言葉に記号以上の意味は無いと思う。如何なる場合も完全な表現なんか無い。どんな努力ももせいぜい効率を上げる程度だ。どれだけ完全に聞こえる言葉でも、伝える側と受け取る側の理解は等しくなんかない。誰かに伝えきったと思うのも語り手の自己満足でしかないし、理解したと思うのも聞き手の自己満足でしかない。そもそも自己満足なんて言葉はおかしい。満足なんてすべてが自己満足じゃないかと思う。
言葉はリアルじゃない。実体を持った言葉なんか無い。言葉は言葉である限り現実とイコールじゃない。
たとえば「ツメきり」という単語をイメージしてみる。「ツメきり」を知ってる人ならば「ツメきり」を想像する事ができる。「ツメきり」の形や、その使い方を思い浮かべることができる。でもそれは「ツメきり」を知っているからできることだ。「ツメきり」と呼ばれるモノに「ツメきり」という言葉が当てはめられている事を知っているから何も不思議に感じることがない。だから「きのうツメきり踏んじゃってさぁ」と言われれば、「ツメきり」がその場に無くても語り手に何が起きたのかを想像することができる。
しかし聞き手が「ツメきり」を知らなかったらどうだろうか、その言葉は何かを伝えることが出来ただろうか。言葉としての意味を成しただろうか。
「ツメきり」という言葉を知らない人には、「ツメきりがあります」という言葉も意味を成さない。その人に言葉のみで伝えなければならないのならば、その人が理解出来る言葉を駆使して「ツメきり」という現象を伝えなければならない。
「ツメきり」を知らない人に実物を見せ実際に使って見せれば「ツメきり」が何なのか理解出来ると思う。さらにこれが「ツメきり」だと発音するなり字を綴って教えれば次回からは実物がなくても「ツメきり」という言葉で代用できるようになる。言葉はイメージの代用品で連想する為のキーでしかない。
それでもまだ形があるものはいい。実物を見せれば不特定多数の人間に限りなく共通な情報を理解させる事ができる。でも形のないものはどうなるんだろう。「正義」とか「平和」とか「愛」なんかはどうすればいいんだろう。目の前にこれが「正義」だと示せる人がいるんだろうか。「正義」という言葉を使用する人は本当に「正義」を理解しているんだろうか。そしてその「正義」は他の人たちにも同じ形に見えているんだろうか。
ボクがなんとなく使用している単語は本当に数多の人に共通なモノを想像させているんだろうか。曖昧な定義しか知らずに、ただの語感だけで適当に使用していないだろうか。そうだとしたら、そんなものを伝えてなんになるんだろうか。
聴覚は聴きたい音だけを増幅することができるらしい。聞き耳を立てれば雑音の中から聴きたい人の声だけを選別する事が出切る。逆に騒音は他の事に集中していれば聞こえないが、気になれば気にするほどうるさくなる。
視覚も目に映っていることと見えていることは違うらしい。いくら目に映っていても理解出来ないモノは見えていることにならない。つまり理解出来ない現象は見ることが出来ない。
言葉も同じかもしれないと思う。脳は耳に聞こえた意味の解る単語をつなげて話の内容を理解する。解らない単語はその前後の意味のつながりで穴埋めされる。聞こえた言葉は意味の解る単語や興味のある単語を中心に受け捕り手側の脳で再構築される。その際、材料から洩れた単語は聞こえていても意味を与えられる事は無い。結局は聞き手に解る範囲でしか解釈されない。つまりどれだけ解り易く語られたとしても聞き手の器以上に聞き手に理解されることは無い。
真理は絶えず眼前に映っているが、それに気付くより先に常識が解釈を歪めてしまう。真理は人の存在に関係なく如何なる場合も隙がなく有効だが、常識は人が作ったもので限られた地域や限られたコミュニティーの中でしか通用しない。そして残念なことに人には真理と常識の区別がつきにくく、上手に生きるために常識を優先する傾向がある。
言葉はその常識に依存している。常識を大前提としなければ言葉は通じない。だから理解できないことを話す人は恐くなる。自分の常識が正しいと信じたいから話者を狂人にしてしまう。でもその言葉が発せられたシステムが理解できれば恐さも感じなくなる。解らないもの不思議なものに言葉を当てはめることで理解した気分になり、それが常識になれば安心する。名前を付けようが付けまいがそれは人間の都合だけで真理は何も変る事が無い。
たとえば赤くて丸く甘酸っぱい芳香を発する「謎」に「リンゴ」という名前を着けることによって謎が常識に変ってしまう。「これは謎です」が「これはリンゴです」という言葉になってもリンゴ事態は何の変化もしないが、人はその現象を掌握した気分になる。
言葉とはそんなモノの集まりかもしれない。
ボクは下記のような言葉を綴る。
『読み手がいなければ詩はただの言葉だ。読み手に言葉を理解するバックグラウンドがあり、言葉が「心」に作用した時にはじめて詩ととして意義をもつ。』
上記のセンテンスの「心」を「脳」に変えても意味は同じように聞こえる。脳の構造や実体を知らなくても脳は存在する器官だから共通の認識をとり易い。しかし心は実在しない。心という言葉は明確な定義がなく曖昧なモノを対象にしている。心の説明なんかボクは出来ない。それなのにボクは平気で「心」という言葉を使ってしまう。そしてボクがイメージする曖昧な「心」を聞き手もイメージしてくれるだろうと勝手に思い込んでいる。もしくは違っている事を承知の上でウソを隠蔽してしまう。
ボクはそれがとても恐い。
言葉は理解されてはじめて有効な道具となる。道具である以上コンピューター言語のように同じスクリプトはどのコンピューターでも全く同じに実行される事が望ましい。でも言葉の受け取り手は機械でなく一筋縄では行かない人間様だ。色んな理解や解釈があって当然だし、その差が面白いのかもしれない。
そうでなければボクの言葉をボクが思った通りに受け取ってくれる人の環境はボクと同じでなければならなくなる。そんなことになったら大変だ。CDショップはロックンロールだけになるし、服装はGジャンばっかりになるだろうし、ロッテリアのメニューからエビバーガー以外は無くなってしまう。そんなことになったら街はツマラナくなってしまう。
そんなことよりもボクがカワイイと思う人をみんながそう思うようになったらちょっと迷惑だ。