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人権「若者はなぜ怒らなくなったのか−団塊と団塊ジュニアの溝」
          荷宮 和子
  【中公新書ラクレ】
若者はなぜ怒らなくなったのか−団塊と団塊ジュニアの溝  本屋でたまたまめくってみて、その中に「そもそも、なぜ日本のメディアは、そして、日本の「フツーの人」は、2003年3月20日以降の爆撃を、「イラク・アメリカ戦争」または、「アメリカ・イラク戦争」とは呼ばず、「イラク戦争」と呼ぶのか。なぜなら、アメリカが、この爆撃を「イラク戦争」と呼んでいるから、である。・・・」という一文に目がいき、またこの本の題名「なぜ若者は怒らなくなってしまったのか」ということについては、私自身が日々感じていることでもあったから、初めて読む作者の本であるがあまり躊躇もせずにレジに持っていった。
人口グラフ  まず荷宮さんは、「世代論」を展開する。かつて全共闘世代として学生時代華々しく?活動した「団塊の世代」が今はどうなっているのか。かつての思想をかなぐり捨て、(といってもそんなものははじめから持っていたのか?この本を読むと、そんな価値観ホントに持っていたの?と思わざるを得ないけれど・・)社会の中枢に座っている人も多い。そしてその団塊世代の子どもたちが「団塊ジュニア」と呼ばれる世代で、今はもう社会に出て何年か働いている人たちであり、荷宮さんのいうところの「若者」は、この世代のことをさしている。
 キーワードの一つは、「決まっちゃたことはしょうがない」である。どんなに理不尽な目に遭っても、抗議することなく、「決まっちゃたことだから」で納得してしまっている若者たちの振る舞いについて矛先を向ける。これは私も日常生活の中で確かに同じ思いを持っている。「どうしてみんな怒らないの?」って感情が沸き立つ場面がここ数年いやに多いのだ。ただ私の周辺の場合を考えると、これは「若者」に限ったことでもなく、団塊世代も私たちと同じ世代の人間の中にもたくさんいる。だからここに世代論をもちだすのは、どうかなとも思うが、確かに人口比率(グラフ参照)でみると、各世代とも(そういう人の割合が)同じぐらいの割合であるとしても、絶対数はどの世代が多いかは一目瞭然ではある。でも要はそれぞれの世代での生き方の問題であろう。

 しかしこういう人々が多くなっていくと、どういうことになっていくのだろうか?荷宮さんは映画『バトル・ロワイヤル』を例に出して、こう言う。
「が、もし私が、国を動かす側にまわることができたなら、はたして何を望むだろうか。少なくとも『バトル・ロワイヤル』を子どもに見せるな、とは決して言わないであろうと思う。だって、支配される側がああいった映画を見てくれれ育ってくれれば、『決まっちゃったことはしょうがない。何とかその枠の中で生き残れるようがんばろう!』と考える人間たちが多数を占めてくてれるようになるに違いないのだから。大局的にものを見ることのできない民衆ほど、支配する側にとってありがたいものはない。・・」
 収入も上がらず、年金も危ない。差別的な発言や危うい言動を平気でする政治家や行政のトップたち。選挙で通したのだから、国民に責任をなすりつける言動も耳にする。「徴兵制」云々の言動もメディアを通じてお茶の間に流れてくる。この本の終章は「『怒るべき時に怒る人間』になるための方法」である。日常の言葉(過ぎるきらいもあるが・・)で綴られ読みやすく、(私にとっては)同感すべき箇所がとても多い、痛快な書籍であった。(2004年1月)


