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スケッチ水戸!!

水戸の名所・古跡等のスケッチを特集しました。今後も随時追加していきます。
名所・古跡マップ


1. 八卦堂(はっけどう):茨城県立図書館裏
 

弘道館の鹿島社参道に面しているこの八角の堂は、各面の上欄に八卦(易)算木が取り付けられているため 八卦堂と呼ばれている。弘道館建学の主張を述べた「館記」の碑をつつむ堂社である。 この地には鐘楼や孔子廟他いくつかの碑があって、そのいずれもが弘道館の精神教育を支えるものであり、 筆舌に尽くしがたい爽やかな空間を味わえる。


2.安陣車(あんじんしゃ):水戸市指定文化財
 

この安陣車はなんと戦車なのである。徳川斎昭が作らせたものであり、鉄板で上部と四面を囲んだ部屋に一人が 入り、外部からの攻撃を防ぎつつ中から小銃が発射できるようになっている。鍛刀師・久木新七郎の作であり、新 造時には彼の鍛えた鉄板がガンブルーに輝いていたと思われる。東照宮の物置にさりげなく置かれているのだが、 これがまたとても結構。


3.旧水戸城薬医門
 

この城は昭和58年に県指定の有形文化財となっている。出入り口は中央だけ三間一戸からなっており、屋根には 二つの脇扉がついているのだが棟を中心よりずらしていて側面から見ると対称形ではない。この結果正面から軒が 深く見える為にゆったりとし、威厳がでるのでこの形式で造られた例は多い。 昭和50年に現在の場所に移築されており、その際に切妻造であった屋根をもとの茅葺きに替えて現在の銅板葺に したものである。その歴史的な意味合いも含め一見に価する。


4.旧弘道館
 

弘道館は、徳川斎昭公が天保年間に人材養成の為に建てた文武研修の学校であり、基本方針としてどんな時代に も必要な人間の理想を達成しようというねらいがあったのだろう。外国の思想風俗をいたずらに模倣する国民に堕 落しないようにと思索し、創造されたのが弘道館の教育であると思われるが、そこには国家理想と人間理想との調 和一致を目指す努力があったのではないだろうか。それゆえに弘道館の教育には、時代を超えて今日我々が深思反 省すべき問題が多く示されてしるのであった。


5.水戸気象台
 

水戸気象台は昭和を代表する建築家「堀口捨巳」作であり、この様に装飾を取り払った白くて箱状のデザインを 「モダニズム」という。堀口は日本におけるモダニズムの先覚者であり、1938年(昭和10年)にこれを完成させて いる。 ある梅雨の晴れ間で気持ちのいい日に金町通りより歩いて入ってみたのだが、一瞬足が止まってしまった。日差 しの強い日であったとはいえ、岬の灯台の前に立っているような錯覚に陥ったのである。かつての建築界の様式主 義に反発し、新しい様式に挑戦していたエネルギーがこの地味な建物を際立たせるのだと感じた。


6.水戸市水道部低区給水塔
 

この給水塔は全国にある中でもゴシック様式でまとめた数少ない秀作である。入り口上部の尖塔アーチがまぎれ もないゴシック様式であり、垂直の線を強調している点もゴシック特有のものである。またその美しき外観の中に は近代都市建造造の理想が織り込んで造られており、給水塔として日本にその類例を見ないものである。 姿、形もその保存度もなかなかのものであり、景観を通りこして景色になっている素晴らしさがこの建物の特有 である。
 

7.県立水戸商業・旧本館玄関
 

明治37年完成のこの建物は本館の玄関であり、両側には半円形の欄間持つ大きな窓があり、さらにその上部には、 良くぞやったぞと思われる天然スレートで葺いたドームがのっている。ロココ調、またはベルサイユ宮殿を模した ものと云われているのだが、なによりの特徴はアンバランスの美であり、若々しさである。大きなアーチに対して 小さすぎる切妻屋根、アーチ自体の大きさとその高さ。いずれをとってもアンバランスなのだが、それだけに印象 的であり新鮮さを覚える。 設計者の「駒杵勤治」は茨城県技師(営繕士師)であった。正面にこの施設を移設し、大アーチをくぐって登校 できたら愉快だなぁと思うほどに、印象的で若々しいデザインである。
 

