化学雑話の部屋

 ここでは、約20年前の参考書にあった化学史などに関する記述を紹介するものです。今の参考書にはなくなってしまった記述なのですが、とても興味深いものなので出版社の許可を得て記載することにしました。                              

出典(文英堂刊「理解しやすい化学」より)

オストワルトとボルツマン 熱となにか ケクレの夢 長岡モデル
パストゥールと光学異性体 ラボアジェの燃焼理論 アボガドロの分子説 放射性元素
コロイドの定義 有極性分子と水素結合 メンデレーエフの偉業 炭素化合物とウェーラー
オストワルトと原子説 ファントホッフ    

オストワルトとボルツマン

 この節の中心課題を歴史的にみるとアレーニウス式{反応定数の式で活性化エネルギーと温度に依存する式}をめぐって,マクスウェルやボルツマンの分子運動論が反応のしくみを理解するのにどのように活用されるか,また,エネルギー概念と原子・分子などの粒子概念がどのように結びついて化学反応のしくみを明らかにしてきたかを学ぶことだった。マクスウェルやボルツマンの理論はオストワルト{当時の学会のドンで原子・分子は存在しないとしていた人}のエネルギー中心の考え方を排除して,粒子こそ変化の本質を支えるものであって,エネルギーの変化は粒子変化に伴なって副次的に起こるものとするところに特徴がある。もっとも,マクスウェルにはそこまではっきりと割り切った主張はないが,ボルツマンは徹底した粒子中心論者であり,つねにドルトンの原子説を支持し続けた。
 ボルツマンは1844年にオーストリアのウィーンに生まれた。少年のときにマクスウェルの分布{分子数とエネルギーの図のこと。このときボルツマン16歳}についての論文を読んで以来,そのとりこになり,生涯,分子運動論や統計力学{粒子一つ一つの挙動を統計的に処理する方法}の研究に取り組んだ。彼の業続はマクスウェルの考えのあいまいさを数学的・論理的に補ない,統計力学という新しい学問領域にまで高めたことである。マクスウェル分布をボルツマンが学びはじめた1860年代は,1811年のアボガドロの分子仮説があまり論議されることもなく約50年ぶりにカニツアーロによって再提出され,その重要性が学界でようやく重視されだしたときでもある。以後,ボルツマンは最も熱心な原子・分子論者として粒子中心主義の普及に努力するのである。
 このような主張がオストワルトと対立しないはずがない。有名なのは1891年ハールで開かれた学会での両者の激しい論争である。議論が活気をおびてくると,ボルツマンはついに“エネルギー自体が原子のようにつぶつぶに分割されないという理由はない”と放言したそうだが,これはまさしく後に生まれる量子論{原子・分子などの微粒子の世界の力学。この世界ではエネルギーは連続ではなくとびとび。20世紀自然科学の最大の成果}を予言したことになる。しかも興味ある事実は,この学会でオストワルト派の一人としてボルツマンの粒子中心主義をあくまで批判したのが,後年,量子論の創始者となるプランクであったということだ。
 しかし,当時は何といってもオストワルトを中心とするエネルギー論のほうが優勢であった。オストワルトらが原子・分子の存在を単なる仮説としか認めず,その存在を信ずるボルツマンを「素朴な機械論者」として嘲笑する中では,ボルツマンが受けた精神的な迫害は決して小さいものではなかっただろう。アレーニウスやファントホッフ{浸透圧の式を導いた人}のような学者すらボルツマンを支持できずに,エネルギー中心の立場に味方したのである。もっとも,アレーニウスには彼の電離説(1884年)がオストワルトの支持があってはじめて一般に受け入れられるようになったという個人的な関係もあり,ファントホッフと3人で1887年に物理化学の専門誌を発刊した仲間でもあって,心理的にもオストワルトとの仲間意識が強かったのだろう。
 オストワルトの晩年が幸福と自信に満ちたものであったのに対して,ボルツマンは,1906年にアドリア海岸のホテルで静養中に謎の首つり自殺をとげている。しかも,彼の死後わずか2年で,アインシュタインによってコロイドのところでも学んだブラウン運動の理論が現れ,ボルツマンが求めつづけた分子運動の証明が与えられるのだ。また,プランクの量子論はボーアの原子理論{高校化学の原子のモデル}へと発展していく。
 ロシア革命の指導者であったレーニンは「唯物論と経験批判論」の中でボルツマンの考え方をくわしく紹介し,ボルツマンの“微分方程式によって原子論を片付けたと思っている者は,樹をみて森をみないものだ”という考え方に賛意を表している。レーニンのような唯物論者にとってはボルツマンの粒子中心主義こそが真髄であり,オストワルトは偉大なる化学者ではあるが,ひじょうにものわかりの悪い哲学者であるということになる。いずれにせよ,オストワルトとボルツマンの対立は19紀末より20世紀はじめにかけての自然科学の思想上の最も大きい見解の相違であったのである。

