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原子力行政、基地問題の「年度末突貫工事」

2006/1 「もんじゅ」の迷走は、日本の迷走

2005/1 六ヶ所再処理工場に未来はあるのか?

2004/6 「年金改革法」騒ぎの裏で、「有事立法」が通る

戦争のための基地は、世界のどこにも必要ない。

2000年。 高木仁三郎さんを悼む。
2000年。真の平和は憎しみからは生まれない。

2001/9/11に。真の平和を築くために、できることからやろう。

2002年。「有事法制」の国会議論は、ほぼ無意味。
2002年、今年は、なにかを変えていかねば。 一人ひとりが世界市民なのだから。

2003/1/27 「もんじゅ」設置許可無効判決が意味するもの。
2003年3月20日。何が撃たれたのか?


原子力行政、基地問題の「年度末突貫工事」に疑問

 2006年3月26日、自民党の二階俊博経済産業相が「安全確保」を明言したことと「新たな交付金」を創設することを約束したことから、古川康・佐賀県知事がプルサーマル計画の国内初の実施に同意をした。
 翌27日には二階経産相が「安全確保、地域振興」を三村申吾・青森県知事に説明し、「青森県を最終処分地にしない」との約束を再確認したことで、三村県知事が六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場での最終試験(アクティブ試験)開始に同意した。
 アクティブ試験は週内にも稼働という。まさに3月、年度末の滑り込みセーフを意図したものだ。アクティブ試験によって、六ヶ所再処理工場は全体が「放射能汚染」される。あとに引くことができない状況となるわけだ。
 六ヶ所再処理工場では、それでなくてもすでに使用済み燃料貯蔵プールの手抜き工事による水の漏えいがたびたび起こっている。燃料貯蔵プール全体で約300カ所もの不良施工が明らかになっているのだ。
 2005年4月には、英国のセラフィールド再処理工場「ソープ」で80立方メートル以上もの漏えいが長期間見過ごされていたという事故が発生。外部への放射能漏れはなかったとされているが、漏えいの検知システムそのものが機能していなかった。
 核燃料再処理の技術レベルにも疑問があり、核燃料サイクルそのものにも「高レベル放射性廃棄物を無限に増加させるサイクル」「原子力事故・核ジャックの危険性を増大させる」といった究極の疑問が満載されている。
 しかも、「最終試験が始まると海中や空気中に微量の放射性物質が放出される」(毎日新聞3/27朝刊)ということは前提となっている。放出される放射能が本当に環境や住民に影響を与えないのかは未知数だ。
 プルサーマル計画は、使用済み燃料を再処理してプルトニウムとウランとを混ぜた混合酸化物(MOX)燃料として既存の原子炉で燃やす。
 これには、「燃料が壊れやすくなる」「制御棒が効きにくくなる」「核反応が不安定になる」「事故時の被害が大きくなる」などの重大な問題がある。フランスではダンピエール原発で燃料集合体を誤って装荷(原子炉に入れること)してしまい、燃料装荷中に臨界に達する危険があった、という大事故寸前の事態が起こっている。
 とても、原子力の専門家でもない二階経産相が「安全確保します」といって保証できるほど簡単な計画ではない。ましてや年度末にあたふたと「GOサイン」を出せるようなものではないのだ。
 「ウランとプルトニウムの粉体を均一に混ぜるのはむずかしく、原発が現状より危険になる」(京大原子炉実験所・小出裕章氏)との指摘もある。この「国家的計画」が採算を取ることを命題とする民間事業で遂行されていることも、昨今の「モラル・ハザード」的風潮を見ると不安を超えて恐怖を感じる。
 一方で、政府・自民党は、沖縄の普天間基地を名護市・キャンプ・シュワブ沿岸部に移設する方針で日米合意を取り付けてしまった。これも在日米軍再編・最終報告期限の3月末に合わせてのこと。
 こんな重大な、原子力政策、基地問題を日程重視の「年度末突貫工事」でクリアしようという「やっつけ仕事」は、必ず矛盾を拡大させることになるだろう。

山崎智嘉 2006/3/28


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戦争のための基地は、世界のどこにも必要ない。

    There is no need for military bases anywhere in the world.

