No.56

 宗教で救われたいと思うなら、ひたすらその宗教を信仰することだ。教義を疑ったり、信仰することの意味や効果を考えてはいけない。信仰は理解する事じゃなく信じる事だ。それでなければ宗教は立ち行かない。

 宗教は価値観や生き方の指標だ。それを受け入れ実践することができれば救われるように出来ている。信じる事さえ出来れば5千万円の壺もきっと支えになってくれる。

 ただし少しでも宗教を疑えばそのシステムは途端に破綻する。元々宗教は信じる者しか救わない仕組みなのだ。

 その教義が明らかに間違っていたり、他人に迷惑をかけない限り、正しいか正しくないかは信仰する当人が決める事で、他人がとやかく口を挟むべきでない。

 それは清原がホームランを打って意味なく幸せな気分に浸れる人に対して、メディアの情報操作の力や、打たれた投手の苦悩を語って、せっかく昂揚した人の気分を台無しにする事と同じだ。個人の幸福の理由を他人が分析するのは迷惑なだけだ。新聞社のチームが好きだと信じられる人だけが、その祝福を受ければいい。

 幸せは人によって異なる。それは物欲だったり、趣味だったり、食事だったり、恋愛だったり、友情だったり様々だ。でも幸せを幸せをとして大切にしたいのなら、それらを疑ったり仕組みを考えるべきでない。

 幸せは誰かが定義したもので、それを個々が学習したものだ。人が価値を作り、人が感情の起伏の要因を作る。「踊る大捜査線」を観て笑ったり泣いたり感動するのは、映画が感動するように作られているからだ。モーニング娘のCDが数十万枚売れるのは、楽曲が素晴らしいわけでも歌唱力があるわけでもなく、売れるように作られ、売れるように販売されているからだ。人の心を動かす事には何をどうすればいいか、それらのプロデューサーは熟知している。それを否定すれば、娯楽は立ち行かない。

 愛情で満たされたいのなら、愛情を疑うべきでない。その言葉の意味を考えた途端にそれは只の活字になって潤いを失ってしまう。

 愛情は多分そこにある。ただし残念ながらそれは量ることが出来ないし表記する単位もない。だから愛情はただ感じていればいい。その量を大げさに表現したり確認したりすることは愚行だし、まったく意味が無い。それは語るべき言葉ではない。

 実際には心が通い合うことなんかない。ただし通い合ったと思う事は出来る。そう思えれば心は通い合っていることと何ら変らない。共感したいならば疑うべき事じゃない。

 愛情という甘美な言葉を疑いなく使用すれば恍惚感に浸れることが出来るかもしれない。多分それでいいんだ。愛情は自然界に存在しない。自然界に存在しないものを量ったり、イコールな価値観を他人に伝える方法は無い。当然伝わったかどうか確認する方法も無い。愛情が存在するのは脳髄の中だけだ。作法を間違えると愛情も立ち行かなくなる。

 だから犬も食わない。

 幸せとは信じることだ。否、疑わないことかもしれない。疑ってしまったが最後、幸せはその価値を失ってしまう。でも幸せは別の形に変るだけだと信じたい。そうでないとこの脳髄が立ち行かない。

03/10/18

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kuntan's note