熱とはなにか

熱とは何か
−−熱とエネルギーの歴史とエネルギー保存の法則の発見−−
 化学反応にかぎらず,いろいろな場合に熱が発生することは,諸君もよく知っているだろう。たとえば,右の手のひらで左手の甲を強く十数回こすって見たまえ。「アカが出てきた」という諸君もいるだろうが,それは日頃から不潔にしている証拠だ。ま,フロにでもはいってよく洗ってきたまえ。それはともかく,上のように手をこすりあわせると,手は驚くはど熱くなってくるだろう。これは,手と手との摩擦によって熱が発生したからだ。ところで,熱とはいったい何だろう。人類が熱についてどのように認識してきたか,その歴史をひもといてみよう。
 古代ギリシアの万物四元素説において,火は,空気,水,土とともに,物質を形づくるもとになる物質(いまでいう元素)であると考えられていた。たとえば,火は熱のもとになる物質であると考えられていたが,このように,火を他の物質と同列に見たことは,その後,長い間,熱を物質としてみる見方をはぐくむことになった。
 ロシアの科学者でもあり文学者でもあったロモノソフ(1711〜1765)は,熱の本性は,物体中の微粒子の内部回転運動によるものであるとし,ボイルの法則,熱伝導,融解,蒸発などの一連の熱現象を説明した。彼の考えは,1世紀,時代に先行していたが,実験的に裏づけられた事実が不足していたため,十分確実なものにすることができなかった。
 これに対し,18世紀の多くの学者は,熱が熱素(カロリックという。燃素ではない!)という特別な物質,つまり一つの元素のように考えていた。燃焼の定量的な実験によって燃素(フロギストン)説をはっきり否定したことで有名なラボアジエでさえも,1789年に出版した「化学原論」という化学の教科書の中で,熱素を化学元素の一つとしてあげている。すなわち,熱素とは,物質の中に含まれている重さのない物体であり,熱素が物体に流れこめば物体はあたためられ,熱素が物体から流れ出れば物体は冷えてくるというのである。 熱素説は,18世紀の科学界を支配しつづけてきたが,18世紀も末になると,これを打ち破る新しい考えが出てきた。それは,ランフォード伯(1753〜1814),本名をペンジャミン・トムソンというアメリカ生まれの物理学者,政治家,軍人の明瞭で確実な実験である。彼は,1798年,ミュンヘンの兵器工場で大砲をつくる監督をしていた際に,砲身をけずってあなをあけるとき大量の熱が発生するのを観察した。熱素説をとなえる人は,この現象も,あなをあけるとき熱素がしぼり出されるためだとこじつけたが,その発熱量は予想されたものよりはるかに大きなものだった。ランフォードは,熱素の存在を疑い,切りくずが出ないような刃のつぶれた中くり刃(いまでいうドリルのようなもの)を使い,二頭の馬,すなわち2馬力でもって急速に回転させ,「摩擦をつづけるかぎり,無制限に熱が発生する」ことを示した。この実験によって,「熱素は存在せず,熱の本質は運動のなかにある」ことが明らかになったのである。
 熱素説の支持者達は,それでもなお熱素を使い,いろいろなコジツケの説明をこころみた。ランフォードは,熱素説の支持者連に次のようによびかけている。「あなたたちは,自分達の理論の崩壊を救おうとして,現象に対する説明をひねり出しているが,その説明が,自分達自身の空想からひき起こされたのかどうかを知ろうとしないのである。」この熱素説の支持者連の態度は,明らかに非科学的なものであるが,諸君はこのような態度におちいらないよう,十分気をつけなければならない。
 ランフォードの創設したイギリスの王立研究所のデービー(1778〜1829)は,1799年,真空中で氷をこすりあわせる実験を行った。このとき,真空をかこむ壁が0℃に冷やされているにもかかわらず,氷はとけ,0℃より少し温度の高い水が得られた。この実験事実は,熱素は存在せず,熱の本性は運動であることを示している。
 さて,19世紀になると,熱運動,力学的運動,電気,化学変化などの間の転化が,実験的,実用的にたくさん見出され,「エネルギー」という普遍的な量が意識されるようになった。たとえば,電池が発明され,いろいろな電気分解が試みられた。また,蒸気機関は,当時のヨーロッパ諸国における産業革命をおし進めるものであり,どうすれば一定量の熱でより多量の仕事をさせることができるか,大いに研究された。このような“蒸気時代の雰囲気”のなかで,熱の研究は大いにうながされたのである。
 熱の仕事当量,わかりやすくいいかえれば,いくらの熱がいくらの仕事になるかということをはじめて推察したのは,フランスの若い技師カルノー(1776〜1832)だった。彼は後に熱力学といわれる科学の重要な基礎になった熱機関についての研究を行ったので有名であるが,1832年に若くしてコレラに倒れた。彼が熱の仕事当量について書いていたノートブックは,50年間人に認められず,うずもれていた。
 19世紀の40年代にはいると,時期は熟し,マイヤー,ジュール,ヘルムホルツの3人によって,それぞれ独立に,エネルギー保存の法則,すなわち運動形態の転化に際し,エネルギーは不変であるという法則が発見された。
 マイヤー(1814〜1878)は,1840年,東インド会社の船医として,ジャワ(現在のインドネシア)に行ったとき,船員の静脈の血液が異常に赤いのを観察した。この不思議な現象は,マイヤーの心をとらえ,それからまざに熱病にとりつかれたように熱の研究をはじめたのである。そして結論として,彼は,血液の色のちがいは,体温と外界の温度とのちがいに関係し,体内の酸化過程の程度を示すものと考えた。ドイツに帰国した後も,彼はこの考えをおし進め,熱と運動との相互関係を考察し,エネルギー保存の法則の最も素朴な形のものをつかみとった(1841年)。また,気体の熱膨張から,熱の仕事当量をはじめて計算した(1842年)。
 ジュール(1818〜1899)は,イギリスのあるビール工場の所有者の息子だったが,1841年から熱の仕事当量を求めるために,電流の熱作用,気体の熱膨張,摩擦熱などの現象を利用してさまざまな実験を行った。図は,1847年に彼が用いた実験装置である。彼は,精密な測定をするためにさまざまな工夫をこらし,30数年後の1878年に彼が得た値は,現在のもの(427kg重・m/kcal,4.184ジュール/cal)と1%以内の差しかなかった。
 このように,マイヤーは,深く考えをめぐらすことによって法則に達し,ジュールは,この法則を実験的な基盤の上に確立させたのである。
 さらに,ドイツのヘルムホルツ(1821〜1894)は,1847年,「力の保存について」という論文のなかで,位置エネルギーと運動エネルギーの和は一定であることに注目し,エネルギー保存の法則が自然現象一般に成り立つことを明らかにした。現在では,熱はエネルギーの一種であり,熱エネルギーは,原子や分子などの粒子の不規則な運動における運動エネルギーであることがわかっている。熱が発生するということは,何かほかのエネルギーが熱エネルギーに変換するということなのである。

 

