下りた所からシッタン河までの距離も異なるし地形もマチマチ、敵の警戒度合いも場所により異なっていたが、どこも厳しいものであったことに違いはなかった。 シッタン河渡河は我が軍団にとり、最大の難関であり、決死の一大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったといえる。
渡河した将兵の殆どは竹の筏に装具を乗せ四、五人で組になり筏に掴(つか)まり泳いで渡ったのである。それも夜の闇に紛れての行動である。人間の体力のみではどうにもなるものではない。流れは右に曲がり左に折れ怒涛(どとう)の如く荒れている。波も立ち、目線も筏につかまっているのだから低く、周囲の様子も分かりにくい最悪の条件である。それにみんな疲れ切っている。
対岸を目指して泳ぎ出したものの、浮かぶはずの筏はアッという間に沈み、乗せた兵器は流れ去り、筏は身軽になって再び浮き上がり、これに取り縋(すが)った兵士は急流に押し流され、多くの命が奪われた。濁流にほんろうされ、激流に呑まれ、泳いでいても筏から手がずるずると離れ激流の波を頭から被る。筏はぐるぐる回ったり、バラバラに分解したりして、「助けてくれ!」「助けてくれ!」と叫びながら多くの人が流されていく。やっと対岸に近づいたと思ったら、アレヨアレヨという間に沖に押し戻されてしまう。もう諦(あきら)めようとしながらも、また岸に向かって泳いで筏を押したという。
私は、渡河できた人からの話しか聞いていない。渡河できなくて流された人、即ち死んだ人の話を聞くことはできないが、その人達は下流へ流されている時どんな目に遭いどんなに悲痛な思いをしたことか。そのことを忘れるわけにはいかない。
私達の中隊に舟が無かったならば、私は筏で泳ぎ渡る体力はなく、急流に流され渦に巻き込まれ死んでいただろう。
元気な時には、二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手でいくらでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目になっているからこの流れを泳ぎ通すことは到底困難なことである。
次から次に「助けてくれ!」「助けてくれ!]と叫びながら流されていく声。「軍旗(ぐんき)を持っているのだ、助けてくれ!」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのだろうが、何分重い旗であり、しかも水に濡れれば重く体の自由がきかなくなったのかと想像する。後になって聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦まで大切に守られてきた由である。
「助けてくれ!」という声は聞こえても暗黒の闇、どこを流されているのか分からない。よしんば声の所在が分かっても、長い棒やロープや浮き輪があるわけではなく、せいぜい「頑張れー」と声援するだけで、なすべき手段がない。その人自身の努力と運しかないのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。熱帯地方とはいえ夜の水の中、次第に手も足もしびれ、筏から離れ沈んでゆくのだ。心臓麻痺で死ぬ人もあろうし、流れて行く内に夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。私は後日、他の河の橋桁(はしげた)に白骨を乗せた筏が引っ掛かっていたのを見た。体は本人がロープで筏に括(くく)りつけたのだろうが、そのまま息が絶え、朽ち果てて骨のみが筏の上に残されているのだ。誠に哀れというより言葉がなかった。
筏につかまり流され、息絶えるまでの相当の時間、この戦友達は何を思い何を願っていたであろうか?故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか。
流れる間に放心した者もあるかも知れない。また理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出すことも、流れる水の中ではままならず流れに身を任すだけとなり、死ぬに死ねず、最期を待ったのだろうが、こんなに酷(ひど)いことがこの世にあるだろうか?
不利な戦とは、こんなものである。歓呼の声に送られ、勇ましく征途についた将兵が無情にも、おびただしい数、こうしてシッタン河の藻屑(もくず)となってしまったのである。
終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時シッタン河の下流に布陣していた兵士から聞いた話だが、「毎日毎日おびただしい屍が筏と共に流れてきて、禿鷹(はげたか)が舞い降りて屍の肉を食べその惨状は実に目を覆うものがあった」「河口付近は満潮で筏が海に流れず溜(た)まり、死者の腐臭(ふしゅう)が一帯に充満していた」と聞いたが悲惨の極みというほかはない。
シッタン河に流された確かな人数を把握していないが、英印軍の集計によると、六千の遺体が流されていたと記録されている。しかし沈みながら流れているものや、岸に引っ掛かった屍などを合わせると一万にも達するのではなかろうか。
これも後日聞いた話で、一例であるが、岡山の歩兵聯隊では、渡河前千人いたものが渡河直後五百人に半減していたとのことで、各聯隊共に似たような惨状であったことが想像される。
このおびただしい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどのようにしたのだろうか?これも大変な作業だったことと思う。
全世界のどこにこんな河があるだろうか。世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れるシッタンの流れよ、この河に散っていった日本兵士をいつまでも弔ってくれ。私達はシッタンの悲劇を永久に忘れてはならない。私の命ある限り無き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない。
ペグー山系の餓死、シツタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者をだしながら、撤退作戦は更に続けられた。
◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
渡河後昼はバナナ畑に退避、夜は民家に入り食糧を集め、飯盒炊事をしてどうにか飢えを凌ぐことができた。三日ばかり集結のためその辺りに止まった。幸いに敵の攻撃は河のこちら側には及んでこなかった。
渡河により各梯団とも人数が激減していた。またしても夜間の行軍が始まった。目指すはビルマの東南のモールメン地区で、ビルマ方面軍司令部は既にその地区へ後退していた。そこまでの道程はまだまだ遠く二百キロも先であった。シヤン高原の道はくねくねと曲がり細くなったり太くなったりしていた。平地を過ぎ森林部を抜け、なだらかな山間部へと、毎日夜間の行軍が続いた。敵の地上部隊はまだここまでは来ていなかったが、飛行機による追跡と機銃掃射は続いた。
また、いたる所に地雷が仕掛けられていた。我々より先行していた兵士が地雷にやられ倒れており、死体があちらこちらに散らばっていた。
ある日のことである。道の真ん中に将校が座っている。なんで端に座らないで真ん中にいるのかと不審に思い近づいて見ると、地雷にやられ上半身のみが路面にドッカリと倒れずに立っている。下半身は吹き飛んでいるのだ。また、ペグー山系程ではないが、シヤン高原の道端にも、体力が尽き果て自決した兵士の屍がいたる所に残され惨状を呈していた。
終戦後、秋田衛生下士官から聞いた話だが、彼も落伍しないように一生懸命に歩いていた。路傍に屍が点々とあるのは当時としては珍しいことではなかった。
彼がふと見ると、仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。よく見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたが、そのまま息を引き取った姿だ。死体の兵隊は米が無くなり、やっと籾(もみ)を現地人の家から取ることができたが、これを白米にする力も無く、火に掛けて焼いて食べることもできないまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたが、そのまま息絶えているのだ。そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ、籾から芽が出て青く育っているのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんなことがこの世にあってよいのだろうかと思ったとのこと。
我々はコウモリのように夜歩き、夜明けと共にあばら家でもあれば潜り込み、敵の飛行機に見つからないようにして、東南モールメンの方向に転進を続けた。しかし、敵英印軍は日本軍の動向をよく偵察しており、飛行機で山林の上空にも飛来し機関砲で撃ってくる。
シャン高原はアラカン山脈のように高くはないが起伏が連続しており、雨期で谷川は、増水し激流となっている。幅十メートル程の川でも、岩を咬(か)み飛沫をあげて滝の如く流れており、歩いてこの川を渡ることはできず行き止まりである。
