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book「酒みずく・語ることなし」 山本周五郎
山本周五郎の小説は,『青べか物語』『さぶ』『寝ぼけ署長』『季節のない町』『赤ひげ診療譚』など・・・文庫本で十数冊読んだ。いずれも読みやすく,少し 昔の話であったり,江戸時代の話であっても「うーん,そうか」とか「この人これからどうなるの?」とか思いながら読んでしまう。なによりも読後感の気持ち よさ!これにつきる。作者自身の人間を見る目の温かさを感じる。

この「酒みずく・・・」は,山本の文学についての考えなどを評論や講演の中から選んで載せたものである。彼の小説を読むのと違って「読みにくい」という感 じはあるが(正直言うと私も全部読めていない),『文学』とは何かなどを読んでいくと,『人間』と切り離すことのできないものなのか!とかいろいろと感心 してしまう箇所がある。
 さすが,「あらゆる文学賞を辞退し,読者からの励まし以外になにがあるかと公言した」 山本ならではのエッセイ?集である。
 もし山本周五郎の小説を読んだことのない人がいたら, このエッセイ集ではなく小説の方を,是非読んでみてくださいね。
わが家では,妻の方が読むスピードが断然速く, 彼女がまた「次はこうなって・・・最後は・・・」と言いたがる。妻より早く読む,これが私の課題です。


歴史と文学

「文学は人間性を追求する」
 で,ここで,ひじょうに素朴に『文学』というものを『歴史』の対象としてとりあげてみますと,文学は,権力とか政治のあり方とは切り離して,いつでも人 間性を追求する。−−人間の生活を全部ひっくるめた人間性というものを追求し,その中から何か真実なものを見いだそうと思うのであります。
 もちろん,人間が社会生活を営んでいる以上,その文学活動も,政治や権力の影響を受けないわけにはまいりません。たとえば・・・(後略)
(P48より引用)

「歴史の中に文学はない」
(前略)  これは,明らかにそうなんでありまして,たとえば『藤原道長日記』というのがありますが,その道長日記で,『何年何月何日に,自分は昇殿をした』あるい は,『何年何月何日に,なんとかの宮が石清水八幡宮へ参詣をされた』という記事から私は文学は生まれてこないと思う。
 しかし,『大鏡』のある記事を読みますと,建礼門院は,髪の毛が三尺八寸あった,というくだりがある。髪の毛が三尺八寸あったということは重大ではあり ませんけれども,道長が昇殿したということよりも,なにか,人間の普遍的なものに通じるものがある,と思う。
道長が何月何日に坊主になった,という『道長日記』よりも『大鏡』のなかの,西の京のはずれで,餓死した人間の屍体が,藪に捨てられてあって,それを犬が 喰っていた,という記述の方に,普遍的な人間性が−−当時の庶民生活や,人間の本質性に関連のあるイメージをつかむことができる,と思うのであります。
 実際には,西の京の藪の中に屍体が捨てられて,それを犬が喰っていた,という事実はなかったかもしれません。それは事実ではなくて,そう記述した人の創 作であるかもしれないと仮定しましても,そういう創作があり得た,ということは,その背景をなす社会情勢を物語っているのではないか−−と思われるのでご ざいます。
(P50,51より引用)


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