No.19

 今回はいつも以上の独り言です。 

 なんでだか知らないけど、ボクはこうやって散文を書いています。「何かを誰かに伝えたい」なんてスケベ心はゼロでないんでしょうが、それが動機ではありません。大きな理由は「好きだから」だと思います。簡単に言えば趣味です。ブランド物のハンドバックが欲しいのと変わりません。ただ、楽しむ為に用意されたモノであっても自分で想像する楽しさに興味が引かれたんです。あるモノで遊ぶ!まさに貧乏人の発想ですね。

 趣味って、「時間つぶしでやる事」じゃなくって「時間を作ってでもやる事」なのかもしれません。それって「死なないように生きてる」のか「人生を満喫する為に生きてる」のかにもよりますが、そんなタワゴトは平和な国に暮らしてないと言えないセリフですね。

 HPを立ち上げた理由もお粗末です。別に何かを発信したかった訳じゃないんです。たまたまメールの環境を手に入れたらレンタルWeb環境も付属していたので、ホントに自分が作ったHPがWebに乗るのかどうか実験してみたくなっただけです。HPの内容は何でも良かったんです。何かネタがないとHPになりませんからね。それからCGIを使った掲示板とか、Javaを使ったゲームなんかもホントに動くのか試して見たくなっただけで、興味にまかせてイジってるうちに現在のかたちに至りました。そんなネタの一つがこのコラムで、なんとなく続けている訳です。そんな自己満足のHPなので検索サイトに載せていません。まるで世界の果てに立てられた掲示板みたいです。

 文章を書くという事は「言葉」を使います。「言葉」ってヤツはボクにとって結構重要な存在です。おそらく感情の説明に使える一番簡単な道具が「言葉」なんだと思います。

 言葉が生まれて何年経ったかなんて知りません。でも言葉には人類の文明と同じくらい長い変遷があったんだろうと思います。言葉は生きています。単語は毎日のように生まれては死んでいきます。また意味が全く逆さまになってしまう言葉もあります。言葉の新旧交代の為に昔の美しい言葉が無くなってしまうのは悲しい事です。でも、新しくつくられる言葉の力も認めています。言葉は使う人のモノだからです。

 アメリカ人が頻繁に使う「Cool!!」も、女子高生のワイルドカード「カワイイ」も同義語だと思います。ボギャブラリーが減ってしまう事はいい事とは思えませんが彼等には「Cool」や「カワイイ」という現実が全てであって理由を説明する事が野暮なだけなのかもしれません。

 言葉の意味はドンドン変わって行きます。そして言葉の役割もまた変化しているんじゃないかと思うんです。

 言葉は「物事を人に伝える為の道具」から「自分自身を守る為の道具」に進化したように感じます。おそらく言葉が出来た頃の使用目的は主張だったと想像します。でも現代社会においては言葉のフォローに使用する技術が多様化しました。言葉が盾になってしまった今、大事なのは語り手の能力よりも、聞き手の能力かもしれません。

 つまり現代言葉は「伝えるモノ」から「伝わるモノ」だと解釈するべきかもしれません。自分が伝えようと思った事以外に他の何かが伝わってしまう事があると思うんです。そしてその「他の何か」が重要な気がするんです。

 語り手の伝えたい事は何なのか?本心なのか?裏に含みがあるのか?聞き手には語り手が伝えるつもりの無い事までも感じ取る能力を要求されます。それは語り手の裏を読むということではなく、人の言葉を自分の解釈で消化する事なんです。

 文字は詩になったり文学になったりします。でも文字はたんなる記号に過ぎないと思ってます。「美はそれを見る者の心の中にある」と言いますがボクもそう思います。「詩はそれを読んだ者の心の中にある」んだと思います。言葉は心を揺らすヒキガネです。受け取り側がマトを持っていなければ言葉には何も出来ません。もし文章を読んで心が揺れたとしたら、それは読み手の能力なんです。その文章が立派なハードカバーに包まれた本であろうと、家計簿のスミに走り書きされたメモであろうと関係ありません。詩は詩として書かれる必要が無いんです。逆に詩を読んで今夜の献立を思いついたとしてもそれは読み手の能力です。

