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健康志向
健康ということがもてはやされるようになったのはいつの頃でしょうか。「とにかく体の元気が一番」は、今の日本人の目標の最たるものでしょう。行列をなす病院、サプリメント、フィットネスクラブ、ありとあらゆることが健康と結びついています。テレビでも健康について酢がよいといえば酢が、ニンニクが良いといえばニンニクがその日のうちに店頭から消える、それほど健康志向は強いようですね。広告を見ても、健康に関わるものは多いようです。逆な見方をすれば強迫観念に襲われる気持ちにまでなってしまいます。そのことを利用して売り込みもしているようですね。企業は健康、美容の新商品開発にやっきになっています。それどころかアンチエージングと称して年齢に逆らって生きることが素晴らしい事とされています。病を避け死を避け、不幸を避け、「なるべく見ないようにしよう」の生き方でしょうか。一休さんは死を「冥土の旅の一里塚」と語り蓮如上人は「明日に紅顔、夕べに白骨」と、死を見つめられました。死や老いや、病はとにかく嫌なものとして遠ざけるのが現代人の生き方でしょう。今の世の中は確かに金銭と物質の豊かさ、そして健康志向と、これらのことをいかに得られるかばかりを基準にして人生を送ってはいないでしょうか。どうすれば死を忘れ病を忘れ老いを忘れるか、ごまかして生き、病や死が襲ってきた時には、「何で・・・」と恨み言を述べる、そこには人間は「病み、死せる」存在という根本が抜け落ち忘れられています。健康、若さ、富、延命こそが宝でありその逆はすべて忌まわしい避けるべきものとして嫌悪されます。
科学や、医療の発達はこれらのことを忘れさせることに貢献してきました。しかし仏教は逆に「死や病を忘れるな」と説きます。「この世はいつも移り変わり変化していく」という諸行無常であり「この世はひとりにあらず」というあらゆるものが関連しあって存在するという無我、これが仏教です。これがお釈迦様の悟りの原理であり真理なのです。つまり誰もが納得し、うなづく自然な教えが仏教なのです。奇蹟を説かず、呪術を説かないのが仏教です。たとえば「自然に優しい車」などとエコカーばやりですが、「自然にやさしい」などということ自体が人間の傲慢さなのです。自然は人間にとって取り扱うことのできかねる強大なものにも関わらず自然に負けない、自然を克服、征服できる「モノ」だと錯覚してはいませんか。自然を畏怖し、自然を尊敬することが自然にやさしいということでありましょう。「こんな事は当たり前のことばかりでないか」と思われるかもしれません。そうなのです。仏教は当たり前の事を説いているのです。人間は死する存在であり、病む存在であり世の中はいつも移り変わり、一つで存在することなく支え合っているのです。しかしこの当たり前の事を人間の欲や傲慢さが見えにくくしているのです。私を離れて仏様の視線にたてば見えなかったモノがみえてくるように思うのです。仏法聴聞はそんな私を聞いていく場です。健康志向もいいのですが、どこかその中に無常の世界にいる「私」を見続けていただきたいものです。死を忘れた時代に真実に生きる時代になればと・・・・・