戦争はいらない。基地もいらない。

 1996年の日米特別行動委員会=SACOで、「沖縄県内移設」を条件に、普天間飛行場をはじめとする基地や訓練場、通信施設などの返還が決まって以来、「基地」と「沖縄」の状況が大きく変化しつつある。
 普天間飛行場の移転先として、名前があげられ、'97年12月に、住民投票で、海上ヘリポート反対が表明され、'98年2月の市長選挙では、ヘリポート反対派の候補が落選するという現象を示している名護市の場合は、その変化がもっともあらわれている例だろう。
 選挙の投票寸前に、大田沖縄県知事(当時)が、海上基地反対を表明し、その2日後に、基地反対派候補が落選するというのも、いかにもドラスチックではある。
 このほか、この状況に関連して、静岡県、大分県、北海道などに、アメリカ軍の演習が移転、実施され、各地で反対運動などさまざまな反応が生まれている。
 ここで、注意しなければならないのは、沖縄の基地、演習地を減らすには、沖縄県内、または、日本のどこかで、その負担を受け入れなければならない、という前提が、日本政府や官僚たちによって、まるで当り前のように提示されていることだ。
 今、ここで、なぜ、外国の軍隊の基地が、まるで当り前のように存在し、そのために、周辺住民が危険なめにあわされなければならないのか、なぜ、税金から、アメリカ軍のために金が支払われなければならないのか、といったことを見直すべきだ。
 沖縄の振興と、基地の移転を抱き合わせにするなど、馬の鼻先にニンジンをぶら下げてコキ使うような、卑劣で極悪な政治だといわざるを得ない。
 これまで、なにを踏み台にして日本経済が(いびつにしても)成長してきたのか、だれが犠牲になったのか、だれが殺されてきたのか、ということを考えたときに、「もう少し犠牲になるべきだ」「あと何人か殺されてもやむをえない」と、いったいどこの政治家に、そして官僚に、口にする権利があるだろうか。
 この問題は、もちろん、きれいごとでは収まらない。けれども、いままで汚されてきた民衆に、これ以上汚れ役を強制する権利はだれにもないのだ。

 沖縄、基地、平和、核、戦争、民族……といったテーマについて、さまざまな動きを追っていきたい。



 高木仁三郎さんを悼む。

市民科学者の精神を広めるために。

 元原子力資料情報室代表・高木仁三郎さんが、2000年10月8日、62歳で亡くなった。
「市民の側に立つ科学者の育成」をめざす、「高木学校」が軌道に乗り始めた矢先の訃報だった。’75年の原子力資料情報室の設立以来、原子力行政や業界の一方的な推進政策にストップをかけつづけた高木さんの果たした役割は計り知れない。高木さんの意志は、必ず、将来に活かされなければならない。
 筆者は、取材者として接しただけだったが、高木さんのひょうひょうとした人格、必ずひとつひとつの数字を確認しながら科学的な判断に徹する態度はなによりも印象的だった。
 ドイツで脱原発の動きが現実化し、スウェーデンでじっさいに原発が停止し、台湾でも原発の見直しが進み、もんじゅ、動燃(現核燃サイクル)、JCOと事故が相次ぎ、日本でも原子力行政の見直しが不可欠であることが明らかとなって、高木さんの声が市民のものとして共有されはじめた、まさに今、市民は高木さんを失ってしまった。
 原子力行政、業界の矛盾を糾し未来に災いを残すことを許さない、市民の立場に立ちきった科学を、私たちは、高木さんが踏み固めた道を閉ざすことなく切り拓いていかなければならない。
 科学者・高木仁三郎さんに対して「冥福を祈る」ことなど無用だ。高木さんの意志を担いきって、改めて、科学をねじ曲げる者、目先の利益のために未来を汚す者と対峙していきたい。


山崎智嘉 2000/10/10


 

