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book「パパラギ」 岡崎照男・訳
−はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集−
パパラギ(口にするときは、パランギ)とは
白人のこと 見知らぬ人のこと
でも 言葉どおりに訳せば
天を破って現れた人
はじめてサモアに来た白人の宣教師が
白い帆船に乗っていた遠くに浮かぶ白い帆船を見て
島の人たちは それを天の穴だと思った
白人が その穴を通って彼らのところにやって来た
−白人は天を破って現れた
パパラギ

 ツイアビは、ウボル島(西サモア)に住む一人の酋長である。彼は、ヨーロッパの国々を周り、白人たちの生活様式や文化、考えをつぶさに、そして先入観なしに見てきた。この本は、そのツイアビが島の仲間たちに語る静かな、そして鋭い語りを集めたのものである。
日本語版の初版は、1981年とある。買った本は第81冊発行(2002年)のものである。
 下の引用は、「丸い金属と重たい紙について」、すなわち私たちが使うお金について語ったものの抜粋である。その他、たくさんの「物」について、「時間」について、「機械について」、「職業について」・・等々、我々が現代社会において、また日常の生活について、あたりまえに必要だと思っていることについて邪念のない論評がやさいしい言葉で語られる。
 たとえば時間については、こうだ。「ヨーロッパで、本当にひまのある人はほとんどいない。おそらく、ひとりもいないのじゃないかな。だれもが、投げられた石のように人生を走る。ほとんどすべての人が、目を伏せたまま、大きく手を振り、できるだけ早く先頭に立とうとする。もし他の人が止めでもしようなら、彼らは立腹して怒鳴る。(中略)早く行けば行く人ほどりっぱであり、ゆっくり行く人は値打ちが低いと、彼らは考えているようだ。」
 どうして私たちが住むこの世界は、現代社会は、このようになってしまったのだろう?便利になったらと機械を発明し、こんどはその機械に追いまくられる。お金がないとえらいことになる、(現実そうであるが)、その量が人間そのもの価値をきめる物差しとなり、その「価値ある人間?」が社会を牛耳る。働くことが苦痛となっていながらも、何かの職業につかねば生活できない。
 毎日新しい「物」がつくられ、世界は物であふれかえっている。いやそうではない。それは日本などごく一部の先進国といわれる(自分たちが言っているだけ)国だけのことなのだ。あふれたものを分けることは、損をすることだ。隣人に分けたことで、心豊かになり、幸せを感じる心はもう私たちにはないのだろうか。
 本当に人間の人生に必要なものは何なのかを、ツイアイビは教えてくれようとしている。
 もちろん、時代も違うし、気候風土も違う南の島のお話である。でも私を含め、今を生きる人々の中で、「喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれ、輝いている」そんな目を持つ人が幾人いるだろうか?そういう目の輝きを私たちは確かに覚えているのだ。だが、忘れようともしている。そんな世界はありえないと・・。
 理想と現実は違うのだ。しかし、人間の人生の中で一瞬でも、お金でも物でも仕事でもないところで、そういう目の輝く時を持ちたいと思う。 
(2003年3月)
book