幸いなことに、先行の工兵隊だろうか、上手(じょうず)に大木を川の上に切り倒し、向う側からも大木を切り倒し、川の中程で交叉させて曲がったり上下しているが、とにかく橋をこしらえてくれていたので、難なく川を越えることができた。でも、丸木で先の方は細く、他部隊の将校は滑り落ち死んだとも聞いた。そんなことをして激流を越えたこともあるが、激流でなく腰までつかって歩いて渡れる所が多かった。
ここの道は、ぬかるみはなく歩きやすかった。しかし、相変わらず裸足で竹の杖に縋(すが)りながらの後退である。
山の間を細い道に沿って行くと、時に山間民族チン族の部落が十軒〜十五軒点在していた。住民は我々が行く前に素早く逃げており、顔を合わすことはなく、豚や鶏はそのまま置いてきぼりになされていた。辺りには水田もなく家の中には米は無かったが、部落には椰子の木が何本かあり、バナナが何本かあった。我々は当時大部隊としてではなく分散して行動をしていたので、案外食物にありつくことができた。
吹けば飛ぶような竹細工のあばら家でも、雨に打たれて地面にごろ寝するより、家の中は、はるかに有難かった。ある部落で、柵の中にいる子豚に目をつけ、兵隊三人で追いかけたが、豚は必死に逃げるので捕まらない。仕方なく小銃で仕留めた。豚の料理も荒いことだが、肉を裂き薄切れにし肉汁や焼肉にした。
椰子の実がなっているが高い木を登るのにも技術がいる。それに弱った体では登れない。たまたま大きい鋸(のこぎり)があったので、引き倒した。その方が労力がいらなかったので悪いと思ったがそうした。高い木がバタリと音をたてて倒れた。椰子の実がたくさん着いており、皆で分けて食べた。長い間果物らしいものも食べていないので、たまらなく美味しい。現地人に対しては椰子の木を切り倒してすまないと思ったが、許してほしい、我々は今命を繋ぐのに一生懸命であり、食べなければ死ぬのだ。
一度や二度、豚や鶏を食べたとて急に元気になるものでもない。人によっては急に食べたので、体が腫(は)れたり下痢を始めるものもいた。こうして我々が通った後は、部落は荒らされ、食物は無くなり、家の一部は焚火に燃やされ、後には日本兵の屍が残され、あるいは瀕死(ひんし)の兵隊がそのまま残っているだけであった。
こんなことは不本意なことであり、現地人に対し誠に気の毒なことである。しかし我々は戦いに破れ敵に追われ、食物がなく毎日をやっと生きているのだ。
雨期の最盛期は過ぎたが、まだまだ雨は激しく降る。ボロボロの携帯テントにくるまりながら、とぼとぼと歩いて行くだけである。雨の中で地面に竹を敷き、体の上に木の葉を覆い寝るのだ。時には焚火で被服を乾かすこともあるが、濡れたまま寝る場合が多い。疲れきっているのでそれでも眠れる。
恨めしい雨は小降りになったが、まだ続いていた。その頃はシャン高原の中程ユアガレという部落を目指して歩いていたと思う。
私達第一中隊本部に有吉(ありよし)獣医下士官がいた。敵弾に右足下腿をひどくやられ、太い木を松葉杖のようにして、体の半分の重さを乗せ片足で歩いていた。傍にマウンテンという青年がつき添い装具等を持ち手助けをしていた。この人はビルマの獣医で、ずっと以前から有吉軍曹を慕い気が合い、日本軍に協力し転進中も苦労を共にしていた。この青年の並々ならぬ援助のお陰もあり、普通なら重傷でついて行けるような状態でないのに、毎日早めに出発し途中の小休止もしないで歩きぬかれており、その精神力、その忍耐強さに敬服した。私は、転進中の長い期間気の毒な姿を見ていたが、本当によく辛抱(しんぼう)されたものであると驚いた。負傷していない私がヘトヘトなのに、足に重傷を負いながら、よくぞ歩かれたものだと感心した。
---彼の若い奥さんが、青野ヵ原から姫路までの最後の行軍の時、和服姿で彼の傍を離れないようにして見送りされていた。六月下旬の暑い日で軍馬車両が濛々(もうもう)と砂塵をたてて進む中を一生懸命歩いておられた姿が目に浮かんできた。
その真心が通じあったのではなかろうか。その後無事復員され、元気で今日を迎えておられる。
今だに、歩き方に後遺症が残っているようだが、有吉獣医軍曹の忍耐強さを尊敬し、簡単にここに記す。
---有吉義夫氏は、最近私宛に、あの重傷で転進中マウンテン君に助けてもらったのに、何のお礼をすることも出来ないままになっており心残りだ。恩人マウンテンさんに感謝のお礼を、ビルマの人達に心からお礼を申し上げたいと、切々とした手紙を送ってこられた。ここに明記しておく。
◆輜重隊の活躍
私は一兵隊だから全体のことはよく分からないが、当時第一中隊は手島中隊長の指揮の下で、私達の第二小隊と、片岡東一軍曹や光畑上等兵等の第三小隊、及び溝口指揮班長や志水衛生軍曹等の本部指揮班の総勢約七十名が固まって行動していたと思う。中隊長以外の将校は既に戦死されていたので、指揮班長の溝口准尉が細部の指示を与えていた。戦力が貧弱になっており、これが第一中隊の主力であった。
こうして、第一中隊即ち、手島中隊長以下の主力は師団司令部と一緒に行動をし、師団長の直接警護をしたり司令部の食糧を調達したりしていた。
シッタン河渡河の折も、我が中隊の光畑機関銃手が師団長の舟に乗り、直接身辺をお守りした。
師団司令部の参謀達を小舟で渡したのも我が中隊の兵士であり、そんなことで師団参謀を近くで見る機会も多かった。
前にも述べたが、編成最初からの太田聯隊長は二十年五月十一日戦死され、金井塚聯隊付き大尉も負傷され、その後は植田中尉が聯隊長代理をされていた。
我々がペグー山系に入った頃、畑聯隊長が着任されていたが、聯隊や中隊は分散し転進していたので、我々は直接拝顔することなしに、指揮命令を受けていた。内地にいる時とか一ヵ所に集結している時であれば、聯隊長の着任は全員揃って厳粛(げんしゅく)にされただろうが、こんな戦闘中で特に状況の悪い最中では、末端には徹底されなかったが、仕方のないことであった。ともあれ、我々は畑聯隊長の指揮下で、後半の転進作戦を実行したのである。
手島中隊長は、頑強な身体の持ち主で鳥取県出身の方であった。中隊がタンガップ方面の警備に当たっていた頃の昭和十九年十一月中旬、聯隊本部付きから当第一中隊へ着任され、以後一番苦しい時に中隊を掌握し転進作戦を指揮されたが、途中、敵弾で片腕を負傷し、三角布で吊しながらも、常に勇敢に陣頭に立ち、中隊を終戦まで率い大任を果されたのである。武士の魂を立派に備えた方のようにお見受けしていた。無事復員をされたが残念なことに昭和二十六年頃逝去された。もっと長生きされ、日本の発展を見守って頂き、輜重隊戦友会にも来席して頂きたかった。堂々とした体躯で先頭指揮されていた当時の雄姿が懐かしく今も目蓋(まぶた)に浮かぶ。合掌
◆生と死の境
その頃、師団司令部の藤井中尉を長とする将校斥候(せっこう)が編成され十名が選ばれ、五名が輜重隊から、他の隊から五名が選ばれた。重要な斥候であることが想像された。
この将校斥候は、師団司令部及び輜重第一中隊等は迂回ルートを行くが、それと分かれて近道が行けるかどうかを、偵察するのが任務であったようである。
約一週間の予定で別行動をするのだが、この道は後続する者が来ないルートであると聞かされていた。溝口指揮班長より「小田 この斥候に行け」と命令された。
私は長い間下痢が続いて衰弱し、その上悪性マラリヤではないが三十八度の熱が引き続いていたので、斥候に出て行くと、途中で落伍してしまうような気がしてならなかった。命令を断わることは軍隊では出来ないこととよく知ってはいたが、以前から溝口指揮班長に可愛がってもらっていた甘えもあり、体の不調を訴え「自分には出来そうにない」と懇願した。しかし「弱っているのは皆だ」「行ってくれなくてはいけない。他に行ける者はいないのだ」とガンとして断られた。いくら可愛い部下であっても、発令者の立場からいえば当然のことであり、ここは一刻を争う戦場なのだ。「ああそうか、そうか」と聞いていたのでは節度がつかない。
溝口指揮班長を恨む気持ちは全くなかった。命令に従うのは当然だと思った。しかし大変なことになった。任務が果たせるだろうかと心配になった。途中で皆に迷惑をかけてはいけない、石にかじりついても斥候の任務を果たすのだと改めて自分に言い聞かせた。
藤井中尉の指揮下に入り出発した。私は機関銃の弾薬を携行する役となった。シヤン高原の山の中を登り、谷を渡り水に浸かり細い道を進んだ。
時々中尉はセルロイドのファイルに入れてある地図を出して見ておられたが、大分くたびれたものだった。磁石と照らし合わせていたが、こんな地図では今我々が歩いているような細い道は無いはずなのに、どんなにして進路を間違いなく定めているのだろうか?師団司令部のこの中尉の才覚と方向感覚に頼る外はない。
小川を日に何回も渡るので、下半身はいつも濡れて冷えが起き小休止の度毎(たびごと)に下痢をしに走った。便の量は少しだが腹が絞(しぼ)るような感じで粘液のようなものが出るだけである。ここ数日が特によくない。
将校斥候に出て二日目の午後は小さな雨が降っていた。私はついて歩けなくなった。激しい熱に襲われ、足に力がなくなり体を支えることができなくなった。戦友が「頑張れ」と勇気づけてくれたがどうにもならない。
自分が持っていた機関銃の弾薬を他の兵隊に渡した。持ち物は自決用の手榴弾と飯盒と水筒、空に近い背嚢だけである。それに肌身離さず持っているお守りである。私は「自分はもう歩けないのでここで休むから置いて行ってくれ」と八木兵長に言った。八木兵長は「休んだらついてこいよ。いずれ俺達も、夕方になり今日の目的地に着けば休むのだから」「ついてくるんだぞ、あきらめてはいかんぞ」「あきらめてはいかんぞ」と力を込めて言った。
