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人権「解放教育を読み直す」 八木 晃介    【明治図書】
解放教育を読み直す 八木さんの文章は,私にとっては少し難しい。でも鋭く脳のどこかを突き刺すものがある。
「差別の本質」などを熱く語り合っていた時代はもう過ぎ去ったのであろうか?今まさに,同和教育は、○○教育や□△教育などと同じようなレベルに置かれていこうとしている。八木さんのガクゼン状況は加速度的に進んでいるのではないだろか。
私たちは今一度原点に立ち返り,差別の深さを学び,子どもたちに伝える内容と方法を考えていかなければならない。かなり昔に読んだこの本を読み返しながらそう感じた。それにしても学校を取りまく情勢は,悲しくも日に日に厳しくなっている。


(p92〜p95より抜粋)
差別の本質は<民衆分断>

 解放教育にたずさわっている教師のうち,はっきりと差別の本質をおさえている人は意外に少ないという驚くべき事実がある。これは,考えてみれば,奇妙なことだ。風車にいどむドン・キホーテといえば酷にすぎるか。だが,相手の正体を見きわめず,やみくもに相手に向かっていっても,どうにもならないのは私たちの日常的な経験的事実。
 戦後部落解放運動は,その解放理論の中にすでに非常に優れた指摘を含んでいた。だが,当の部落解放運動も,解放教育(運動)も,その理論に対する自覚化がやや希薄であり,しばしば媒介項抜きに差別=人権侵害という形に短絡してきた傾向が強かった。・・・(中略)・・・
だからといって,差別を,口あたりも耳ざわりも良い人権という言葉でくくってしまってよいのか,という疑問が私にはある。
 つまり,こういうことなのだ。かつて部落解放運動は,部落差別について「一般労働者の低賃金,低生活のしずめとしての役割を果たし,政治的には部落民と一般労働者を対立させる分割支配の役割をもたされている」と規定していたのだ。私は,反差別の運動や教育は,すべからく,この規定に立ちもどるべきだと考えるものだ。
 <民衆分断>,このことをもって差別の本質と見なすべきだと思う。差別は<民衆分断>であって,そのことが人権侵害の諸現象を発生させるという認識なのだ。差別が人権侵害であるからけしからん,というのは当然だとしても,それがより本質的にけしからんのは,本来は結合し連帯すべき民衆の間に,分離と分断のクサビを打ち込み,しかもその分断を民衆自体が受容しやすい形に自明化するからなのだ。分断の自明化が,具体的には差別の受容を許容するのであって,人権侵害はそのことの結果物だということなのだ。むろん,この分断は,たんにバラバラに分けられるというだけでなはなく,その底には,部落解放運動が指摘しているように,経済的搾取と政治的抑圧とが組み込まれていることも,いまさらいうまでもない。このような差別の関係性への認識抜きに,一般的抽象的に人権尊重を唱えても,無意味に近いと思われる。
 いま,解放教育の現場では,静かに退廃が進んでいる。「同和」教育の授業を道徳の時間に進める(部落問題を道徳の授業で取り扱うのも吐き気がするが,今はこの点はおく)。
授業のあと,子どもに感想文を書かせる。普通の感性を持つ教師なら,愕然とするはずだ(いまは愕然としない教師が多いという事実もあって,それこそガクゼンとさせられるのだが)。

 「部落の人はとても可哀想です。それにくらべて僕(私)は幸せです」 
 「差別はみにくいことなので,なくさなければならないと思います」
 「みんなで力を合わせて,人権を守ろうと思います」−−−

 こんなことでよいのだろうか。タテマエがステレオタイプ(紋切り型)でくり返されるワンパターン。一体全体,何のための解放教育なのか。教師たちは,子どもたちに,差別の問題をこのように既成のボキャブラリーで語らせてよいのか。このような形でしか語れない子どもも,それで事たれりとしている教師も,はっきりいえば分かってはいないのだ。一般的民主的「同和」教育や,一般的抽象的人権教育論は,おおむね,このところで破綻しているといってよい。
 やはり,差別が<民衆分断>のクサビであること,したがって,分断されることによって不利益を受けるものは,当の被差別者はもちろんのこと,誰もが差別の被害者であること,だから差別の撤廃は,当の被差別者にとっての第一義的な課題であるのみならず,民衆総体の不可避的な課題であること,そのことを解放教育のステージにおいて鮮明化することが何よりも大切なのだ。
 横浜・寿町の日雇労働者襲撃殺人事件はその意味で典型的な差別事件であった。解放教育にとっては,まさに早急に教材化すべき課題がここには含まれていた。
 本質的な連帯を裏切り,差別が,現象的な分断を結果する図式の呈示。差別選別型能力主義という支配的な価値観からの逸脱者が,競争主義的市場原理の貫徹する労働市場から逸脱させられ,アオカンさえ余儀なくされた日雇労働者を集団的に襲撃し,あまつさえ殺害してしまったのだ。
(P99)
 これが差別なのだ。差別の本質なのだ。差別は決して<人権侵害>などという薄っぺらで単調な言葉でおおい尽くすことのできない深さをもった問題なのだ。他者を奪うようであるかにみえて,実は自らが剥奪されるプロセス,そのようなものとして差別をとらえる必要がある。 (後略)

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