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長尾日記




千葉真一は男で御座る。



2007年10月28日(日曜日)
ありがとう、サクシード。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。








2007年10月28日(日曜日)その2
なんだかお別れの日は、キレイにする時間もなくて申し訳なかった。 トヨペットディーラーのスズキさんにクルマと一緒に記念写真を撮ってもらって ちょっとキモチが落ち着いた。

カード利用限度額やら印鑑証明やら財布を家に忘れたりとか、とにかくどたばたの 新車買い替えだった。

で、きました例のまっしろいヤツ。
これでBossの悩み?も解消!!!
ぜひお店が終わった夜にでも見に来てください。
なぬ、僕が居ないって。まぁ両親いるしー。

5人8台はイケル?
サクシード積載方式を使えば、5人10台?
こんどのレースは、、、沖縄除くとウィンター?
みんなの自転車で積載実験をしよう。
助手席はBoss専用にしようかな。



2007年10月25日(木曜日)
全身血まみれになり、目も開かずただ激鉄を引く。
もう死神は俺の左肩をはっきりと掴みかかっている。
いつ死んでもおかしくない毎日。そんな日に
風穴を開けてくれたのは、やはり戦車長だった。

新横浜戦線から呼ばれた彼がこの現場に来ていると聞いたとき、
思わず顔が緩んだ。自分で自分の表情が変わったのが分かった。

水曜、木曜、血をぬぐって前を見つめるようになった。

明日は戦車長は新横浜に戻る。
ありがとう。
明日1日ぐらい、何があっても大丈夫だろう。


2007年10月21日(日曜日)
茅場町まで自転車で行こう。
朝ご飯を食べて、セルビーノにジテツー用品をくっつける。
チェーン鍵。よし。
ライト。よし。
テールライト。よし。
タイヤの空気。よし。
メーターの読み取り。よし。
パンクキット。チューブはないが補修部品はOK。
ポンプ。CO2がある。よし。
水。よし。

ひさしぶりに乗る自転車。
すっかりやせ細った前モモで前へ漕ぎ出す。
府中街道を右折。中原方面へ。
40キロ出ている。はは。まさかー。
今日はゆっくり走ろう。仕事は午後からだ。

追い風にのって、終始きもちよく走る。
武蔵小杉を通り過ぎる。。。。ひさしく自分の会社に行ってないな。。
丸子橋を渡って中原街道を上る。ふぅ。
ちょっとした坂がきつい。やっぱり心肺系は衰えるのはカンタンだ。

いつもの道。クルマにきをつけ走る。
五反田を通り過ぎる。なんか心ここにあらず。。。あ、つかれたかな?
ペースダウンして、しばらく走ったが、「桜田門」の案内表示が見えたところで Uターンする。今日は、、、ここまで。だって午後から仕事だからね。

しばらくすると、いきなりクリートが外れて左足がぶらぶらする。あれー? 足の先になにか棒がついている。クランクだ。

急停止。なんとクランクがすっぽ抜けている。


どうやらキャップと2本のネジがすっとんだらしい?どこにも留め具がない。 ・・・・どうしよう。どうやって帰ろう?
歩道ににげて、しばらく考える。石をふたつ拾って、クランクをシャフトに 打ち付ける。なんとかはまった。よし、もういちど走り出そう。 10メートル走ると、チャリーん。。。また外れた。 ぬけるときはカンタンだな。 また路肩で石をひろってカンカンはめこみ、走り出す。10メートル、ちゃりーん。 また路肩で・・・10メートルちゃりーん。。。石をポケットにいれて、10めー・・・・

漕がなければいいか?
内股なら?
外またなら?
片足なら?

・・・・

環七、環八、ちゃりーん10メートル。

丸子橋だ。下りだ。ちゃりー、、
多摩サイでちゃ10めーと
・・・・

多摩サイでおばあさんのママチャリに追い抜かれて、ふと気がつく。もはや手で 押し込めるほどゆるゆる。ならば、走っているときに押し込めるじゃないか!

