アデレード公演 製作ノート

アデレードフェスティバル  (2000年3月3日オープニング)



2月10日 アデレード到着アデレード劇場建設

先乗りした5名につづいて、現地へ向かう。
ランカイアット・クアラルンプール・メルボルン・アデレード
とマレーシア航空で乗り継いで着く。
作業は日中の酷暑のため朝7時から開始。
既にオーストラリアスタッフの手で客席は完成されており、
日本スタッフはコンテナで送った美術セットを組立作業。
日豪スタッフともうまくやっている様子で、安心した。


2月16日 アデレードの夕焼け

芸術監督のロビン・アーチャ−さんの招待でビーチへ行く。
彼女がフェスティバルの総責任者であり、3年前から熱心に維新派を観に来られ、
今回のプロジェクトを実現してくれた人である。
素晴らしいサンセットが見れるレストランで食事。
コーディネータの青木さん、舞台監督の大田氏らと全員満喫して帰る。
この日大道具チームは、ボランティアで来ている現地・女子大生と
トラム(路面電車)にのって別のビーチへ遊びに行った。

2月18日 草上の会議

テクニカル・デレクターのジェフを囲んでオールスタッフが木陰の下でミーティング。
昨日から現地当局の検査が入り、劇場の安全面での注意事項などが伝達された。


オールスタッフ会議維新派スタッフは今回、外国人労働者なので、
イントレの3段以上を昇って、高所作業はできない。
セットの飾りこみや大工仕事ははほぼ終了し、
舞台床面や袖パネルの黒ペンキ塗りを、炎天下
現地女子大生ボランティアともに和気藹々と行う。
問題のプール作りは工程上、22日以降の予定。
しかし豪日スタッフは、No warry ! の言葉を投げ合う。

これは、一番心配であるというオージー・イングリッシュだ。

2月21日 入国検査

前日大道具スタッフ原口、野村、ボランティアスタッフ5名が到着
原口と野村は、そのいかつい風体のせいか、単に語学力の無さか、
イミグレーションでSTOPがかかり、別室にて詰問される。
フェスティバルの招聘状のコピーを見せるなどして、やっと入国。
この日は劇場に照明・音響のトラスがクレーンで取り付けられる。
雨が降ったり、やんだりの不順な天候が続く。

2月24日 快晴 日中 摂氏34度 

朝、照明・音響スタッフ5名がアデレード入り。
テクニカル・スタッフの打ち合わせが行われる。
昼には演劇評論家の大笹さん、通訳の長谷川さんが到着。
夜は、イタリア料理店でメインスタッフの夕食会を行う。


水辺のスタッフと犬2月25日 水入り

懸案の舞台プールについに水が入る。
灼熱の現場が一瞬にして、いっきになごみ、
オーストラリア・スタッフが連れてきた犬くんも
それまで客席下で昼寝していたが大はしゃぎ。
製作として、皆ののこういう顔が見れるのが
何よりも嬉しい。これまで過酷な労働と、
不安の毎日が続いたが中央で堤防に腰掛け、

満面の笑みを浮かべるのは、
今回もっとも重責を担った、舞台監督の大田氏である。

しかしまだまだ、本番まで,あと数日、気は緩めない。

2月27日 役者、演出・松本雄吉、音楽・内橋和久 到着

総勢42名が無事入国し、現場は活気づく。


2月28日 リハーサル

大道具リハーサル
晴れ 摂氏37度まで気温が上がる。
日豪混成スタッフがリハーサルに挑む。
今回の維新派初海外公演は、
維新派の大道具が初めて外国のスタッフと
international unionを試みる場でもある。
拙い英語で場面転換の打ち合わせが行われ、
リハーサルにて、何よりもからだで覚えてもらう。


3月1日 ドレス・リハーサル

フェスティバル関係者、現地スタッフの家族、マスコミを
招いての公開リハーサルが行われる。
役者は、初めての海外デビューということでか、やや緊張ぎみで舞台に立つ。
舞台裏の照明部の何人かが感電するなどアクシデントもいくつか発生。