8.旧茨城県庁
 

昭和5年にこの旧県庁は建設され、さらに昭和27年には4階部分が増築され現在の形に出来上がった。当時、全国の 多くの県庁舎の中でもこの茨城県庁舎は中部の高い塔がきちんとデザインされているのが特徴的であったが、これは ともすれば重くなりがちなこの建築のデザインを軽快に見せる動きをしている。 4階部分を増築してしまったために建築物な魅力には乏しいが、環境と溶け込んだ端正なたたずまいは下手な現代 建築より数段優ったものとなっている。
 

9.学生警鐘
 

この建物は旧県庁裏、第二公園の北側にあります。これに隣接する孔子廟と 実にうまいコントラストとなっています。中には鐘が一基吊り下げられていて 徳川斎昭(烈公)自鋳のものと云われています。 鐘の外側正面には独特の浮彫が施され、背面には斉昭の自筆で

物学ぶ人の為にとさやかにも
暁告ぐる鐘のこえかな(万葉仮名)

いう歌が浮彫されています。また鐘の内面には鋳造の由来が浮彫され、斉昭の 自署と花押まで添えられています。 弘道館内の学生に時を告げたり、事あるときの知らせに用いたもので一般寺院 の梵鐘とほ趣を異にした独特な作りになっています。 建設時期には定かでないが孔子廟との関連から推測すれば、安政4、5年の頃と 思われます。弘道館に付随する名建築の一つです。 小雨けむる梅林の中いにしえの音を聞きたい思いにかられます。
 

10.東照宮
 

駅を出て歩道橋をわたり銀杏坂にかかるところに、東照宮の石標と丹塗の鳥居がある。その鳥居をくぐると「宮下銀座」街、その右上が東照宮である。銀杏坂は明治18年頃に開かれた切通しであって、全体が杉や松がうっそうと繁った丘であり東照宮の境内であったそうである。市街化が進み昔の俤はないが、坂の崖上に料亭環翠亭があったのを思い出す。この東照宮の社殿は、小さいながら日光東照宮に優るとも劣らない華麗な建造物であり、国宝に指定を受けたが戦災で焼失してしまい、いまは鉄筋コンクリートの近代的な社殿がたっている。
宮下町は昔は東照宮の裾になっていたので「お宮下」といって松並木があり、このあたりから千波湖に達する所を「下谷」と云った。東の東照宮の崖裾と黒羽根町の崖裾とにはさまれた地形から来た名前であるが、後の奈良屋町となった。又ここは水戸藩史上大きな影響を与えた藤田幽谷(東湖の父)の生誕の地であるが、御年配の面々には「奈良屋町」のイメージは全然別な印象を持つと思われる。

 

11.宮下銀座・奈良屋町
 




汽車で上野を発って沿線唯一の特殊飲食街として名をはせたところであった。 宮下銀座通りは昭和45年に完成した事が当時の「いばらき」に掲載されている。この完成は当時の世相を反映している。完成祝賀会の当日には丸井水戸店が開店している。西友ストアー、東光ストアー、高島屋など大型店が市内に次々と出店した時期と重なり、商業の活性化が図られる中での誕生であったわけである。スケッチするわきをかすめる車、シャッターで閉ざされた店々、新設されたレンガのトーチカ(?)問題は山積するも、駅にも近く商業観光としてのポテンシャルの高い所だけに、特色ある参道商店街を再構して行くべきと思う。
 

作者: 横須賀 満夫
渇。須賀満夫建築設計事務所 所長
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