あなたの身の周りに悪い人がいますか。
「悪」って何処にあるんだろうかと考えた事がありますか。悪は悪い人の心の中にあると思いますか?ホントにそうなんでしょうか。そんなことを考えてみました。
おそらく誰もが多感な思春期に自分自身の「自我」や「存在理由」と対峙したことと思います。でもその壮絶な戦いに勝利した人はいるんでしょうか。多くの人たちはそれと「示談」したり、諦めたりして、心にそれぞれの置き場を許し「処理済み」のサインをしたんじゃないでしょうか。
「自我」や「存在理由」を考えるのには主観と客観を明確に分ける必要があります。客観の上で存在理由を有した自我なんて絶対に存在しません。「自我」は主観の中にだけに存在します。客観の上には自分が自分でなければならなかった理由や、自分が明確に人と違う部分も存在しません。残念ながら客観の世界にあるのは「役目」だけです。役目はいくらでも代わりがききます。役目さえちゃんと果たせば誰でも構わないという事です。
存在理由を有する自我があるのは主観の上だけです。主観の世界は本人が生まれた瞬間に始まり死ぬ瞬間に消滅します。本人は絶えず世界の中心にいます。自分に関わる他人は自分が中心に立つ舞台に登ったり降りたりするだけの登場人物なんです。自分が舞台から降りることはありえません。自分が死ねば舞台自体も消滅するからです。ボクはそれが「自我」だと思うんです。
正義も主観の上にしか成り立ちません。世界正義なんてものは幻想です。それは民主主義なる多数決でつくられたものに過ぎません。多数決が正しいとは未だに証明されていないそうです。例えば、自分の子供を殺そうとナイフを振り上げている暴漢に対して攻撃する事は自分にとって正義かもしれません。ただしその暴漢にも親兄弟がいるかもしれない事もまた事実なんです。さらにその暴漢でさえその人の正義に基づいた行動をしているかもしれないのです。自分の都合で人を殺すと殺人犯です。しかし国家の都合で何万人も殺せば英雄になれるのです。911同時多発テロの際、「アメリカに天誅が下った」と街でガッツポーズを作り興奮する人達の映像をTVニュースで見ていたたまれない気持ちになりました。
美味しいラーメン屋が人の数だけ存在するように正義も悪も人の数だけ存在するのかもしれません。ただし美味しいラーメンにガイドラインは必要ありませんが、正義や悪には基準がないと社会生活が成り立ちません。ところが価値観が違い過ぎて討論にさえならない人もいます。某国家元首や某宗教家の正義もそれぞれのモノサシの上に成立しているんだと思います。だからそれらの思想を自分のモノサシで理解出来ないのは当然で、理解したくないものに対しては感情が昂ぶるのもしかたない事なんです。それをすぐに否定し異端だと決め付ける事はシンプルであたりまえな反応だと思います。ただしそのモノサシを基準にした感情をコントロールするのは大変な作業で、時間もかかります。はじめから感情は湧いてしまうものとして諦めたほうがいいのかもしれません。
人は欲望のままには社会生活に順応できません。欲望も自我ですが、欲望を抑制するのも自我です。もう少し掘り下げれば心の現象を欲望と断定するモノサシも自我だし抑制しなければならない部類の問題かどうか決めるのも自我です。モノサシは言い換えれば良心とか正義とか常識とか倫理などと表現したりします。自我がその人特有のものであるかぎり、その人が他人の行為の良し悪しを判定することは可能ですが、その判定の基準になるモノサシもまた判定する人固有のものである事実を忘れてはいけないなのです。
世の中の現象を理解する際に、自分の心がより安定し、上手に納得でき、社会と上手く付き合っていけるようなモノサシを作ることが客観である世界と主観である自我を上手く摺り寄せる方法なのかもしれません。そのモノサシを作れるのも使えるのも自分だけです。
「彼」は悪い事をしたからヒドイ人だと思うのはその人の自由です。ただしその主観はその人の中でだけ有効である事を忘れてはいけません。その人は「彼」を「悪い人」と認識して「彼」に「悪人」の役目を与える事で自分自身の思考や感情が納得できる落としどころを用意したに過ぎないのです。つまり「悪」や「悪い事」の概念が存在するのも自分の主観であって、自分の心だとも言えるのかもれません。
自然科学で証明されない現象に理屈は要りません。まだ証明されていない現象は別として人の意志が絡む現象は結果だけで充分です。解釈はなんだって構わないと思います。悲しい雨も、想い出を流してくれる雨もありません。それは真実とは無関係です。雨は水温、水質、降水量等の実際の現象だけで充分です。それ以外は主観が作り出す理屈で、そんなものはそれぞれ個人に任せておけばいいのです。
「人間は綺麗な心を持って生まれたはずなのに、悪い人と関わったり、自分が傷つくことで少しづつ悪賢くならないわけにはいかない」と考える人がいます。それを受け入れる事で納得してストレスが減るのであれば信じればいいだけです。それを否定するつもりはありません。でもボクは人間が綺麗な心を持って生まれたなんて思ってません。人間の心が無垢な状態で生まれて来たと言うのならば納得できます。無垢な状態には善も悪もありません。悪を知らない人間には善の概念さえありません。だから善の心だけを持った人間なんて存在しないと思うんです。
逆に宗教では信仰を深めれば深めるほど自分の愚かさを知ると聞きます。善行も愚行も所詮知識の一つで行いに意味を用意してるだけなのかもしれません。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」
己の善を謳うなら同時に己の悪も享受しろということなのかもしれませんね。
「悪」があるのはどこだろう。「悪」の概念を決めるのは誰だろう。そんなことを思いました。