しかし、誰もがこれで終わりだと思い、私も最後の別離だと覚悟をした。藤井中尉から特に叱られはしなかった。みんな私を残して行ってしまった。
私は道端にへたばったままで動けない。高熱のため目も眩(くら)みそうで、精根尽き果てしゃがみ込んでしまった。
みんな行ってしまったし、誰も後からこの道を来る兵士がいないことは決まっている。孤独であり、ただ一人自分だけなのである。
すべてを諦(あきら)めねばならないのだ。意識のある間に、するべきことをしておかないといけない。意識が朦朧(もうろう)としてしまえば、自決する決断もできなくなり、のたれ死してしまう。それではいけない。今自決をすることだ。『自決だ』手榴弾を腰から外した。目の前が黒い帳(とばり)に覆われるような感じだ。これで自分もビルマの土になるのだ。両親の顔が目に浮かぶ。「お父さん、お母さん、長い間大変お世話になりここまで育てて頂き、恵まれた日々、楽しい人生を過ごさせて頂き有難うございました。先に行くことになりますがお許し下さい。兵隊として立派に今日まで尽くしてきましたからご安心下さい」
幼い日のことから、青野ヵ原行きの汽車の中で最後の別れをした時のことが思い出され、何とも言えない気持がした。「妹よ、兄は御国のために命を捧げるが、お前は元気で両親に孝行をしてくれ、俺の分までも」と心で言った。
学生時代の親友内田富士雄君、情緒豊かな君に学ぶことも多かった。俺はビルマに散って行く、青春の日々を懐かしみつつ。
会社の上司や、先輩の方々が、東京駅で送って下さった時の歓呼の声が思い出され震える。
米沢の西澤とよ子さんからの、懐かしく心をときめかし、勇気づけられた便り、「米沢のさくらんぼが小田さんのお帰りを待っています」の一節が思い出された。あれ程祈ってくれているのに、もう内地へ帰ることはできなくなり、今自分はこの世を去ろうとしている。可憐な彼女の姿が目蓋に浮かぶ。「さらばだ、今生の別れだ」悲痛な覚悟。手榴弾の安全栓を抜いた。
先端の突起を固い所に打ち着けて発火を確認し、敵陣を目がけて投げると四秒後に爆発するのだ。本来は敵を損傷させる兵器で、なかなかの威力を発揮するものだが、それが今は自決するために、確実に死ねる方法として使用されており、腹に手榴弾を抱いて死んだ姿を数限りなく見てきた。
いざ突起(とっき)を打ちつけようとすると、固い地面がない。雨に濡れた柔らかい道だけである。近くに何か固い石でもないかと探したが、無い。
十メートルほど離れた所に大きい木の幹があるが、弱りきった体はそこまで動いて行けない。打ちつける所がなく困った。
困ったなあー、と思うと一気に緊張が弛(ゆる)んで力なく横にころんだ。高熱で朦朧(もうろう)とした体は、すぐに眠ってしまったようである。
冷たい雨に打たれ、ふと気がつくと、「まだ生きているではないか!」「自分は生きているのだ!」の実感。二、三時間眠ったのだろうか、大粒の雨が頬を濡らしている。自決しなかったのだ、手榴弾をそこに置いたままである。高熱が下がったのだろうか、頭も痛くない。
しばらく茫然(ぼうぜん)としていたが、いくぶん疲労が回復しているようだ。不思議だがまだ若い体だから、眠っている間に少し元気になったのだろうか。こんどのマラリヤは悪性でなかったから熱が下がったのか?それとも、体が免疫になったのでこの程度ですんだのか知れないが、とにかく歩けそうだ。
前に行った斥候の一団に追いついてみようと心が動いた。抜いていた手榴弾の安全栓を元に差し込みきっちりと締めた。立ち上がり歩き始めた。
あれだけ高熱で弱っていたのに歩けるではないか。奇跡だろうと何であろうと歩けるのだ。ぼつぼつ歩いた。山道を十人が歩いているので、柔かい土の上に足跡が残っており、道を間違えず容易に後を追うことができた。その間どこにも家はなく人にも出会わず、あえぐように黙々として細い山道を歩いた。
三時間ばかり歩いた頃日が暮れだした。次第に薄暗くなり道が分りにくくなってきた。「ああ、駄目か、追いつけない」一人で野宿すると、この地方では虎が少ないが出てくるかも知れない。
ガックリと力を落とし再び自決をすることを思い・・・・寂しさと、迫りくる闇の恐怖を感じ、道も見えにくいのでもう歩くのを諦めようかと思っていた。その時、忽然(こうぜん)と目の前に柱が二本、鳥居のように立っているではないか。
部落の入り口であることがすぐに分かった。部落だ、嬉しい、有難い。山間に小さい家があり、近づいて様子をうかがうと現地人の声だ。おかしい、確かに一行はここへ来ているに違いないのに?更に十軒ばかりの集落の奥の方の家に行き、耳を澄ますと、今度は日本人の声がする。
もし、五分間、日が暮れるのが早かったなら運命はどうなっていたか分からない。すべてを諦めていたかも知れないのに。
やっと追いついたのだ。転げるようにして家の中に飛び込んだ。八木兵長や他の者が「小田お前来たのか」 「びっくりした」 「よく来たのう、もう会えないかと思って心配していたのに、よう追いついたなあ」 「よかった、よかった」と皆で迎えてくれた。藤井中尉に追及できたことを報告した。
この頃は、一度落伍したら最後、追いつくことは殆どできないのに、それが二、三時間も遅れて追いついて来たのだから、皆がびっくりするのも無理がない。誠に幸運中の幸運であり、神霊の加護によるものであると思わざるを得ない。地面が軟らかかったのも、地獄の閻魔(えんま)さんが受付けてくれなかったからだ。それに私に人一倍粘り強いところがあったからかも知れない。
夜になっており、皆の炊事もできていた。誰かが煮物を分けてくれ、それを皆と一緒に食べた。
ご飯と芋蔓(いもづる)を煮た汁物、それにガピーが少しあった。
疲れた体で炊事をするのではなく、できあがった物を食べるのだから、大変助かった。焚火の明かりがチョロチョロと皆の顔を照らしていた。野宿でなく家の中で休めるのは何といっても有難かった。「疲れているだろうから、早く休めよ」と誰かが言った。疲労していたので間もなくぐったりとなって眠った。
次の日の朝、藤井中尉将校斥候長から「近道をしたので、目的地に早く行けそうだ。今日と明日はこのまま、ここで休むから十分休養しておけ」との指示があり、皆は大喜び。子豚を捕まえ料理してみんなで分けて食べ、体力回復に努めた。私もこの二日間の休みで幾らか元気になった。この休みが無くて続けて強行軍していたならば、再び落伍したかも知れないのに。
三日目の行軍にはどうにかついて行けた。四日目も五日目も楽な行軍で、中隊本部や師団本隊と合流した。本隊は毎日歩いたのに、私達は近道をしたので二日間十分休みながら悠々と到着できたのである。これも幸運だった。考えてみると、私が斥候に行かず、師団本隊と共に行動していたら、迂回路なので毎日歩き通しで、ついて行けなかったかもしれない。運とはこんなもので不思議である。
ここでも二重三重四重の幸運に恵まれ生死の境を乗り越え、斥候の任務を終えた。運命は分からないが、神霊の加護により、母の信心により、生かされたことを私は感謝しなければならない。
この辺りが、シヤン高原のユアガレという地名の付近であった。
◆戦友友田上等兵を残して
シヤン高原に入ってからは敵の地上部隊に追い回されず、空襲を警戒すればよい。食物も所々に小さな部落があるので、どうにか飢えを凌ぐことができた。
小さい部落さえないペグー山系の中よりましであった。大きい集団で行動することは山の中とはいえ、昼間は避けて夜しなければならなかった。昼は林の中に隠れ、煙を出さないように炊事をして休み、夜の行軍を続けた。
その日はよく晴れた月明かりの夜行軍であった。だが林のある所は暗かった。私と友田上等兵は、弱った者同志で一中隊主力部隊の最後尾を遅れながら、竹の杖をつきトボトボと歩いていた。
彼は割合元気で、数日前私がひどく弱っていた時に、私の装具を持って助けてくれたこともあったのに、ここ一両日でマラリヤにかかり弱っていた。
三叉路にさしかかった時、部隊は右に行ったのに私達二人は月明かりでよく見えなかったので左へ進んでしまった。
しばらく行った所で、友田上等兵は「もう歩けない」と言って座り込んでしまった。私は「元気を出して行こう」と声をかけたが「もう一歩も歩けない」と言って青い顔をしている。
「ここでくじけてはだめだ。苦労してここまで来たのだ、もう一ふんばりだ」と言って励ましたが動かない。私は持っていた竹の杖で彼の背中を一発殴った。「どうにもならない、体が動かないんだ、ほっといて行ってくれ」と彼は答えるだけであった。
「さあ、立て」問答が続いたがどうにもならない。お互いの頬に涙が光った。
「元気になったら後から行くから」と答えた。私は「じゃあ仕方がない、必ず後からついて来るんだぞ」と励ました。彼は「小田よ、気をつけて行けよ」と言った。「有難う、では行くぞ」と言い残し彼と別れた。
私は本隊に追いつこうと歩いた。その頃は夜が明け朝になっていた。三、四百メートル程行くと道が消えるように無くなってしまい途方に暮れた。これはどこかで道を間違えたのだと初めて感じた。山の中で方向が分からなくなり迷いそうになったが、やっと引き返して来ると友田上等兵がいる。
「道を間違えた、逆戻りしているのだ。一緒に行こう」と誘った。しかし、彼は首を横に振るだけである。もう一度「友田、行こう、元気をだして行こう」と励ましたが、彼は「小田よ、ビルマの道は分からないから、気をつけてゆけよ」と注意してくれただけで、立とうとはしなかった。「では、行くぞ。元気になったら着いて来るんだぞ。では先に行くぞ」と言った。それが最後に交わした言葉であった。嗚呼(ああ)!
