古河公方とは?

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 室町幕府の関東統治機構であった鎌倉府(鎌倉公方足利氏・関東管領上杉氏)体制は、永享の乱(1438)・結城合戦によって勢力図を大きく変えることになった。永享の乱では鎌倉公方足利持氏とその子義久が幕府軍と関東管領上杉憲実軍により敗死、結城合戦(1440)では持氏の子春王丸・安王丸が捕らえられ殺された。
 その後、持氏の子で義久・春王丸・安王丸の弟の万寿王丸(のちの足利成氏)と、上杉憲実の子憲忠によって鎌倉府は再建された(1447)。しかし、またも足利・上杉両氏は対立。成氏は憲忠を謀殺(享徳の乱)し、鎌倉を脱出。下総古河の地にたどり着き、御座を構える(1455)。成氏は幕府から任じられた正式な鎌倉公方ではなかったが、関東に勢力を振るった。

 持氏以降、鎌倉府と対立していた幕府も、手をこまねいていたわけではなく、将軍義政の弟政知を東国へ下向させ(1458)、鎌倉公方を名乗らせた。しかし、政知は古河公方・関東管領に対抗する力を持つことができず、鎌倉に入ることもできずに、伊豆の地に堀越公方を構えた(1493年に、北条早雲に滅ぼされる)。
 古河公方は後も、実質的な「鎌倉公方」として隠然たる影響力を持ち続けた。その後、北条氏の庇護を受けるようになり、衰退して消滅するまで130年もの間続くことになった。