真の平和を築くために、できることからやろう。 一人ひとりが世界市民なのだから。

 「報復は報復を生むだけだ」とマドンナがコメントしたといわれています。
 その真偽のほどはわかりませんが、今回の事態に解決の道を探るとしたら、そういった発想が必要でしょう。
 もし、アメリカが「世界の警察官」であるなら、警察官が肉親を殺されたからといって、官給のピストルで、自分の判断で犯人を私刑(リンチ=死刑)にしていいわけがないからです。
 また、日本の軍隊が、パキスタンまで進出して、アフガニスタンの人々に危害を加えるための協力をしていいということにもならないでしょう。「国際紛争を解決する手段としては、永久に」「武力の行使」を放棄しているのですから、水を運んでも「武力の行使」のサポートに当たります。
 いずれにしても、アメリカの世界戦略の中では、世界中どこでも、すでに戦場になっていて、どこにでも戦争が炸裂するということです。
 日本国内が戦場になるかもしれない。そのとき、「国際紛争を解決する」ことと「市民の安全を確保する」こととのあいだにどれほどのことが起こりうるか、我々が想定しなければならないでしょう。


山崎智嘉 2001/10/21

 

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真の平和は憎しみからは生まれない

 

 日本は、国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄した、世界的にもまれな平和と連帯を基調とする国だ。
 その国で、「愛国心を見直せ」という声が上がりつつある。自分の郷土や住むところを愛することは自然なことだが、「国」には個人では御し得ない「機能」がある。それを「愛せ」とするのは、少なくとも教育の場ではなじまないだろう。
 かつて、「國体」と呼ばれ、天皇制と一体不可分の物とされた「国」が、今後なにをするのかを、決定するのは、国民でなければならない。けれども、外務省の役人が重要な死亡月日をほしいままに隠蔽するような態勢では、国民は不在となっていることは明らかだ。
 根本的に、すべてを変革するときが迫っている。


山崎智嘉 2002/9/25


 

「有事法制」の国会議論は、ほぼ無意味。

 

 「有事法制」、つまり「有事立法」ですが、国会でやりとりされている質疑応答は、極めて「無意味」に近いと思います。たとえば、「他国で軍隊の予備役が招集されたような事態」を「武力攻撃が予測される事態」と認識する(5月16日福田官房長官、政府統一見解)といいますが、日本で「有事法制」が成立することが、他国にとっては、「戦争への準備をしつつある」事態になることが、どうしてわからないのでしょうか。この、日本政府のイマジネーションの欠如にはあきれます。
 みなさんは、どう思いますか? 「有事法制」は戦争への準備でないと見えますか?


山崎智嘉 2002/5/17


 

2002年、今年は、なにかを変えていかねば。

 

 21世紀もはや2年目。キューブリックが描いたような宇宙時代になるどころか、世界でもっとも裕福な国が、もっとも貧しい国のひとつにミサイルを大量に打ち込み、町にも野山にも見境なく爆弾をばらまいています。
 あれだけの費用をかけるのなら、いくつもの貧しい国の貧困が救済されていたはずで、その援助なりがアメリカ政府によっておこなわれていれば、イスラム原理主義者も、声高に「アメリカに死を」とは叫ばなくなっていたでしょう。
 武器は結局憎悪を生み、無限の報復を招くだけです。必要なのは、憎しみではなく、相手を救い、自らも救われる、という行為でしょう。これを「愛」というと、口さがのない人々は「甘い」とか「実現性がない」というかもしれませんが、私には、もっとも現実的な解決策は、お互いがゆるしあい、与え合うことだと思います。もっとも、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が許し合うというと、それはそれは大変な壁があると思いますが、ここでこそ、そのいずれにも属さない日本人だからできる「世界変革」の道筋があるのではないか、とずっと以前から思っていました。
 韓国人の日本研究者が語っていたのですが、ある日、日本で、老いた女性が道ばたの花に語りかける光景を見たといいます。「きれいにさいたね。がんばってるね」と。
 自然に対してそういう感覚は韓国にはなく、日本独特であろうと。その光景を見たことがきっかけで、日本研究者となったそうです。
 イスラム教徒はまた、日本に対して多少でしょうが友好的な感情を持っているとも聞いています。彼らは、広島、長崎の原爆投下の事実についても知識がありましたね。
 だからといってすぐに日本政府が仲介役になれるというものではありませんが、少なくとも、ヨーロッパのキリスト教国よりは中立的立場として受け入れられる可能性が高いと思います。
 もちろん、今の政府などでは、軍事協力の方向ばかり拡大して、とても平和を築くというセンスはないので、まずは、新しい政府にしなければなりません。そのためにも、とにかく変えていかねば、という気持ちを新たにしています。


