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人権 「差別とたたかう教育」 川内 俊彦   【明治図書】
差別とたたかう教育  息子が小学校から持って帰った「人権問題講演会」の案内文を見ると、講師「川内俊彦」とある。妻が「家に何冊かある本を書いた先生じゃない?」「行ってみたいよね。」と言う。
 私も絶対に行こうと思い、その夜の予定をキャンセルし、講演会場となっている近くの中学校に行った。(行きたがっていた妻は、家の用事で結局行けなかった。)
 私が地域の行事などに参加することは珍しく、会場には「少なく見積もっても平均年齢50才は超えているだろうな?」と思うような人たちが数十人座っていた。でも講師の川内さんは、その平均年齢の人たちをはるかに超した年齢(当年とって64歳だというのだから・・74歳?)だと思うのだが、はっきりしたしゃべり方で熱っぽくお話をしていた。
(聞けば講演回数が数千回だとのこと。(^_^;))
 演題は、「くらしの中の差別と人権」である。私のメモから・・・「『無位無冠』の私に『各位殿』という案内を送るとは・・」「過分なもてなしって・・」「憲法14条を言う人は多いが44条を言う人は私ぐらいかな。」「おかしいことをおかしいと、申し立てることのできるのが民主主義だ。」「国語辞典から学ぶこと」「人権教育としての同和教育に定年はない!人間が人間である限り取り組み続ける」等々。
 最初に「初老、中老、大老、長老、古老」の意味を説明していて、何のことか分からなかったが、「私は古老になっても闘い続けるよ」というメッセージだろうと、終わってから気が付いた。元気なおじいさんである。
 わが家の本棚には、川内さんの本が数冊ある。「実践・同和教育の手引き」「やさしい同和問題」「やさしい人権教室」、そして下に引用した「差別とたたかう教育」など。ちなみに引用本は「1969年刊行」で、十数年前にある集会で買った。値段は450円。200ページあまりのハードブックでケース入り。(いまなら2,000円はするでしょうね。)
(2002年3月)


(まえがきより)
 昭和28年10月1日。その日から私は、八尾中学校の教師となった。
 以来、昭和39年12月まで、八尾中学校の教育ととりくんできた。
 それは<差別とたたかう教育>としか、ほかにいいようのないものであったと思う。
 今も全八尾市の「同和」教育の推進のための仕事ととりくみつづけているのだが、なんといっても八尾中学校における<部落解放を実現しうるにたる民主主義教育>の創造と実践を基底にすることによってのみそのことは可能であると考えている。
 平和と民主主義と基本的人権の擁護と確立のために、差別とたたかいつづける教育を、不屈の信念をもってにないつづける姿こそ<八尾中学校の教育>であることを確信しつつ、そのたたかいのあとをひもといてみたい。

1 守られざる権利
  しめて五十六名 一年五組は、在籍しめて五十六名である。
 「しめて」と言うのは外でもない。実在生徒ほ五十名なのだが、前年度及び前々年度よりの長欠生が六名(女子)も「原級留置」で配分されてきているのである。実在生徒五十名、長欠生徒六名、しめて五十六名というわけである。そして配分されてきたというのも、この学年だけでも総数約六十名にのぼる「原級留置生徒」が存在するため、十のクラスをもつこの学年では、平均六名ずつを平等に割当てて、各クラスに所属せしめる方法をとったということを意味するのである。
 この長欠生は、三年間たつと『学令超過』の理由によって『除籍処分』にされ、ついにその<名のみの存在>であることをも否定され抹殺されてしまうことになるのである。
 やがて「なき数に入る名をぞとどむる」にすぎないとされる彼らには、出席簿の上での取扱いをみても、「不就学及長期欠席者」専用の特別用紙が、つづりこまれているといういきとどいた処遇ぶりである。
 不就学は不就学、長欠は長欠としてそのまま放任してかえりみることなく、憲法に保障されたはずの国民の子弟の教育権を保障しようなどとは全く考えたことのないこの国及び地方の教育行政機関の実態を如何なくさらけだすものの一つといえるだろう。
 「三年の歳月がたてば、除籍処分」ということだけが、(不就学、長欠に対する)この国の教育行政の示す唯一の回答なのである。
 −これだけ除籍したから、大分長欠生の数も減って、スッキリしましたな−などと、やっかい者を片づけて、愁眉を開きましたよ、という顔付で、メデタシ、メデタシと語っている関係者達の言動に接しては、一体子どもの幸せを守り、教育をうける権利を守ってやるものは何処の誰なのだろうかと、思わず長嘆息せざるをえなかったものである。
 不就学・長欠生は「実在生徒」と区別され、「不在生徒」として特別の用紙に記名されることになっている。したがって日々の出欠には、その名前を全然あらわすこともなく、実在生徒は全く同一学級の「姿をみせぬ友」の名をしることもないのが実情である。
 私は「義務教育を受ける権利のある長欠生」六名の氏名を、実在生徒と一緒の出欠欄へ記入することにした。そして、みんなの関心を高めるために、出欠は、生徒自身で毎日順番にとることにして、五十一番から五十六番まで記入された「姿みせぬ友」の名をも、毎日毎日みんなの前で呼ぶことにしたのである。  もとより「ハイ」という「六つの声」の応答があろうはずもなかったが、「Oさん、YさんNさん…」と、くる日もくる日も呼びかける声は、教室の璧をつらぬき、運動場を横ぎり、五十人の思いをのせて、姿みせぬ六人の心に迫っていくであろう・・・・・と信じつつ、毎日登校している子ども達に、くる日もくる日も登校していない子ども達の存在=その不在を、のっぴきならない実感として、目の前の事実として認識さし、「守られざる権利」を毎日毎日確認しあったのである。
 ところが、一学期の終わり頃、そのうちの三名K子、T子、M子に、いよいよ最後の日がやってきた。就学通令超過による「除籍処分」の決定がなされたのである。出席薄の該当氏名欄は、赤線で抹消された。
 自分達で出席をとっていたものだから生徒達は驚いた。呼ぶべき名前は、今、赤線の下にその姿をかくしてしまったのだ。
 私は「3生徒は今こそ法規の上からも見捨てられてしまった。いよいよ完全な長欠生が生れた。」と、赤線で消された出席薄を抱えて生徒に語った。ただ怒りをこめて語るだけで私には何の手だてもない。いらだたしげに語るのを生徒達も、ただ黙々とききいるのみであった。「みんなは、この3生徒達を含めた、働いていてくださる人達のおかげで、今、こうして勉強していられるのですから、大きくなったら、せめて子ども達だけは安心して、みんな揃って勉強できるような社会をつくるために働いてください。」そんな話しでその場を終わるより仕方がなかった。
 ただ、無責任な大人達が、愚かしくも、「コレデ スッキリしましたな」などと、よろこんでいる時、生徒達はそのことを、自分達の悲しみとして受けとめるようになった。せめてもの喜びとすべきことであろうか。
(p26〜p28より抜粋)【明治図書】

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