(P198〜P201より)
「人を見下す」のは気持ちいい
(前略)
 しかし、「誰かを見下して生きること」は、特に何の取り柄も能力も持たない「フツーの人」にとっては、手っ取り早い娯楽&ストレス解消法であることに間 違いはない。そのことに気付いたからこそ、社会を支配している側の人間は、支配されている側の人間に、男尊女卑だの、部落差別だのといった「おもちゃ」を 与え、飼い馴らしていたのである。
 しかし、敗戦後、「そういう価値観」は間違いである、という正論が、日本でも唱えられるようになった。男女差別や部落差別や民族差別はしてはいけないこ とである、という正論こそが、たとえ「建前」としてだけであっても、流通するようになったのである。結果、何の取り柄も能力も持たない「フツーの人」は、 手っ取り早い娯楽&ストレス解消法を失ったのだ。
 そこに現われた救世主が石原だったのである。人を見下してやろうにも、何の取り柄も能力も持たない「フツーの人」に向かって、「見下すべき相手はここに いる」という内容の耳障りのいい話を、国会議員や東京都知事という「権威」をバックに、ぬけぬけと言ってくれたのだ。何の取り柄も能力も持たない「フツー の人」に受け入れられたのは、当然といえば当然といえよう。こういった石原の価値観が広く受け入れられた結果の行き着く先とは、たとえばこういった社会で ある。
「いやしくも、人が二人以上存する時は、必ず上下の区別をつけなければ、この世の秩序は成り立たない」
 つまり、今の日本は、儒学者新井白石が学問の世界での天下統一をなしとげた時代と同様の価値観によって支配されている社会へと向かおうとしているのであ る。
「フツーの人」=「何の取り柄も能力も持たない大多数の男」にとっては、別にそれでもかまわないのだろう。
 が、私はイヤだ。しかし、私や、私と同様の価値観を持った同世代の女たちがどれだけ「イヤだ」とわめいたところで、所詮は少数派の戯言である。私よりも 数が多く、年も上の世代の男たちの価値観が「良いほう」ヘ変わることはもはやないだろう(「悪いほう」に変わることなら今後も有り得ると思うが)。いや、 男であれ女であれ、他者から「あの人のああいうところがイヤ!」といわれるようになった時点で、すなわち、「まったくの身内」以外の人間と関わりあう生活 をするようになった時点で、もはやその人の「価値観」が「良いほう」へと変わる可能性などほとんどないのでは、とさえ思う。ではなぜ、それでも人間は社会 の中で生きていけるのかと言えば、まさにその「イヤな部分」を支持する人がこの世の中にはちゃんといるから、なのである。世に出た時点で、石原慎太郎は 「差別主義者の戦争キチガ イ」だったのであり、安部や福田や石破は「戦争バカ」だったのである。そして、だからこそ、石原や安部や福田や石破を支持する人たちが存在しているのであ る。
 しかし、たとえ本人の「価値観」は変えられないとしても、その「価値観」を他の人間たちが受け入れるか否か、あるいは、他の人間たちが許すか否か等、そ の「受け取られ方」を変えることはできるのである。とある人間の「価値観」を変えられないのならば、その人間に関わる人たちがその人間をどう評価し、受け 入れるかについてを変えるしかない。有事法制や憲法改悪を心の底から支持している輩たちの「価値観」を変えることは到底不可能である。が、それが現実であ るとしても、彼ら自身についてを変えることができないからこそ、彼らに対する周囲の評価を変えられるよう、私のような仕事をしている人間が、努力する必要 があるのだと思う。そんな私が「近ごろの若いもん」に伝えたいのは、こういうことである。
「人を見下すのは確かに気持ちがいいけれど、その気持ちよさと同じぐらい、自分のことがイヤになっちゃったりもするよ」、と。
「見下す快感」と「自己嫌悪による不快感」。
両者を天秤にかけた場合、後者のほうが大きいために、コスト・パフォーマンス的には決しておいしくない結果となる、ゆえに、「人を見下すのはやめよう」、 これこそが、日本人にとっての「戦後民主主義」だったはずである。
 そう、「善悪」の問題というよりも、むしろ、「損得」の問題として、「差別」をなくそうとする。
 これこそが、日本人のやり方だったはずなのだ。
 私は、このやり方が間違っていたとは決して思わない。だから、これからも、このやり方を続けていくよう、もっともっと主張していくつもりである。

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