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人権「子どもとかかわる思想」 玉田 勝郎 【明治図書】
子どもとかかわる思想  この本には,もっと抜粋したい箇所も多くあるのですが,「まじめ」ということばが気に入って,ここを抜き出した。
 本当に最近熱心な教職員(教員と職員)が増えてきたと思う。管理する人には楽で好都合かもしれませんね。
 私は,二葉亭四迷のいうまじめをいつでまも忘れないで,柔軟にそしてときに頑固に子どもと接したいと思う。
まわりから見たら熱心にみえなくても,自分の中の「思想」は育てたいと思う。
 


(p101〜p104より抜粋)
熱心な「しつけ運動」のこと

(前略)
 時間がもったいないので、いちいち関わり合うのを止めにしますが、こういうチェックポイントという消毒液をより濃密にして、親や教師に手渡すことで、青少年の「非行」の芽をつみとっていこうと、県教委が熱心に対策を考えていることは確かなことのようです。だが、「熱心」であることと、「まじめ」であることとは根本的にちがいます。私は、子どもの〈しつけ〉について、まじめでありたいと念じてはおりますが、「熱心」でありたいとは思ったことがありません。
  ところで、話を「しつけの手引書」にもどしますが、それの「中学校期」のところに、「集団や社会のきまりを守らせよう」との項目がありまして、「無責任時代」ということはで象徴されるように、若い世代には、社会の秩序を乱すことがあります。こんな時、いわゆる『ものわかりのいい親』になろうとして、子どもにおもねるような親であってはなりません。『先生に見つからないようにタバコを吸いなさい』とか、『警察に見つからないようにオートバイに乗ればいい』等、言ってはいませんか。」と書かれています。
 「社会の秩序を乱す」などと書かれているので、一体どういうことかと思えば、「タパコをすう」「オートバイに乗る」というわけです。こういうところにも、県教委の「熱心」ではあるかもしれないが、決してくまじめではない姿勢・思想があらわれています。なぜなら、二葉亭四迷が指摘しているように、<まじめ>であるということは、必要があれば「社会の秩序を乱す」ことも回避せず、既存の権威を根本から疑うという精神を核にもっているからです。
 この「手引書」が、「子ともにおもねる」なぞといって、しきりにその非を書きたてていることもあって、ちょっと面白い話を思い出しましたK市の高一の生徒が語ってくれた、万引したときの話です。
 「スーパーで万引やったんや。口ーラースケートねろとったんやが、見張りがきつうてあかんかった。それで、プックケース、シャープペンシル、ノートもやったかな。小物や。手さげ袋?そんなもんさげて行ったら一発で見抜かれるわ。ジャンバーもあかんで,キョロキヨ口すんのが一番あかん。店員が『何なさいます?』いうて近寄ってくるやろ。あれ気いつけなあかん。じろじろ観察しよるんや。要注意いうやつや。・・・わし、気つけとったんやけど、学校の制服見られとったんか、見つかってあげられたんや。学校へ連絡しよったわ。『停学』やられるかもしれんと思とったんやけど、担任が心配して動きまわってくれたんや。きつう怒りよった。『小物ばっかりやりよって。根性なしめ。いっそやるならスーパーまるごと盗ってみい』いうて無茶いいよった。それで『反省しとるなら、ちゃんと反省文書け。誰にも見せんと約束するから、やった時の、こと詳しいに書け』いうたんで、わし、その時のことノートに五枚ほど書いたかな。
 ××神社があるやろ。あそこの境内で、『神さん、どうか許して下さい。もう絶対やりませんから見のがして下さい。あん』いうて、手え合わせとったんや。ホンマ、ホンマや。
 そしたら職員会議でな、担任が、『神さんに手合わせたいうとるんやから、神さんにまかせたらどうや。それが筋やろ。おれわれが神に代って処分するのはまちがいや。』言うてくれたらしい。それでも校則通りに厳しく処分せな、いう教師もおったんや。そこで担任は、『そういうお前は神が、いつから教師のくせに神になったんじゃ。』いうてな、ケンカしてくれたらしい。
処分か?初めてのことやいうこともあって、保留になったらしい、おもろい教師もたまにはおるわなあ。」
 このような笑い話に、何か特別の教育的意味があるわげではありません。が、「しつけの手引書」の指示にしたがっている限り、この笑話にあるような生徒とのつきあい一つも出来ないであろうことは、確かなことではないでしょうか。

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