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中学校三年生の人権学習『人間の解放を求めて』(なかま)を行うにあたって、何か見落としている資料はないかと家の本棚の中から、この『差別を考える』という土方さんの対談集を手に取り、本当にさーとだけ目を通してみた。
水平社創立に関わった米田富さんの語る大会当日の真実の話など面白く、「本当にそうだったんだ!」とあらためて当時の緊迫感や感激が伝わってきた。
この本には、他に柴田啓蔵さん、井本麟之さん、山本藤政さん、盛田嘉徳さん、原田伴彦さん、井上清さん、鈴木祥蔵さん、日高六郎さん、色川大吉さんとの対談が載ってる。 その中でも私がもっとも好きな箇所は、『解放歌』の作者でもある柴田啓蔵さんの語りの部分である。(2002/7月) |
嘉穂中学の頃(P57〜58) 土方 つまり成績順にクラスを分けるわけですね。 柴田 ええそうです。試験的にやったわけです。それで、私は一組に入ってました。入学試験の時、私は三十番位で入っていて、それが一学期の成績で五番やった。二学期のはじめに先生が何気なしにほめてくれたですたいね、みんなに勉強するようにということで。ところがそれが仇になって、注目されて、「あら成績がいいたって穢多ゴロだ」といわれて、それから差別が激しくなった。 土方 その差別というのは、つきあわないということですか。 柴田 口でののしって・・・・、もちろん、つきあわん。 土方 口で穢多ゴロといって。 柴田 ええ、はずされるわけですねえ。 土方 仲間はずれですねえ。よけいに、勉強がんばろうという気持ちになりますねえ。 柴田 小学校の時も、石を投げられたりすると、勉強をがんばろうという気持ちが起こってくるわけです。 松山高校へ(P63〜64) 土方 松山では、当然下宿したんですね。 柴田 最初の一年間は、よそから来た者は全部学校の寮なんです。 土方 その場合の学費もおとうさんが出してくださったんですか。 柴田 もちろんそうです。おやじさんは、中学へ押しかけて行ったぐらいですから、意地になっとるし。嘉穂中学の時、学校を休むとかはしょっちゅうやっとるでしょ。それがバレた時には、おれはもう学校へは行かん、やめさせてくれというたです。あの頃は講義録で資格がとれよったでしょ。だから学校へは行かんと。その時に、おじいさんからおやじさんから兄貴までが−兄貴はもう亡くなったが、これも九州水平杜の創立者の一人です。この三人が泣きながら学校をつづけてくれと。その時におじいさんがいうには、おれたちは文字を知らん、お寺で習うぐらいで仮名文字しか知らん、漢字は全然知 らんと。 こういう話があるんです。明治の最初、部落民に苗字を与えるといわれた時、昔から内緒で「わだ」という苗字をいい伝えていたそうです。私はもとは「わだ」です。あの部落は全部そうです。その時に、神主が苗字をつける係になっとった。それで「わだ」をつけてもらうことにした。「わだ」の「わ」は、だいたい平和の「和」に田んぼの「田」。ところが神主は、「田」はもったいないから「穢多」の「多」にしてやれと。部落民は漢字を知らんから、ありかとうございますとおがんでいただいて帰った−−それをじいさんが泣きながら話した。おれたちゃ漢字も知らんから、こういうめに遭わされたと。部落から嘉穂中学 に行っとるのは、中学始まって以来、私がはじめてです。せっかくお前が行けとるのだから、部落の身代わりになったつもりで、石にかじりついてでも、がまんして出てくれと。おやじさんも、学校のお金は要るだけ出すから、とにかく行けと。そういうわけで、高校を受けてみようと思うたんです。 土方 松山高校では差別されませんでしたか。 柴田あそこではもう全然。ひとつは部落を知らんせいもあるけど、知識が進んだらそういうふうになるんですかねえ。まあ、その頃は、部落民が高等学校に行くとか思いもせんやろうし。その頃、台湾とか朝鮮が日本の植民地やったから、留学じゃないけど、朝鮮から一学年に四、五人、台湾からも四、五人・・・・。 土方 送りこんできてるわけですね。 柴田 三年まで合わせたら、相当の数になりますよ。ここ筑豊でも、同じ炭坑で働いていても、朝鮮人といえば、部落以上に差別されとった。その人たちともいっしょに遊んどったから、とくに差別ということはなかったですね。 その学生のなかで、「この日本ではわれわれは"不邊鮮人"。といわれている。しかしわれわれは朝鮮に帰れば愛国者だ」といって、朝鮮独立の演説をした。 それに校長が拍手をしたですよ。おもしろかったです、校長は。 |