ケクレの夢

 芳香族ということばは,すでに19世紀のはじめに,いろいろな植物の組織から抽出されて芳香を示す化合物に対して用いられ,無臭のいわゆる脂肪族と区別されていた。たとえば,安息香の樹脂から安息香酸とベンジルアルコールが,トールバルサムからトルエンが,木のタールからキシレンが,また,ヤナギの葉や樹皮からサリチル酸が得られていた。1830年頃,リービッヒによって元素分析の方法が完成し,これらの化合物の元素組成が明らかにきれるにつれて,芳香族化合物は脂肪族化合物にくらベて,水素に対する炭素の組成比が大きいことがわかってきた。(たとえば,ベンゼンC8H8とへキサンC6H14をくらべるとすぐわかるだろう。)そして,しだいに,芳香族化合物はみなベンゼンから導き出されるものだと推測されるようになった。ドイツの有機化学者,ケクレ(1829〜1896)は,1865年の論文の中で,芳香族化合物は,すベ炭素原子6個からなる共通の“核”,いわゆるべンゼン核をもつとした。このようにして,芳香族化合物の認識も,芳香を有する化合物といった現象論的な認識から,ベンゼン核を含む化合物という実体論的な認識へと発展していったわけだ。  ベンゼンそれ自体は,1825年,ファデーによって,鯨油を熱分解したときの生成物(これは1968年に追突験きれ,実に340種類もの物質の混合物であることがわかっているのだが…)からはじめて単離,発見された。そして,べンゼンの組成は,1834年.ミッチェルリッヒによってC6H8であることが示され,さらに1845年には,ホフマンとマンスフィールドが,コールタールからべンゼンを多量に単離する方法を見いだしている。  
 現在でも使われているベンゼンの構造式は,いまから100年以上も前に,ケクレによって提唱されたものだ。ケクレは,西南ドイツに生まれ,最初は建築学を専攻するためにギーセン大学へ入学したが,リービッヒの化学の講義を開き,しだいに化学に魅力を感じるようになり,ついには専攻を化学に変えた。大学修了後,1851年から1年間はパリに留学してデュマの講義を聞き,ジェラールの知遇を得た。また,1854年から2年間はロンドンですごし,ウィリアムノンと親交を結んだ。このように,ケクレが,青年時代に当時の一流の化学者と親交をもち,どの学派にも属さなかったことは,最初,建築学を学んだことと共に,ケクレの独特な思索方法,旧来の考え方にとらわれない独立的思考の傾向を生みだすもととなった。  
 炭素原子の鎖状結合についての仮説,すなわち,一つの基に炭素原子がいくつか存在するとき,それらは互いに結合して鎖状構造をとるという説は,1858年にケクレによって提唱された。この説は,炭素化合物の構造を考えるときの土台になるものである。そして,1865年および66年に,ケクレは,芳香族化合物の母体であるベンゼンの構造についての論文を提出した。すなわち,結合が,親和力単位の一つによるものニつによるものと交互に起こる,と仮定する。…6個の炭素原子がこの法則にしたがって配列すると,開いた鎖として考える場合には,八つの未飽和の親和力単位を含む原子団が得られる。(右図a)次に,鎖の端にある2個の炭素原子が互いに1個の親和力単位で結合するならば,なお,6個の自由な親和力単位をもつ閉じた鎖,対称的な環が得られる。(右図b)‥‥この核の6個の親和力単位が水素によって飽和されると,べンゼンが得られる。ベンゼンにおいては,水素の全部または一部は,塩素,臭素,あるいはヨウ素によって置換することができる。‥‥この閉じた鎖から,『芳香族化合物』という名前でふつうによばれているすべての物質が導き出せる。と。(右図c)ケクレは,6個の素原子,いいかえると,それらの占める位置は等価である,として,臭素置換体の異性体の数を予言したが,この予言は後になって見事に実証された。  
 ケクレは,1890年のケクレ祭での講演で,ベンゼンの構造についての着想の起源を次のように述べている。すなわち,ベルギーのガンにいたころ,下宿の仕事部屋のいすで,ある夜,仕事中にうたたねをしていると,“私の眼前ではまたもや原子がめまぐるしく動いていました。……すべてはヘビのようにからみあい,回転しつつ運動していました。ところで,あれは何だろう? ヘビのうちの1匹が自分の尻尾をくわえて,その像が私の眼前であざ笑うように旋回しているのです。私は,まるで電撃に打たれたように目ざめました。そして,こんどもまた,この仮説の帰結を仕上げるために,その夜の残りを費やしたのでした。”と。そして,“皆さん,私たちは夢みることを学びましょう。そうすればおそらく真理を発見するでしょう。……だが,私たちの夢を目ざめた理性で検討する前に, また,ケクレは,自分のベンゼン理論が仮説であることを強調し,”この仮説が示す無数の長所にもかかわらず,それを不当に高く評価してはならない。とくに,それを確証された事実とみなしてはならない。”と述べた(1866年)。実際に,ケクレは.1888年頃までに約40報の論文を提出したが,その中で,六角形のべンゼン構造式をほとんど用いなかった。推論にすぎず,確証されていないということからくる危険性を,ケクレは十分承知していたのである。
 なお,芳香族化合物がもつ,付加反応をしにくく,安定であるといった性質は,「芳香族性」とよばれ,ベンゼンの構造がわかってからも,引き続き研究された。1931年,ヒュツケルは,平面環状化合物では,π電子の数が4n+2(n=0,1,2,3,……)のときひじように安定になることを理論的に導き出した。ベンゼンはn=1の場合であり,現在では,この理論にあういろいろな芳香族化合物が確認されている。

 

長岡モデル

−−長岡半太郎と原子核の発見 −−
1903年,日本の物理学者,長岡半太郎は,「原子は,正の電気をおぴた粒子(原子核)のまわりを,ちょうど太陽のまわりを惑星がまわるように,負の電気をおぴた粒子(電子)が,軌道を描いてまわっている」という仮説を発表し,図のような原子模型を提出した。 この模型は,今日われわれがふつうに見かけるものとよく似ていて,原子模型の草わけともいうべきものであった。しかし,残念なことに,この説はあくまで仮説であり,実験的に証明されたものではなかった。そして,何よりも,分割できないと信じられている原子を分割して考えること自体,たいへんな冒険であったのだ。
 長岡半太郎の原子模型が仮説として発表されて7年たった1911年,このモデルは,イギリスの物理学者ラザフォードによって実験的に証明されることとなった。彼は,ひじょうにうすい金のはく(膜)に,α線という放射線の一種(正の電気をおぴたα粒子ということがわかっている。)をあてて,このα粒子が金ぱくによってどのように進路を曲げられるかを見た。そうするとおどろいたことに,ごくわずかのα粒子が,進路を曲げられたりはじきかえされたりしただけで,ほとんどの粒子が,まっすぐに金はくをつきぬけていることがわかったわけだ。つまり,金ぱくも原子からできている以上,原子がぎっしりつまっていると考えられるのが常識だが,この実験は,原子と原子との間は,ひじょうに密度の低い空間であり,原子の大部分の質量は,原子のごく中心付近に集中していると考えなければならないことを示している。また,曲げられたα粒子の曲げられ方から,この中心の部分は,正の電気をおぴているということもわかったわけで,そうすると,この実験を説明するためには,図のような模型を考えなければならない。前に述ぺたように,電子の存在ははやくからわかっていたので,この中心部分が正の電気をおびているなら,結局,電子は,そのまわりの密度の低い空間に分布していることになる。
 こうして,原子は,その中心に正の電気をおびた部分(これを原子核とよんでいる)と,そのまわりに分布している電子からなっていることが,実験的にほぼ証明されたわけだ。

