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教育教師をやめたい(門野晴子)
 門野さんの書いたものをたまに読むと,何でこんなことで悩んでいたのだろうかと,考えすぎることにストップをかけてくれる。
本当にこの文にあるように,仕事を「やめたい」と思ったことのない人の方が少ないのではないかと思う。
 私自身も,妻も少なくとも一回以上はやめたい,「やめる!」と思い,それが現実となる一歩手前までいったこともある。
 でも,この文にも似たようなことが書いてあるが,「なんでこんな考えもしないやつ(失礼)が,平気のへの字で悩みもせず仕事して,自分がやめんといかんのか!(-_-メ;)テメ・・・」と思うと,結局踏みとどまっている。負けず嫌いの芽がニョキニョキとでてくるのでしょうか。

(∩.∩)


 拙著を読んでくださった教師の中で,特に若い男女から,教師をやめたくなったという手紙をもらうことがある。
鹿児島県教組に講演に行った際は,県内で一年間に300人もやめると聞いて驚いたが,やはり若い教師だそうだ。理由はさまざまだそうだが,私への手紙の主たちは理由が共通している。なんという恐ろしいことをしているんだろうか,である。
 私はすぐに返事を書く。絶対にやめるな,と。恐ろしさを全然感じない馬鹿にいすをあけ渡すな,と。くびにならない程度にサボれるだけサボって,できるかぎり恐ろしいことに加担しなきゃいいじゃないかよ,と。給料とボーナスだけはしっかりもらえよ,と。
 半年後,あるいは1年後,再び届く手紙も共通している。あのときやめないでよかった,と。いまは元気いっぱいで職員室で闘っています,と。ゴネ上手になりました,と。ひょうひょうとしてサボっています,と。子どもたちに好かれるようになりました,と。
 はては,青森からりんご,北海道から毛がになどが送られてきてびっくりする私は,犯罪性のおこぼれにあずかったような妙な気分。
 子どもにとっていい教師になるには,善行を教えあげていい教師に酔うことではなく,真黒に汚れた手を見つめてとびあがることだ。やめたいほどに悩む自己否定の淵からこそ,子どもの命の輝きも見えてくる。自己変革への階段は自己否定なしにはのぼれない,と恐ろしい日本人をやっている私は言おう。
 どんなに人間らしく生きようと努力しているつもりでも,外国人から見ればリッチで勝手な日本人の私。日本を一歩出れば日本人総体の一人として,どんな言い訳も通じない。その己れの拠って立つ場を自覚したとき,日本語で日本の一般教師と話すよりも,言葉の通じない外国人や他国の教師とと通いあうものがあった驚き,感動。そういえば,日本の子どもも異国人ならぬ異星人だっけね。
(点鍾より抜粋)

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