もと来た道を引き返していると、滅多に人に会うことがない山の中なのに現地人二人が向こうからやってくる。山男のような格好をしていた。細い道だからどちらかが、縁(へり)に寄らなければ通れない。私は武器としては手榴弾一個しか持っていなく、しかも弱った体であるが、まだ日本人のプライドがある。こちらが縁(へり)に避けることはない。もし彼等が危害を加えてくればそれまでだと覚悟を決め、にらみつけながら道の真ん中を進んで行った。相手が避け道を空けてくれた。
ビルマ人の中には日本人に対し好意を持った者が多いが、いろいろの事情から反感を持っている者もいた。戦況が日本に不利な現在では、おかしくなりかけてきたが、普通は積極的に日本兵に危害を与えなかった。この二人は彼の所を直後に通ることになると、私は気になったが、どうなったか分らない。私の想像ではビルマ人は友田上等兵を無視して通り過ぎたであろうと思う。
---その後、彼は自決しただろうか、すべて分からない。私が彼と別れた最後の戦友だったので、復員後早い時期にお墓にお参りしたいと思いながら、機会を逸してしまい、心残りとなっている。
あれから五十二年が経った今も、あの別れた悲しい場面が思い出されて仕方がない。ひたすら友田勇喜雄戦友の御冥福をお祈りするのみである。
更に引き返すと三叉路があった。ここを間違えたのだと分かった。部隊は右に行ったのに我々二人は気がつかず左へ行ってしまい、こんなことになってしまったのだ。あれこれしている間に部隊より約一時間余り遅れたことになり、追いつこうと懸命に歩いた。
午後遅く、やっと本隊へ追いついた。本隊は大休止をしていた。戦友達は「小田、よく追いついて来たなあ。一度遅れると殆ど駄目なのだが、お前はよく頑張るからなあ」 「頑張り屋だ」と言って迎えてくれた。しかし、そんなことより、彼のことを早速上官に報告した。
友田上等兵を残したのは、私の責任のような気がしてならない。彼は隣の班であるが私と親しい戦友で、玉島市近辺の出身で、銀行員であったと記憶している。良き戦友を失い残念でならない。いつまでもいつまでも心に残る辛い別れだった。
◆旧友との再会
シャン高原に入り半月ぐらい経った頃だろうか、敵機が飛んで来るが爆撃も銃撃もしなくなった。
「おかしいぞ」と誰かが言い出した。「そう言えば、敵の飛行機が撃ってこないぞ。もしかしたらソビエットが仲裁に入り、戦争が終わったのではないか?」と誰ともなく言いだした。これだけ戦況が悪くても負けたとは考えられないし、負けたと思いたくないのだ。
日本が勝つことはむずかしいが、負けることはないと信じて戦っているのだ。「講和が出来たのかも知れないぞ」その頃から大きい部隊でも、昼間の行軍に切り替え、いろいろの部隊が相前後して歩いている。岡山の歩兵聯隊も三々五々といった形で東に向かって歩いていた。
その時、中学(旧制)同級生の内田有方君に会った。五ヵ月前に第二アラカン山脈の中で奇遇して以来、これで二回目である。岡山の歩兵聯隊に所属しており、今度も偶然の出会いであった。この前は元気でたくましい将校姿であったが、今度は力なくひょろひょろと歩いている。服は着ているが装具は何も着けていない。丸腰といった姿。マラリヤの高熱に侵され、夢遊病者のようにふらふらしている。
すぐにお互いが分かり視線が合った。直ぐに彼の所に近寄り「おい、内田か」「小田よ、元気かい」「この前アラカンで会って以来久しぶりだが元気かい」と懐かしく声をかけあった。
元気かいと声をかけたが、お互いに痩せ衰え元気でないことは分かる。哀れな姿でお互いに手を握り頑張ろうと励ましあった。彼の手は高熱で熱く、目は黄色く濁り光がなかった。私は、彼はこんなに弱っているが悪性マラリヤではないか。大丈夫だろうかと心配した。彼もまた、小田はあんなに骨皮になっているのに、持ちこたえることができるだろうか、と心配した様子。でも、彼に会ったことが大きな気力の支えになった。
---そのように疲労衰弱していたが、不思議に二人共幸運に恵まれ、九死に一生を得て終戦を迎え、更に二年間の抑留生活を別々の地方でしたので会うことはなかったが、昭和二十二年七月にそれぞれ無事復員した。復員後しばらくして中学の同窓会で会い、お互いの無事を喜び合った。
その後は、更にいろいろのことで会うことも多く密接な関係を保っているが彼は岡山県ビルマ会の世話をよくしており、後に私もその会員となり関係行事に参加している。
特に、慰霊訪問団の一員として、私が二回ビルマへ行く機会に恵まれたのも、彼の勧めによるところが大きい。今だに、彼は「あの時は苦しかった、生きて帰れるとは思わなかった。小田、お前はメガネを糸で括り耳にかけていたが、痩せこけていたぞ。お互いに運があったのだなあ」と語り合った。
その内田君も平成七年二月永遠の旅に出てしまった。彼が健在ならば、私が今書いているこの原稿作成を支援してくれただろうに。今は心よりご冥福をお祈りするばかりである。みんな老いてきて、学友も戦友も次第に旅立ち寂しくなり、時は容赦なく過ぎてゆく。
◆うわさ
誰からともなくうわさが流れてきた。敵の飛行機からビラがまかれ、それには「日本が降伏した。戦いは終わったのだ」「日本軍は兵器を捨てて降伏してこい」「アイサレンダー アイサレンダー(降参の意味)と言って、手を挙げて来い」「戦っても無駄だ」と書いてあるとのことだが、誰も信じなかった。
しかし、嘘だと決めつける情報も根拠もない。ビルマ方面軍司令部とか策軍司令部とか、師団司令部等の友軍側の正確なルートによる情報は全然入ってこない。当時師団司令部にある通信機は既に使用不能になっており、それにこれら司令部も聯隊も分散しており統一性を欠いでいた。伝令の兵士が直接徒歩によって連絡するしか手段がなく、連絡に何日もかかる状況であった。
情報といえば、信じたくない敵のこのビラしかないのだ。嘘かも知れない?敵側の「日本が負けた」というこのビラは英印軍の謀略(ぼうりゃく)かも知れない。でも敵は、ここ数日攻撃をしてこなくなっている。飛行機は飛んでくるが撃って来ない。不思議だが、負けたということは信じられなかったし信じたくなかった。それは八月二十二、三日の頃である。
◆さまざまな戦い
敵の飛行機が射撃して来ないので、昼間の行動ができるようになった。遮蔽物の少ない丘陵地帯を進むと、道端の屍が目につく。
手榴弾を抱いて自決したばかりなのか、腹がポッカリと吹き飛び、真っ赤な血が流れ出ている。
夜間の行軍なら幾ら死体があっても見えないが、生々しく見えすぎる。
また、地雷にやられて二人が道の真ん中で折り重なり死んでいる。死体がまだ新しい。蝿が二、三匹来ているだけでまだ屍臭(ししゅう)も気にならないぐらいである。屍の傍らを避けるようにして通る。このように、所々に地雷が仕掛けられているが、退却してくる日本軍を殺傷するために、現地人が仕掛けたとするならば、その地雷はどこから入手したのか不思議である。だが、現実我々は被害を被っている。
山の谷間に行き奇麗な水を汲もうと近寄ると水を汲んでいる者がいる。動かないのでよく見ると、その姿勢のままで息絶えている。そうなるとそこで水を汲む気になれない。幅十メートルぐらいの浅い小川を歩いて渡っていると、そこにもうつぶせに倒れた屍がある。どこの部隊の兵士なのか分からないが、このように点々と屍に出会う。ペグー山系に比べると、やや少ないが、ここにも幽気が漂っている。
今までに数えられない程の死骸を見てきており神経も麻痺しているはずだが、可哀相にと思うと同時に、臭く見苦しい姿には目をそむけ、自分だけはあんな姿になりたくないと思った。戦争はこんな場面を数知れず作っているのである。
小休止になりシラミ取りをしていると、どうも股の間が痒(かゆ)く痛みを感じる。よく見るときん玉の近くにもう一つの玉があり、大きく紫色をしている。ヒイルが喰い付いて思う存分血を吸い、膨(は)れあがっているのだ。取ろうとしても固く喰いついてなかなか取れない。やっと引きちぎってみると、大きなヒイルだ。私は痩せ衰え血液も少なくなっており一滴でも惜しいのに、こんな吸血鬼に血を吸い取られているのだ。この憎いやつは木の枝におり、動物や人間が下を通ると、上から落ちてきて衣服に止まり、やがて体に喰らいつき皮膚から血を吸うのだ。気持ちが悪いぐらい大型で凄いヒイルがいるものだ。
次はダニだ。いつの間にか顔や耳などに喰らいついている。戦友が顔をこちらに向け、この辺がおかしいので見てくれと言う。よく見ると目尻にポッリとほくろのようなものが少し盛り上がって黒く見える。ダニだ、ちょっと摘もうとしても、摘めない。爪を立ててやっと引きちぎった。
潰すと赤い血を一杯吸うていた。所かまわず、ダニがさばりつき血を吸う。山の中には物凄い数のダニがいるようだ。
次はサソリだ。青黒い大きな奴を何回か見た。また小さな茶色をしたのも見たが、刺されたことはなく、刺されて困った話も私は聞いたことがなかった。
次は蛇だ。首を持ち上げたコブラを一度見たことがあるが、それは一回だけ。滴るような緑色をした五十センチぐらいの蛇を見た。それは灌木に登っていたが、美しいだけに気持ちが悪く忘れられない。猛毒を持つ蛇だということだ。
アラカン山脈シンゴンダインで二十頭の猿の群れに会った。その時自分一人だったので気持ちが悪かった。野性の象の群れを見たと誰かが言っていた。このようにいろいろの生きものに出会ったが、大した被害は聞かなかった。前に書いた虎についての被害と恐ろしさだけは格別だった。

十 終戦と抑留(よくりゅう)生活
◇終戦
◆終戦の知らせ届く
八月二十日過ぎに、ビルマの南西地区の山間に到達し、そこに駐屯していた兵士に出会った。彼等は、前線から退却してきた我々に僅かではあるが、湯茶の接待や味噌汁を作り飲ませてくれた。弱った我々を親切に迎えてくれ、おかげで体の中まで温かくなった。
彼等兵士は、一応服装も整っており、銃剣等も手入れしたものを持っていた。乞食のように汚れ、垢だらけになり破れた服を着た裸足の我々とは余りにも違い、お互いにびっくりした。ビルマで戦争をしても、前線と後方、場所場所によってかなりの差があったことを知った。
