平松寺薬師如来坐像調査報告要旨

051212 堺市教育委員会社会教育課

木造薬師如来坐像 1躯 美原区小寺 平松寺

 高野街道沿いに位置する医王山平松寺は、高野山真言宗に所属している。当寺の本尊である本像は、「小寺薬師」と称され、本堂中央の厨子内に安置されている。本像は、寄木造、像高174.2cmをはかる半丈六の坐像で、右手を曲げて掌を前に向け(与願印)、左手は膝上に置いて薬壺をとり、結跏趺坐する薬師如来坐像である。面相部は円満なまとまりをみせ、穏やかな表情をみせている。体部は衲衣をゆったりと着して全体が穏やかな曲線で構成されている。光背は頭上には飛雲に乗る宮殿を、周縁には飛雲に乗る七仏薬師坐像6躯を配する。台座は框・反花・蓮華からなる大仏座である。

本像は頭体のバランスが整い、体躯も伸びやかで自然である。衣も仏躰を柔らかく包んでおり、後にみられるような形式化したところを感じさせない。全体に穏やかな造形にまとめあげられ、永承7年(1053)に完成された宇治・平等院鳳凰堂阿弥陀如来像を規範とする定朝様に従った作品とみることができる。特に眼窩の形は、平等院阿弥陀如来像のそれと近似しており、定朝と近い造形感覚を看取することができる。総じてその完成度は高く、本像は、京都中央の仏師の手によるもので、その製作年代は平等院像よりわずかに下る十一世紀後半と推測される。

         
平松寺薬師如来と平等院阿弥陀如来           その頭部

なお本像を安置する厨子の正面扉4面の各内面には、日光・月光菩薩立像、十二神将像、四天王像が丁寧な筆致で描かれている。また内部には荘厳の瓔珞が懸架されている。

堺市における平安時代後期彫刻の作例をみてみると、本像は堺市における定朝様作品の初源的性格を帯びており、本像から堺市内の定朝様作品が展開していったとしても決して過言ではない。この丈六像が竹之内街道、高野街道沿いに位置する寺院に安置されていることも中央文化の伝播という点でたいへん興味深いものである。

平松寺の町名である「小寺」には、江戸時代の字名として「長和寺」がある。長和寺は三条天皇の長和年間(10111015)に天皇の眼病平癒を祈願して創建された寺院と伝えられている。本堂東側の鎮守社手水鉢の台石には「長和寺大宝塔、願主実盛、大永四年八月吉日」とあって平松寺の前身が長和寺である可能性は高い。長和寺の名は承安2年(11723月18日付「佐伯景弘持経者注進状」(『平安遺文』5055)にみえる。同状は、安芸・厳島神社の神主佐伯景弘の指示により長和寺住職明蓮房良尊が近傍である黒山の学音寺、花林寺、薬師寺や丹北郡松原の法源寺、大臣寺ら近在寺院の住職や厳島の社僧らと共に写経を行った報告である。出来上がった写経は、清盛の紺紙金泥経とともに厳島神社に奉納されたと思われ、長和寺と平清盛との間接的ではあるが繋がりを認めることができる。更に三条天皇の眼病平癒を祈願して創建された寺院の本尊としては薬師如来がふさわしく、本像が長和寺の本尊にあたる可能性もあろう。ただ作風からすれば、長和年間まで遡ることは出来ないが、定朝に極めて似た中央の作風を誇る大型の仏像である点を考慮すれば、創建以来の長和寺と中央とのダイレクトな交流のなかにあって、本像が製作されたこともあながち不自然ではないものとみられる。

ともかく堺市にあって定朝様をよく踏襲した半丈六像は、極めてまれであり、以後の堺市及び南河内地方の平安時代後期彫刻の作風展開を考える上で看過し得ない優品である。
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