 残念な事に自分が信じるモノや消化しやすいモノ以外は耳に入ってきません。いくら語られても理解する為のマトを持っていなければ言葉を受け入れる事が出来ないからです。その為に偏見に落ちやすくなるのは悲しい事です。イデオロギーの違う民族間同士で理解しあうのが難しいのはこの為だと思います。

「初恋」、「愛」、「死」、「喧嘩」、「失恋」、「競争」、「略奪」、「汚辱」etc…

 これらの言葉を想像してみて下さい。受け取った人それぞれに何かを連想したかもしれません。これが受け取り手の能力で、はじめから受け取り手の中に存在した感情なんです。これらの記号を並べただけで、誰かの心のスイッチが入ったかもしれません。これがヒキガネです。

 また、表現しようとする側にも技術があります。効果のある単語を効率よく並べれば「詩のようなモノ」が出来ます。人の心を動かすのには、キャッチーな単語を選んでちょっとした技術でつなげてやれば良いだけです。きっと言葉の職人には朝飯前なんでしょうね。それらのテクニックの巧妙さにはいつも驚かされます。そんな風に出来た「詩のようなモノ」は、現在街中にあふれています。広告やヒット曲の歌詞やドラマの脚本なんかがそれです。(それでも広告の中に「詩」を感じちゃうことも、ヒット曲の歌詞に感動しちゃう事もありますよ。)

 ボクは本当の「詩」も受け取り手の心の中にあると思うんです。テクニックがあれば詐欺師や優秀な営業マンや独裁者のように人の心を動かす事ができます。芸術畑でもテクニックがあれば人を感動させられます。技術さえ心得ていれば誰かの心に何かを残していくことは難しくないんです。また、何かが残ったとしてもそれが詩だとは限らないんです。

 1955年NYのボクの恋人フラニー(J.D.サリンジャー著書「フラニーとゾーイ」の登場人物ですゴメンなさい)の言葉をそのまま借りれば、「読み終わったりなんかした後に何かキレイなモノが残るモノ」が芸術です。ボクは芸術と技術とインチキをわざわざ分けることに意味があると思いませんが、自分の無意識で好き嫌いを感じる心の理由を探るのに重宝してます。

 見る者の目の中の芸術は、ビーナス像だったりハンドバックだったりアイドルの水着写真集だったり、受け取り手によって様々です。自分で素晴らしさを感じる事が出来なければ、それはただのモノに過ぎないんです。千数百円の入場料を払って大行列の果てに人の頭とガラス越しにしか見られない絵画を無理に受け入れようと努力するのはナンセンスです。芸術に目的があるとしたなら「多くの人を感動させること」じゃないと思います。支持者が多いものがより芸術的だとは限りません。ボクは自分自身の感覚をもっと信頼していいんじゃないかと思うんです。いいと言われるモノはどの時代でも用意されています。でも判断は自分自身でしっかりと見極めるべきだと思うんです。

 ボクは言葉を綴ることに試行錯誤しています。言葉が道具である限りその鍛練が必要だからです。そして心を翻訳するのに言葉は弱過ぎることも知っています。言葉の限界はそんなに高い次元ではありません。それでも言葉の可能性、もしくは言葉に何をのせられるかを解明することはボクのライフワークの一つなんです。

 ボクが書いた散文を読んでくれた人に、この内容を受け入れて欲しいなんて思いません。でも何かのキーワードがヒキガネになってあなたの中の何かが動き出したらステキだなって思ってます。もし何かを感じたとしたら、それはあなたの中に初めから存在したモノで、それはあなたの能力なんです。

 

 

 「下手な鉄砲数打ちゃ中る!」これで、下手なコラムの責任を読み手に全部シフトしちゃうんだな。。いひひ。。

 

 

01/12/04

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