手で押し込み、10回漕ぐと、左足のつま先を左右に振り、クランクの頭をこんこん 叩いて押し込む。10回漕いでコンコン、10回コンコン、あ、対向自転車だ、 えいえい、ちゃりーん。。。もういちどやりなおし。
こんこん10回こんこん10回。

なんともみじめなキモチでお家に着いた。
いそいで昼ご飯たべて、着替えて出勤。

・・・・・・
ことしはいいことなんにもない。
なんだかさみしいおっさんになったな。


2007年10月19日(金曜日)










つかれた。

むなしい。



帰れそうにもない。
小杉のマエダさんに
「月曜、僕の机に、ワンカップ大関のコップにタンポポを活けてください。」
と頼んでおいた。


2007年10月14日(日曜日)
イシダ准尉から、今後の布陣について、本隊からの支援について、 いろいろ策も授かった。溺れかけた俺にとって、無我夢中で 撃ちまくってた自分に、すこし落ち着きが戻ってきた。 (ほっとした。)
でも、明日からまた戦場だ。


今日は粘らず、夜7時前に撤退した。というのは、、、うちに帰って 「風林火山」を観るからである。


由布姫(ゆうひめ)を演じる柴本幸は新人だそうだ。でも、、、 今日は泣けてきた。

今日の番組、観た方はいるだろうか。
ああいう女性に僕はめっぽう弱い。
なにせ、うちの母親がああいう女だからだ。
「男に生まれてきたなら、必ずや大将となって、国を動かしたい」
まさにそういう気性の女なのである。
(大蔵省主計局に行きたかったとか。)


さいきん「女は強くなった」とか言う。
なにをいう。自分本位の勘違い女ばかりじゃないか。
甘えとルール違反をなんとも思わない自己打算な強さばかりで、 本当の強さ、覚悟なんて、若いやつにには、どこにもない。

・・・
昔のほうが、人は強かったのかな。

由布姫の、死期を覚悟した山本勘助への叱咤と礼のことばは、、、、
(ウチの母親は風林火山の若手役者に大変厳しいが、今日は何も言わなかった。)
千葉真一も良かったが、なんと新人女優さんまで、みごとである。

NHKのページで、クランクアップ後の柴本幸のインタビューを呼んだ。どう思う?


「この1年、由布姫を演じてきて改めて感じたのは、とても“思い”の強い人だということでした。一つ一つの感情の動きが大きいんです。それが身近な人間にとっては迷惑なこともあるんですよね。由布の思いの強さを重たく感じたり、離れたくなったり…。お屋形様から敬遠されてしまうこともあったけれど(笑)、思いの強さを貫き通したところは彼女の大きな魅力だと思います。
でも、時には私自身由布に反発したくなることもありました。柴本幸として冷静に台本を読むと、『どうしてそんなこと言っちゃうのかな』とか、『どうしてそういうことをするんだろう』と思ってしまうことがよくあって。たとえばお屋形様に新しい側室がいることを知ると、勘助にガンガン当たっていろんなことを言ってしまうでしょう。この時代では仕方がないことだし、三条夫人は胸に納めて口にしないのに、なぜ由布はこんなことを言うのかなって。
ただ、それは台本を読んでいる間だけのことで、実際に演じるときにはいっさい疑いませんでした。由布その人になって『私は本当にこう思っているのよ』という気持ちでした。そうでなければ矛盾だらけの人になってしまうので、信念を持って演じていました。

由布は、あまり弱音を吐くこともない強い女性ですが、その強さは不器用さと紙一重なんです。自分からいろんなところにぶつかっていき、傷ついていく。それも尋常ではない傷つき方をしてしまうんです。
由布を演じていて辛かったのは、私自身も由布と同じ感情になってしまうために思い切り傷ついてしまうことが多かったこと。由布の感情の振れ幅が大き過ぎて、うまくコントロールできず、それが私の体にどんどん傷として刻み込まれていくんです。しだいに、ぼろぼろの精神状態になって、ばたんと倒れてしまうんじゃないかと思ったこともありました。
すべての収録が終わりましたが、いまだに由布姫は私の中に大きな範囲を占めたまま、どーんと居続けています。本当ならもうそろそろ由布にお別れを言った方がいいのかも知れませんが、無理に閉め出そうとすると悪化してしまいそうなので静かに見ていようかなと思います。いつか私の中を去ったとき、きっといい思い出となっていくんでしょうね。