   3月2日 プレビュー


3月2日PREVIEW日中は40度近くまで気温があがる。
本番直前、維新派スタッフ恒例の<お清め>が
行われ、焼酎ではなくアデレード産の白ワインで、
オーストラリアのスタッフと乾杯し士気を高める。
夜8時より、600人を越える観客を前にして
プレビューが行われた。
フェスティバルのスポンサーの携帯電話会社が
この夜の公演をインターネット中継したそうだ。
プレビューのできは上々、長い拍手で終演した。
明日はフェスティバルのオープニングで休日、
スタッフも明るい顔でこの夜を過ごした。



3月4日 初日が開く

超満員の観客がスタンディング・オベーション

3月6日(月)
劇 評
  

The Australian誌  text by Murray Bramwell

運命の海に浮かぶドラマ

MIZUMACHIというのは、1905年、大阪という工業化されつつあるスラム街に
浮かぶ水の街である。 ここに琉球という南の島から、貧しい労働者たちが働き
にやってくる。彼らは運河沿いに住み、鉄をくすね、クズ広いをしてかろうじて生
計をたてている。主人公のナオは親を失い妹のカナと2人で生活しているが、
運河で溺れたカナを救ってくれたタケルと出会う。
チャールズ・ディケンズの「ハード・タイムス」の中の石炭産業の街の住人や、
L.S.ドーリーが描く工場地帯の風景に描かれている人物たちのように、水街に登
場する人物は自分たちを取り巻く機械文明の巨大さに萎縮させられてしまっている。
アデレード中心部にあるトレンス・パレード・グラウンドに特別に建設された野外劇
場に、維新派の演出家である松本雄吉と美術担当の林田裕至は劇場というより
映画のセットのようなパフォーマンス空間を創り上げた。とにかく巨大なのである。
水街ではバラックの家、船の家、鋳物工場、製糸工場の世界を繰り広げている。
そして至る所に水がある。ある時は運河、次の瞬間には舞台全体が水でいっぱい
になる。だが、これら新しく大阪人となった人たちのエネルギーと躍動感にあふれた
生活がある。文化革命時代の中国歌劇に似て、ハイテク音楽の力強いビートで
進行する。これは作曲家兼ミュージシャンの内橋和久のアレンジによるものである。
総勢41人という役者たちは、リズミカルな発声とビートに合わせて群舞する。
このリズムと発声の折りなしは、ロシアのメイエルホールドであったら誇りに思うであ
ろう構成主義の要素と、少年ナイフのような少女ポップ・バンドの元気の良いダンス
を取り混ぜたような表現である。つまり、水街は現代のさまざまなパフォーマンス
及び音楽のスタイルを非常に豊かに混ぜ合わせた。


カーテンコール

役者の台詞があるシーンでは我々観客は、必死になって筋書きに目を凝らし理解
しようとした。他方、その公演の中でも音楽要素が高いシーン「溶鉱炉」「製糸工場」
「台風」では、観客は音楽、舞台美術、身体表現という普遍的なオペラの要素を持つ
ものにすごく惹き付けられた。アデレードは、この非常に異彩を放つ公演を世界で
はじめてみることが出来て幸運である。水街は疑いもなくフェスティバルの目玉である。

3月17日 無事、終演

「MIZUMACHI」12回公演は、全日満席で終了。
終演後の打ち上げでは、オーストラリア・スタッフにも
日本で制作の衛藤さんが用意してきた5円玉の入った大入袋が配られ、
深夜まで、呑むや踊るの大騒ぎとなった。


ムーブの田鹿くん3月19日 撤収


前日の朝から野外劇場の解体工事が始まる。
演出・松本、照明、音響チーム、役者たちは、
われわれよりひと足先に日本へ帰国と途につく。
写真の人物は今回音響助手として活躍した、
大酒呑み、大食漢・ムーブの田鹿君。
アパートメントを出るまでひょうきんであった。
コンテナのパッキングは夕方に終了。



3月21日 帰国

共に働いたアデレードのスタッフの見送りをうけ
維新派の最終帰国メンバーが大阪へ帰国した。


アデレード国際空港にて


維新派「MIZUMACHI」アデレード公演と、
ドキュメンタリーを挿入したビデオが
スタジオ・デルタ製作で発売中


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