パストゥールと光学異性体

−−パストゥールと光学異性体−−
 水晶の一つの結晶に偏光を通すと偏光面が回転する,すなわち,旋光性がある,ということは,フランスの物理学者,ビオー(1774〜1862)によって発見された。ビオーはまた,砂糖や酒石酸のような炭素化合物の場合は,それを溶液にしても旋光性があることを発見している。
  パストウール(フランス1822〜1895)といえば,乳酸菌の発見,沸とうののち空気を断った容器中では物が腐らないことを示して生物の自然発生説を否定した実験,など,生化学,微生物学,医学方面の研究が多く,諸君も知っているだろう。そのパストクールがまだ20歳を越えたばかりの,若い化学者であったころ,有機物の旋光性に関するビオーの研究にひじょうに興味をもち,酒石酸についてくわしく研究した。
 酒石酸は,ブドウやそのはかの果実に含まれている化合物であり,右回りの旋光性がある。一方,ブドウの果汁中には,ブドウ酸(そのころはパラ酒石酸とよばれていた)という旋光性をもたない別種の酒石酸がある。パストゥールは,このニつの酸の結晶を顕微鏡でくわしく観察し,酒石酸の結晶は非対称的であり,その勝手はみな同じであることを発見した。そして,ブドウ酸の結晶を見ると,右勝手のものと,左勝手のものとが同量ずつ混ぎっており,半分は酒石酸の結晶とまったく同じであり,あとの半分はそれの逆勝手の結晶であることがわかった。そこで,パストウールは,顕微鏡で見ながら忍耐強く,ブドウ酸のこつの型の結晶を一つ一つよりわけていった。このようにして分離した一万の結晶の溶液は.酒石酸の溶液とまったく同じ性質を示した。もう一方の結晶の溶液をつくってみると,これには旋光性があったが,自然産の酒石酸とは偏光面をまわす向きが反対であった。「パストウールは,感動のあまり,実験室から飛び出し,化学助手にあうやいなや,彼を抱いて『大発見だ。うれしくてからだのふるえが止まらない。もう一度偏光計をのぞくことさえできない』などと叫んだ。」といわれる。   *ここでいう結晶というのは,実際には塩であったが‥‥‥。 パストゥールのこの発見を聞いた老ビオーは,彼を呼び,自分がもっていたブドウ酸を使って,自分の目の前で実験をもう一度くり返してくれるよう頼んだ。それまで知られていなかった新型の酒石酸溶液の旋光性を確認したときのようすをパストゥールは,後になって次のように述ベている。「メーターの目盛りを読みとるまでもなく,強い左旋光性があることがビオーにはっきりわかった。ビオーは明らかに感動した。私の手をとって,『君,私は学問が大好きだ。このことで私の胸はドキドキする』といった。」
 天然の洒石酸は,d-酒石酸であり,ブドウ酸はd-酒石酸とL-酒石酸との等量混合物,すなわち,ラセミ混合物である。パストゥールは,これらの実験の意味するところを深く考察し,分子にも非対称性があると結論した。1874年,オランダのファントホッフとフランスのル・ベルとがそれぞれ独立に,炭素の正四面体構造を提唱しているが,パストウールの研究がその素地となっているのだ。
 十年後,パストゥールは,この分野でまた大発見をした。ある種の植物カビをブドウ酸の溶液中で培養すると,その溶液が旋光性を帯びるようになる。研究の結果,これは,この植物カビ(ペニシリウム・グラウクム)が,自分の栄養の目的にあうd-酒石酸のみを食ぺてしまうためだということがわかった。現在では,生物一般について,このように,光学異性体の一方のみが消化され,他方はさっさと排泄されてしまうことがわかっている。

ラボアシェの燃焼理論

 17〜18世紀の約1世紀の間,物質の燃焼現象を説明する理論としてフロギストン鋭が世の中を支配していた。この説をくつがえしたのはラボアジエの燃焼理論である。
 フロギストン説では,燃焼は物質中に含まれているフロギストン(燃素)が物質の外に出る現象として説明される。たとえば,木の燃焼をフロギストン説で説明すると,木はフロギストンと灰が結合した物質であり,燃やすと多量のフロギストンが空気中に放出されて,その分だけ軽くなった灰が後に残ることになる。
 しかし,いろいろな物質の燃焼反応が研究され,天びんの改良にともなって反応前後の質量が精密に調べられるようになると,フロギストン説では説明できない燃焼反応が見いだされるようになってきた。たとえば,水銀やスズのような金属を燃やすと,後に残る灰のほうが重くなるというような現象が見られ,フロギストン説への疑問が生じてきた。
 ラボアジェは,これらのフロギストン説への疑問から,「燃焼とは,フロギストンの放出ではなく,燃えるものと空気またはその一部との結合ではないか」との仮説を考えた。
 <参考>フロギストン説
 有機物を燃焼させるとき,炎や熱が発生して,わずかの灰しか残らない。このことから,燃焼とは何かが失われる現象であるとする考え方が古代からあった。ドイツのベッハー(1635〜1682年)は,化学物質の性質の違いを,物質に含まれている“土”,の種類の違いによるものとした。そして,生体には“油性の土”が多く含まれ,燃焼は油性の土が失われる現象と説明し,フロギストン説を唱えた。ドイツのシュタール(1660〜1734年)は,この油性の土を「炎」というギリシア語にちなんでフロギストンとよんだ。
 フロギストン説では,可燃性物質はフロギストンに富む物質とされ,燃焼はフロギストンが空気中に失われる現象である。還元は,フロギストンが物質と結合する反応になる。たとえば,金属酸化物(灰)が木炭で還元されることは,フロギストンに富む木炭からフロギストンを含まない次にフロギストンが移動する現象とされた。
 また,空気は反応に全く関与しない不変のものであり,単にフロギストンを含むことのできる媒質とされた。空気がないと燃焼しない事実は,フロギストンを受け入れることのできる空気がないためとされた。酸素を発見したプリーストリーは,酸素はフロギストンを含まない脱フロギストン空気であるとして,新たにフロギストンを受け入れることができるので,燃焼をさせる力があると考えた。酸素以外の空気は,フロギストンで飽和したフロギストン空気とよばれ,それ以上の受け入れ能力がないため燃焼をさせる力がないと考えられた。