山崎智嘉 2002/01/03
 


2003/1/27
「もんじゅ」設置許可無効判決が意味するもの

more ここからナトリウムが漏れるとは想定されて      いなかった。「もんじゅ」火災事故現場。

原子力政策全体への「無効判決」

 1995年にナトリウム漏れ火災事故を起こして運転を停止している高速増殖炉「もんじゅ」について、住民が「原子炉設置許可処分の無効確認」を求めた行政訴訟の控訴審判決が、2003年1月27日に名古屋高等裁判所金沢支部でだされた。
 判決は、1審・福井地方裁判所の判決を取り消して、’83年5月の設置許可を無効とした。この判決は、原発を巡る訴訟で住民側が勝訴したはじめての例となる。
 もんじゅ訴訟原告団は、「裁判所の深い見識を高く評価する。設置許可処分が無効である以上、一部手直しによる変更許可処分はその根拠を失い、無意味なものとなる。国と核燃機構は「もんじゅ」再開計画を中止し、廃炉にすべきだ」との声明を出している。
 この判決を受けて、日本経団連の奥田硯会長も、「原子力だけが国のエネルギーの中心をなすべきか、将来の変化を読んでやっていくべきだ」と会見で述べた。
 日本の原子力政策は「核燃料サイクル」でプルトニウムを燃やす「高速増殖炉」を「技術的選択肢の中で可能性がもっとも大きい」(2000年11月の長期計画)と位置づけていることから、「もんじゅ」の設置に審査の不備があるとし、「炉心崩壊を起こす恐れがある」ことを否定できないとする、今回の判決は、原子力政策全体に対する「無効判決」といっても過言ではない。
 現実に起こったナトリウム漏れ事故で、床ライナ(鋼板)は想定以上の温度で損傷した。これまでの原子力事故は、いつでも「想定外」「想定以上」だったということが正当に認識されれば、「安全審査」全般について「大きな疑問」が生まれるのは当たり前なのだ。

「敗訴」も「想定」できなかった原子力安全委

 「安全審査」の欠陥を指摘された原子力安全委員会は、事務局が敗訴を想定したコメントを準備していなかったために、正式な会見がすぐにセットされず、午後8時近くに、松浦祥次郎委員長が「見解が認められず遺憾だ」「審査は最高の学識を持った専門家が十分な審議をしたと思っている」と報道陣に語った。
 原子力安全委員会の、この混乱ぶりが、「不十分さ」を裏付けるものとはいえないだろうか。「負けることを予想していない=事故を想定していない」という感を免れない。
 細田博之・科学技術担当相は「極めて遺憾な内容だ」といい、平沼赳夫・経済産業相は「国の安全審査についての考え方が十分理解されていない」と述べている。
 経済産業省原子力安全・保安院の渡辺格・新型炉等規制課長は、「現実的に考えにくい事故まで想定して安全審査を求めている」というが、「考えにくい事故」を想定しなくて、いったいどこに「安全」があるというのか聞きたいものだ。
 公明党の斉藤鉄夫・総合エネルギー政策委員長は「高速増殖炉は我が国に必要な研究開発項目だ」と改めて強調し、保守新党の井上喜一政調会長は「原子力エネルギーは環境保護等の視点から不可欠だ」などと述べているが、いずれも論点と感性のズレを禁じ得ない。
 わずかに、「安全確保に国民の理解が得られるような努力が必要だ」ととりあえず当たり障りのないコメントを出したのが小泉純一郎氏だった。
 とにかく、ひとつだけはっきりさせたいのは、2005年の「もんじゅ」運転再開は白紙にすべきだ、ということだ。「もんじゅ」は、この3月から改造工事が開始されようとしている。基礎となる「安全審査」に欠陥がある以上、何人寄り集まって知恵を絞っても「もんじゅ」は思い通りには動かない。
 この国のシステムの、どのあたりが「想定外」の重大な欠陥部分なのかが、はしなくも見えてくる「画期的判決」だということができるだろう。

2003/01/30 山崎智嘉


2003年3月20日。何が撃たれたのか?

