プラットホームの乗車位置マークの列に並んで地下鉄を待っていると、よくこんな光景に出くわす。電車が来るまでは普通に並んでいたのに、電車が停止する直前に列を無視して扉の正面に立ち、下車する人を制して強引に空席に突き進んでいく輩がいる。こんな輩を見て「あの人は人間になるのが初めてだから仕方ない」と呟いた人がいる。多分その輩は前世がケダモノかなんかで人に生まれるのは今回が初めてだから人間社会に上手く馴染めてないという意味なんだろう。ボクはそれを聞いて面白く思う気持ちと反面でどこか座り心地の悪い気持ちも覚えた。
霊感が強い人って少なくない。否、結構多いと思う。だからそれは特別なことじゃないんだろう。でもボクは守護霊も、前世も、オーラも、幽霊も、はっきりと見たことが無いからボクは霊感とは無縁の人間なんだと思う。だからというわけじゃいのだけどボクは前世も来世も信じない。人が死ねばそれまでで後に霊や魂なんて残りはしない。死後の世界は生きている人間が作った世界だ。守護霊も、前世も、オーラも、幽霊も見るのは全て生きている人間だけだ。何かが残るとしたらそれは残された者の心の中だけで、蛋白質の塊である脳髄が見る幻想だ。ボクが解っていないだけで霊や魂とは元々そういうものなのかもしれない。
ボクには「見る」ことが出来なくても、「見えてしまう人」には見えてしまうんだと思う。眼前の景色は水晶体を通過した段階で既にトリミングされ、さらに視神経によって微弱な電気信号に変換され、脳髄で再構築され、映像情報として記憶される。その間に情報は劣化し続け、映像を記憶に書き込む際には脳の所有者の都合の良い様に改竄(かいざん)される。水晶体に映る映像と脳で認識される映像はイコールじゃない。現在自分が見ている世界は現実でも無ければ現在でも無い。見えている世界は脳の持ち主が理解し納得できる範囲に省略され描き直された幻影だ。脳髄の所有者の現実とはその程度のモノなのだ。
人間は夢を見る。夢の景色を描くのも、夢に出てくる登場人物のセリフを書くのも脳髄だ。夢の中の世界がどれだけ稚拙な光景で辻褄が合わないシナリオだったとしても、それを見ている本人を納得させるには充分にリアルなんだろう。脳髄は寝ていてもそれくらいの仕事が出来るのだから覚醒時に前世や守護霊を描く事くらい朝飯前なのだろう。
記憶は意識すればするほど改竄される。自分がリアルタイムで見た記憶は古いアルバムを見たり昔話を繰りかえす度に改竄され続ける。例えば旅行かなんかで撮ったビデオカメラに映った自分を繰り返し見てしまうと、自らが実際に記憶した映像とビデオの映像の区別が曖昧になり、自分の視界の中にあったカメラが姿を消し、場合によっては自分を俯瞰(ふかん)で捕らえてしまう事になる。その場の空気や温度や手触りの記憶は映像に関連付けられて再構築され、体験したことと変わらない記憶が上書きされる。このように常に記憶は記録によって修正され続け、さらには修正された記憶が抽象的な記録として残される。記憶は上書きを繰り返し曖昧になり、上書きの根拠となる記録は最初から現実ですらない。どんなカタチに歪曲されたとしても修正され続けた現在の記憶こそが脳髄の持ち主の現実となる。
大変な修行をしたり、自分自身を生命の危機にまで追い込まなくても、LSDなどの薬物で簡単に幻覚を見ることが出来る。人間はそういう仕組みに出来ている。幻覚を見る原因を理解していればそれらは幻覚として受け流す事が出来るが原因がある事を知らなければ幻覚と現実を区別するのは困難だ。見た映像が夢だと断定出来るのは自分が寝てるときに見たという自覚があるからで、脳がどう記憶したのか自覚し続ける事が出来なくなると夢も現実も幻もなんら違いは無い。
言葉を手にした人類は文献を紐解くことで見たことも無い過去の出来事を想像することができる。写真技術が普及した後の時代ならば映像としてさらにリアルに認識できる。それらのツールは記憶の共有化を可能にし、見たことも無い景色や人物までも自分の夢に登場させる事が可能になる。記録は記憶に焼き直され過去に生きた先祖の事を知ってる気持ちになれる。それに伴い前世という論理が生まれるのも解る気がする。それはとてもロマンチックな考えだ。
人間は言葉によって学習(記憶の共有化)する事が出来るがそれとは別に生まれながらに多くのことを知っている様に思う。心臓を動かすこと、息をすること、母親の乳房を吸うこと、それらはいつ知ったんだろう。本能と言ってしまえばそれまでだけどその本能だって記憶の一種じゃないんだろうか。ならばその記憶はどこから運ばれて来るものなんだろう。
もし遺伝子に記憶が組み込まれているとしたらどうだろう。
自分の遺伝子は生物の誕生にまで絶え間なく遡ることができる。それは気の遠くなる程の時間を経て、多くの先祖の体を経由して現在ボクの中にある。その遺伝子が世代交代の度に人生の記憶を書き足し受け継いでいたとしたらどうだろう。一人づつの人生の教訓や経験を蓄えていたらどうだろう。
もし、なんらかの形でその無数の記憶の中の一つが見えてしまったらどうだろう。それは前世に見えるのか。オーラーに見えるのか。はたまた守護霊に見えるのか。どういう見え方をしようが見える人の都合の良い解釈がされるだけだ。
