物欲の時代は今も続いています。大きなブティックが出店すると長蛇の列が出来ます。若い女性が持ち歩くバックや、道に座ってる若者達の腕時計は世界の一流メーカーです。浮浪者のおじさんがダナキャランの帽子をかぶってるのを見たこともあります。ホントに世の中不景気なんでしょうか?ここはまったくすごい国です。
別に高級品を買うことを否定する気はありません。高級品、一流品には確かに素敵なものがあります。別にGパンにロレックスをあわせたり、スニーカーにエルメスをあわせても文句は言いません。逆にそれらのコーディネートが素敵であればドンドン挑戦するべきだと思います。
ただし、注意する点もあります。ヘアメークを青山でつくり、ラガーフェルドのスーツを着、フェラガモの靴を履いて、ブレゲの時計をしたとしても、下着がユニクロならばその人のレベルはユニクロ止まりです。ユニクロが他の高級品によってレベルアップする事は絶対にありません。高級品というのはそういうモノなのです。
下着がどうとかいうレベルであれば他人には迷惑をかけません。ボクが一番滅入ってしまうのは、リゾートホテルのありさまです。スウェットスーツや半ズボンで平気でディナーの席につく人や、浴衣やスリッパで廊下を歩く人。下手すると上半身裸で大浴場から帰ってくる人がいます。そんな振る舞いがしたいのであれば宿泊施設を選べばいいのです。そんな人が一人でもいるホテルのレベルは上記の通りその人のレベルに引き下げられます。どんな紳士が宿泊していようが高級なレベルに引き上げられることは絶対にありません。逆に洒落た服装をディナーの為に用意して、リゾートホテルの「粋」を楽しもうとしてる人が場違いに見えてしまうのが落ちです。
最近ヴィトンのバックがゲテモノに見えてきたと思う人はいませんか?それは高級になれないリゾートホテルの話と一緒だと思うのです。
銀座の高級ブティックにGパンをはいて平気で入店する日本人は、サンゼリゼ通りでも同じ事をやります。一流ブティックを作るのは常連客です。ブティックをただの高い店に変えてしまうのは誰なのかよく考えるべきです。
高級ブティックは、いつまでも憧れていられるような高級店でいる為に頑張って欲しいものです。例えば高校生や女子大生がハンドバックを買いにあらわれたら、「お客様、十年先にまたおいで下さい。その時にはお客様にお似合いになるハンドバックをご用意できると存じます。」くらいのたんかを切って欲しいモノです。
ヨージ・ヤマモトにはまった友人が語っていた面白い話があります。彼はヨージ・ヤマモトに弱点があると言うのです。ヨージ・ヤマモトのスーツの上に「キティちゃん」を乗せると全てを台無しにするそうです。「キティちゃん」の「主張」はヨージ・ヤマモトを打ち消すだけの毒があるということでしょうか?しかし「ミッキー」は違うそうです。ヨージ・ヤマモトのスーツに「ミッキー」の腕時計をコーディネートしても「またまた、おたわむれを。」の範疇でヨージ・ヤマモト・レベルを失うまでにはならないそうです。これは笑えました。彼は「キティ」ちゃんと「ミッキー」の差を社会的な相違だと言っていました。服装には同一線上にないベクトルが二つあり、社会性、価格の順に並んでいるそうです。ユニクロとプラダスポーツの値段には雲泥の差がありますが、社会性は同じだそうです。社会性が同じなら値段の垣根は越えられますが、社会性の垣根は越えることは出来ないそうです。「その掟を破ると、かわいそうだが、服装は死んでしまう。そして、悲しいことに、社会性の階級は低い方に基準が合ってしまう。つまり、持ち物の中で一番低い物の社会性がその服装の社会性になってしまう。」と、彼はいいます。ふむふむ。。
「高級な人間になりたければ高級な物を身につけろ。」と村上龍が書いていました。高級品の質感や手触りや作り込みというものは手にして初めて経験出来るものです。経験が知識となり「高級」と「そうで無いもの」の区別が出来る様になります。それらが自分自身に馴染まないことには高級品を感じる事も出来ないのです。それを知らずに高級品を語るのは、恋に恋する女学生の恋愛小説みたいなものです。いや、今マクドナルドで180円のコーヒーを飲みながら「高級」について書いているボク自身のほうがしっくりくるかもしれません。
一応この辺で確認しておきますが、高級な人間が素晴らしい人間だと言ってるわけではありません。高級を自然に身にまとった人間でもダメな人はいます。逆に素晴らしい人間でも高級でない人もいます。人間性と高級とは全然違うベクトルなんです。高級な環境に育った人間はなんの努力も要りませんが、これから高級を手に入れようとする人間は大変な努力が必要です。