アボガドロの分子説

アボガドロの分子説が求められるまで −−天才の悲哀と歴史的限界−−
 アボガドロはイタリアの物理・化学者であり,トリノ大学の教授であった。今日,1モル中に含まれる粒子数をアボガドロ数とよんでいるのは,物理学・化学上の最も基本的な定数に対して,彼の功績をたたえる意味で彼の名を与えているものだ。
 しかし,後世の化学理論発展の上で大きな役割を演じたアボガドロの分子説や仮説も,発表きれた当時は,学界ではあまり高く評価されなかった。その理由の一つは,たとえば水素の原子が2個だけが結合して分子となり,3個や4個は結合はしないという仮定が,いかにも便宜的な御都合主義であると解釈されたことや,彼の主張にはまったく実験的研究をともなわず,実験的な根拠に欠けていたことにある。
 さらに重要なのは,学界が価値を認める仮説は,いま問題としているある事実を説明するだけではなく,きらに幅の広い他の事実をも説明し,なお新事実や新しい法則の発見に何らかの手がかりを与えるものである。後世になってこれらの学界の要請にみごとに答えたアボガドロの説も,当時はまだ化学の進歩もおそく,発見された事実や法則も少なかったために,明るい展望を与えるものとは考えられなかった。
 そのために,彼の分子説や仮説は単にドルトンとゲイ=リュサックの間にある矛盾を解決するために考え出きれた空想家のコジツケとして片づけられてしまい,当のドルトンの強い反対もあって,その重要性が一般には認識されなかった。
 約半世紀が過ぎ,彼の死後4年を経た1860年に,カールスルーエで開かれた万国化学会議に,彼の弟子カニッツアーロが再びアボガドロの理論を紹介するにおよんで,その重要性が学界に認められ,アボガドロの名は一躍有名になった。この50年間に発見された多くの事実や法則を統一的に説明するためには,アボガドロの分子説や仮説がぜひとも必要とされたのである。カニッツアーロ自身,有機化学者としてすぐれた業績を残しているが,彼の最大の仕事はアボガドロの再発見であるといわれている。

放射線と放射線元素  

 放射線,放射能といったことばを聞いたら,諸君は何を思いうかべるだろう。病院に行けば,「放射線科」というのがある。核実験や原子力発電所には,必ず「放射能による汚染」が問題になる。そして.何よりも忘れてならないのは,日本人こそ,放射能による悲惨な大量の犠牲を経験した世界で最初の国民であるということであろう。
 さて,いまでこそ,ごくふつうに使われていることばだが,放射線が発見され,それがどんなものであるかがわかったのは,20世紀のごくはじめの頃である。1896年,フランスの物理学者ベックレルが.ウランの化合物から写真のフィルムを感光きせるような一種の目に見えない「光線」が出ていることを見つけたのが最初である。しかも,この「光線」は,紙のような不透明なものでもらくらくと通過することも確かめられた。余談になるが,この目に見えない,しかも不透明なものでも通過して写真フィルムを感光するという,不思議な「光線」が発見されたと聞いて,当時の女の人は,いったいどんなものを着たらよいのかと真剣に考えあったという。その後,ウランぱかりでなく,フランスのキュリー夫妻によって発見されたラジウム元素は,ウランの100万倍もの強い放射線を出すことが知られ,現在では,40種以上の元素が天然に放射線を出していることがわかり、これらの元素をとくに放射性元素といっているわけだ。
 この放射線がいったい何ものかというのが次の問題になるが.放射性元素から出る放し射線には,次の3種煩がある。
 α線…ヘリウムの原子核(陽子2個と中性子2個)。正の電気をおぴている。
 β線…電子の速い流れ。負の電気をおぴている。
 γ線…波長の短い電磁波。透過性が強く30cmの厚さの鉄板でも通る。
 さて,放射性元素について,1903年,ラザフォードとソディーが発表した「原子の放射壊変の理論」は,原子はそれ以上に分割できない粒子という概念を根本からゆり動かしたものだった。つまり.彼らの理論は,「放射性元素は不安定であって,放射線としてエネルギーを外に出して安定な元素に変化していく」というもので,一つの原子から他の原子へ自然に転換が起こるといったのだ。この理論の正しきは,その後,原子核が陽子と中性子からできていることが確かめられるにおよんで証明された。
 元素が,放射線を出して変化するときには,次の2種類があることが現在わかっている。
(1)α粒子壊変…原子核からα粒子1個がとび出して新しい元素になる。この場合,新しい元素は,質量数は4だけ減少し,原子核の陽子も2個滅少するので原子番号も2だけ減少する。
(2)β粒子壊変…原子核からβ粒子(電子1個)がとび出す。この場合,新しい元素は,質量数は変わらす,核の正電荷が一つ増すので原子番号は1だけ大きくなる。
 これは,原子核中の中性子1個が陽子1個と電子1個に変わり,陽子はそのまま原子核に残り,電子だけがβ線として光に近い速度で放出きれるからだ。
 放射線はひとつまちがうと人間にとって恐ろしいものなのだが,使い方によっては,大いに役にたつ。たとえは,特効薬がいまだにない恐ろしいガンは,人間の正常な細胞がガン細胞に変化して異常にふえる病気なのだが,この有害なガン細胞にだけ放射線をあてて殺してしまう治療法が実際に使われている。