これまで由布姫といえば“運命に翻弄(ほんろう)された悲劇の女性”というイメージが強かったと思います。でも私が最初に思ったのは、由布は“悔いのない生き方を貫いた女性”だということ。そして、そのことだけはドラマを見てくださる方にお伝えしていきたかったことです。それを少しでも感じていただければうれしいのですが…。
この1年で大きな自信がついたとか、確証を得ることができたとは、まだとても言えません。ただ、これからいっぱい迷うだろうし、ぶれることもあるだろうけれど、小さくても確かな原点が一つできたという気がします。ここに戻れば、自分がどうして役者になりたかったのか、役者としてどうしていきたいのかという思いを確認できる。そんな原点を、この1年一緒に仕事をしてくださった方たちに作っていただけた気がしています。
本当にすてきな役者さん、スタッフに恵まれました。キャリアも引き出しもない私を見守ってくださったことに感謝以外の言葉が出ないですね。」


僕は役者のなんたるかなんて、まったく分からないが、 これは、これはまちがうことなく、ホンモノだ!


2007年10月12日(金曜日)
金曜の夜。しあわせなわずか。

ずっと金曜の夜だといい。
今週は、土曜の夜も駄目だ。

金曜の夜。



半蔵門線で座れた。
起きたらとっくに宮前平を過ぎていた。
鷺沼からタクシー。

タクシー代、請求できるかな。

真赤なスカーフには、 2番の歌詞 もあるんですよ。

かならず帰るから 真赤なスカーフ
きっとその日も 迎えておくれ
今ははるばる 宇宙の果て
夢を見るのも 星の中
旅する男の瞳には
ロマンをいつでも映したい
ラララ・・・ラララ・・・
ラララ 真赤な スカーフ
(ウチには昔のままのレコードもあります。)

おまけ:旧OP
http://www.youtube.com/watch?v=sqBCz8ZfxU4

ついでに超おまけ:
オトコノコどきどき映像!
http://www.youtube.com/watch?v=3NvSh7k04cY

過去
http://www.youtube.com/watch?v=95_WOyJKjIE


2007年10月10日(水曜日)
あいかわらず。
1時に帰って2時に寝て5時に起きて6時に出て、、、WBS。
さいきんWBSはさらに後ろに下がったな。そんなに小谷さんは 俺に会いたいか。
ぐーぐー。

コンセプトカー?
どれも「ハコもの」、つまりクルマから脱皮できない。
TOYOTAだけか。明日のあるのは。
HONDAは優秀な人材がヒコーキ開発とロボットへ取られたんかい?

・・・

どこもたいへんだな。
うちとおんなじか。。。
もっとキリキリ、がんばらんかい!


2007年10月8日(月曜日)
朝練のち出勤。
一時間遅れの平日だな。

長尾坂を登って五所塚へ降り、神木本町をぬけて、清水台へ出て、 川崎北部市場ちかくの住宅街のまわりを、心拍を範囲内一定で走る。 やっぱり、心臓よわっちくなってるな。
まるで最近自転車を始めたように弱いな。
努力自体が悲しくなりかけたが、こうやって走って汗かくのが楽しい のだから、もう鬱になるのはよそう。
ひとり朝の空気をすって家に帰った。

・・・ところで。
すっごいどうでもいいことだが、
オーベストHPのトップページを飾る「速報」は、 実業団のときは○○選手、それ以外は「さん」「くん」づけである。
「くん」は10代と、そのご同類である。

