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book「ミケルアンジェロ」  羽仁五郎
ミケルアンジェロ  とても歯切れのいい文章!羽仁五郎さんの文章には(読んだどの本にも)今なすべきことをしっかりと凝視する決意がこめられている。
 ある対談集では,私も知っている有名な民衆の視点に立った学者さえ,一喝され,たじたじになっているような場面があった。
 確かに今,はっきりと語り行動する人が少なくなったように感じる。この本の紹介には「・・・昭和14年,軍国主義下の暗い時代に,自由への熱い思いを込めて書かれた名著。」 とある。
  羽仁さんが今生きていれば,何を思い何を言い,どんな行動をしたであろうか。いやそれよりも多くの(かつて進歩的とか言われた)人々は一喝されるかもしれません。
という私も・・・この本さえも,(読み進むにつれて難しくなってきて)全頁読めていません。(喝!)(『都市の論理』は全部読んだけれど・・・。)
  でもこういう本も古本屋でしか見つけにくくなる時代がくるかもしれません。お早めに!
book

十世紀も後に!

 ミケルアンヂェ口は、いま、生きている。うたがうひとは、"ダヴィデ"を見よ。
 ダヴィデは少年である。かれが怪物ゴリアをたおす決心をつけたとき、ひとびとはかれをとめた、が、確信をもったかれは、一木の石投げに石をもっただけで、ゴリアにむかって行った。そして、少年ダヴィデはついに怪物ゴリアを倒した。―
  ミケルアンヂェ口の"ダヴィデ"は、ルネサンスの自由都市国家フィレンツェの中央広場に、その議会の正面の階段をまもって、立っている。身には一糸をつけず、まっしろの大理右のまっぱだかである。そして左手に石投げの革を肩から背にかけ、ゴリアを倒すべき石は右手にしっかりとにぎっている。左足はまさにうごく。見よ、かれの口はかたくとざされ、うつくしい髪のしたに理知と力とにふかくきざまれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。
 それは当時、一の国家をなしていたフィレンツェ自由都市の市民民衆の代表者数千人が、かれらの愛する国家の政治をかれら国民の手で自ら処理するために、内には専制者が起り来るすきをあたえず、外には侵略者をふせいで、かれらの自立の政治を擁護し発展させるために、活気にあふれて集会し、討議し、議決し、実行にうつった広場である。ながい中世封建の圧制の暗い世界から、ついにそこからぬげだした人類が新しい世界にむかって、新しい社会にむかって進歩をはじめた、その先頭に立って走ってゆくルネサンスの花フィレンツェの自由独立の市民。そのフィレンツェ国家の自立がいくたびか危くされた時には、かれらはいかにうれいをもって、しかし強い決意にもえて、この広場に集ったことであろう。いな、専制者また侵略者たちの攻撃にたいして、祖国の自由独立をまもる 積極的の行動のために実力をもって起った市民が、あらしのようにこの広場にみちあふれたことさえ、いくたびかあった。
 しかしまた、平和のもとに繁栄のなかにフィレンツェの自立が一歩一歩成長して行くとき、かれらはいかによろこびにさけびつつ、はなやかな祝また祭に、花さくようにこの広場にむらがったことであろう。そうした群衆のまっただなかに、そのフィレンツェ自由都市の市民より選挙せられて成立していた最高政府シニョリアの政庁および議事堂パラッツォ・ヴェッキオの正面に立つミケルアンヂェロの"ダヴィデ"。かくのごとく美しいものが、この世にあり得るのか。これこそ、まことの芸術の限りなき美しさである。
 もとより、フィレンツェはつねに当時のフィレンツェではない。明朗はふたたびフィレンツェにかえらないのであろうか、かつてフィレンツェ自由都市国家のシムボルたりしバラッツォ・ヴェッキオは、かさかさに枯れてしまったように、昔日の光りを失い、ピアッツァ・デラ・シニョリアの広場は、いまは捨てられたように、いたずらにひろいその石だたみの上を吹きわたる風が淋しく、うるわしかりしフィレンツェの街はやぶれうなだれ、あの活気と毒舌とをもって鳴っていたフィレンツェ自由都市市民のすがたは今いずこかと思わせるが、ひとりミケルアンヂェロの"ダヴィデ"の裸身のみは、風霜をしのいで、いよいよ毅然と立っ ている。いな、その後の動乱の際に、パラッツナ・ヴェッキオにたてこもった市民たちが、その正面を破って侵入して来ようとしたメディチ専制主義の手兵にむかって、窓から投げつけたベンチが、"ダヴィデ"の左の腕にあたったあとは、修復されたが、フィレンツェ自由都市国家の繁栄と喪失とのすべての起き伏しをフィレンツェ市民といっしょに身をもってたたかって来たこの"ダヴィデ"は、その失われた歴史をひとびとがどんなに忘れ去ろうとしようと、かれぱかりはそのかつてのたたかいをいまのことのように、いな、将来の希望のように、語ってやまないのである。屈せざる歴史いな人生の希望スペラソツアの ために。そして民衆の明朗をおびやかす如何なる怪物ゴリアをもついには倒そうとする理知の憤怒にもえたその顔、辛苦から力を得たその大きな手、わかわかしさにみちて立つその両足、ああ、この純白の大理石にががやく少年"ダヴィデ"の裸体こそは、真の芸術の何たるかを、むかしも、いまも、いつまでも、その前に親しくむれあつまる人々にかたりかけてやまぬのである。
 "ダヴィデ"をながむる人は、現代の人は現代の心のかぎりをこめて、この像をみつめることがゆるされる。"ダヴィデ"を、ミゲルアンジェロを、近代的にあまりに近代的に理解すべきでない、などという凡庸歴史家たちに対しては、ミケルアンヂェロ自身が彼の言葉をなげつける、
十世紀も後になって見よ!」と。

(「ミケルアンジェロ」−岩波新書−P1〜P3より抜粋)

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