このことは、我々がタンガップにいた時、それより前線から帰ってきた兵士が弱り果て、ボロボロになっていたのを見たことがあったが、それと同じように、今は、私達がそんな姿になっているのだ。すべて運であり人のせいではない。
数日後、「小銃に刻印されている菊の御紋(ごもん)を消せ」との命令が下りてきた。今度は「兵器を一ヵ所に集め、返納(へんのう)せよ」との命令がきた。だが私は上官から明確に「敗戦」とか「負けた」とのけじめの言葉を直接聞いたことはなかった。ただ何となく負けたのだと感じ悟ったのである。我々が転進している道のすぐ近くに英軍の将校が立ち、その左右を日本の兵士が護衛し我が軍の状況を監視していたが、その様子から英国が勝ち、日本が負けたのだと実感した。その頃正式ルートから負けたという知らせが我々の耳にも入った。
一日一日と敗戦の実感が心を締めつけてくる。すべての兵器を敵軍に渡し丸腰になった。完全な武装解除である。敗戦兵士の屈辱を味わうことが始まった。
英国とインド軍の指示に従いマルタバン方面に向かい毎日の行軍が続く。英印軍の兵士が武器を持って、我々日本兵を監視警護しながら歩いて行く。
給水車がやって来て、水を配給してくれる。今までの日本軍では無かったことで給水は有難い。群がるようにして水を水筒等に注いでいると、英印軍の兵士がお互いに、「ジャプ ピッグ」「ジャプ ピッグ」と言って笑っていた。日本人野郎の豚がと言っているのだ。馬鹿にされた言葉だが、仕方がない。
久し振りにアスファルトの広い道に出た。裸足の足には余りにも熱い道だった。今までは主に山中で土の上や田んぼの畦道(あぜみち)だったので熱さを感じなかったが、舗装道路では足の裏が焼けるようだった。いくら熱くても一歩一歩煮えて軟らかくなったアスファルトの上を歩かなければならなかった。いろいろの試練があるものだ。
マルタバンに着き何回も何回も人数を調べられ、船に乗せられモールメンに着いた。その後チェジャンジーの村落にしばらく滞在した。それは昭和二十年九月中978e下旬と思う。
五月初旬、アラカン山脈のベンガル湾側のシンゴンダインを出発してから、ここに到着するまで約百四十日間、雨に濡れ野宿し、道なき道を探しつつ、河を渡り、迷ったり、取りはぐれたり、紆余曲折(うよきょくせつ)の道を行きつ帰りつした。千二百キロ、これは岡山〜盛岡間の距離になるが、この長い長い道程を、激戦、転進、敵中突破、飢餓、病魔と戦いながら裸足で歩き通し、やっと戦闘と行軍が終わったのだ。
◆体の回復を待つ
チェジャンジーで民家を借り上げ宿泊した。もう弾丸に当たる心配がなくなり、雨に濡れ食べるものがなく飢餓で死ぬことを極端に心配する必要もなくなり、最悪の状態から抜け出した。
だが、これまでに弱っていた兵士は次々に死んで行った。もちろん、栄養のある食物が有るわけではない。少しでも早く体力の回復をと願い、器用な人が犬を罠(わな)にかけて取り、皆で分けて食べたりした。私も美味しく食べ体力が少しでも回復しそうな気がした。
英軍の支配下に入ったとはいえ未だ過渡期なので、日本軍が今まで管理していた倉庫に行き、米や砂糖その他副食品をもらってくることができた。
毎朝点呼と体操をすることになったが、このところ私の腕は神経痛のため上に挙がらない。真横までしか挙げられないし、耳鳴りは未だ続いており、視力も衰えたままで、声も依然として小さな弱い声しか出せなかった。その頃戦友に「小田、お前の頭はうぶ毛ではないか」と言われびっくりした。
自分では今まで全く気がつかなかった。鏡がある訳ではないし、戦友達もやっと落ち着き私の頭を観察する余裕ができたのだ。私も自分の頭がどうなっているかなど、別に痛くもないし思いもつかないことだった。治るだろうか?と心配になった。
それから、顔だ。自分の顔は自分では見えないが、戦友の顔はみんな土のようで、煙突掃除から出てきたようなすすけた顔、髭(ひげ)は伸び放題で仙人のようだ。将校も下士官も兵隊も皆このような顔をしていた。
この頃になり、嬉しいことに血の小便が止まった。毎日雨に濡れ水に浸かり冷えていたが、終戦後は水に浸かることも逃げることもなく楽になったからだ。
戦争の最中は自分の命を維持し持って逃げるのに一生懸命で、体の細部まで見ることはなかったが、ここにきてよく見ると手の爪が皺(しわ)だらけで黄色く土色をしている。死人のそれのようである。
◆水浴
疲労衰弱の激しい時は水浴する元気もない。水浴すると熱が出るのではないかと思い、転進作戦中から戦後までの五ヵ月間、裸になり体を洗う時間もないし、弱り果て洗おうとする気にもならなかった。転進中は、ただ生き延びること、命を持って逃げることで一生懸命だった。
九月中旬になり、やっと水浴しようかと思う程度に体が回復したので、晴天の日に小川へみんなと一緒に行った。裸になってみると、ひどく両足の間が空いている。二本の足の間に大きく隙間が出来ている。おかしいなと思ってよく見ると、太腿(ふともも)が痩せて細くなってしまっている。全く骨皮だけになっており、びっくりした。太腿に両手の指を廻して測ってみると健康な頃に比べて非常に細くなっており驚いた。
胸を見ると肋骨が一本一本浮きでて、肩の骨はゴツゴツと飛び出し、これ以上痩せることができないぐらい痩せてしまっていた。おそらく、四十キログラムを切っていただろう。小川の流れで洗うと垢が皮膚から剥がれだし、なんと流れる水が薄黒く濁る程であった。
よくもこんなに垢が着いていたものだ。石鹸もないのでこすって垢を落とすだけであったが気持ちがよい。でも一度に垢を落とすと熱が出たり、体調をそこなう恐れがあるので早々に引き上げた。長い間、積もり積もった戦塵の荒落しができたのである。その時は汚れたままの服を着ており、これを洗う程の元気がなかった。
数日後の二回目には着たきりの服を水洗いし干した。干している間は着替えがないので褌(ふんどし)一つで乾くのを待った。乾燥した空気、しかも、太陽が強く照りつけているので三、四時間するうちにほぼ乾いた。
衣服を五ヵ月振りに洗濯し気持ちがよかった。よく見ると服も大分傷んでおり、歴戦の跡を残していた。服の裏の縫い目にシラミとその卵が鈴なりにくっついていたが、この程度の洗濯では半分程しか取れていないようであった。その後も、シラミに食われ続けた。
◆シラミ退治
シラミと言えば転進の半ば頃から次第に多くなり、体中シラミに食われ痒(かゆ)くてたまらない。食われた跡形で体全体がざらざらしている。小休止の間もみんな服を脱ぎシラミ取りに一生懸命だ。
しかし少しぐらい殺したところで繁殖力の方が旺盛で増えるばかりで処置なしである。昼といわず夜といわず痒くて痒くてたまらない。服の内側の縫い目に卵を産みつけ、そのあたりを根拠地として体中を這い回る。深夜あまりの痒さで寝られず、辛抱しかねて跳ね起きる。だが明かりが一つもないので、シラミを取ることはできない。とっさの判断で服を裏返しに着て、シラミが表に回ってくる間に眠るのだ。
ある日、使役で精米所に作業に行ったとき、ボイラーから熱湯が出てきて溜まっている場所があった。
その熱湯の中に浸ければシラミが死ぬだろうと思い、衣服を十分間ぐらい漬けてみた。それでも全部は死ななかった。強いものである。
一番効いたのは、英印軍にD・D・Tを体と装具一式に真っ白になる程かけられた時である。
将兵全員一斉に実施した。以後完全に撲滅した。凄い威力であった。
当時日本軍にはそんな良い薬品は無いし、あったかも知れないが実用化されていなかった。そんなことにも彼我の衛生面での対策に大きな差があることを見せつけられた。俘虜(ふりょ)生活の中だが、シラミのいない生活は健康で衛生的であった。
◆蚊とマラリヤ
ついでに蚊についてだが、蚊に対する防備は当初は頭に被る網の袋だった。まだビルマに着いて三ヵ月ぐらい過ぎた頃、ヘンサタ市方面の渡河作業をし、夕方を迎えた時、物凄い蚊の大群に襲われたことがある。暗闇の中だから、どれぐらいいるのか見えないが、空気の中の半分は蚊ではないかと思われる程であった。
その時、この網を被ってみたことがあるが、うっとうしいだけでどれ程効果があったか分からない。焚火をしたり枯草を燃やして蚊を防いだが、どうにもならなかった。手や足はむきだしであり、顔だけ覆ってみてもむさくるしいだけなので、このネットはその後使用することはなかった。
十人程度入れる蚊帳(かや)があったが、まとまって家の中で生活する場合なら役立つが分散した露営には役立たない。その内破れて無くなり、常に蚊に刺されどおしであった。ある平原地帯のビルマの民家にいる時も、アラカン山脈の中に住む時も無防備で、マラリヤを媒介する蚊に刺されぱなしであった。次々とマラリヤの病になるのは当り前のことである。悪性のマラリヤ菌を持つ蚊が一杯おり、昼も夜も所かまわず刺しているのだから、仕方がないことである。マラリヤの特効薬でキニーネがありその錠剤を毎食後飲むことにしていたが、蚊に刺されかたが激しいので、どれくらい効果があるかよく分からなかった。キニーネは胃腸にはよくないし、後にはこれも補給がなくなり対応策無しであった。昔から、ビルマは、し・ょ・う・れ・い・病魔の地と言われているが、まさにマラリヤのはびこる国である。
ビルマ全土で、我が軍は三十三万人のうち十九万人が戦死した。私の概算ではその内十二万人がマラリヤに直接間接関わりがあり、戦死したと言ってよいと思う。それ程までにマラリヤ蚊によって、大勢の兵士が殺されたことになる。
悪性マラリヤにかかれば、四十度の高熱が一週間ないし十日間連続し、亡くなる人が多い。マラリヤとアメーバー赤痢の併発で命を落とす人、間接には高熱で歩いてついて行けなくなり落伍してしまった多くの人々。マラリヤと疲労で弱ってしまい自決した人、マラリヤで体力が奪われ糧秣を取りにゆけず餓死した人も数限りない。マラリヤにかかり衰弱していたのでシッタン河を筏で泳ぎ切ることができなかった人達もある。考え方によるとマラリヤとの戦いに破れたとも言えるのである。