コロイドの定義

−−「にかわのようなもの」からコロイド科学へ−−
1861年,イギリスの化学者グルアムは,いろいろな物質の水溶液を羊皮紙(セロハン紙と同様の性質をもつ)の袋に入れ,それを純水中に浸しておくと,溶質が羊皮統を通過して純水中に拡散してくるものと,そうでないものとがあることを発見した。(これをグレアムの実験という。)羊皮紙を通過する物質は,水中での拡散のしかたが速く,通過しない物質は,水中での拡散のしかたがきわめて遅い。また,羊皮紙を通過する物質には,硫酸マグネシウムや食塩のように結晶性の物質が多く,通過しない物質には,タンパク質やゼラチン(ニカワの主成分)のように結晶をつくらない物質が多い。そこでグレアムは,前者をクリスタロイド(晶質),後者をコロイド(膠質)と名づけた。クリスタロイドとは結晶性物質の意味であり,コロイド(colloid)とは,ギリシア語のkolla(ニカワ)+−oide(〜のようなもの),すなわち,「ニカワのようなもの」という意味である。このようにグレアムは,二つの物質群を考え,クリスタロイドの溶液が真の溶液であり,「コロイド」の溶液がコロイド溶液であるとした。
 しかし,コロイド溶液についての研究が進むにつれて,グレアムの定義にあてはまらないような実験事実が出てきた。すなわち,クリスタロイドである水酸化銅や,金,白金なども,特殊な方法を用いるとコロイドの溶液をつくること,また,「コロイド」であるタンパク質なども条件によっては結晶をつくることなどが明らかになった。これらの事実から,物質をクリスタロイドとコロイドとに分けることに問題があることがわかってくると,こんどは,コロイドとは,特定の物質をきすのではなく,拡散が遅いある状態をさすことばとなった。また,1903年には限外顕微鏡が発明され,分散している粒子の大きさが問題にされるようになった。
 現在では,諸君も本文中で学んだように,物質は,結晶性であろうとなかろうと,すベて条件が適当であれば,コロイド溶液をつくることができると考えられている。その条件とは,分散している粒子の大きさが10〜1000Åであること(あるいは,103〜109個の原子からなる粒子であること)とされている。そして,このようなコロイド粒子が分散したものがコロイドであると定義きれている。
 このように,コロイド化学は,グレアムの実験に端を発し,20世紀にはいって急速に進歩した。コロイドの例は自然界に広く存在し,合成高分子化合物(人工的につくった分子量のきわめて大きい化合物)などとも密接な関係をもっている。だから現在では,コロイド化学の領域は,単に化学の一分野というより,むしろ,物理学,生物学,地質学,工学,医学,農学などの各部門にまたがった自然科学としての性格をもち.しばしば,コロイド科学という名が用いられる。
 さて,このように「にかわのようなもの」からコロイド科学へと発展してきたのであるが,この発展についてもう一度ふり返ってみよう。グレアムがコロイドをはじめて定義したころは,実験・観察の結果の相互の関連だけをまとめて理論を構成する段階,つまり現象論的な段階であった。その後,クリスタロイドでもコロイド溶液をつくり,「コロイド」でも結晶をつくることがあるといった事実が明らかになった。この段階について,諸君の中には「何だ,グレアムはまるっきりまちがっているではないか」とか「コロイドなんて,もうさっぱりわからなくなってしまった」などという人がいるかも知れないが.このような見方は誤っている。コロイド状態について,やはりグレアムの実験は発展的に受けつがれているのである。コロイドとは何かという実体論的な研究を進めていくうえには,19世紀末における溶液の理論の進歩や,限外顕微鏡の発明なども必要であったが,グレアムの定義に反する現象が発見されたことが,その大きな原動力になっているのである。科学の発展において,このように一見矛盾に満ちた段階が,次のより深い認識への原動力になっていること多い。
 コロイドについての正しい認識は,これに続く実体論的な研究,すなわち,コロイド粒子をいろいろな方法によって,いろいろな角度から研究することによって得られた。現在では,コロイドの特性は,コロイド粒子の性質から本質的に説明されるようになったが,まだまた細かいところについてはわからないことが多い。それぞれの研究の最先端では,上で述べたような,現象論的なまとめ,実体論的な追求,本質的な説明がくりかえされ,一歩一渉,物質世界に対するより深い認識にむけて,研究が続けられているのである。

有極性分子と水素結合

−−水が示す不思議な現象−−
水が氷になるとき,体積が10%も増加することは,諸君もよく知っているだろう。冬の寒い朝など,水道管が破裂したりするのは,このことを証明しているわけだ。しかし,なぜ体積が10%も増加するのかということを,不思議に思わない人が案外多い。ほとんどの物質は液体から固体になるときには体積が減るのに対して,この水が示す現象はひじょうに珍しいのだが‥‥‥。水という物質があまりにもわれわれの身辺にありすぎるせいかも知れない。
 この理由は,実は長い間なぞにつつまれていたのだが,分子の細かい構造などがだんだんとくわしく調べられるようになるにつれて,一つの主要な原因として,水が有極性分子であることがあげられるようになった。有極性分子,つまり分子の中で,電荷のかたよりができて,水の場合には,酸素のはうが少し負の電荷をおび,逆に水素原子は正の電荷をおびている。水は,このような状態の分子が集合したものだから,分子どうしの間に,正と負の電荷による静電的なカがはたらくことは,十分考えられることだ。このようすを模式的にかいてみると右図のようになるが,もちろん,電荷のかたよりはひじょうにわずかなものだから,分子間にはたらく力も小きいものだ。液体の状態では,分子がかなり自由に運動しているから,ある瞬間には水素と酸素が結合しているような状態もあるだろうと考えられるというわけだ。ともかく,このように,あたかも水素原子を橋わたしとして,分子の間にできる弱い一種の結合を水素結合とよんでいる。
 さて,温度が下がって分子の運動がだんだん不活発になってくると,この水素結合の力もきいてくるようになり,氷という固体の状態になって,分子の自由な運動が極端に制限されると,分子と分子の間にはたらくカは,この水素結合が支配するようになる。こうして,水の結晶つまり氷は,下の図のようにすきまの多い構造をとって安定になってしまう。だから,このすきまの分だけ液体の状態より体積がふえるというわけだ。
 水は,そのほかにもいろいろおもしろい現象を示す。水の密度(1cm3あたりの質量)が4℃付近で最大になるというのもその一つだ。これも水素結合を考えれはだいたい説明できることなので,一つ諸君に頭をひねってもらおう。
 水素結合はもちろん水の分子にかぎらず,有極性の強い分子にはたいてい見られる。フツ化水素分子HFの場合にはもっとはっきりしていて,気体の状態でさえも,水素結合が切れずに,二つ以上の分子が結合して,(HF)nという分子として存在することがわかっている。一見,かんたんな分子と思われるものでも,くわしく研究していくと,ずいぶん複雑なことが起こっているものだ。

