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人権「差別認識への序章」  林 力  【あらき書店】
差別認識への序章  大学を卒業し,最初赴任した中学校で1年,2年,3年と担任をし最初の卒業生を出した。無我夢中の3年間だったし,よい思い出も多く,若い自分にしかできない無茶もやったように思う。
 教師4年目,新たな気持ちで1年生を迎えるとき,こんどはもっとよい教育をし,前年度の反省をもとに,一人でもいわゆる荒れた生徒を出すまいと心に決めた。
 しかしこの「もっとよい教育」が私の場合,『管理』を強めることに少しずつでも力を注ぐことになってしまっていた。実際そうすると生徒たちはおとなしく,問題を起こすことが少ない。こうして1年以上がすぎたが,私の心は落ち着いた生徒たちを見ても少しも楽しくない,おもしろくないのだ。生徒と何か共感し,心から笑いあえるような雰囲気がない。(少なくともその3年前には,問題も多く,ごたごたした日常ではあったが,楽しい場面も多かった。)
 そんなとき林力さんのこの本に出会った。『権威を捨てよ!−そうしなければ真実はみえないよ。』この本の全編にこの基調が貫かれていた。(ように思う)
 学校で生徒たちと対するとき,少しずつであるがそっと肩の力を抜いてみた。そうすると,この仕事も「生徒といるときはおもしろいぞ」とだんだん思えてくるから不思議である。
 この本(1981年刊行)のプロローグで,林さんはこう警告している。「歯止めすらなくなった感のする右傾化の波,経済第一主義,そして軍国主義への歩み,政治権力のなりふりかまわぬ教育への介入,戦争の予感が重くるしく世界を覆いはじめ,わたしたちは一見平和と豊かさの中で漠然たる不安といらだちの日常性の中にある。どことなく空虚で展望をもちえぬ小市民たちが,きっかけと状況さえあれば容易に,そして怒とうのように差別主義へ転落してしまったという数々のあやまちをわたしたちは忘れてはなるまい」
 まるで20年後の今日を予告したような言葉である。少なくとも子どもの前では「権威主義者」にならぬように自分を戒めたいと思う。
人権

(p79〜p82より抜粋)
「教師は差別者」ということ
 (前略)
 もちろんわたしに子どもを差別する意志などなかった。それは確かである。だが、わたしの実践がまさに「差別になっていた」ことは山ほどある。
 小学校在勤のとき、四年生から六年生まで3ヵ年を担任したクラスが一つだけある。殊の他に思い出も多い。同窓会といえば、いまだに集りがよい、そのなかで、3ヵ年に九枚の通知票を渡したK君のことは、とくに忘れられない。通知票は前学期の終りに渡したものに、親の押印をうけ、次学期の初め担任教師に返すのが通常である。だが、K君は渡した通知票をただの一度も、わたしに返してくれなかったのだ。わたしはもちろん厳しく催促し、そのうえ「通知票を忘れた人」として背面黒板にその名を書きしるした。だから、K君は、3カ年の間、一学期を除いて、いつもこの屈辱の名を消してもらうことができなかったのである。はしめはしつこく、後ではあきらめ顔に、わたしがいくら催促しても、彼は「忘れました」以外に口を開くことがなかった。「いつも同じことぱいうな、明日は必ずもってこいよ。」、「はい」、そんなやりとりが続いたあと、わたしの方が根まけして、学期の終りには、その学期の成績だけを書き入れた新しい通知票を渡す。これが3年間続いたのである。

 K君は被差別部落の出身であった。とにかく貧しそうであった。学用品代の滞納は日常的であった。父親は下駄の歯がえの行商をしているとK君から聞いて、そう思っていた。走るのが早かった。成績は中程度、言語表現が割とすぐれていて、よく手を挙げたが、早合点していることが多かった、でも、通知票に関してはいつも「忘れました」と石のように口をつぐみ、下をうつむいた。それがわたしのK君への記憶である。わたしは当然のことのように、「何というだらしない子であろう。生活がだらしないから、いつも紛失してしまうのだ」「この子にしてこの親あり」「親のつらをみたいものだ」「親がしっかりして欲しい」と思いつづけていた。そのくせ、通知票のことで家庭訪問をした覚えはうかんでこない。年に一回だけ、新学期始って間もない頃、定例的に行われる形式的な巡回視察みたいなものをやったのであろうが、K君の家庭の記憶はまるでない。もしかしたら留守であったのか、居留守だったのかも知れない。その代り、親あての催促の手紙は何回となく書いた、だが一回の返事もなかった。教育不熱心、と思いつづけた。もちろん、学校参観など一度も来てくれなかった。そして卒業式にもである。担任教師への非協力というよりも、侮辱とすら思えた。