ところで、国が戦争で負けたので一括して捕虜になった場合は俘虜(ふりょ)と言うが、そのビルマでの俘虜生活では、間もなくアースとかD・D・T等が配給され、噴霧器による蚊の退治を徹底するようになり、しかも三ヵ月後には早くも、全員に個人用の蚊帳を配り、防蚊体制が整備された。
俘虜抑留者に対してこれだけのことができるのは大したことだと感心した。このように英印軍の環境衛生対策は、日本軍よりはるかに上であると思った。
戦争中の日本軍のように、「ビルマの山の中には、何でも食べるものがある、本来人間は草食動物であるからそれを食い生きてゆけるのだ。食うものが無ければ敵のを取って食え」と命令したことと比較すれば大きな相違である。人命尊重の思想が全く異なるのである。万事に大きな差異があることが次第に分かってきた。
マラリヤで多くの兵士が死んでいったのも、人命尊重の思想が乏しく安全衛生思想が低く、当然の結果であったとも考えられる。
◆山間へ移動収容
終戦後、英軍の命令により、戦後俘虜だから現地人の家を借りるには不適切であり、現地人に接触しない場所に集めるのが適切だと判断されたのかも知れないが、その後チェジャンジー地区内の民家から離れた山間に移動した。一つには、日本兵の逃亡を防止するためであったのかも知れない。
ここは野宿なので、細い木と木の葉で覆いをしただけの粗末な小屋をこしらえた。幸いにして雨期も終わり、雨も降らなくなっており、助かった。十月上旬から十月中旬にかけてここにいたが、毎日戦争し逃げ回ることもない。そこに休んでいればよいのだから休養ができ、助かった。
米と塩は旧日本軍の倉庫に行って、取ってくればよいので十分あった。しかし副食の肉類や野菜類は欠乏していたので、少し離れた民家の軒先に干してあるとんがらしや里芋の茎をもらってきて食べた。
少しずつ体が回復に向かっており嬉しい。皆の顔がやや丸味を帯びてきた。中には顔が腫れるようになる人もいた。急に沢山食べ調子を狂わす兵士もいた。でもこの頃はまだ、戦争中の疲労が回復しないまま息を引き取る人もあった。
◇草むす屍
◆金井塚輜重聯隊本部付少佐 元第一中隊長を葬る
前にも書いたが、金井塚少佐は五月上旬カバイン付近の戦闘で足を負傷し歩行不能となり、担架や牛の背中に乗せられ、その後は杖にすがりながら、長い苦痛な行軍に耐えてこの地点までたどりついたが、衰弱した体は病魔に冒され息を引き取られた。
昭和二十年十月六日、溝口指揮班長より「小田、お前はレミナにいる頃、中隊長と同じ家に住み、特別縁が深いから、今晩屍衛兵(しかばねえいへい)をやれ」と命じられた。自分は有難いことだと思った。
私が二年八ヵ月前の昭和十八年二月十五日に召集を受け、初めて金井塚中隊長を拝むような気持ちで見上げた時のことを思い、その凛々(りり)しい威厳に溢れたお姿、中隊全員に号令や訓示をされておられた堂々とした様子を思いだす。
また、十九年一月頃レミナの町で中隊長以下溝口曹長達八名で一軒の整った家を借り、通信班として和やかな雰囲気で任務に就いた時のことや、中隊長の人間らしさに触れ感激したことを思いだす。
屍の傍に立ち守っていると、今の姿は余りにもお気の毒である。顔を覆う白い布はどこにもないので、緑の葉が多くついた木の枝を折ってきて顔を覆ってさしあげた。冷たく硬直した体を見ていると、草むす屍を思い出し、命のはかなさをしみじみと感じさせられた。
埼玉県出身の陸軍士官学校出の青年将校、レミナにいる時、特に親しくして頂いただけに、悲しく、寂しく、いろいろのことを思い出しながら一夜を屍と共に明かした。最も重要な最後の、屍衛兵をさせて頂き、御恩に報いることができたことを感謝した。併せて溝口准尉のこの配慮を有難く思った。
翌日は溝口指揮班長の指揮により草原に穴を堀り、屍を埋葬し墓標を建て、ねんごろにお別れをした。墓標はどこから用意されたのか、材料も大工道具もないこの宿営の中で、よくぞ用意されたものとだと感心した。
残念だったのは、皆弱っている上に分散して露営していたので、十四、五名ぐらいしか埋葬に加われなかったことだ。号令一下というわけにいかなかったことだ。本来、日本軍の華やかなりし頃の中隊長の葬儀であれば、中隊四百名全員が正装して厳粛盛大な葬儀が行われたのだろうに、敗戦の今は生き残りの兵隊も少なく、命絶え絶えで仕方のないことだった。金井塚久少佐殿、安らかにお眠り下さい。
---あれから五十二年の時が流れたがその時の状況が彷彿(ほうふつ)として思い出される。遠く過ぎた悲しい夢であり、戦争の歴史も遥かに遠ざかってゆく。今でもあの埋葬した草原に草が生え茂り、灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつけているだろうか。合掌。
◆幻想
終戦後の当時、野営中も弱った者を一ヵ所に集めて病室としていた。私も以前より回復してきたが、まだ弱っているのでその病人のいる室に入れられていた。病室といっても別に変わった建物ではなく、地面の上にお粗末な小屋があるだけであり、患者を集めて寝かせているだけのことである。
別に薬がある訳でもない。ただ、炊事を自分でしなくても、誰かが、粥を作ってくれる。それに衛生兵が近くに居るので心丈夫だったし、作業に引き出されることはなかった。いわば患者が枕を並べて寝ているだけだった。
私の隣に井上上等兵が休んでいた。もう三十歳ぐらいで私に比較すれば世間のこともよく知った人であった。「いつまで英印軍に使われるのだろうか、いつ帰れるだろうか」とか、「帰れば花子さんが待っている」とか、「日本の若い女の肌は忘れられない」、「リンゴのような頬にカジリつきたい」などと、面白く話をしていた。特に体調が悪いようでもなく、私も同じようなことを考え、話したり聞いたりしていた。
その夜中、彼が独り言で「船が迎えにきた。ほれ、あそこに復員船が二艘来ているぞ。早く乗ろう。波止場に早く行こう」と言いだした。「あの島は内地の島だ」等と。初めは寝言かと思っていたがどうもおかしい。起きて歩こうともする。薄暗い夜中で明かり一つないので表情が分からないが、どうも気が狂っている。急に脳症を起こしたらしい。衛生兵を探してきたが手の施しようもない。当時薬を持っていないし、成り行きに任せるより仕方がなく、押さえつけて寝かせた。しかし二、三日たった後に息を引き取り、それきりだった。
今我々は俘虜の身であり、いつ内地に帰れるか、一生労働者として使われるか見当がつかない。
あるいは、き・ん・抜・き・にされるのかも知れないと思った。すべては戦勝国側の意志次第であり、誰にも先のことは分からなかった。
◆奇遇だ 勇気を出そう
私の隣の患者はひどく弱っているようだ。年令は私より十歳程上で軍曹の階級章をつけているが、見慣れない顔である。尋ねると岡山の歩兵聯隊所属とのことである。どうしてその聯隊の人がここにいるのか分からないが、とにかく混じっているのだ。
青息吐息なので、あまり話しかけなかった。でも私が「自分は岡山県の赤磐郡の出身だが、岡山県のどこの出身ですか?」と尋ねた。彼は「和気郡(わけぐん)本庄村(今は和気町)の出身だ」と答えた。私が「和気郡山田村(今は佐伯町)に親戚がある」と言うと彼も「山田村に親戚がある」と言う。私が「康広(やすひろ)、という家で、私の母の出所だ」と言うと彼も「康広は親戚だ」と答える。えらい近い話である。私は「母の父は康広治四郎といって山田村の村長をしていた家です」というと、彼の返事が弾んで「そこが、叔母さんが嫁いだ家です」と答える。私は「村長をしていた治四郎は私の祖父で私は外孫です」と言うと「それではお互いに、親戚ではないか」ということで一気に親しくなった。世の中は狭いもので、私の従兄(いとこ)の「栄さん」をもよく知っており本当に懐かしくなった。
お互いに元気になって必ず復員し、山田村で会おうと約束した。これが大きな励みと勇気づけになった。三、四日の後、国友政夫軍曹はどこかへ転出して行った。復員後聞いたのだが、その時野戦病院に運ばれたとのことであった。幸いに彼も私も元気になり、二年間の抑留生活を別々の所で送ったが、二人とも無事復員でき、約束どおり再び山田村(現在の佐伯町)の康広家で会うことができ、お互いの無事を喜び合った。
◇俘虜(ふりょ)(抑留者)生活
◆パヤジー収容所
昭和二十年十一月初め頃チェジャンジーの山の中の宿営地を後にして列車に乗り、ビルマの中南部地域にある、パヤジー収容所に到着した。
広い原野の中に有刺鉄線に囲まれた大きな収容所があった。数万人の旧日本兵がここに集められ、有刺鉄線の柵の外は自動小銃を持った英印軍兵士が厳重に警戒していた。収容所は竹と椰子の葉で屋根を葺いた小屋が沢山並んでいた。
いよいよ本格的な収容所生活の始まりである。有刺鉄線で囲まれた柵は旧日本兵の逃亡を防止するためと、現地人との接触を防止し警護をしやすくするためだろうが、厳重なものであった。
衛生管理を良くするために深い穴を堀り、便所として蚊や蝿の発生を防止しその捕獲に注意を払っていた。
また、防虫剤や消毒剤のスプレー散布がよく行なわれ、伝染病防止対策がなされていた。これは英印軍の方式によるもので、今までの日本軍では考えられなかったことである。
食料は少なく腹が減って困った。カロリーは十分あるというのだが量が足らない。全体の労働作業の出来ばえにより加減されるのだとか、いろいろ取り沙汰されたが、交渉したので少しだけ増やしてくれた。また配給されたバターやチーズを、ビルマ人が柵の外に持ってくる多量の米と交換し空腹を凌ぐことができた。英印軍の警護兵もこのような物々交換をするのを黙認していた。
日にちがたつにつれ与えてくれる食料は少ないながらも次第に増えてきた。
また、日用品も僅かだが配給された。炊事するための薪に困ったこともあったが、なんとか切り抜けた。服には背中にP・O・W(俘虜)と、大きなスタンプが押してあり、中古ながら清潔な物が支給された。戦争俘虜という烙印(らくいん)を押され、敗戦者という卑屈(ひくつ)な立場に置かれて、毎日労務に引き出されての生活は楽しいものではない。
