No.51

 比叡山で本覚思想を学んだ道元(日本での曹洞宗の開祖)は15歳の時に本覚思想の根本問題に行き当たったそうです。道元の悩みは「全ての人に仏性(人は誰でも仏になれるという考え)があるならば、修行がなぜ必要なのか」というものでした。道元はやっとの思いで健仁寺の栄西に会う事がかない、教えを請うことができましたが、栄西は「仏なぞいない、ただ狸や狐がいるだけだ。」と言い残して他界してしまったそうです。

 

 ボクは今までに「戦争は嫌だ」と何度も書きました。ボクは人殺しも嫌です。多分、人を殺す事は「いけないこと」だと認識している為ではなく、「人を殺す恐さを想像できる」からだと思います。言い換えれば、それを想像できるだけの知識を身に付けているだけです。さらに見方を変えれば、ボクが持っている「人殺し」の情報をならべれば「人殺しは嫌だ」という答えにしかたどり着かなかったのかもしれません。

 つまり、ボクが知っている「殺人」も「戦争」もボクの解釈でしかありません。実際に起こっている現象と、ボクが想像できるものとの間には大きな溝があることを覚悟する必要があります。

 戦争という現象を把握していないボクが「戦争がどうの」と熱く語っても詮無い事です。言葉なんていいかげんなものです。ロジックを駆使すればカラスは白いと言いきることも可能です。言葉を発する人がどれだけ誠実に語ろうと努力したところでも、残念ながらその内容の半分は嘘です。逆に誰かを巧みに欺こうとした言葉でも半分は真実です。言葉の真偽と語る人の善意は別の問題なんです。善意から発する言葉が正しいとは限らないのです。

 誰かに「中華料理は好きですか?」と聞かれればボクは「好きです」と答えてしまいます。だからと言って、ピータンに手をつけないボクに「好きだっていったんだから全部食べなさい」と言われても困ります。さらに冬虫夏草スープは好きですかと聞かれても、食べた事が無いので答えられません。「冬虫夏草スープも食べた事が無いのに、中華が好きだなんて言わないで欲しい。」と指摘されればボクは謝る他ありません。中華料理も戦争と同じようにボクの解釈でしか語れないんです。いたずらに人の解釈を流用すれば決定的な誤解が生じるかもしれません。

 以前に理解し合うためには同じ情報が必要だと思った事がありますが、それだけでは補えない限界を感じています。残念ながら人類は理解し合う為の能力を永遠に身に付けられない仕組みになっているのかもしれません。

 法華経には「仏の命は久遠であり、さまざまな法の説き方があったとしても、それは一つの教えに帰一する。」というテーマがあるそうです。一見反目した思想でもアプローチや、角度の差があるだけで、どの道を通ろうと、結局は同じ心理にたどり着くもだということでしょうか。

 色んな国の、色んな風土の、色んな民族の人たちが、それぞれに心理を追求しています。法華経の教えが正しければ、その行き着く先には同じ景色が見えているはずです。しかし現実は大勢の人間がどれだけ努力しても戦争はなくなりません。宗教の対立、民族の対立は千年単位でも解決出来ません。何故だろうと思ったときに「人間の寿命」に思い当たりました。

 悟りの境地をいうものがあるなら見てみたいと思います。悟る瞬間があるといいますが、どういうふうに悟りと解るのか経験してみたいものです。

 現在のボクは色んな思想のパーツで出来ています。しかし必要な時に最適なパーツを取り出す事が出来ずに苦労しています。パーツの概要を覚えていても心理を忘れていたり、パーツがあったことさえ忘れてしまっていることもあります。多分その程度がボクの能力の限界なんだろうと思っています。それでもボクは色んなパーツを経由して現在の意識を持ちました。これからもたくさんのトライ&エラーを繰り返し、経験を積めばいつの日か悟りの境地にたどり着けるのかもしれません。でもそれにはおそらく千年くらいは生きないと無理そうです。

 悟った人の書物や言葉は、悟った人にしか解らないのかもしれません。冬虫夏草スープを知るために、どれだけ文献を調べたところで、味を知ることが出来ないのと一緒です。

 禅には「不立文字(フリュウモンジ)」という教えがあります。悟りの為に言葉(言葉によって表される文字や教理体系)は邪魔なものだという教え方です。つまりどれだけ本を読もうと、言葉による教えを請おうと、それでは悟る事は出来ませんと言われているようなものです。突き詰めれば、先達の記録などなんの役にも立たないということになります。それでは人類が何万年努力しても真理の共有は夢のまた夢です。

 人の寿命がもう少し長いか、脳の回転がもう少し速ければ、世界中のみんなが同じ境地を臨めるのかもしれません。でも頭の回転が速くなれば速くなったで、より複雑な屁理屈をこねまわし、さらに遠回りするだけなのかもしれませんね。

 人間はそういう生きものなんでしょうか。

 

「仏なぞいない、ただ狸や狐がいるだけだ。」

 栄西禅師は、道元が「全ての人に仏性がある」という言葉(命題)を容易に話してしまった事を問題としたのかもしれません。語ることは容易なんです。真に仏が問題となり、仏性が問題であるならば、「全ての人に仏性がある」という言葉を語る余裕など無いはずです。また、修行が必要なのかと疑う前に修行とはなんなのかを体験しなければいけません。論理展開だけなら知識だけで成せるのです。命題の基礎すら解っていない状態で、それを容易く言葉にし、その上に何を積み上げても何の解決にもなりません。栄西禅師は、言葉によって考えるのではなく言葉となる前の姿によって考えなさいと道元に教えたのかもしれません。

 一面のひまわり畑を見渡したとき、旅行者の瞳に映るものと、ひまわりを知り尽くした製造者の瞳に映るものは、同じなのか否か。違って当然なのか、同じであるべきなのか。

 色即是空、空即是色。

 一面のひまわり畑を想像してみました。形容する言葉が生ずるわずか手前の刹那な気持ちをつかまえるために、ひまわり畑に行ってみるのも悪くないかなって思いました。

 

03/07/19

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