メンデレーエフの偉業

−−発見されむていない元素の性質を予言する−−
 メンデレーエが周期表を発表した当時(1869年)は,まだ63種煩の元素しか発見きれておらず,もちろん原子の構造についての研究はほとんど進んでいなかった。このような時代に彼が,今日われわれが使用している周期表に近いものをつくったということは,いかに彼の洞察力が鈍かったかを示しているメンデレーエフが発表する以前にも,元素の性質の間の関係をさぐろうとする試みは数多くあったのだが,それらは,当時発見された元素についてだけ考えていたものが多かった。メンデレーエフがえらかったといわれる所以はこの点にある。つまり,彼は,63種の元素を無理に順に並べようとはせず,どうしてもつながらないところは大胆に空白にして,この空白部分にはいずれ発見されるであろう未知の元素がくるものと考えたのだ。そして,その周囲の元素の性質から空所にくるべき未知の元素の性質を予言したのである。
 下にあげた表は,メンデレーエフの予言したエカケイ素(Es)の性質と,その後実際に発見された元素(現在のゲルマニウムGe)の性質の比較である。いちいち説明するまでもない。とにかくビックリだ。このように予言が適中したことによって,メンデレーエフの周期表は一段と信頼すベきものとされ,化学の根本的な基盤として採用されることになったのである。

エカケイ素とゲルマニウムの比較

Es  Ge
原子量 約72 72.59
比 重 5.5 5.35
 色 灰白色 灰 色
化学的性質 空気中で熱するとEsO2ができるが、酸、アルカリに作用しにくい。 空気中で焼くとGeO2ができる。水を分解せず王水、融解アルカリ以外の酸、アルカリ溶液におかされない。
酸化物 比重4.7、TiO2、SnO2より塩基性弱い。 比重4.703、塩基性は弱い。
塩化物 EsCl4、沸点 100以下 比重1.9 GeCl4、沸点83℃ 比重1.879

炭素化合物とウェーラー

 有機化学ということぼは,1808年,ペルセリウスによってはじめて使われたのだが,それまでにも,アルコール・エーテル・アセトン・安息香酸・グリセリン・シュウ酸・酒石酸・リンゴ酸など,いろいろな炭素化合物(有機化合物)が知られており,研究されていた。しかし,炭素化合物は“生命力”のみがつくれるものであり,試験管の中で反応させて合成できる無機化合物とは根本的にちがうものだと一般に信じられていた。ペルセリウスの教科書の中でも,炭素化合物は,化学的にというより,むしろ,医学的立場から記述されている。
 このような炭素化合物に対する神秘的・観念論的な物質観を打ち破ったのが,ウェーラーの尿素合成である。ウェーラー(1800〜1882)は,西南ドイツ,フランクフルトの近くに生まれ,はじめは医学を学んだが,1821年には,「無機化学全書」の創刊者として有名なグメリンを慕ってハイデルベルグ大学へ転校し,医学の勉強の余暇はすべてグメリンの実験室での化学研究にあたった。1823年から1年間,ウェーラーはグメリンの勧めにしたがって,当時の化学界の最高権威者,ストックホルムのベルセリウスのもとに留学し,分析技術に熱達した。ウェーラーがベルセリウスのもとでおこなった研究のなかには,アンモニア水にシアンガスを通じると,シュウ酸アンモニウムのほかに白色の結晶性物質が得られる,という実験も含まれていた。この物質が何であるか,ウェーラーはいろいろ調べてみたがわからなかった。しかし,4年後には,この物質が尿素であることが確認されたのである。また,ストックホルムでの研究のなかには,ウェーラーが1822年に発見したシアン酸銀が,HCNOの組成をもつシアン酸の塩であることを確定した研究もある。シアン酸は,リービッヒの研究した雷酸の異性体であり,この研究は,異性体の最初の発見であると同時に,無二の親友,リービッヒを知るきっかけにもなったのである。留学から帰ったウェーラーは,ベルリン工業学校の教師となり,教務のかたわら,精力的な研究活動をはじめた。そして,1827年には,アルミニウムAlを単離発見し,1828年には,尿素が無機的に合成できることを発見した。1824年にはじめておこなったシアンガスとアンモニア水の反応は,結局,次のような反応であったのだ。
(CN)2+4H2O→(COONH4)2 シュウ酸アンモニウム
(CN)2+H2O+2NH3→NH4CN+(NH4OCN)⇒NH2CONH2 尿素
 シュウ酸は,いまでは誰でも知っている炭素化合物だが,当時はC2O3と書かれ,炭酸と同様に,無機物と考えられていたので,シュウ酸アンモニウムの生成は,無機物から有機物を合成した例とは考えられなかった。しかし,1824年には何かわからなかった白色結晶が,典型的な有機物である尿素だと確認され,この反応が,無機物から有機物を合成したと認められた最初の例となったのである。ウェーラーは,シアン酸鉛とアンモニア水との反応によっても,尿素が生成することを確かめている。
 生命力の考えを打破したこの合成について,ウェーラー自身は,1828年の論文では,“無機物質から有機物質の人工的生成の一例”であるとして,どんな有機物質でも無機的合成が可能であるという一般化をひきだすことはつつしんだ。この一般化をひきだし,宣伝したのは,リービッヒやデュマであった。研究が進むにつれて,炭素化合物についても,無機化合物における法則があてはまることが示され,ウェーラーも,1837年のリービッヒとの共同研究論文の冒頭で,次のように述ぺている。
 “すべての有機物質は,それがもはや生物体に所属していないかぎり,われわれの実験室内で単につくられるらしいというだけでなく,確実につくれるとみなさなけれはならない。”
 その後,いろいろな炭素化合物が無機的に合成され,“生命力”の存在は否定されて唯物論的生命観が前進していったのである。