・・・そんだけ。

今日は職場に人がいないので、すっごい仕事がはかどった。 普段は電話やメール、指示要求や相談や依頼が次々来て、 自分の仕事は夜にならないと手がつかないのだ。


2007年10月7日(日曜日)その2
えー、こんなアホな日記をみるひとのなかに、ヒコーキに詳しいとか、 ヘリコプターなら型番まで言えるよとかいう酔狂は、まず一人も居ないでしょう。
ちなみに僕はその世界の、オタク度下の上ぐらいのレベルぐらいに染まっているのである。

さてどのへんが下で、どの程度上かというと、どうなんでしょう。

で、最近の研究テーマは、ずばり「国産ジェットエンジン」である。
しかし正確に言うとジェットエンジンでなく、ターボファンエンジンかもしれない。 いわゆるジェットエンジンは「ターボジェット方式」と「ターボファン方式」のふたつに 分かれる。このうち現在の主流はターボファンエンジンであり、僕の関心ももっぱら ターボファンなのである。
ジェットエンジンとはタービンという扇風機の羽が隙間なくびっしり生えたものが 猛烈に回って空気を圧縮し、排気するときに燃料を吹き付けて燃やし、猛烈な勢いで 後方に空気を放出するエンジンのことである。
この「ターボジェット方式」はジェットエンジンのなかでも古くからあり、高速の 排気が得られることで朝鮮戦争以降の戦闘機から使われてきた。
飛行機の速度が速ければ早いほど排気の量(推力という)が増えるので高速偵察機 などには適しているが、猛烈に燃費がわるく、かつ騒音もひどい。 これを改良したのが「ターボファン方式」である。
これはターボジェットエンジンの空気取り入れ口にもうひとつ扇風機のお化け、 圧縮機をつけて、全部でなく部分だけターボジェットエンジンに吸気させ、 のこりの空気はエンジンのまわりを素通しさせ、排気のとき一緒にまぜて 全体的な空気の流量を上げ、排気速度を飛行機の速度に合わせることで効率を上げたものである。 現代の飛行機用「ジェットエンジン」はたいていこのエンジンである。

余談だが、、、ジェットエンジンは飛行機だけでなく、さいきんでは船舶にもついているですよぉぉ。

もひとつ余談だが、、アフターバーナーというものは、この燃焼して排気された空気の、 燃え残った燃料を再点火してもういちど爆発させて放出することを言う。 アフターバーナーをやると、推力が1.5倍ぐらい増えるそうだ。

で、このジェットエンジンを開発できるのは、アメリカのGE=ゼネラルモータース、 おなじくアメリカのP&W(プラットアンドホイットニー)、イギリスのロールスロイス、 フランスのSNECMA、スウェーデンのボルボとか、あとはロシアとかぐらいだろうか? とにかく、限られた会社しかないのである。

日本は第二次大戦のときは優秀な航空機をやまほどつくり世界をリードするほどの 飛行機技術の先進国だったが、大型エンジン開発に難航して(戦争後期は負けつづけ)、 敗戦後はGHQの方針で飛行機製造を一切禁止されてしまった。
ちょうど航空機がプロペラからジェットエンジンに飛躍する時代、日本人は飛行機開発に いっさい手を出せなかったのである。

しばらくして飛行機開発は再開されたが、ブランクが大きく会社単独では全く開発できず、 政府通産省が各重工業各社を調整して協力させ、合資会社でYS−11という100席程度の 旅客機をつくった(1960年代)。
そのほかにも自衛隊の練習用ジェット小型飛行機T−1や、三菱重工単独のビジネス向けの 10人のり小型プロペラ機MU−2も世に出ることが出来た。

YS−11はビジネス的にも比較的成功し、日本だけでなく、地中海、東南アジアなどでも 使われた。だが、機体設計はともかく、エンジンは外国製(ロールスロイス)だった。 MU−2のエンジンも外国製。自衛隊の練習機T−1はいちおう石川島播磨重工の製造だったが、聞いた話では アメリカ製エンジンのデッドコピーだそうだ。
つまり機体はなんとか作れてもエンジン開発がだめだったのである。 エンジンがなければ飛行機は設計さえ始められない。飛行機製造を牛耳るのは、 エンジン製造会社なのである。