    自らの背を撃つな

  悠久の時を刻む ティグリス・ユーフラテス流れる
  肥沃なメソポタミアの土を
  5500年の時空を超えて 人々は耕し豊かな実りを育んできた
  実りと富を求め 剣と槍をもって争うこともしばしばあった
  築き上げた 輝ける街もいくどか炎に崩れ去った

  再び時を経て 汗と希望と英知が いつか新しい実りをよみがえらせた
  川の流れがもたらす はちきれんばかりの実りは
  人々の生きた証 そのものだ
  地の続くところ そして海のかなた この惑星の裏側まであまねく
  人々の生の証は伝播されたのだ

  その大地に今日 2003年3月20日
  この惑星の裏側から憎しみをこめて 送られた炎が炸裂した

  長老たちの話し合いの席を蹴った未熟な者が
  父から密かに伝えられた憎悪をたたきつけた
  おまえたちは敵を撃ったと思うのだろう
  しかし おまえたちの手は痛みに震えている

  おまえたちが撃ったのは 何万年もの人類の営みだ
  自らを 今日、おまえたちは撃ったのだ
  われわれが見たものは 人が犯した過ちだ
  幾度も繰り返され 新しい時代には似合わぬ罪だ
  自らの存在価値を おまえたちは撃ち砕いた
  驕れる民は 必ず滅びるということを忘れて
  よく見るがいい 敵はおまえ自身の後ろ姿なのだ

  オリエントのはるか東の国の指導者は
  白紙の証文に自らの名を記した
  いかさまな断定で民に語ることなく署名した弱虫ライオンは
  いかなる罪をも逃れられないだろう

  過去を見失った者たちよ おまえたちには未来も見えまい
  おまえたちの勝利のうたげは 川の水ひとしずくほどのつかの間と知れ
  時は よこしまな者をゆるすことはない
  人々の涙は 彼らを消し去る時のために用意しよう
  われわれもまた 過ちをゆるしはしない

  せかい・つばさ  未来のために 2003/3/20

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「年金改革法」騒ぎの裏で、「有事立法」が通る

戦争を放棄したはずの日本は、どの国と戦おうとしているのか。

 「年金制度改革関連法」強行採決の騒ぎで、内容のない国会に改めて憤りを覚えたが、それにも増して疑問を感じたのが「有事関連法」の成立のしかただ。
 成立したのは、1,国民保護法、2,米軍支援法、3,外国軍用品海上輸送規制法、4,国際人道法違反行為処罰法、5,捕虜取扱法、6,特定公共施設利用法、7,改正自衛隊法、のいわゆる「有事関連7法」だ。
 もっとも問題が大きいのは「国民保護法」によって「指定公共機関」が政府によって勝手に指定され、指定されると有事の際に国に協力しなければならないという点だ。
 政府は民放を指定する動きで(井上喜一有事法制担当相「民放の協力は必要」)、そうなると、政府が「これは有事だ!」と宣言したら、テレビ、ラジオは自由な報道ができなくなる可能性が高い。
 つまり「大本営発表」を流しつづけなければならない、ということだ。この国のメディアが、感情的に流されやすく、国の意図にこびた報道をしやすいことは、04年4月の「イラク人質事件」での「人質家族いじめ」でも明白になったが、それに加えて、国からの命令が下れば、輪をかけて偏向した報道に走ることは目に見えるようだ。
 国と政府が「良心的」で「良識的」であるのならば、この法律は暴走しないかもしれないが、国民の70%が反対する「年金改革法」を強行採決し、裏でこのような危険な法律を通すようでは、「良心的」とはとても思えない。

 彼等が「宣戦布告」をする準備を整えたことを、我々は隣人たちに伝えるべきだろう。
 なんといっても「宣戦布告」が届いたかどうかもきちんと確認せずに真珠湾を爆撃した経歴がある国だしね。これに加えて「憲法改正」ということは、「気分はもう戦争」、ということだ。

山崎智嘉 2004/6/20

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六ヶ所再処理工場に未来はあるのか?

