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「あやまち」 小学校6年生

  あやまち

べつにきずつけるつもりでもなく
言った言葉できずつけた
別に差別するつもりではなく
言った言葉で苦しめた
いったい私たちは
いくつものあやまちを
おかしてきたのだろう
そのあやまちに
気付いたときにはもうおそい
その子の苦しみは消えはしないのだから
言った言葉はなくなりはしないのだから
ならばこれからのことを考え
ひとことあやまって
明日というものをかんがえてみよう
きっと今まで忘れていた
やさしい心がみつかるから
言葉の大切さがわかるから
そして友達が
一人ふえたことに
気付くのだから



これは,今野敏彦さんの「人権の詩(うた)」より解説をいただきます。
人権の詩○ひとをきずつけるこ とばは,けっしてくちにしないことです。
もし「あなた」が,人からきずつけられるような言葉をはきかけられたら,「あなた」はかなしくなるでしょう?

○この詩の内容は,子どもの社会に限られたものではありません。
しかも私たちの社会生活では, 「ひとことあやまって」精算のつくものではないことに気づきたいものです。

もうひとつ,福地幸造の本(『部落解放教育の思想』)の中から中野重治の文を引用して考えます。
この文の中の「過ち」という言葉をまだ20代だった私たちは一生懸命考えた記憶があります。
部落解放教育の思想「誤り,過ちには二つの種類が 考えられるだろう。一心に努力しても, 知恵,才覚,経験が足りぬために誤りをおかしてしまうことがあり, しかし一方に,してはならぬことをし,守らねばならぬ規律をふみにじる ことから必然的に大きな過ちを犯してしまうことがあるだろう。 この後ろの方は,単純な誤りではなくて犯罪的な過ちではないのか」
「われわれの間には,これを"誤り"と認めて犯罪的な"過ち"と認めぬ傾きがまだの残っていはしないか。 これを犯罪的な過ちと認めぬということの誤りからこそわれわれは今すぐ抜ける必要がある」

自分の行った間違いは果たして「過ち」ではないかと,ときに考えることは必要なことではないでしょうか。

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