その後日本の飛行機開発はなかなか続かず、世界の大国が航空ビジネスで販売チャンネルを 独占するなか、日本は飛行機製造後進国に転落していった。

1980年代、T−4という自衛隊向けの小型ジェット練習機が初飛行した。 自衛隊向け飛行機開発は、つねに通産省が重工各社を束ねて協力関係を築き、少ないチャンスと 予算のなか、飛行機製造各社が技術をひとしく高めようとしてきたのであるが、 エンジン、機体共に国産なのは、ひそかに快挙であった。

エンジンは国産の「F3−IHI−30」。石川島播磨重工が開発したターボファンエンジンで、 アフターバーナーはつかないが、良好な推力重量比を持つ小型エンジンであった。
つまりこの事件(僕には事件だった)は、日本も曲りなりにもエンジンが開発できる、 という事実だったのである。うむ!

でも、話はそう楽観でもなかった。
ジェットエンジンは大型にするのが案外むずかしく、大きくなるにつれて推力は上がるが、 それ以上に重量が増えてしまう。大きく、かつ重量を軽くしないと飛行機エンジンには ならない。F3−IHIが成功したとしても、これを拡大設計して大型エンジンを作って、 大型飛行機が製造できるわけではないのである。

F3エンジンには後継があった。さいきん調べてわかったが、「XF−5」という 実験用エンジンが、石川島播磨重工業によって実験中で、来年で開発が完了する見込みだそうである。
このXF−5はF3−IHI−30の1.5倍の推力を目指したもの (加藤の綿密な数値計算による憶測。根拠はヒミツだが、マジメよ。)であるが、 開発した結果は、1.5倍からさらに性能が3、4割増したらしく、アメリカのような エンジン先進国の1980年代か、あるいは1990年代ぐらいまで追いついたのでは ないだろうか、、、と、僕は信じている。
(この話は、中国韓国ロシアにはヒミツね。。。って、僕の情報なんてどーでもいいか!)

ただ、推力が1.5倍超だとしても、戦闘機の実用エンジンとしては小さく、このエンジンでは まだ中型練習機ぐらいしか実現できない。
ただ、このエンジンの技術力を背景に、今日本の各社は、世界の共同開発プロジェクトに 参加できるようになり、ボーイング747の後継機のエンジンの一部や、主翼の一部を 担当させてもらえるようになってきたのである。


これが、、、、今の日本のだいたいの状況である。

で、こっから先がどうなるであろう?
これを綿密な計算で予測するのが、オタク度下といえど、下の上たる所以である。 もしかすると中の中ぐらいのレベルかもしれないな、と、自惚れてみる。
(あんましたいしたこと無いうぬぼれだな。。。)

で、2007年、XF5がほぼ実験終了しつつあるが、次のエンジンはどうなるだろう。 加藤のさまざまな調査と推測値の計算からの組み合わせと検証から(その内容はヒミツ)、 F3からXF5の大型化は、とある方法で可能だった。 ならばXF5からXF9(仮称)は、おなじ方法を行い、9000キロ級のエンジンに なるのではないだろうか?

これはまだ技本(防衛省技術研究本部)内部でもまだXF−9なぞ存在しないから 期待値でしかないのだが、とうぜんそれをめざして良いのではないだろうか。

もしこのレベルのエンジンができると、現代の最新鋭戦闘機のエンジンに近いはずだ。 機体の研究は、別途日本は進めていて、成果もでつつある。
XF−9と機体が合わさったとき、戦後初の、日本の○闘機が、飛ぶかもしれないのである。


2007年10月7日(日曜日)
どうしちゃったんだ、オーベストは!
し、し、島田さん・・・すごすぎる・・・
やっぱりあの頑固さと執念深さが、実を結んだのでしょう。
まさか実業団で入賞する選手が、チームから2名も出るなんて!

