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book「勝者の思考法」  二宮清純
勝者の思考法  自動車を1年点検に出しているときに少し待ち時間があったので,本屋に行き,おもしろそうで 暇つぶしにちょうどよいかなと思って買った。読むと本当におもしろく,最近(2001年)では珍しく一気に読んでしまった。
  イチロー,新庄からトルシエ,中田など私でも知っている有名なスポーツ選手や監督・指導者の名前が次から次へと登場する。

そういうおもしろさだけでなく,目次からいくらか拾って並べると,「勝者は面白い」「『敗者の美学』の呪縛」「弱者が強者に勝つ方法」「教えることは可能 か」「『時期尚早』『前例がない』」「言行不一致−日本水泳連盟」 ・・・などなど。こんなスポーツの見方があったのかと本当に感心する。こうした見方は,社会や人生をどう見るのかということにもつながっていると思う。
 この本のように見てくると,スポーツは奥が深く,さらにおもしろい。最後に,さすが二宮さんと思わす箇所をもう2点引用させていただきます。

「ここまで私が面白いと言ってきた勝者,すなわち『ゲームにおける勝者』は,かならずしも『人生の勝者』というわけではない。両者はしばしば同一視 されるが,これも全く別のものである。
「メジャーでのデビュー戦,ピッチャーがストライクを投げさえすれば,イチローはセンター前の芝に球足の速いゴロを躍らせて見せることだろう。これは私の 確信に近い予言である。」


 イコール・コンディションでの競争
 考えてみれば,私たちの普段の生活において,イコール・コンディションすなわち,公正にして公平な監視の下での争いというのはめったに存在しない。
 話は江戸時代にさかのぼる。
 1649年,徳川第三代将軍・家光は「慶安の御触書」なる心得を発布した。
 32か条に及ぶこの御触書は,農民に対する戒めと奨励事項を掲げたものであった。士農工商−明確な階級社会であった頃の日本である。いわく,幕府の法令 を遵守すること,旗本・代官を敬うこと,朝早く起きて働くこと,酒や茶を飲まぬこと,粟やひえなどの雑穀を作って米を多く食べぬこと・・・。
 現代の世の中で考えれば,思想の自由もなければプライバシーも侵害される,基本的人権を無視した言葉のオンパレードである。
 君たちは今の世の中に生きることができて幸せなんだぞ」
 私がそれを授業で教わったとき,社会科の先生はこう付け加えた。
こんな時代に生れていたら大変だったろう,階級社会の中で生活しなければならないとしたらこれほど不幸なことはない,遅く生まれてきてよかったな ア・・・。
 今考えてみると,はたしてその言葉は妥当だったといえるだろうか。
 例えば,政治を志し,選挙に出たとする。対立候補が大臣経験者の子息だったとしたらどうだろうか。
 これはもう,戦わずしてすでに大きなハンディキャップを背負っているのと同じである。
政界には,親の「地盤を継ぐ」ことで議員となった,二世が溢れるほどいる。志の高さも政策の質も,当てにはならない。他の選挙区の人間から見れば明らかな 人選ミスだと思われても,二世圧勝というケースは少なからずある。
 政策を掲げることもなく「これから勉強します」と言って選挙に勝ってしまう二世政治家がたくさんいる。呆れたものだと見ていると,有権者もこれから育て ていきたいなどと発言している。リーダーシップが必要な政治家が有権者に育てられるというのもおかしな話である。
 こうした例は,なにも政治の世界だけではない。企業社会にも似たような例はいくらでもある。いくら実力や仕事の実績があっても「世襲」には勝てないとい うようなケースは,掃いて捨てるほどある。以前に比べれば実力主義が尊重されていると言ってみたところで,実力だけではどうにもならないケースは確実に存 在する。
 出自,派閥,学閥は言うに及ばず,さまざまな差別,いわれなき偏見・・・,いくつもの要素がアンイコ−ルな土壌を作り出してしまっている。実力以外の要 素が,社会生活では数多く存在する。
 「君たちは昭和・平成の時代に生まれてこなくてよかったなあ」
百年,二百年後の社会科の授業では,やはり同じように教えられているのではないだろうか。
 しかし,スポーツの場では、すべての競技者に同じルールが適用される。チームの資本力や政治的な外圧などそれを阻害するいくつかの要素は明らかに存在す るし,実際,過去にもそうした力による干渉があったことも事実である。しかし,ひとたびゲームとなれば、どの選手も,どのチームも同じモノサシで評価され る土壌は,とりあえず整っている。
 それゆえに,さまざまな−ときに奇抜であったり,悪だくみですらある−企てや思考が生きてくる。それがなくなってしまっては,ゲームそのものの意味がな くなってしまう。
 長嶋茂雄の息子は彼と同じようにジャイアンツの四番になれたか?野村克也の息子は後を継ぐことができたか?長嶋茂雄は長嶋茂雄として評価されるし,良く も悪くも長嶋一茂は長嶋一茂としてしか評価されない。
 スポーツで評価されるのは,あくまで結果であり実力である。親を超える評価を得ることも,実力次第ではもちろん可能である。
 能力や意思以外の要素が大きく作用し,不本意な結果に甘んじざるをえない事象が,残念ながら私たちの社会生活では往々にして存在する。本来透明で なければならない社会が不透明なために,さまざまな苛立ちやフラストレーションが生じてしまう。
 そんな世の中にあって,精神の浄化作用とでもいうべきものを,我々はスポーツに求めているのかもしれない。
 私たちが,普段の生活で願っても手にすることができないイコール・コンディションで行われるからこそ,スポーツは見る者に爽快感をもたらすのだろう。

(「勝者の思考法」−PHP新書−P129〜P23より抜粋)


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