No.92

住宅地を歩いていると塀に貼られた文字が目に留まった。白いプラスティックのプレートには「世界が平和でありますように」と書かれていた。世界中が平和になるってどんなことだろうかと考えた。

ロシアの髭面の影響で平和と言えば対極として戦争を思い浮かべてしまう。ボクは戦争の原因を国家の利益や安全の為、もしくは国家間の正義や思想の衝突だとは思わない。戦争は投資の一環もしくは利権の奪い合いでしかないと思っている。商売の邪魔をする奴は潰してしまえという単純な話ならまだいいが、撃たれた側も共に儲かるような凝ったプランだってありそうだ。

度々宗教が原因で戦争が起きる。実際に戦場で戦う兵士は宗教理念の為に戦っているのかもしれない。でも本当は宗教理念なんかどうでも良くて、戦争をする理由付けに宗教が便利なだけなんだろう。宗教戦争が終わらないのは宗教抗争の根が深いからなんかじゃなくて、戦争をやりたい人がいるからで、何故やりたいかといえば単純に戦争は儲かるからなんだろう。雇用主の需要があるから労働力としての兵隊が必要になる。畑を耕すよりも銃を持つ方が割が良い世界ならばリクルートに困らない。儲からないのなら誰も好き好んで殺し合いなんかさせないし、やらないよ。

本当に戦争を終わらせる為には、戦争をしない事で儲かるシステムを構築しない限り無理なんだろうな。

戦地で戦う兵隊には兵隊のための物語が生まれる。多くの戦死者や犠牲者がいるからこそ物語は厚みを増す。その中には勇敢に戦った兵士がいたり、偶然がもたらす奇跡的なエピソードがあったりする。たとえそれが誰かの商売上の都合でつくられたちゃちな舞台だったとしても観客はそれに歓喜する。戦場で多くの敵兵を殺した兵士には勲章が贈られる。それは誰の役に立った褒美なんだろう。戦争が通った土地にはヒトの死を異常と思わない空気が蔓延りやがて淀む。

大きな腕力を持ったモノが弱いモノから搾取する。弱いモノはさらに弱いモノから搾取する。この流れがキチンと末端まで整備され不服を言う者を黙らせるだけの社会システムが整備された状態が平和なのかもしれない。国民の税金でミサイルを買い、ミサイルは巨大投資家の都合で向きが変わる。

平和とは不満の無い世界の事ではなく、争いの無い世界の事なんだろう。ならば平和は身の程をわきまえた個々の我慢の上にしか成り立たない。

世界平和ってなんだろう。エネルギー産業に投資する巨大資本家の利益を守ること。その為に存在する軍隊と軍事産業の利益。そして国家の名を騙り両者から上前を撥ねる特権階級。この三つ巴のバランスが保たれる均衡状態を世界平和と呼ぶのかもしれない。

だとしたら今こそ平和の真っ只中だ。

そのシステムを否定することは現実としての平和を見失い、絵空事の平和の為に血を流す事になる。

世界規模のヒエラルギーを構築したこのシステムは堅牢だ。ひょっとすると己の敵は頂点に君臨する一部の特権階級なんかではなく、自分のすぐ一つ上の階層の連中なのかもしれない。自分が少しでも後ろめたく思う立場にいるのならば自分は最下層ではない。だとしたら自分の下の階層の誰かからみれば自分は倒すべき敵になるんだろう。それぞれの階層の人々が自分の立場を守ろうとする限りこのシステムは絶対に揺るがない。

平等なんて言葉は簡単に使うもんじゃないのかもしれない。同じ組み合わせの遺伝子なんてモノは無いのだから平等なんてはじめから無い。弱いモノにチャンスが少ないのは当然だ。チャンスは与えられるものじゃなく自分で作り出すものだ。生物は競争しその結果淘汰しなければ飽和する。犠牲を容認しなければ進化も存続もないんだろう。そもそも犠牲は悪ではない。ただし自我を持つ生物にとって率先して犠牲になることは厳しい。

そもそも進化は生物の目的なんかじゃなく、ただの結果なのかもしれない。生物は生まれてしまうから変わってしまうんだ。現在繁栄している種族はたまたま環境に適応して残っただけだ。世界に適応し安全に暮らせる環境を得たものが余暇の合間に犠牲者達の不幸に心を砕く。さらには己の足場の脆さすら気付かずに幼稚な文章を綴る。食物連鎖の環の中で生かされている限り生き物に平穏なんか無い。あってはならない。生き物に平等なのは生きる権利などではなく死にさらされることだ。死が身近にあることが異常なんじゃなくて、死を身近に感じない世界こそが本当は異常なのかもしれない。憲法9条の是非については様々な意見を聞くが憲法11条(基本的人権の尊重)について問うものはいない。それこそ先進国の傲慢なんじゃないのだろうか。

世界の富の何割かを所有するような大富豪がその富を世界に分配すれば少しは平等に近づけるかもしれない。でもホントにそうだろうか。世界中のヒトにパンが行き渡ったとしても一人でもパンにバターを塗ろうとするヒトが現れれば必ず諍いが起こる。諍いはやがて小さな戦争になり世界は殺戮で覆われることになる。ならば巨大な権力が中途半端な利権から起こる諍いを牽制した方がまだマシなのかもしれない。

ひょっとすると平和というのは犠牲の管理の事を言うのかもしれない。ただし管理者は神じゃない。否、元々神とはそんなシステムを補填するための社会装置だったのかもしれない。神の為に兵士は死に。生き残りを神が救う。

こんな逸話がある。弱った旅の修行僧に出会ったウサギは修行僧に栄養をつけさせようと食べ物を探しに行くが何も見つけることが出来なかった。ウサギは枯れ葉を集め修行僧の前で焚き火に飛び込んだ。

釈迦は2,500年も前からそんなことは承知だったんだろう。

ヒトは鮭ともカマキリとも違う。ヒトが平和を語る時は犠牲に目もくれない。奇しくも英語ではpeaceとpieceは同じ発音をする。所詮平和なんて一片のカケラでしかないのかもしれない。世界平和なんて言葉は耳障りの良い幻想なんだろう。だからと言って世界中が平和であれと願うヒトの心を稚拙だと切り捨てるのでは芸が無い。「祈り」=「他人任せ」と言い放つのも考えが浅い。祈りはヒトだけのものだからこそヒトには効くんだ。ヒトにはそれぞれの生きる場所があるからこそヒトとしての死に方もあるんだと思う。問いただすべきは己がどういきるのかという決意であり、その結果もたらされる人生を享受する覚悟なんだろう。それがボクの生きる道であり、ボクが目指す平和なんだろう。そんなことを思った。

 

 

07/09/04

以前に思った事 '07/05/02へ

back

kuntan's note