今日僕はひとりで自転車散歩。
それにしても、すぐ心拍が上がる。平地で踏んだだけでピーピー。 もはや運動不足の典型サラリーマンだな。
矢野口交差点を左に曲がり、鶴川街道を町田方面へ走る。 どんどん道が狭くなるけど、まぁいいや。
若葉台のあたりで引き返し、またのんびりと帰る。
家に戻って昼ご飯をたべ、今度は溝の口、元住吉方面へ。

つまりは、ぜんぶ平坦ってことだな!

明日は仕事。。まぁ頑張ろう。
オーベストのチームはみんな頑張ってるんだ。
僕も頑張ろう。
来週はアート杯か。。。
8月ぐらいまでは、まだ僕も走る気がしてたが、さいきんじゃ「今年はもう駄目」 というキモチで、すっかり気合が消えてしまった。
はっきり言うと、仕事にチカラを使い尽くしてるからかもしれない。 でもね。
先週末、僕より少しだけ若い男がチームに入った。ウチの正社員の若いのだ。 若いっていっても、もう10年ぐらい経ちそうな経験をもっている。そして マネジメント志向のところが少しあって、プロジェクト運営もわかるし、 設計もたぶんできそうだ。
ってことは、つまりは、今うちのチームにもっとも足りなくて、ほとんど 僕と戦車長だけで背負っていた重い荷物を、一緒に背負ってくれるひとが できたということだ!

今はつらいのは自分の勉強という意味もある。せっかくマサガネさんが コンサルを教えてくれるのだから、その世界の全く素人で、単にガチガチの 技術者タマシイが、ようやく高いステップへ踏み出そうというのである。 ここで頑張れば、らいねんラクラク仕事を進めて、仕事も、自転車もハッピー なんて最高の展開を妄想できるかもしれない。
やるよ!やるよ!
チームへの貢献は、今年はなんにもできないけど、月末からひとつだけ 違った形で貢献できそうだし。
それはなにかといいますと・・・・
Bossの想像どおり!ぴったし!


2007年10月6日(土曜日)

いってきます。

アオヤギ大尉がねぎらいたいと聞いた。

俺の欲しいのは、俺のゴールは、同盟国、マサガネ大佐の信頼だ。

でも、すこし素直になろう。

http://www.youtube.com/watch?v=WIF5IE5kspU

http://www.youtube.com/watch?v=VjccVNbdqhU


2007年10月5日(金曜日)
金曜日か。
早い。

今週は厳しかった。
水曜朝にいきなり左翼側から敵の大規模な突撃。
猛攻の嵐に、コバヤシ上等兵の防衛線は割り箸のようにはじけ飛ぶ。 人形役にも立たないのか。おまえは。
小隊本部を守っていた俺は左翼へと懸け、土の雨の中呆けて突っ立つ コバヤシ上等兵を後方へ追いやり、自ら防衛の最前線に出張る。
しかし全周囲からの銃撃に、こちらの兵力をどこにも集中できない。 うすい布陣で危機的状態の我が軍だが、せめてオキナカ一等兵の右翼のみは 死守してもらおうと、援護だけは絶やすことは出来ない。

木曜、睡眠不足からやたらと目がかすむ。目をこすりながら 必死に激鉄を引く。
コバヤシ上等兵が後方からふらふらと歩いてきた。
「おまえはすっこんでろ!」と叫びたいが、それもめんどくさいので 後方の守備を言いつけて追っ払う。
金曜日は敵の大攻勢が予想される日だ。
マサガネ大佐が明日の対策として作戦調整に来るが、こちらは もう泥に漬かって、会話するのがやっとだ。
それでも気力を振り絞り、明日の作戦の大枠を決める。 マサガネ大佐が相談にくるのは、まだ信頼されている証拠だ。 今度の敵の猛攻、かならずや耐え切ってみせよう。

木曜ですでに倒れそうだったが、金曜日もなんとか立って 戦うことができた。
今週、こんなに厳しい戦いになるとは思わなかった。
左翼線の防衛、月曜に見回りしていたが甘かったのだ。
コバヤシ上等兵が老齢だからといって、任せておける相手では なかった。これからは新兵と同じ扱いにしなくてはならないな。