しかし、食べる物がなく飢え死にしていたペグー山系の中の体の苦痛に比べればましである。労務といっても、病人や留守をする炊事当番などは作業に出なくてよかったのだから、負け戦の最中よりは今の生活の方が体に無理はなく楽だった。作業が相手側のためのもので自分の国のためのものでないことに抵抗を感じ、積極的になれず、言われた作業をすますと、宿舎にさっさと引き上げた。いつも作業が終わる時間が早く来ないかと思うような毎日だった。
パヤジー収容所にいる頃植田大尉が聯隊長として着任され「戦いに敗れたが、日本人としての誇りを持ち、耐えがたきを耐え、統制の取れた組織を保ち、頑張ろう」と挨拶と訓示をされた。
今もその時の様子をはっきりと覚えている。
なお、その頃は土の上に枯葉や枯草を敷き寝ていたが、初めて毛布が一枚ずつ配給され嬉しいと思った。なぜなら、転進作戦の途中から長い間、毛布はなく寒い思いをしていたので。
パヤジーにいる頃のある日、トラックに乗り作業に出た。ついでに、横に寝た姿で大きく有名なペグーの仏像を見た。寝た仏像は珍しいと思ったが、俘虜の身だから降ろしてもらえないので、トラックの上から遠く拝観した。
---戦後ビルマへ二度慰霊団の一員として行った時、再びこれを見て、俘虜当時を思い出し感慨深いものがあった。
◆メイクテイラーでの俘虜生活
パヤジーで二ヵ月を過ごし、二十一年一月に列車に乗りマンダレー鉄道で北に向かいメイクテイラーに到着した。ここは、マンダレーの南西約百五十キロの所で、雨量も少なく、さらりとした気候で暑いけれど住みよい地方だった。大きな湖があり鉄道交通の要衝で飛行場もあった。つい十ヵ月前には彼我の大激戦が展開された地域で、破壊された自動車が山のように一ヵ所に集められていた。町らしい所は見当らなかった。
少し前から、輜重聯隊を今までの一中隊、二中隊、三中隊でなく県単位の兵庫県、岡山県、鳥取県の三つの出身地別に、将校、下士官、兵隊を共に分け直し編成した。これは、今までの軍隊組織、上下階級の意識を多少でも緩和するためであり気分転換を図ったもので、このことはいろんな意味で成功だったと思う。そのようにして、秩序を保ち、節度を守り、抑留生活を過ごした。
我々は民家から離れた広い原野へ到着した。一両日すると大きなシートと、小屋を造るための木材と結束(けっそく)材料、それに竹などの材料その他副材料を沢山トラックで運んできた。比較的大きく丈夫なシート張りの小屋を建てた。今までの椰子の葉と竹だけで造ったものとは規模や頑丈さが違ううえに、衛生的な建物であった。
便所は、ここでも深い穴を堀り上に板を渡した簡単なものであったが、消毒剤が常に散布され蝿や蚊の発生を防ぎ、衛生的にされた。初めの内は小川で水浴をしていたが、後にはドラム缶を据えつけて風呂を造り、湯を沸かし入浴した。石鹸の支給もあり体を清潔に洗い、日常生活も次第に向上してきた。またこの頃になると、体の回復と共に、黄色い土色の爪とは全く異なった奇麗な新しい爪が伸びてきて、くっきり段がついた。四〜五ヵ月経ち全部奇麗な爪に生え替わった。
ここまで元気になると、特別な病気に罹(かか)れば別として、衰弱により命を落とすことはなくなったと自信が持てるようになった。健康になるのは本当に嬉しく、心に明るい希望が持てるようになった。
◆食物
食糧の支給は、英印軍のもので小麦粉が主体でバターやチーズ、それに食油類が多く、羊や魚、野菜の缶詰等であった。カロリー的には足りるのかも知れないが、我々日本人は米が主食だから、食べる量が足りない。それに若い最中だから腹が減る。
我々が収容されているキャンプの柵の外にビルマ人が米を持って来て、これをバター類と物々交換をした。ビルマは米の産地で幾らでもあり、現地人の中には英国製の缶詰や珍しい物を食べたい人もあり結構交換が成立した。ビルマ人の日本人に対する好意もあり、それに見張りのインド兵も黙認の形をとっており、お陰でひもじさを補うことができた。
この頃は炊事をする人が専門に選ばれ、皆の分をまとめてしてくれるので、大いに助かった。その人達が物々交換も一括してくれるようになり、次第に食べることの心配がなくなった。
収容所生活では、重い患者は英印軍の病院に入院し、病人と日常の炊事班、班内当番、その他若干の者等何パーセントかの人を残し、あとの全員が使役に出て行くのである。また、全員休日の日も決められ、無茶な労働が強いられた訳ではなく、俘虜に対する扱いとしては苛酷ではなく、比較的正しく扱われたと思う。我々にしてみると、初めの数ヵ月は一生、労働させられるのではないかとの不安があった。しかし、その後はいろいろの情報から、待っていればいつかは内地に復員できるとの希望が出てきた。でも、その時期については全く分らなかった。
余談になるが英印軍の食料は清潔で運搬しやすいように、殆ど全部が缶詰で供給されていた。
戦争中の我々ビルマ前線の飢餓状況を思う時、食糧補給態勢が全く違い、その差異の大きさに驚くばかりであった。
それから食料品の缶詰等の運搬や、倉庫からの出し入れ作業の時に上手に少し失敬して帰ることもあった。これを見つけて怒るニグロ兵、知らぬ顔をしているインド兵等いろいろである。
我々も一年を過ぎると食物が少なくて飢えているのではなく、運搬中に数をごまかしたり少し盗んだりして、実益とスリルを楽しんでいる節もあった。だが、美味しい物を沢山食べたいのは人情であり、若い俘虜にありがちなことである。
食べることに続いて飲むことだが、キャンプ生活が落ち着き、日にちがたつと、器用な人が酒を作ることを始めた。黒い板砂糖から醸造するらしいのだが、案外簡単にできるようであり、酒の好きな人は喜んで飲んでいた。ただしメチルアルコールで悪酔いする傾向があった。私も一、二回飲んでみたが、まあまあの味だった。早く復員して畳の上で日本酒を飲んでみたいと思った。
◆作業
英国印度軍の指示による労働作業であるから、日本の国や自分達のためのものでなく、すべて相手側のためのものだから、釈然(しゃくぜん)としないものがあった。しかし、俘虜の立場では仕方のないことであった。
作業は、近くのメイクテイラーの駅に行き、貨物の上げ降ろしをする作業が多かった。炎天下でする作業は楽ではなかった。でも昼休みは一時間あるし途中で十分間の休憩時間もあった。
時々メイクテイラー空港に行き輸送機へ荷物を積み降ろしする作業もあった。飛行機に乗るのは初めてで珍しかった。その他穴堀り、草取り、土木作業、重量物運搬等いろいろの作業をした。
遠くへ作業に出る時はトラックが来て我々を運ぶのだが、一度に大勢運べるし、必要なら何台でも来て、作業場へ短時間で連れて行くので誠に能率的に作業に取りかかれた。
ちなみに、私がビルマに来て戦争中の二年間で、輜重隊におりながら、私は一中隊で輓馬隊だが、二中隊も三中隊も自動車隊なのに、トラックに乗せてもらったことは殆どなかった。ただ、通信技術の教育を受けるためタンガップからラングーンの往復に乗せてもらったことがあっただけである。それ程日本軍はトラックの輸送力が貧弱であった。我々はいつもテコテコと日数をかけ疲労困憊して歩くだけであった。
俘虜になり作業に出てみて、彼我の輸送力に何百倍もの違いがあり行動力の桁が全然違うことを痛感させられた。
また、作業のことだが日本人が今までに見たこともない超大型の運搬車を持ってきて必要な特殊運搬をするので、全く比較にならない能率である。それに、土木作業には大型、中型、小型のブルトーザーを持ってきた。人間五十人分にも相当する作業を一気に片づけるのだから全く驚異である。新しい道路を建設するぐらいのことは造作がないのである。
日本兵が百人がかりで十日かかる仕事を、二、三日で完成してしまうのである。我々日本軍がスコップとつ・る・は・し・で、汗を流し流しするのと雲泥の相違である。作業能率が二桁以上違う。こんな相手と戦争をしたのだから勝てるはずがない。相手を知り驚くばかりである。
ともあれ、このような大型機械の間で人の手で出来る部分を割り当てられ作業をした。
作業はいろいろあり、便所の穴堀りから、時には英人将校の日常生活、掃除の手助けを割り当てられることもあった。当たり前だと割り切ればそれまでだが複雑な心境であった。
変わったところでは、私を含めて三人が本隊より離れて泊まり込みで、英印軍の馬二十頭余りの飼育管理の手伝いに十日程行ったことがある。私は通訳をするうちに、二人のロンドン生まれの兵隊と仲良しになり、だんだん会話がよく通じるようになった。
◆たばこについての思い出
たばこについて少し記録しておくと、戦いの最初の内は内地の「誉(ほまれ)」とか「ゴールデンバット」等を配給でもらったり、買って吸っていたが、それが無くなると、現地たばこ(セレー)を買って吸った。前にも述べたが、人差し指ぐらいの大きさにたばこの葉を巻き、中に鋸屑(のこくず)のような物が入っており、比較的辛くないものをよく吸ったものだ。その他にと・う・も・ろ・こ・し・の鞘(さや)にたばこの葉と鋸屑状のものを巻いた太い物、たばこの葉のみをぎっしり巻いた辛口の物等があった。セレーは中の屑がポロポロとこぼれて落ちるので、衣服に火の粉が落ちて焼ける恐れがあり、用心して吸わなければならなかった。
日本軍が優勢な時は軍票で買うことができた。しかし戦況が悪くなり負けてくると軍票の価値がなくなり、買うことができなくなった。それに、山の中を逃げるばかりだから、たばこも欠乏し無くなってしまった。
その後、糧秣収集の時、煙草の葉を失敬してくる。たばこを吸う兵士にとっては米・塩につぐ必需品で大切なものであった。また、運よくどこかでたばこ畑を見れば青い葉をもぎとり携行したこともあった。私自身たばこが好きだったので、これを得るために非常に苦労した。死にそうになる程苦しくても、たばこは欲しくて、止められなかった。でも、転進中の山の中でたばこがなければ、仕方がないことだった。終戦で俘虜となり収容所の有刺鉄線の柵の中に入れられてからは、どうにもならず困り果てた。