 3年前、K君は同窓会に姿をみせた。卒業以来はじめてである、音信とてなかった。わたしとは切れていた。四十才に近く、すでに白いものが見えた。形だけ中学を卒業したものの職がなく、「組」にも関係したことがあるという。三十歳になって漸く小さな店をはじめ、いま二人の親という。
 酒がまわり歌を出しはじめたとき、彼はわたしに近づいて盃をさしだした。「先生、通知票のこと覚えとるね。先生、すまんやった。ずい分、手数ばかけて恥しか」と一気にしやべった。わたしには彼が、そのことを話すために、同窓会に参加したのかとふと思えた。どうしても話しておきたい、という彼の思いが伝わってくるからだ。
 「先生、あの頃は貧乏して苦しかったもんね。先生には親の仕事ば下駄の歯替えとかいうといたばってん、本当はくず拾いばしとったとよ。ポロ買いもたい。とうちゃんがくず拾い、かあちゃんはポロ買いたい。いっしょに仕事することもあったけん、とくに区別はつけられんやった。そやけんくさ、先生、その頃のうちんがたには印鑑のなかったと。うちは、こまかときから印鑑やらみたことがなかったったい。ボロ買いや、くず拾いやらに印鑑こはいるめえが。そやけん、先生にめいわくばかけとリましたったい」。
 酔とともに彼のことばは子どもの頃の地ことばに代っていた。「うちゃあくさ、けっして忘れとったっちぁなか。学校にいくとき、、今日も先生から『通知票は』といわりゃせんかと思うたら、途中学校しようごたった。でも最低の生活しとったばってん学校に行くことだけは親たちがやかましかった。学校サボろうなら、ぼくとう(棒)で叩かれよったけん。その証拠ちゃ、なんばってん、学用品代は遅れても必ずもって行きょったろうが・・・」。
 わたしは血の引く思いで彼の話に耳を傾ける。わたしがとっくに忘れていることを、彼はけっして忘れないでいるのだ。「『今日はもってきたか』って先生からいわれたとき、俺はいつも『忘れました』っていいよった。忘れとったっちゃなかと。毎日、まい日、思うとったと。ばってん印鑑なんて家にはなかった。うちの暮しには、先生、印鑑がいらんやったとたい。そしてね先生、『忘れました』って俺がいうたら、先生はちょっと困った顔して、またかというふうやった。そいじゃけん、『忘れました』っていうが一番よかことが、うちには分つとったもん・・・」「でも、先生には本当にすまんことでした。迷惑か けました。まあだ貧乏はしとりますぽってん、二人の子どもだけはきちんと育てようと思うとります。許してつかあさい」というのだ。わたしは、盃をおかざるをえなかった。恥じ入るほかになかった。

 子どもの生活の現実を把えることができなかった、というより把えようともしなかったわたしは、教師という日常性のなかで、どれだけこの種の過ちをいとなみつづけてきたのであろうか。教師の立場、教師の都合、学校の校則や秩序というものをふりかざし、どれだけ子どもの真実を黙殺し、人間としての願いをふんづけてきたことか。そのときわたしは子どもや親にとって、権威者、権力者としての存在であった。でも「よか先生」と思いこみ「民主的教師」と胸を張っていたのだ。子どもたちは、教師を選択する立場にはない。人間同志だから、子どもにとって不幸な出合いもある。教師との出合いは宿命的ですらある。だから、教師はせめて子どもの前に立つとき権力者であってはならない。子どもの前の権力者であったとき、例え彼が労働者であることを誇りにしていようと、すぐれた組合活動者として反権力の闘いを展開していようとも、つまり、彼の主観的意図や客観的立場を超えたところで、彼は子どもや親にとって差別者以外の何でもなくなってしまう。それは恐ろしいことなのだ。いま、漸く、それが分る。

 勤評闘争のとき、逮捕された和歌山県教職員組合の北条力書記長をとり調べた検事が、彼を釈放した後「わたしの子どももあんな先生にあずけたい」といった話をわたしにしてくれたのは、たしか福地幸造であったと記憶している。北条力は、勤評闘争の合法性を法により主張するよりも、検事の取調べに際して、ひたすらに自分のかかわってきた子どもと親のこと、教育の実践について、親たちの暮しと、子どもたちのよろこびやかなしみについて語りつづけたというのだ。いまの検事たちに人間としての、この柔軟さをもち合せる人がいるかどうか知らない。だが、はっきりしていることは、わたしたちのなかに、こんな教師がすくなくなったことであろう。

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