高級な人間になるために必要不可欠なのが財力です。一点豪華主義では一生かかっても高級な人間にはなれません。ボクは道行くメルセデスA160(ちっちゃいベンツ)を見る度にこの車のオーナーが金持ちであることを望んでしまいます。普段は大きい車に乗っているけど買い物の足用に洒落で乗ってるとか、小さい車が好きで乗ってるとかであって欲しいです。間違ってもベンツの為に家計を切り詰めて無理してたり、性能でなく値段でファミリアと比較してたりして欲しくないです。値段で比較すると言うのはベンツを我慢してファミリアにすれば差額で何が買えるとかいう発想の事です。
ただし。ベンツA160に憧れて、欲しくて欲しくてたまらない場合は問題ありません。でもベンツに憧れてたまたま手が届くベンツがA160だったとしたらボクは悲しく思うのです。
高級な人間は贅沢をしてはいけないのです。全て自分に見合ったモノを身に付け、見合ったレストランで食事をし、見合った住まいに住んでいなければいけません。ボクが高級な人間だったら家に優秀なコーヒーの給仕係りを雇い入れようと思います。毎日欲しい時に最高のコーヒーを入れてもらいます。ボクが毎分数万円稼ぐような人間だとしたら、それは贅沢でもなんでもないでしょうから。
そこで話が問題の物欲になります。物欲ってホントに単純で簡単なことなんです。自分自身に物欲が多いと思ったら注意したほうがいいです物欲が多い人間ほど「何も持っていない人間」かもしれないからなんです。
自分に何の魅力も無いから、高級なハンドバックを持ってみたい。高級なハンドバックを持った自分を想像すると、素敵な明日が来そうな気がします。でもそんな人に素敵な明日は来ません。ハンドバックをいくら買っても高級品を買うことで自分自身が満たされる事は絶対にありません。買い物をする一瞬は興奮して楽しいでしょうが、そんなものはすぐに冷めてまた別のハンドバックが欲しくなるだけです。それに気がつかない人は一生ハンドバックを買いつづけなければなりません。
今の車よりモデルチェンジした新しい車が欲しい。車が新しくなれば乗ってる自分は今よりイカシタ自分になりそうな気がします。そんな人は絶対にイカシタ人間になれません。すごいホイールを履かせようが、マフラーを交換しようが、その人の魅力が増すことは絶対にありません。そんな人は車が動かなくなるまで改造しつづけるでしょう。
それを手に入れたら自分が素敵に変わるかもしれないとか、自分が魅力的になって世界が広がるんじゃないかとか、漠然とした理由ではなく、それそのものが趣味でそれを入手する事が自分にとって喜びである場合は自信を持って買うべきです。そのモノがもたらしてくれる(かもしれない)二次的な幻想ではなく、そのもの自体が目的であれば、いくらつぎ込んでもかまいません。それをしなければ自分が生きている理由も無くなってしまうからです。
残念なことにそんなモノは多く無いです。そんな対象がある人はとても幸せな人です。自分の幸福を存分に噛締めて下さい。
今、自分の手の内にあるモノを100%活用しようという発想がない人は、目の前に無いものに希望を託してしまうんです。それは想像力のカケラもない行動です。そんな人は例え新しいものを入手してもそれを活かすことが出来ません。ただし財力が続けば高級な人間に近づく事は出来るかもしれません。
物欲という発想はホントに単純で簡単で想像力のカケラも無い貧しい発想なんだとボクは思うんです。それは、お腹がいっぱいで、睡眠も充分で、性欲も満たされて、趣味を持たない人がヒマを持て余した時に簡単に捕まってしまう衝動なのかもしれません。
今度の週末に着ていく服を買いに行こうと思ってる人がいたら、もう一度クローゼットを覗いて見て下さい。持っていることさえ忘れてしまった服もあるかもしれません。そこに吊るされた服全てにあなたの思い出があるはずです。そんな服に久しぶりに袖を通して出かけて見ませんか。きっと何かを感じるはずです。その何かを感じる事が出来たあなたは、きっと今年モノの服を間に合わせたあなたよりも魅力的に映ると思います。
物欲の亡者であるボクが言うのだから間違い無いです。
人を服装で判断してはいけないというのは、あたりまえのように使う言葉です。ただし、それは平和で安全な国だけの事だということを忘れてはいけません。内戦の最中だったり治安が悪い国では人を警戒するのに一番先に服装を見るのは当たり前のことだそうです。服装を考える時に「趣味」や「粋」だけでは語れない部分があることも忘れてはいけませんね。