その頃から英印軍の命令する作業に出ることになった。「窮(きゅう)すれば通(つう)ず」という言葉があるが、作業場に行くと英印軍兵士の捨てたたばこの吸い殻があり、それを拾って持ち帰り、薄手の紙に巻いてたばこを作るのである。初めの内はやはり日本軍人の誇りがあり、こっそりと拾っていた。乞食でもあるまいしと、自尊心に悩んだ。しかし棒の先に針を着け突き刺すと、かがまなくても楽に拾え、しかも拾っているのを人に気づかれないですむので、情けないことだと思いつつもそんなことをした。「モクヒロイ」と呼んで、かなり長い間みんながやっていた。
俘虜となって、半年ぐらいたった頃から、英国のたばこ「ネビーキャツト」を十日に一箱位配給してくれるようになった。また、作業が個人的なものだったりすると英国の将校が一箱くれる場合もあった。また作業中に盗んだ缶詰や、配給になったバターやチーズをビルマたばこのセレーと交換したりした。そんなことをしてまでたばこを吸った。いずれにしても、戦争中及び抑留中たばこを吸うために、大変な苦労と犠牲、そして恥をかきながら過ごしたのである。
◆キヤンプ内の娯楽等
メイクテイラーへ来た頃から、みんな顔色もよくなり、頭の髪やあごの髭(ひげ)も奇麗に剃り清潔になり元通りとは言えないまでも、元気になり規則正しくリズムある生活ができるようになった。若い者同志であり、体が弱っている間は誰も黙っていたが、健康が回復するに従って、お色気話や女性の話が出るようになった。
心の中では、いつ帰れるか分からない不安が常にあったが、それはそれとして明るさを取り戻してきた。厚紙を切って碁盤(ごばん)と碁石を作り囲碁を楽しむ者、将棋をする者、マージャンも竹細工で牌(ぱい)を作り遊んでいた。器用な人がいて、飛行機の残骸のアルミ板を切りギターを作る人、それを奏(かな)でる人、習う人、詩や歌を作る人、英会話を勉強する人、戦記や名簿等を整える人、いろいろの趣味で憂(う)さを払い、希望を持ち、人間としての存在を確かめつつ、内地に帰る日を待ちわびた。
毎日全員で朝礼と体操をした。この頃は元の中隊編成でなく県別の編成に切り替わっていたが、階級制度に準じて組織を守りお互いに秩序ある生活をした。
「烏合の衆(うごうのしゅう)」でなく整然とした体制を整えており、これといったトラブルも殆どなかったのは日本軍人の素晴らしいところである。
私も身体が元気になり、英会話を習ったり、バレーボールなどをして楽しんだ。メイクテイラーは雨が少なく生活しやすい環境で、お陰で病気になる人も少なく助かった。作業に出る以外はこれといった仕事もないのだから、のんきといえばのんきな生活であった。
それに、演芸会を見る楽しみができてきた。初めは、誰かが皆の前で歌を歌って聞かせる程度のものだったが、それが好評で次第に規模内容共に充実し、素人ながら役者になる人は労務に出ないで芝居の練習をし、衣装や楽器等も作り劇団を編成した。娯楽のない俘虜生活の中で皆に歓迎された。
皆も作業に出たとき、布切れやペンキを持ち帰り衣装を縫う人に協力した。兵隊の中には器用な人やいろいろの職業の人がいるので、何でもできた。裏方さんが何人もおりカツラでも見事な物を造るし、どこからか白粉(おしろい)を持ち帰り顔に化粧をし、女形の美人に仕上げた。
舞台も兵隊の大工さんがしっかりした物をこしらえ、照明装置も作業に出た時、部品をもらってきて配線した。夜間照明の下では本当の女性かと思われる程に変装し立派な役者が出来上がった。
さらにギターやマンドリン、尺八に太鼓等も手製で作り華やかに演奏した。すべて本式である。こうして、一ヵ月に一、二回芝居が興業された。その度に、ヤンヤ ヤンヤの拍手で皆の楽しみになった。男性ばかりの収容所生活ではこのような女形が大変もて、中にはこの女形に惚(ほ)れる人も出てくる有様だった。
◆ビルマ人の好意
戦争の当初、日本軍がビルマ全域から英国軍を駆逐し、我が軍の勢力下に収めた頃はビルマ人が歓迎し好意を示したのは当然であり、その後平穏な頃も引き続いて良好な関係が続いていた。 しかし、昭和十九年の後半から日本軍が劣勢になってくると、軍票の値打ちも下がり遂にただの紙切れになり、これで物を買う訳にいかなくなった。二十年に入ると我々はいよいよ戦闘態勢に入り、山の中で生活し現地人との友好的接触も無くなり、軍票を使用するような機会も閉ざされた。
食べる物が欠乏し、もらったり、拾ったり、失敬したりしなければ生きて行けなくなり、この頃からビルマ人に迷惑をかけることとなった。こうなるとビルマ人の中の一部の人や、被害を被った地域によっては、日本軍に対して反感を持つ者も出てきた。しかも日本軍が敗れ武装解除され、俘虜収容所に入れられてしまえば全く知らぬ顔でよいのだ。
しかし、そこがビルマ人、仏教国で仏心があるというのか、あるいは同じ黄色人種の親しさからか、あるいは一時にしろ英国を排除した力を尊敬したのか、大多数のビルマ人はいつまでも我々に親切にしてくれた。収容所の回りに張りめぐらしてある有刺鉄線の外に来て物々交換をしてくれたことが、日本兵にとっては大いに助かった。英軍から配給になったチーズやバターなどを沢山の米と替えることができたのは有難かった。
また我々が英軍のトラックに乗せられて、作業のために少し遠い所に出て行った時など、印度兵が運転しているが、休むために部落の中に止まるとビルマ人がすぐに差し入れに来てくれるのだ。
日本兵が俘虜生活で可哀相だと思い、ビルマたばこのセレーを沢山持って来てくれ、バナナやマンゴをくれるのだ。握り飯まで作ってくれることもある。
負け戦の最中には大きな迷惑をかけているのに、すまないと感謝した。印度兵が自動小銃で警備していても、それにかまわず俘虜の我々に与えてくれるのだ。この温かいビルマ人の心を忘れることはできない。私は感激し今も忘れられない思い出である。
このように現地人から恩を受けている私達は、できることがあれば報いたい気持ちで、心よりビルマ人の幸福を願うものである。

十一 復員への道
◇ビルマを後に
◆メイクテイラーを出発
待ちに待った内地に帰る命令が下りた。メイクテイラー一年半の抑留生活の終わりに当たり、そのキャンプにいる全員が集合し宮崎師団長閣下の訓示を受けた。その要旨は、戦争中の苦労に対する慰労と、抑留生活も秩序を保ち日本軍人の誇りを持ちこの日を待ったことへのねぎらい、戦没者をこの地に残す無念さ、更に人類の歴史において戦争は絶えず起き、決して無くなってしまわないと、いうものであった。
出発の日は早朝に起き、持ち帰る装具一式を外に出し、宿舎を解体し一ヵ所に寄せて燃やした。赤い大きな炎が天に舞い上がった。灼熱の太陽に照らされ、暑く熱く強く印象に残った。完全に後始末をし、メイクテイラー駅に行き列車に乗った。メイクテイラーよさようなら。それは、昭和二十二年六月十四日であった。
首都ラングンーに到着、港近くのテントで四、五日待機し、希望が大きく膨らんだ。それでもまだ『だまされているのではなかろうか』と多少の不安が残っていた。
◆辞世の句
今まで我々が抑留されている間に、ビルマで戦った将兵の内、戦争犯罪者として、英国軍に拘束され刑務所に入れられた人達があると聞いていた。日本の国のために上からの命令で行動してきた者を連合国側はどのような犯罪として咎(とが)めたのか分からないが、多くの人が一方的に裁きを受けた。
我々がラングーンに来て初めて、その人達が戦犯者収容所で処刑されているのを知った。ミンガラドンの掲示板にその方々の辞世の句が貼られていた。復員を目前にした私達の仲間の誰かが、謹んでそれを写してきた。
ここに、そのほんの一部だが紹介し死刑に処せられた戦士の無念さを偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
刑執行の前夜
呼び出しの 沙汰にも声の高らかに 廊を隔てて名残惜しめり

迫り来る 時限りあり 限り無き 思いぞ尽きし この夜短かし


夜もすがら 語りし友ははかなくも 刑の露と今消えてけり

刑場に 唱う万歳 われも又 答えんとして 身を正しけり

辞世 憲兵大尉 松 岡 憲 郎
運命とて ほほえみつゆく 益良雄(ますらお)の 清き心や神ぞしるらん

緑 川 大 尉
消え去りし 友の御霊(みたま)を 伏し拝み 同じ草葉の かげに入るかも

吾が命 二十と八の誕生に 忠義の鬼と 化してゆくなり

鈴 木 曹 長
君が世の 寿(ことおぎ)唱(とな)えて 神の召す 台に上がりて 花とちりなむ

獄 ニ 想 ウ 田 室 曹 長
月 落 百 鳥 啼 破 睡 清 冷 大 気 流 獄 壁
白 魂 清 々 心 満 誠 忘 向 死 憶 皇 路 ■
◆復員
六月十九日復員船熊野丸に乗船した。タラップを上がり日本人の看護婦を見た時、初めてこれで間違いなく日本へ帰れると確信した。
この看護婦の色の白いこと、清らかで美しい姿を見て内地がより一層恋しくなった。安心して所定の場所に荷物を置いた。小型の航空母艦で内部は輸送船に改装されていた。小型にしろ、航空母艦がよくぞ戦火を潜り抜け残っていたものだ。その熊野丸はラングンーの岸壁を離れた。
この地に残した十九万の英霊に鎮魂(ちんこん)の祈りを捧げビルマと別れた。シュエダゴンパゴダが段々遠くなって行く。パゴダよ英霊を守って下さい。いつまでも。
熊野丸は前にビルマに出陣する時の輸送船の寿司詰め状態より大分余裕があり、楽だった。それに船の速度も早く、潜水艦を避けるためにジグザグで航行する必要がなく、一路進むので割合早く日本に帰ることができた。
豊後(ぶんご)水道を通過する時、甲板に上がって見ると漁船が手を振って迎えてくれた。これでやっと内地に帰ることができたのだと思うと感激一入で胸が詰まり、目頭が熱くなった。後に聞いた田端義夫の「帰り船」の歌そのものである。

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