オストワルトと原子説

 この章のはじめからオストワルトという人物がたびたび登場してきた。これは,化学反応や平衡を論じるときに彼の名を無視することができないほど,オストワルトは化学現象を物理的に掘り下げるうえで大きな功績をはたした学者だからだ。これまで何回か述べてきたように,オストワルトは,物理化学あるいは理論化学とよばれる新しい領域をつくりあげた化学者の一人として,今日でも高く評価されている。それではまず,彼の生い立ちから述べてみよう。
 オストワルトは1853年9月2日に当時ロシア領だったリガに生まれた。リガは今日ではソ連邦を構成するラトビア共和国の首都だが,当時は帝政ロシアの時代で,彼のように純粋のドイツ系の人たちにはあまり住みよい環境ではなかったようである。生家は貧しい桶屋さんであったが,11歳のときに友人から花火の本を手に入れ実験をしたことが,彼を化学者の道へ走らせることになる。家が貧しいこともあって,少年のとぼしいこづかいでは実験材料も自由に手にはいらず,身近にあるものを何とかくふうして自ら装置を組み立てることが必要だった。
 実は,このやり方が後年一流の化学者になってからも,全生涯を通じて彼の研究の様式になった。すなわち,わずかな量と簡単な材料で用を足し,必要な手段は自分でつくりあげるという習慣だ。そして,材料の不足は,いつも考えを深めることによって補おうという心構えである。同時にこのような習慣や態度は,どんなに大きな問題でも,必要な手段をくふうして,自分で実験・検証し,実証的にとりあげるとともに,実証がむずかしい仮説はなるべく用いないという彼の基本的な研究姿勢をもつくりあげたようである。
 彼は,1882年にリガ工業大学教授,1887年にはドイツのライプチッヒ大学の物理化学教授として招かれ,以後,ドイツで活躍することになる。リガ工業大学時代の1884年6月,妻が産気づき,彼自身は激しい歯痛に悩まされていたとき,アレーニウスから電離説についての論文を受け取り,徹夜で再三熟読して学習を深めたというエピソードは有名である。1887年には,ファントホッフとともに物理化学の専門誌を発刊して,名実ともに物理化学の世界的指導者になり,1902年には,白金触媒によるアンモニアの酸化で,硝酸を工業的に製造する方法(オストワルト法という)を発明した。この間に,オストワルトの希釈律とよばれる法則や触媒のはたらきなどについても研究し,1909年にはこれらの業績によってノーベル化学賞を受けている。1906年,53歳のとき,急速な学問の進歩に対し老人がいつまでも職にとどまるべきではないとして大学を辞職し,ライプチッヒ郊外の「エネルギー」と名づけた別荘にひきこもった。死亡したのは1932年4月4日,79歳であった。
 ところで,オストワルトが原子説をどのように評価していたかということだが,彼は晩年を除いては,原子や分子のようにその存在が実証できないものは,あくまで事実や法則を説明するための単なる仮説に過ぎないとしていた。本文でも紹介した「化学の学校」には先生と生徒の対話の形でオストワルトの化学に対する基本的な考え方が示されているが,その中で原子については次のような対話がある。

先生;歴史的には次のようにして発展してきたのです。まず原子の存在を仮定してはじめて化合量一定などの結論に到達し,その後実験によって事実に一致することを発見しました。これによって原子仮説がある程度まで確証されたのです。しかし,確証されたのはその正しさというよりもむしろその有効性についてでした。
生徒;どちらでも同じことではないのですか。
先生;そんなことはありません。たとえば,太陽や星が1日に1回地球のまわりを回転するという仮定はまったく役にたちますね。そのために私たちは日の出や日没についてよくしゃべります。しかし,皆さんご存知のように,天文学者はこの仮定を正しいとはいわず,逆に,太陽や星こそ静止しており,地球のほうが1日に1回転しているのだと主張しているのです。まあ,この問題はこれ以上突っこまないで,これで止めておきましょう。

 このやりとりでも明らかなように,オストワルトは「化学の学校」でも必要に応じて原子や分子ということばを用いながらも,その実在を認めようとはしなかった。いや,認めたくなかったのである。「まあ,この問題はこれで止めておきましょう」という一種の消極的な姿勢は彼自身がいかに否定したくとも,年々蓄積される化学研究の成果の多くが原子や分子の実在を示すという現実にはどうにも仕方がなかったことを物語る。彼が自分の別荘に「エネルギー」という名をつけたことでもわかるように,彼自身はエネルギーこそ最も本質的なものであるとした。エネルギー論を重視しすぎたためにその反動としてドル トンの原子説には共鳴することができなかったのだ。

ファントホッフ

 オランダの化学者である。22歳でドイツのボン大学に留学し,ベンゼンの構造式で有名なケクレの指導を受けた。1年後に帰国して,炭素化合物の結合角やその構造が立体的で正四面体状であることを主張し,立体化学の創始者となった。1877年には,わずか25歳でオランダの最高学府アムステルダム 大学に迎えられ,名実ともに第一流の学者になった。
 次いで1884年から,浸透圧,蒸気圧などの研究に着手し,溶液の浸透圧に関して,気体の法則 PV=nRT と同じ関係が成り立つことを発見して,気体と溶液の類似性を明らかにした。また,ある種の物質−今日の電解質−の溶液では浸透圧が異常に大きくなることを発見した。これらの研究が,当時,電離説を完成しつつあったアレーニウスとの交流を必然的に強めていき,両者の理論をたがいに補強しあうようになった。また,アレーニウスの電離説を最初に高く評価したオストワルトとも親密になり,1887年にはオストワルトとともに物理化学雑誌を創刊するのである。このとき,ファントホッフは35歳,オストワルトは34歳であった。また,この雑誌の第1巻に「水に溶解した物質の解離について」という電離説に関する決定的な論文を飾ったアレーニウスは28歳であった。
 以来,この3人は一種の同盟のようなかたちで物理化学の研究を進めていく。たとえば,オストワルトが平衡状態での濃度の関係を調べることによって化学親和力の大小を決定し得るのではないかというアイデアを提示する。ファントホッフは早速,当時まだ生まれて間もない熱力学の知識を化学に活用して理論的に掘り下げ,平衡定数が温度によって影響を受けることを明かにする。そして現在,ファントホッフの式とよばれている重要な関係を導く。そうすると今度は,この温度の影響に着目してアレーニウスが反応速度と温度との関係を追究し,前に述べたアレーニウス式を導く。このように,三人は一体となって19世紀末より20世紀はじめにかけての化学反応のしくみの解明に大きな貢献をしたのである。
 ファントホッフは1896年にはベルリン大学に教授として招かれた。以来,1906年に肺結核で倒れるまでスタッスフルト岩塩鉱についての研究を続けた。この間,1901年には化学熱力学および浸透圧の研究に対して,第1回のノーベル化学賞を受けている。
1911年3月1日に死去した。