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人権「仮の闘い−あるオルグのノオト」 山田 彰道  【明治図書】
仮の闘い−あるオルグノオト  これも15年以上も前に読んだ本。大好きな本の一つである。今より?もっと若いときにはこういった文章を読むと,体中が熱くなって「頑張らねば!」という思いが強くなった。難しい文章だけれど,書いた人の形相までが伝わってくるような気がした。
 何回も読んだはずなのに,いまこの本をペラペラとめくっても,何が書いてあったかのかをなかなか思い出せないが,飛び込んでくる言葉が胸を打つ。
(もくじから)・「一人に向かう闘い」・「一路平安は願わず」・「かなわずとも闘い抜けよ」・「生きることのへたくそを」・・等々
 下線を引いた部分を忘れるこのとのないように,・・もう一度読み返してみようかと思う。
 


(p8〜p10より抜粋)
序 寂しき鬼のごとく怒りて
(前略)
 七行分千五百円をケチってその本を書棚の元の位置に戻したとき、私は魅かれたその七行を詣んじたつもりでいた。「北支那」で「敵、味方を超越して、戦わざるを得ない兵士たちの深い悲哀」をうたった伊藤桂一のその詩を引いて、著者安西均は「山匪」という用語の抜きさしならぬことを書いているのだが、私には別の感動があって、伊藤の元の詩集を手に入れるつもりであった。しかし、ついにそのものを探しあぐねて、九行分省略され引用された安西均の『冬の麦』という本で我慢しようとしたとき、その『冬の麦』も店頭から姿を消していて、私は慌てた。慌ててその詩を思い浮かべようとして私はつまずいた。完全に思い出せないのである。きれぎれのイメージをつなぎ合わせていくと、その詩は「北支那」の「山匪」が鬼のように怒りながら、根拠地の山をギョロ目をむいて、雪崩れのごとく降りていく、というものになるのだが、行の正確なことばが思い出せないのである。散々うろたえて、それでも歩きまわって、某日見つけた「冬の麦」をつかんで近くの喫茶店に私はとぴこんだ。しかし,そこにほ、私の脳裡の、ただ飛んだイメージから遠い七行の活字があった。そのうちの四行を引用する。

(十二行省略)
 山匪ら故国にありて故国をもたず
 さればかかる美しき晴夜を
 寂しき鬼のごとくいかりて
 続々と荒れたる山を降り来れるなり
          (伊藤桂一「晴夜」)

 多分、私の、名づけがだい夢の相貌はこんな四行のイメージを借りなければ伝えられないのである。
 なぜそれが、いつ、私の執念のイメージになったかは茫として戴れない。しかし「エホバ、城を守り給ふにあらずぱ、衛士の醒めをるも徒労なり」ということばが、たしか「旧約」のなかにあって、私はかつてそのことばを引用したことがある。それから何年か経って私はある所を去った。さすがにいたたまれなくなったのである。衛士が同時にエホバであることを強いられる、無理難題の時代が来たという予感がおってそのことぱを引いたのではなかった。そのことにとっくに気づいていなければならぬときに、気づかぬふりをしてきた、ある時期の自分の、ある耐えように疲れたのである。(中略)その情況に鈍感をよそおってかかずらううち、無数の衛士が生れてほ、エホバが守らぬ城を守って、果たして仆れていくその人間の誠実と葛藤が、そのころ,私には透明な風景に見えるようになっていたのである。人聞の苦悩が、風景に見えるのは狂気の一歩手前であると思った。それらは情熱をもって見らるべきものである。
 それ以後である。性凝りもない、名づける以前の小さな闘争の瓦礫の谷で、私は自分に対してエホバであり衛士であろうとした。疲労は確実に二倍になったが、その瓦礫の谷を吹く、少し生臭い風が私は好きで、そこによく立ち、彷徨する。
 赤い目をして−。

 私たちはいま頬骨をとがらせ、飢えた充血のギョロ目をむいて、一挙に言いおおせることができる。いかに闘うかという闘いのみあって、自分は何者かを問うことのない闘いはどれほど誠実に追及されようと、それらは敵によってついに許容されるのである。教師の仕事であれ、解放運動であれ、政党の仕事であれ、名を問う以前にそれらは糞くらえである。それらは支配する階級の敵意に遭遇することがない。

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