その理屈ならば、固体が子供に受け渡す記憶を遺伝子に書き込める期間は固体の誕生から子供の出産までの情報でしかない。つまり固体の老後の情報はもちろん死に様や死んだ後の無念や怨念なんかは書き込むことが出来ない。でもその遺伝子を受け継いだ「残された子孫」がその遺伝子に先祖の老後や死に様を補足していたらどうだろう。そもそも死後の世界や怨念なんてものは「残された者」の心の中にしか無いのだから。
もしくは記憶は遺伝子なんかにあるのではなく、子供が母体内にいる期間に母親の脳から子供の脳にハードコピーされるのかもしれない。脳の使用されていないという70%の部分にそれが保存されているのかもしれない。そうだとしたら全ての記憶は女性の脳髄で租借されたものになる。ならば前世は女性の方が見えやすいのかもしれない。だから「いたこ」は巫女なんだろうか。
冒頭でボクが座り心地わるく思ったのはその辺かもしれない。人はケダモノからは生まれない。人の世代交代のピッチには幾許の差はあるかもしれないけど、近い先祖にサルがいる人はいない。そもそも人の先祖はサルじゃない。だから人間としての経験の差なんてものは無いように思う。でも先祖が山の中で暮らしていて都会の社会生活を生きるのに慣れていなかったという事ならあるかもしれない。文明の進歩は結構早い。3、4世代前の先祖が言葉の読み書きが出来なくても可笑しくなんかない。
もし前世というものが先祖だとしたら、後世とは子孫の事を言うのだろうか。
多くの宗教は幸福に生きるための方法を説く。幸福の定義と実践方法が決まっていれば生き方に悩む必要は無い。教えの通りに生きれば幸せになれるように出来ている。幸せに成れない様なものは宗教と呼ばない。でも、殺さず、騙さず、盗まず、ストイックに生涯を生きることは容易くない。欲望を断ち切り戒律を遵守したご褒美は大概死んだ後に与えられる。最後の審判とか閻魔様の裁きがそれで天国に召されることがご褒美となる。
そんなのはバカバカしいくらい単純な詐欺じゃないかと思う。死後の世界なんか無いからそんな約束が出来る。それは天国で保険金を受け取れる生命保険のリーフレットを広げて「天国ではこんなに生活費がかかります」なんて騙し文句を真剣に受け止めて死後設計をするようなもんだ。でも“肝”はそこじゃない。たぶん勤勉に慎ましく生きる事は死後に天国に召される為なんかじゃなく、初心はどうであれ、それが身に付いた状態が既に幸福なのかもしれない。さらにその節度ある生き様はそれを見て育つ子供や子孫への生きた教育となり大きな影響を与える。それによって自分の子孫が穏やかに幸せに暮らせる事こそが極楽浄土であり死後の世界であり来世なのかもしれないなんて思ってしまう。
まあいい。
前世やオーラや守護霊が見えてしまう人は、見えたものを「それ」だと解釈したのではなく、最初から前世やオーラの概念を知識として持っているから「何か」が「それ」に見えてしまうのかも知れない。知らぬうちに映画やTVなどの作り物の映像や誰かの神秘体験を記憶した脳が睡眠中に夢を演出するかのごとく脳内で再生してしまうのかも知れない。ボクだって幽霊は怖い。なぜ見たことないものが怖いのかというのは簡単な仕組みで、幽霊というものは作り物として大概怖く描かれているからだ。幽霊は社会装置として機能しなければならない役目があるのだから怖くないと意味が無いのだが、例えば幽霊がひょこっと出てきて気の利いたジョークを飛ばすお調子者として語られていたらきっと怖いなんて感情は起きないだろう。幼少の頃から植えつけられたその手の認識は今でも確実に脳髄に作用している。
人は脳髄を持ってしか世界と接する事が出来ない。だから自分は真実しか見ないと思うのも、自分が見たモノが全て真実だと信じてしまうのも仕方ない。脳内体験に意味付けするのは個人の自由だが、科学で証明できる事柄を除き、超個人的な神秘体験の勝手な解釈までが他人にも有効だと思うのは傲慢だ。個人の理屈は個人の感想でしかなく、感想なんてものは人の数だけあって然るべきものだ。ボクは見えてしまう人がまやかしを見ていると言っているんじゃない。見えているということは元々そういう事を言うんじゃないかと思うだけだ。脳内体験という言葉を使用してみたものの物凄く居心地が悪い。体験というものは普く全てが脳内体験でしかない。
上記で科学を除外したのは、科学は信頼に価するからだ。科学が万能でないのは科学が間違っているからではなく、科学で証明されていない事柄が多過ぎる点だ。未だ証明できていない部分を一個人の神秘体験の感想で埋めてその理屈を普遍化しようとする作業は危険だ。それは宗教が使う手口で他人に多大な影響を与え過ぎる。元々宗教とはそういう仕組みだから機能するのかもしれない。
どういうわけかボクには前世もオーラも守護霊も幽霊も見ることが出来ない。特に見えた方が上手に生きられる訳でもなさそうだから気にしてないけど、幸せに生きる為には「見えている」と信じた方が上手く行く種類の感情もあるような気がする。それを何と呼ぶかは人それぞれだけど、この脳髄はそれさえも潔しとしてくれない。
何度でも言う。この脳髄の呪縛から逃れられない限り幸福になる手段は二つしかない。誰かに上手に騙されるか、自分自身を騙しきるかだ。