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人権「俺たちは怒っている」 寿日雇労働組合
 (解放教育1984-10【明治図書】より)
 「解放教育を読み直す」(八木晃介)をUPした際に,この「横浜事件」を思い出し,本棚を探した。『解放教育』という雑誌に載っていたことは覚えていたが,何年の何月号だか分からず,時間をかけてやっと探し当てた。
 寿日雇労働組合が,中学生にあてて出したものだが,大人たちが読んだ方がいいような気がする。
 「人のギリギリ生きる姿を『汚い』と見るのではなく、そこから社会のありようをみつめ、その社会のあり方を変えていく」
何も付け加えることはできない。ここまで洞察し,言い切ることのできる人間になりたいと思う。


(p44〜p46より抜粋)
俺たちは怒っている

 中学生諸君!俺たちは寿の日雇労働者です。
 君はもう忘れただろうか。事件が明るみに出てからすでにニケ月がたち、世間では決着がついたものとして忘れ去られようとしている。
 しかし、俺たちは決して忘れることはできない。仲間がゴミ箱に放り込まれて、なぶり殺しにされたというのに。ケガを負った仲間は、今も後遺症に苦しみ、たった二万円の見舞金で、くやしさを述べる機会すら奪われているというのに。大人たちは逮捕した君の仲間を少年院送りにし、「人命尊重」とか「思いやり」とかのタテマエで事を片付け、俺たちを最後の生活の場から追い立てようとしているというのに。

 事件後にも増して、俺たちの心は憤っている。「プータロー」、それはいつのころからか「ダメなやつ」「汚い」「ナマケ者」といった蔑みをともなった俺たちの呼び名となっていたことを、この事件があって、俺たちは知った。
 君の仲間たちは「プータロー狩り」とよんで、野宿していた俺たちの仲間を連続して襲った。そして一度は、寿町まで「獲物」を捜しに来たという君は、いつから、俺たちを「ゴミだから、何をやってもとがめられることはない」と思うようになったのだろうか。

 第二次大戦敗戦後、ほとんどの人が失業状態にあったころ、米軍関係の港の仕事を求めて横浜の野毛界隈に集まった人々を「浜のプータロー」と呼ぶようになった。しかしそれは、横浜のにぎわいの象徴であったし、少なくとも、必死に生きる姿と見られていたはずだ。経済成長の続く中でも・建設・港湾・造船…などにおける俺たちの肉体労働が、その成長を支えて来た。そんな俺たちの生活は、何の保障があるわけでもなく、只、自分の体だけが頼りだった。
 ところがこの八年間、世界的な不況の中で俺たちは仕事を奪われた。仕事がなければ金もない。多少はあっても、それはメシ代にとっておくしかない。そんなわけで野宿するしかないこともたびたびだ。年齢をとった人、体に障害のある人、体力の劣る人は仕事にありつける望みもない。でも「他人の世話にはなりたくない」とガンバル人もいる。他人との関係に疲れてこの道を選んだ人もいる。
 日雇・臨時・パート・・・そうよばれる労働者は、決して自分の責任ではなく、景気に合わせて使い捨てられる。多かれ少なかれ、日本人口のうち六千万人の労働者は、ギリギリ道いつめられればアオカン(野宿)するしかない運命におかれている。

 「野をきれいにする」。君の仲間はそう言った。アオカン生活は全く他人事なわけでもないのに、そう思いたくない大人たちは「だらしないからああなる」と言いつつ、ホンネでは「ああはなりたくない」そう思っている、だから、俺たちの存在に見て見ぬふりをし、じゃま者扱いしてきた。なぜ野宿せざるをえないのか、どうして体が汚れているのか、そういう疑問をもって当然なのに、それはタブーとされてきた。
 君の仲間たちは、その大人たちのタテマエとホンネをどこまでわかっていたかは別にして、俺たちの仲間を人間として扱わず、「掃除」した。人間の生き様や生活から社会のありようを考えるのでなく、声高らかにテレビで宣伝される「町をきれいにしよう」というスローガンどおりに。決して許される行為ではない!
 そして大人たちは、この事件が、ナチス・ドイツの「浮浪者狩り」や「ユダヤ人狩り」、大日本帝国の「朝鮮人狩り」「南京大虐殺」にもつながる恐ろしい時代の予告だというのに、「幼児的な残虐性」によるものだったという捜査結果の発表に「ホッ」と胸をなでおろした。

 君は、この事件の原因は、「十人の少年たちが特殊だったのだ」と思うだろうか。「やりすぎただけ」と思うだろうか。「寝ていた方も悪い」と思うだろうか。これはどれも、大人たちの一般的な、そして行政や警察のとった、事件後の対応に共通してある考え方だ。
 俺たちは、決して泣き寝入りをしないと心に決め、まず何が問題かを討論した。そして横浜市に対して、野宿する労働者を生み出し、体が弱り死んでいくままに放置して、社会の秩序のために差別を利用してきた責任を追及した。市のおえら方は言う、「非行間題だ」「差別があったとは思いたくない。思いやりの欠如だ」と。俺たちはそんなことは聞きたくないのだ。どうやって、現にある差別を、生活の困難を、具体的にどうするのかだ!

 市は「非行対策が必要だから、関係団体と連携を強めて、人命尊重、情操教育の徹底をはかる」とも言う。これは何を意味するのだろうか。君の自由をさらに奪おうとすることでなければよいが。
 君は、学校で「落ちこぼれ」と言われているだろうか。あるいは、そうなりたくないという不安にかられているだろうか。
 大人たちは、逮捕した少年たちに「非行」「落ちこぼれ」のレッテルを貼って処分した。社会は今、差別構造に基づいて、維持されている。人を選別し、不要な者、能率の劣る者を切りすてていく、そういう仕組みになっている。野宿する労働者を生み出す社会も、そして学校もだ!
 俺たちが求めるのは、人のギリギリ生きる姿を「汚い」と見るのではなく、そこから社会のありようをみつめ、その社会のあり方を変えていく、そういう君と俺たちとの関係なのだ。
(1983年3月)

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