 2004年12月21日、青森県六ヶ所村で、ウラン試験が開始された。
 多くの反対の声を押し切って、開始されたこの「試験」は、だれの利益になるのか?
 内閣府原子力委員会によって、2004年6月から有識者や専門家を集めて行なわれた、新しい長期計画を決める「原子力開発利用長期計画策定会議(以下、長期計画策定会議)」の場でも、核燃料サイクルそのものについて多くの異論が出されている。
 ここでは、異論が出されているというより、電力側、推進側以外の委員は、ほぼ「実現性に懐疑的」で「プルトニウム利用」の必要がない、としている。
 委員のひとり山地憲治・東京大学教授は、「原子力の役割は現在の軽水炉で果たされており、プルトニウム利用に特段のメリットはなく、それに踏み出すのは得策ではない」と指摘する(朝日新聞2004年5月12日)。
 原子力推進派でも、その必要に疑問を示しているのに、この時期に六ヶ所再処理工場でウラン試験を実施するというのは、いかにも「シナリオ通り」という印象を否めない。
 あと戻りできないところまでやってしまえ、というやり方に見える。
 福島県の佐藤栄佐久知事も、策定会議で一カ月もたたないうちに「再処理路線継続」の結論が出されたことを批判している。策定会議では委員の主張が異なっている点をていねいに拾い上げ明らかにしながら議論すべきところを半ば多数決で決めてしまった」と指摘している。
 原子力政策に批判的な策定委員は、「わなにはめられた」も同然だ。再処理推進を決定した場に参加させられただけとなった。
 このまま、六ヶ所再処理工場が、もし事故ひとつなく稼動したとしても、処理できる使用済み核燃料は800トン。年間1000トン発生するのに、到底処理しきれない計算だ。
 日本がプルトニウムを大量に保有することは、「イランや北コリアなどの国に核兵器開発の口実を与えてしまう」という危惧もある。
 いったい、この見切り発車がだれの利益になるのかを見抜かねばならない。

山崎智嘉 2005/01/05

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「もんじゅ」の迷走は、日本の迷走 2006/1/1

 2005年5月30日、最高裁は名古屋高裁金沢支部の判決を破棄し、控訴を棄却、もんじゅの変更前の設置許可を有効とする判決を下した。さらに、12月15日、再審請求を棄却した。
 この判決・決定は2005年10月に、原子力政策大綱が閣議決定され、プルトニウムを取り出して核燃料とする、「核燃料サイクル」を堅持することを明確化したことと連動している。
 原子力政策大綱では、ナトリウム漏れ火災事故を起こして10年以上も止まっている「もんじゅ」の運転を2年半後に再開し、2015年ごろから実用炉を検討、2050年に実用化・運転するという計画だ。
 「もんじゅ」が計画段階から36年経っても「原型炉」として役立っていないのに、30数年で実用化しようというこの計画は、いかにも無謀なものと思える。
 技術的に無謀なだけではない。そもそも、核燃料サイクルには、プルトニウムの取り出しのために、無数と言っていいリスクがともなうことをも無謀にも軽視している。使用済み核燃料の輸送、処理のリスク、テロのリスク、兵器への転用のリスク、運転にともなう事故のリスク……。
 最後に、「死の灰」を大量に、永遠に処理し続けるリスク。
 リスクを認識しながら、転がりだした坂道は転がり続けるしかないという論理。これが、今の日本のあらゆる分野での誤りを象徴している。気づきさえすれば、だれの目にも明白な誤りを指摘する声を、今度は新たな法律でつぶしにかかる。
 この法律案の名前を、ホームページに書けば、密かに弾圧の魔手を伸ばすことも可能だ。
 そんな新年が明けた。

山崎智嘉 2006/1/1


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