No.85

自分の長所を見つけてそれを伸ばしていく事は大事だと思う。長所こそが自我を安心させ、努力こそが生きる悦びだからだ。ところが自分の長所がどの程度のモノなのかと計ってしまうのはよろしくない。結局自分の程度が知れてしまい受け入れ難い苦悩が芽生えてしまう。

長所ってカッコイイ事ばかりじゃなくてもいいはずなのに、どういうわけか見栄えのするモノが求められる。例えばメジャーリーグで4割打てる打撃センスとまでは欲張らなくても、みてくれのいい能力でないと納得がいかない。

自分が天才じゃないって事は理解していてもどこかにその片鱗を探してしまったりする。才能がない人間の人生には意味がないような気がするからだろうか。でも無い才能に頼るのはそれこそ意味が無い。意味があるとすれば才能の有無ではなく活かし方だと思う。

長所や才能を探すのは大変だ。そこで逆転の発想、自分の駄目な所を冷静に考えてみたらどうだろう。個性は優れたほうに考えがちだが、あえて欠点を正確に受け入れる事で自分の個性が見えてくるかもしれない。欠点だったら枚挙にいとまがない。

例えばボクのスケッチブックを覗いて見る。デッサンは得意な方だし、それなりに上手く見える絵は描けるかもしれない。学生時代の美術の成績だけならちょっと自慢できる。でも絵画のパーツはかけても画面の構成力に欠けている。いや、全く無いと言うべきかもしれない。だからモチーフが上手にスケッチブックの四角に納まらない。さらに配色のセンスがまるで無い。また字が下手だ。一文字だけならそれなりだけど文章にしてみると悲しくなる。文字の大きさや間隔はまちまちだし、真っ直ぐに並ぶことがない。

字が下手というのは個人のスペックの問題だと思う。真っ直ぐな線が書けないとか、思った場所にペン先を通せないとか、隣の字とのバランスがとれないとかそういうことだ。それが指の動作性能のせいなのか、脳の命令制御の問題なのか、バランス感覚なのか、もしくはその全部なのか解らないけど字を上手に書ける素養は個体の先天的な性能で決まっているような気がする。かけっこの速さが違うとかそんなもんだ。もちろん努力することで性能以上の結果を発揮する方法があるんだろうけど、努力は出力系統の途中にエフェクターをかますようなモノで性能自体が変化する事はあまりないような気がする。だからと言って体は魂の道具だというのは信じない。魂と呼ばれるものも所詮脳細胞の一部だ。

字が下手な人間が絵画で生きた線を描けるとも思えないし、画面構成力や色彩感覚が欠けた人間が美しい絵を描くのは難しいと思う。それなのにボクが美術でいい点が採れたのはおそらくボクは「いい点を採れる」エフェクターを用意できたからだと思う。

自分の欠点を認識できればそれを補うエフェクターを用意出来る。しかし何がダメなのか解らない事には何も出来ない。例えばボクはテニスのボレーが下手だ。何故ボレーが打てないのか色々考えてフォームを研究したり、意識の優先順位を変えたり色んな事を試したけどダメだった。最初は反射神経の問題かとも思ったけど反射神経はそんなに悪くなかった。ボクがボレーを打てない理由はおそらく動体視力の問題だったようだ。ボールを見るのはテニスの基本だ。でもいくら集中してボールを見てもその情報解析能力は意識でどうにかなるモノじゃない。インパクトの瞬間が見えなければ出来ることは多くない。動体視力が向上しない限りボクは満足のいくボレーを打てるようにならないだろう。それは生命体の性能の問題だからだ。

エフェクターがもたらす効果の面白さは確かにあるしかしエフェクターを介してのアウトプットは所詮付け焼刃だと思う。それはモーターオイルの添加剤のようなモノだ。高額な添加剤を足すくらいなら最初からいいオイルを使えば済むことだ。結局エフェクターは抵抗になってしまう。エフェクターをかませば必ずノイズが乗る。ノイズは確実に純粋な音源を濁らせる。

エフェクターを努力と呼ぶ事も出来るかもしれない。努力は人生の悦びだから努力をバカにする訳じゃないけど50m走が8秒近くかかる人間がいくら努力した所で短距離走の選手にはなれないし、心臓の弱い人間が努力してツール・ド・フランスを目指すべきじゃない。スポーツに例えれば解りやすいけど、これが芸術分野になると始末に終えない。芸術は能力を自覚出来ないから敷居が低い。

そもそも才能のある人間は努力はしても苦労はしないんじゃないかと思う。いや、死ぬほど苦労してても楽しそうに見えるのかもしれない。

そんなわけで能力が足らないボクには人から誉められる絵は描けそうにない。だからといって絵画教室に通って絵画の画面構成の基本や配色の理論なんかを学ぶのは味気なく思う。パンクロックを目指す者が音楽学校に入学するようなものだ。そんなの全然パンクじゃない。ボクだって絵画の知識や法則を知れば欠点を上手に隠すことが出来るようになるかもしれない。理論で武装すれば見栄えのする絵が描けるようになるかもしれないが、法則は「味の素」と同じで誰がふっても同じ味になる。だからわざわざボクが絵を描く必要も無いような気になってしまう。

パブロ・ピカソは多分デッサンの練習なんかしなかったと思うし、ジョン・マッケンローは最初からボレーが打てたんだと思う。出来ない人間が努力によって身につけたものと、最初から出来る人の洗練された技とは別のものなのかもしれない。それが才能と言われるもので、本物と代用品の違いなんだろうな。

エフェクターを作る才能なんかあったって器用貧乏になるのが落ちでろくなもんじゃない。とどのつまり、長所を探せば苦悩し短所を探れば絶望する。やれやれ、また極論になってきた。だいたいレジャーレベルのテニスコートにマッケンローのボレーは要らないし、ボクのスケッチブックにピカソのペンタッチは勿体無すぎる。いったいナニサマのつもりなんだろう。ツールじゃなくても自転車を漕げば気持ちいいのにね。

このロジックにハマることが最初にふれた「メジャーで4割」の呪縛なんだろうな。競争社会に生きれば評価される事を強要され、評価される事が目的になれば幸福を見失う。才能って純粋であるべきだけど0と1で区別出来るデジタル信号じゃないだろしね。

どんな事でどんなレベルであれ、それを楽しむ事が出来ることこそが才能で、それを活用することが意味のある人生を送るってことなのかもしれません。

 

先日、久しぶりに六本木で夜遊びしました。六本木に暗くなってから行くのは5年ぶりくらいかも… LIVE演奏やってるクラブに入ったんだけど結構演奏がプロフェッショナルなんで驚きました。特にドラムがタイトで凄い緊張感でした。でも誰にでもできそうなボーカルが???でした。もちろんそれなりに上手いには上手いんだけどバンドとのバランスを考えるとちょっと残念でした。でもそれなりのボーカルにも技巧以外の楽しさを感じたけど、完璧に聴こえるドラムには面白みに欠けている事に気付きました。誰にでも出来ることって誰にでも出来るわけじゃないし、出来たからといって良い訳でもないんだなあと思ってみてました。

 

05/09/25

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