今週は寝る間もなかった。
土日は死んだように寝させてもらおう。
月曜は祝日だそうだが、月曜も出撃だ。
せめて月曜のうちに塹壕を深くして、火曜からの攻撃に備えねば。

月曜は一人隠密行動で出撃すると言ったら、オキナカ上等兵が
「僕が午後から出たらマズいですか?」
と言ってくれた。

夜になって、イシダ准尉から電文が来た。
ねぎらいの言葉だった。
今週も終わった。


2007年10月3日(火曜日)
ナカノくんゴメン、スプロケどっか行っちゃったよ。
足生えてないから、自分から逃げたんじゃないとおもうけどねぇ。

って、僕の机の周りは爆撃後。
地層塁重の法則。
天災は忘れた頃に、、、??


2007年10月2日(月曜日)
今日はオッキーことオキナカ一等兵が休みだ。
いつもたくさん頑張ってもらって、ありがとう。

今日はやたらと目がかすむ。
電車内で、ケータイで2ちゃんなんか見るからだ。
Hamp氏ね。。。

10時前にウチに帰り、食べて飲む。


2007年10月1日(月曜日)
イシダ准尉が復活した。
いや、先週から来ていた。影が弱弱しかったが、 すこしづつ復調したようだ。
胃潰瘍の薬を飲んでいる。内視鏡は病院予約の都合で延期。 ほんとの原因はまだわかっていない。

彼の身体が負けた原因は、今日軽く飲んで話して、 よくわかった。よくよく分かった。
彼は心が折れたのだ。いや、折れるような扱いを受けたのだ。

死地を渡り歩くものにとって、「意義」は唯一の支えである。

でも、その意義も、汗をかかない紙切れ上の上司に、 まるで自分がやったことのことのように語られたら、 どんなキモチだろうか。
辛くて長い練習に耐え、ようやっと結果が出てレースで 優勝したのに、表彰台に上がるのが、記録にのこる名前が、 自分ではなく、ちっぽけな努力しかしていない普段関係のうすいヤツだったら、 どんなキモチか、ということだ。

上官からの援護もなく、各現場で血を流す士卒を鼓舞しつつ、 我らが小隊の独立を唯一のこころの糧に立っているものの面前で、 すべての戦果を、本部の生え抜き官房がおのがごとく吹聴したとき、 そのこころに去来するものは、いったいなんであろうか。

彼がわずかな日にちで帰ってきた理由も明白だ。
私ほか部下がまだ死地で泥にまみれて、猛攻にひたすら、 ただひたすら耐えているからという理由だ。 分かりやすい。実に分かりやすい。

こんな惨めな、我らのような境遇は、きっと、メーカー系 システム子会社ならではだと思う。
要は、親会社が仕事を持ってきて、仕事は現場がする。 幹部とか間接部門なんて、じつは不要の、無能集団で じゅうぶん問題ない世界なのだ。

そして、その無能らに、死んでいったやつらの流した血と 汗のカネが回るということだ。
それが、私の戦場なのだ。


でも、今日、こころの折れた准尉が、短期間で復帰して、 その話を、二人で飲みながら話せる。これはまちがいなく 光る何かだ。
このちいさな光を、いつか大きな焚き火にして、大勢を 明るく照らし、せめて「生活圏の確保」を、勝ち取りたい。 そう思った。

そして7年前、ひとりで挑戦して矢尽き刀折れたときと違う 確かなものを、感じているのである。


こんなことを書くと、加藤は自転車から遠ざかったのかと 思われるかもしれない。
でも、それは違うと思う。
できるやつは、できる。1つでも2つでも。
できないやつは、できない。たった1つでも。

今は仕事が修行の身。
前へ歩けるようになるまで、カンタンには諦めない。
でも、身体が歳をとるのを停めたい。そう願う。。。。
もう30代ものこり少ない・・・

あ、いや、風さんみたいな例もあるから、だいじょぶかー!あははははは

(意外と加藤は無知&楽天家なだけかもしれない。ゴメンナサイ風さん)