れいによって信州で陶芸ごっこをして遊んできました。ボクは轆轤(ろくろ)を回すのより土を手でこねて積み上げていく手捻り(てびねり)が好きです。陶器は磁器と違ってずんぐりと分厚くなります。手で作れば丸いものも丸くならないし厚みが均一でなく指の跡も残ります。でもそれこそが陶器の味だと思います。
味ってなんだろうかと考えてみました。話は少し大きくなるけど、ボクは芸術活動でありがちな前衛的な方法論を好みません。若い作家が従来の芸術活動の決まりごとを壊す事に自分のオリジナリティーを探ぐるのはありがちなことですが、それは安直すぎる考えだと思います。なぜならそこから見出されるものは既にスタンダードに依存しているからです。なにごとも築きあげるのは難しく壊すのは容易いものです。過程が芸術かどうかは知りませんが、どちらにしても芸術家が舞台裏を見せたり理屈で作品に捕捉を加えるのは潔いとは思えません。
ボクが作る陶芸程度でわざわざ芸術を考える必要は無いのだけど、人が作る以上、その人の意思が作品となります。いいかげんに作ろうが、心をこめようが、上手くいこうが、失敗しようが、そこには必ず作り手の意志が宿ってしまうものです。美味い不味いはあるのでしょうが味は必ず生れます。ボクが作る陶器の味は「フレ」だと思っています。素人が頑張ったところで一流作家や手馴れた陶芸家のように狙った味を出せるはずがありません。出来てしまった味が全てです。味には好き嫌いの好みがあるので、どんな味になっても否定する必要はありませんが、味には好みとは別に洗練された味というものが存在するんだと思います。
ボクは陶芸作品を無意味に歪めたりアバンギャルドな形にしたりすることで意識的に味付けすることはしたくありません。仮にそうしたとしてもボク程度の腕前で制御し調和出来るはずも無く、結果的にしょっぱ過ぎる味になるのがオチだからです。
モノには形があり、形には寸法があります。その長さや角度がわずかに変化するだけで全体のバランスは変わってしまうものです。そのバランスを思い描きながら土を重ねていく作業をしてるうちに、今までに一度だけ限りなく無心になっていく自分に気付く事がありました。それは絵を描いたり楽器を演奏する気分とは異質で、精神が内に内に収束し、激しく且つ穏やかな不思議な気分でした。何を作りたいかとか、どんな形にしたいかとか、長いか短いかとか、そんな事を考えなくなり、意識的な味付けを忘れ、ただ無心で土がなりたい形になるのを見つめているだけでした。ただそれだけの事です。作業を終えた後の昂揚感は悪く無いものでした。便宜上そんな状態を「土の声が聴こえた」と偉そうな表現しています(笑)。優れた仏師は木を削って仏像を作るのではなく、木片の中にいらっしゃる仏様を削り出すだけだと言う逸話のパクリです(笑)4月も今回も土に触ったもののその声は聴こえませんでした。土の声はそんなに何度も聴こえるものじゃないのかもしれません。
今回は、前回作業途中で放り出して帰宅してしまった為に完全に乾いて固まった作品を削る作業から始めました。削りはボクが一番好きな行程です。本来の削りは細かい場所の修正や淵や底面の修正など粗を落とす作業なので、そんなに時間をかけるものではないのですがボクは朝から晩までひたすら削り続けます。今回も土の声が聴こえないので諦めてラジオをつけて作業を続けました。削り込む厚みを残したコーヒーカップの取っ手の修正から始まり、全体が丸く真っ直ぐそして微妙に傾くように削り込んでいきます。自分が限りなく丸く真っ直ぐになるように作った結果に歪んだり傾いてしまうのが自分ならではの「フレ」であり「味」だと思うようにしています。

削り作業に集中しながらボクは人間の弱さについて考えていました。人間は弱いものです。でもボクが考えたのはそんな何処にでもある弱さの事でなく、本当の弱さについてです。本当に強い人がいないように本当に弱い人もいません。でもボクが考えたのはその本当の弱さについてです。土を触りながら、陶器とは何か?陶芸とは何のことか?と自問しなければ何も出来ない自分の体裁について考えていました。何をすることが潔く、何をすることがインチキかそんなことを考えながら、ただ丸く、ただ真っ直ぐになるように作業を続けました。なにかしらの未練を断ち切る勇気が無い限り、削りの作業には答えがありません。そんな事を考える内に少しずつ力が入っていってしまったのかもしれません。
ボクの陶芸にハプニングは付き物です。どれだけデリケートに取り扱って作業を進めていても崩れてしまうとか、取っ手がもげてしまうというのはよくある事です。さらに素焼き本焼きで底が抜けたり粉々になってしまうことだってあります。今回もハプニングは突然襲って来ました。下から3センチ位の所からバッサリ割れてしまったのです。割れた瞬間、その体制で暫く固まってしまうのですが、それは受け流すしかありません。割れた場所を濡らしキズをつけ、削り粉を水で溶きそれを割れた面にタップリ付けて接着します。それでつくにはつくのですが素焼きで割れる可能性は格段に上がることになります。
上の写真では見えませんが横に修正できない筋が入ってしまいました。どれだけそのキズを修正したところで素焼きの段階でキズは深くなるかもしれません。もしくはキズがあることを知ってる人にしか見えなくなるまでキレイに仕上がるかもしれません。どちらにしてもキズがついた事実は変わることはありません。そのキズを「フレ」として開き直る態度が陶芸として潔いのか、キズを受け入れながらも、無防備にひけらかす事をせず完全に消化してしまうのが潔いのか迷います。
形あるものはいずれ壊れます。たとえそれが未完成であってもです。そもそも完成とはどんな状態なのかさえボクには解らなくなりました。諸法が空であればボクの疑問はナンセンスです。諸法が実相であれば答えは既に出ています。結局のところそれを決めるのはいつだって自分自身なんです。
これが素焼きに耐えられたとしたら次回は釉薬(ゆうやく)を塗ってみようと思うのですが、釉薬を「フレ」に任せるのはさらに困難な作業になりそうです。
滝に打たれて悩むことにします(ウソ)