小学校の給食で牛乳が数本余る事ってよくありましたよね。それが夏の暑い日だったりするとその冷たい牛乳の価値はさらに高騰します。「牛乳が3本余っています欲しい人は手を上げて下さい」給食係がお決まりの文句で告示します。余り分を狙っていた生徒達はさっと手を挙げます。挙手した人数を数える給食係が自ら手を挙げてる事だってあります。「希望者は前に出てきてジャンケンしてください。」と再度お決まりの告示でお宝は取引されることになります。一見なんとも微笑ましい光景です。
挙手した生徒の中には、純粋に牛乳が欲しいと思ってる子供がいます。他には、みんなが欲しがる物に価値を感じて手を挙げる子供もいるかもしれません。または、ただジャンケンしたりするゲームに参加したかっただけの子供もいるかもしれません。
挙手しなかった生徒はどうでしょうか。牛乳が嫌いな子供もいます。牛乳は好きだけど2本も飲めない子供もいるでしょう。牛乳に興味の無い子供もいます。
でも挙手しなかった生徒の中には挙手出来ななかった子供もいたと思うんです。手を挙げるのが恥ずかしい子供。自己主張が下手な子供。欲張りに思われたくない子供。ジャンケンして物を取り合う競争が苦手な子供。そんな子供達は「牛乳が欲しい」けれど「手を挙げられなかった」んですね。それが美徳とか控えめとか言うんじゃないんです。ただボクはそんな子供達が愛しく思えてなりません。そんな子供達はどんな大人になっていくんだろう。社会やしがらみの中で上手にいきていけるんだろうかなんて心配したりもしちゃいます。
遠慮という思考形態は結構割りに合わないものです。遠慮しない人はその対象を「大した事ない事項」と捉えるから遠慮する心が発生しないんです。「いいや貰っとこう」くらいで終わりです。遠慮する人はその事項が重大事項であるからこそ遠慮しちゃうんですね。最初からどうでもいい事項ならば遠慮にさえならないんです。
欲しい物を欲しいと言わないのであれば、諦める覚悟が必要です。「欲しい」と意思表示せずに得ようとするのはむしが良すぎます。ただし、欲しいと意思表示するならば、その結果自分に返ってくる全てのことを受け止める覚悟を決めなければなりません。誰の邪魔もしないで欲しい物だけを得ようとするのは潔くない考えです。
自分が誰かの生き方の妨げにならなければ、その誰かは自分の生き方の邪魔はしません。理屈は簡単です。ただし個人同士の間には埋められない価値観の違いが罠をはって待っています。
同じロジックで多くの自我に気付くことが出来ます。例えば優しくなりたい人は自分が優しくないことを知っていて優しさを大事な事だと考えるんです。優しさなんてどうでもいい人は優しくなりたいなんて思いません。ただしその人が優しい人かどうかは別問題だし、優しさの概念も人の数だけ存在します。純粋さも、誠実さも、潔さも、根気強さも、身持ちの硬さもみんなそうかもしれません。自分が大切な物にこそ自分の欠点があるのかもしれません。