もしも不安に苛まれたとしても、それは多分悪い事じゃない。不安と不幸を混同しないほうが良い。不安はむしろ幸福な状態かもしれない。なぜなら不安はたえず幸せと寄り添っているからだ。
幸せとはなんだろう。もちろん幸せは人それぞれに違う。たとえば優しい家族がいて、マイホームがあって、お庭があって、ついでに犬なんかも飼っちゃおうか。それが幸せかどうかボクには解らないけど、なぜかそんなイメージを思い描いてしまう。
多分世間には誰にでも当てはまる幸福な姿があるのかもしれない。誰が決めたのか知らないが戦後日本のがむしゃらな復興の為には三種の神器などの明確な幸福を定義する必要があったのかもしない。そしてモノに溢れた現在でもその目標は様々に形を変えて活き続けているのかもしれない。それでなければボクはマイホームなんていう例えを引用できなかっただろう。これは間違いなくすり込まれた価値観だ。
マイホームを手に入れた瞬間、幸福と同時にそれを失うリスクを負うことになる。それが不安なんだろう。不安は幸福を感じられる場所にしか存在できない。マイホームが要らなければ燃えようが崩れようが不安に思う事はないし、所有しなければ失う不安さえ発生しない。裏返して言えば不安の感じられる場所にこそ幸福が存在するのかもしれない。つまり不安を感じることは不幸なんかじゃない。宝ものを持った人にしか不安なんかない。
家庭を持たなければ離婚や家族崩壊の不安を持たなくてすむ。財産を持たなければ破産する心配も無い。恋人がいなければ別離の悲しみも無い。命が無ければ病気の苦痛も無い。
もし優しい家族がいて、マイホームがあって、庭があって、ついでに犬なんかも飼っちゃってる幸福な人が犯罪を犯したりするとニュースでは幸福な人間がなぜ?と報道されたりする。マスメディアは事件の事実関係よりも、当事者の心境を問題にしたがる。きっと誰もが幸せだと思える人間に犯罪を犯されると困るんだろう。精神疾患などと無理やり納得できる理由を付けたがるのは、そうでもしないと我々の幸福自体が揺らいでしまうからだ。
だから誰かが幸福と定義したものを無理に幸福と思い込む必要は無い。そこを取り違えると偽者の幸福と共に本物の不安だけを背負い込むことになる。
ボクは知らないけどマリッジブルーという現象は幸福の洗い直し作業かもしれない。
人間の感情というものは厄介だ。それらは全て個人の常識や理屈に作用される。人は自分が直面した状態を、「嬉しいととらえるべき状態」、「悲しいととらえるべき状態」、「腹立たしいととらえるべき状態」、「悔しいととらえるべき状態」などいろんな状態にカテゴライズする。その分類作業は自分自身の非経験的知識や経験的認識に依存する。自分の脳にはその直面した状態が本来そういう感情を呼び起こすモノであるかどうかを判断することができない。分類作業が済めば脳は感情のスイッチを入れるだけだ。感情にしたところで、泣くも笑うも地団駄踏むのも全て脳内の電気信号で脳内物質の物理的変化でしかない。既に感情が薬品でUPしたりDOWNすることは実証済だ。感情なんてその程度のものだ。
幸福なんていうものは人間がでっち上げた幻想に過ぎない。自然だと思える幸福も薬品による幸福も脳髄には区別できない。それを無条件に信じるか信じないかが幸福と不幸の境界線になる。だから幸福を無条件に受け入れられる人にしか幸福は機能しない。少しでも幸福を疑ったり、幸福のシステムを考えてしまったら幸福はたちまち破綻する。
そのシステムを見て見ぬふりをし、適当なところで手を打って上手に騙されてしまえば幸せに生きられる。しかしそれを潔しとしなければ幸福なんか信じる必要はない。幸福を信じなければ不安も無い。ただし後に残るのは絶望だけだ。
幸せになろうと思ったら結局のところ人は誰かに騙されるか自分を騙すかしかないのかもしれない。どうあがいたところで自分の器以上に世界と向き合う事はできない。それが解っていても、それでもなお自分の目で見、自分の足で立ち、自分の脳で考えるしかない。自分が世界と思っているものは自分の脳髄に映っているモノだけなのだから。
「わたしなら、彼が残してくれた不幸な詩よりも、その幸福な男の方が好きになったでしょうね。」
このセリフは50年代後半ウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグと供にビートニクと呼ばれたアメリカ人作家
ジャック・ケルアック の The Subterraneans (地下街の人びと)
で作中の恋人が作中のぼくにかけてくれた言葉だ。
ボクは今でもこの一言に救われ続けている。
ステキな子とクリスマス・ディナーを楽しんでいてもボクの脳髄はそんなことを考えていたりする。ボクはリアリストであろうとするかなりのロマンティストだと自覚してるんだけど違うかな?