 つまり、白の世界でひとりの人間の重さを測るのは、気高さでもなく、勇気でもなく、心の輝きでもなくて、一日にどのくらいたくさんのお金を作ることがで きるか、どのくらいたくさんのお金を、地震があってもびくともしない、がんじょうな鉄の箱の中にしまっているかなのである。
 他の人にかせいでもらったお金をためている白人が、たくさんいる。彼らはその金を、しっかりと守られたひとつの場所ヘ運んでゆく。ますますたくさん運ん でゆく。するとある日、自分のために働いてくれる人はひとりもいらなくなる。というのは、お金そのものが、彼らのために働いてくれるのだ。魔法でもないの にどうしてそんなことができるのか、私にはどうしてもわからない。けれども、本当にそうなのだ。お金は幹から木の葉が生えるようにふえてゆき、たとえ眠っ ていてもこの人はますますお金持になる。
 ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや千人がつらい仕事をしなくてもすむとする。−だ が、彼は一銭もやらない。ただ丸い金属をかかえて、重たい紙の上にすわっている。貧欲と歓喜に目を光らせながら。おまえがもし、この人にたずねる とする。「そんたにたくさんのお金をどうするんです?着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世であなたに何ができますか?」答えは何もない。あるいは彼 は言うかもしれぬ。「もっとお金がほしい。もっともっと、もっとたくさん・・」やがておまえにもわかるだろう、お金が彼を病気にしたことが。彼はお金にと り愚かれていることが。
 彼は患い、取り憑かれている。だから心は丸い金属と重たい紙に執着し、決して満足せず、できる限りたくさん強奪しようとして飽くことがない。「私はこの 世に来たときと同じように、不平も不正もなく、またこの世から出てゆきたい。大いなる心は私たちを、丸い金属、重たい紙なしに、この世に送ってくださった のだから」などとは、彼は考えることができない。こう考えるのはごく少数の人だ。大多数は病気のまま、心は決して健やかになることなく、たくさんのお金を さずけてくれる自分の力を楽しんでいる。彼らは熱帯雨林の中で腐ったくだもののように、尊大さの中で膨れ上がっている。
 彼らはくさんの自分の兄弟たちを、つらい仕事の中に置き去りにし楽しみ、自分たちだけからだをふとらせてゆく。そうすることで良心を痛めるわけでもな く、もはや汚れることのない、美しく青白い指を喜んでいる。他人の力を絶え間なく奪い続けて自分のものにし、悩みもしなけれ眠れぬ夜もない。仕事を軽くし てやるために、他人にお金の一部を分けてやろうなど、考えたこともない。
 こうしてヨ、ロッバでは、半分の人たちが、ほんの少しか、またはまったく仕事をしない。その一方、他の半分はたくさんの汚れた仕事をしなければな らない。ごの人たちには日なたぼっこの時間もなく、他の半分にはたっぷりとある。
 みんなが同じようにたくさんお金を持ち、みんなが同じときに日なたぼっこをする、いや、そういうことはありえないと、パパラギは信じている。この信念の ためパパラギは、お金のために残酷になるのは正しいことだと考えるようになる。その手がお金をつかもうとするとき、彼の心は固くなり、血は冷たくな る。あざむき、いつわり、いつも不正直で、危険である。お金のために、何とたくさんのパパラギが、他のパパラギになぐり殺されたことだろう。そうかと思え ば、他人のお金を残らず奪い取るために、毒を隠した言葉で相手を殺したり、相手を気絶させたりする。おたがいこのとんでもない弱味がわかっているから、人 はめったに他人を信じない。お金をたくさん持っている人が、心の善い人かどうか、おまえには決してわからない。ひどく悪い奴だということも大いにあり得る ことだから。どうして、どこから、お金を取ってきたのかは、わかったものではない。
 だからお金持もまた、わからずにいる。自分に捧げられる世間の尊敬が、自分自身に向けられたものか、それとも彼のお金に向けられたものか。それはもちろ ん、ほとんどお金にだ。それゆえ私には、丸い金属と重たい紙をあまり持っていない人びとが、なぜ、そんなに自分のことを恥ずかしがり、お金持をうらやむの か、その理由がわからない。むしろ逆に、自分たちこそうらやましがられてもおかしくないではないか。なぜなら、とても重たい貝の鎖をかけているからといっ て、りっぱなどころか、無作法なだけである。お金を山ほどかかえていても同じではないか。息をするのも大変で、手足の自由がなくなるだけだ。
とはいうものの、ハパラギのだれひとり、お金をあきらめたものはない。だれひとり。お金をほしがらない人は、ファレア(馬鹿)といって笑われる。「富−お 金をたくさん持っていることは、幸福のもと」とパパラギは言う。そしてまた「たくさん富を持つ国、それはもっとも幸せな国である」とも。
 おまえたち、明敏なわが兄弟よ、私たちはみな貧しい。太陽の下、私たちの国ほど貧しい国はない。私たちのところには、箱にいっばいの丸い金属もなければ 重たい紙もない。パパラギの考えからいえば、私たちはみじめな物乞いなのだ。
 だがしかし!おまえたちの目を見、それを金持のアリイ(紳士・男)の目と比ベるなら、彼らの目はかすみ、しぼみ、疲れているが、おまえたちの目は大いな る光りのように輝いている。喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれ、輝いている。おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。 言葉も話せない、それゆえお金のことは、まだ何も知らない子どもだけしか。
(P43〜46より抜粋)

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