関東管領・上杉憲実

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 上杉憲実(1411−1466)は越後上杉家の生まれで、関東管領上杉憲基の養子になり、9歳で関東管領を継いだ。幼い頃から文武に優れた憲実は、関東の諸将からも厚い信頼を寄せられるようになった。しかし、鎌倉公方足利持氏との仲はうまくいっていなかった。憲実が事あるごとに持氏の我が儘をいさめていたため、持氏にとって憲実は煙たい存在であったからである。
 将軍義教に対する反抗、幕府の元号を使わず、元服の際将軍の名(義教)の一文字をもらわず・・・、と数多くの問題を起こした持氏を憲実はついに見放し、領国の上野白井城に引き上げて幕府に持氏の勝手な振る舞いを訴えた。将軍義教が諸将に憲実を助けて持氏を討伐するように命令すると、ほとんどの将が憲実方についた。
 この「永享の乱」は持氏方の一方的な敗北に終わり、持氏は永安寺に入って謹慎した。憲実は数十度にわたって幕府に持氏の命乞いをし、その子の義久を次の鎌倉公方にするように幕府に願い出たが許されず、持氏、義久親子は翌年自害させられた。この年に憲実も弟清方に関東管領の職を譲り隠居した。さらに翌年の結城氏朝の乱では、弟清方とともに出兵し、乱を平定している。
 その後、鎌倉公方は持氏の子万寿王丸(足利成氏)が継ぎ、憲実の子憲忠が関東管領となって鎌倉府は再興される(1447年)。しかし、それも長くは続かず、1554年、成氏が憲忠を暗殺して(享徳の乱勃発)古河に逃れた(古河公方)。
 旧主持氏の非業の死、息子憲忠の成氏による絵に描いたような敵討ちによる死・・・。既に1449年に出家していた憲実にはどう移ったのであろうか。その後憲実は寂しさを紛らわすように諸国行脚の旅に出て、最後は周防の大内家を頼って大寧寺に住み、そこで56歳の生涯を終えた。

 憲実は学問熱心として知られていたことは最初に述べたが、足利学校の再興者としても有名である。永享年間(1429〜1441)に、自分の領地や書物を多く寄付して再興した。鎌倉の円覚寺から禅僧快元を初代校長に迎えて、学校の規則を決めたりした。これは彼の最大の業績といえるかもしれない。
 その後も、憲実の子孫や後北条氏、徳川氏が代々足利学校を保護し、16世紀後半には学生数は3000人に達するほど栄えた。江戸時代にはいると私塾や藩校におされて衰え、古い書物を保存する図書館の役目となり、現在は足利学校移籍図書館として、約1万2千冊の本が所蔵されている。

白井城跡:群馬県子持村。1438年足利持氏と対立した憲実は鎌倉を去って白井城に入った。
足利学校:栃木県足利市。
上杉憲実の墓:山口県長門市、大寧寺。