あるビデオを見てハッとしました。それはストックホルムの高速道路を日本製のオートバイが疾走するビデオでした。そのビデオに収録された映像の多くはバイクに固定されたカメラから前方を撮影したもです。画面にはフロントカウルのシールド越しに高速道路の前方の景色が広がり、その下には意識的にタコメーターとスピードメーターが入るようなアングルになっています。おそらく街中だと思われる渋滞の映像から始まり、徐々に車が少なくなり景色はのどかな郊外へと移っていきます。
それだけならなんの問題も無いのですが、それではビデオの商品価値もなさそうです。そのビデオのクレイジーなところは画面に写りこんだスピードメーターが示す数字が尋常でなかったことです。日本製のバイクはひらりひらりと車線変更しながら渋滞の車の隙間を見つけ次々と擦り抜けていきます。スピードメーターのデジタル表示は160〜250の数字を示していました。
道がすいてくるとバイクは容赦なく300Kmを超える速度でハイウェイを疾走します。映像は凄い臨場感でスリリングです。確かに画面に目が釘付けになるのですが、充分非合法で背徳な匂いを感じるし、製作会社の倫理観も疑ってしまいます。でもボクにとっての問題は別にありました。
インターチェンジで路線を変更する際にそのバイクは赤信号を無視しました。その瞬間ボクはそのライダーのことを「悪い人だ」と思ったんです。
スエーデンの道路交通法規がどうなっているかは知りませんが、日本では赤色灯無視よりも速度超過50Km以上の方が重罪です。そのライダーは信号無視するよりもずっと以前から「ものすごく悪い人」だったはずだし、ボクはそれを感じていたはずなのに「信号無視」はなぜかそれ以上に嫌な感じがしたんです。
その時、人の常識もあてにならないと思いました。考えてみれば常識とは「正義」と同じくらい曖昧なモノです。常識が通用するのは限られたコミュニティの中だけで宗教や郷土が異なればあっという間に意味を失います。もっと厳格に言えば自分が考える常識は自分の中でしか通用しません。多くの人間は自分を常識的か、そうじゃないか、もしくはどの程度か判断する事が出来ると思います。でもその判断基準である常識こそが自分自身が知識として持っている常識の範囲でしかない事を自覚する必要があります。そんな自分勝手な常識を平気で他人に期待してしまうのってどうなんでしょうか。
例えば歩きタバコをする人を常識が無いと毛嫌いする人が平気で燃えるゴミの日に不燃ゴミを出してたり、挨拶ができない人間を軽蔑してる人が平気で駐車違反してたり、約束の時間に遅れてきた人間を非難してる人がテーブルにヒジを付きながら食事してたり。人によって気になるポイントが違うのは当然だし、気にしないポイントも違って当然です。だからいつも身なりは奇麗なのに部屋が汚い人や、信号は守るけど制限速度はお構いなしな人など、それぞれに常識がちぐはぐしてしまうのは仕方ないかもしれません。古風で奥ゆかしい日本の女性に惹かれる西洋人と、レディファーストのスマートさに憧れる日本女性のカップルが成り立たないように個人個人が一方的に常識を押し付け合うと社会は立ち行かなくなってしまいます。
技術の発展は国際化を推し進め、マスメディアの発達は個人の価値観を多様化させました。以前のような閉ざされた小さな社会ならともかく、既にモノに満たされ、裕福になるという同じ目標を失った国民の意識には昔のような「共通な常識」はフィットしないのかもしれません。
このように常識って危険なモノだけど、それでもやっぱり人と人が複雑に絡み合う社会に潤滑剤は必要です。だからと言って常識の為に振舞っては本末転倒してしまいます。思いやりを上手に表現する手段としてマナーがあるように、自分自身の常識がずれていることを踏まえた上でスマートに常識を利用したいものですね。