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教育 「日本の教師にうったえる」 むのたけじ
日本の教師にうったえる 古本屋でみつけた1967年刊行の本である。
何とも教師にとっては厳しい言葉ばかりで埋め尽くされている本である。頭が痛くなったと言うつもりはない。このように見ているのがあたりまえの庶民であり,このように言ってくれる教師の教師もまた少ない。
「没個性」の称号で呼ぶことよりも,そう呼ばれても何ら「おかしい」と思わない感性が,いわゆる教師のみならず,学校という職場にあたりまえにはびこっている現実があることは,30年前と変わっていない。
「校長さん」「(職名)さん」・・・やっぱりどこかおかしいぞ!


−いつも生徒に「さあ、胸をしゃんと張って」と気合いをかけるあなたが、どうして自分では胸を張って歩かないのか。どうして五、六年前からいつもうつむいて歩くようになったのか。このころの教室には子どもたちの笑いごえがない、とあなたは言うが、それはあなた自身が歌を忘れたカナリヤになってしまったからではないのか。このごろの子どもは廊下を通るときに忍者のように歩く、とおっしゃるが、それはあなたができるだけ世間の目につかないようにと、あなた自身が忍者になっていることの反映ではないのか。元気のない病人は元気な者をにくむ。あなたがた教師は子どもたちが元気であることにヤキモチを 焼いているものだから「廊下を走るべからず」「ボール投げをすぺからず」と手かせ、足かせをはめているのではないのか。

−「教育の活動は、創造の活動でしょう?熱がなくて何を創造できるのか。自分が興奮しないで他人を興奮させることができるという打算は、すべて売春婦の打算に通じている。自分の姿勢を見てみなさいよ。うつむいて歩く姿はサルへの接近ではありませんか。人間の起源は四つんぱいとの決別、二本足での自立による出発だと授業しているのではないのですか。

−教師は何をもって教育をするか。自分のカラダでもって教育する。美醜、哀歓を宿して、だれもが神と魔との振幅の中で呼吸しているナマ身のカラダをさらけ出して、それで教育をいとなむほかないではありませんか、教師のやれることは、しょせん、それ以上でもそれ以下でもありえないではないか。へっぴり腰で仮装した教師ほど、教育を混濁させるものはない。(中略)

−どうも気になるんですがね。あなたがたは、自己埋没の忍術がもとからうまいのではありませんか。そういう特質が勤評・学テ体制で浮かび上がってきたのではありませんか。自分たちの精神の血統書を見られたくないので体制罪悪論の強調にすりかえている傾向がありはしませんか。あなたがたは、なぜ性別も老若も問わず、互いに「センセイ」とよび合っているのですか。忍者が素性をかくすように、あいめいの固有名詞を埋没させて呼称しあう風習を、何十年来ふしぎがらずに保守してきたのはなぜです?「センセイ」って、一体なんですです?「といわれるほどのバカでなし」といわれるほどですから、 「ちょっと」「ねえ」という呼びかけ程度の希薄な意味しかもたなくなったのかもしれません。しかし庶民の生活用語では、センセイの筆頭の語義は「教諭」すなわち職名ではありませんか。だとすれば、警察官が「オイ警察官、今晩ひまなら一杯やらんか」と同僚に言ったらおかしいように、「ねえセンセイ、車の月賦の安いところ知らない?」(中略)なんて会話するのはおかしいんじゃないですか。(中略)互いに名乗りをはっきりさせて対話する習性を、なぜいつまでも職場に定着させようとしないのですか。ドレイはたいてい没個性の番号でよばれて、姓名では呼ばれないようですね。
(p46〜p48より抜粋)【明治図書】


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