No.93

「活字愛好家として芥川賞ってどうよ?」と友人からメールが届いた。

ボクは芥川賞作家の本を読むより本家芥川作品を読破する方が先だと思うけど、どんな作品が芥川賞をとるのかという興味はある。それに新しい情報を取り入れていかないとこの脳髄が加速度的に凝り固まってしまいそうで怖くもある。

文学が芸術だとすればそれは既に終わってしまったジャンルだと思う。購買者は読書という行為を満足させる為の本を探し、出版社は営利目的で本を供給する。編集者が作家をつくり読者に売れる商品を供給する。そんな関係の中に芸術は必要ない。否、芸術とはそもそもその程度のものなのかもしれないとも思ってしまう。

バッハやモーツアルトが死んで200年経っても彼らを超える交響楽作家は現れないし、モネやピカソを超える油彩画も現れない。それはアンティークとしての経済価値だけの問題じゃないとも思うんだ。シンフォニーは聴かせる人を失い油彩画は飾る場所を失ってしまった。世の中が変わってしまった現在で当時の芸術を再現してもそれらを超えることは不可能だろう。ピカソの時代にしても彼が宗教画のような古典的なモチーフを選んでいてはメジャーには成れなかったかもしれない。

さらに現在に残っている作品は時代を生き抜いた力がある。20年前のスマッシュヒットをパクッても誰も気付かないかもしれないが、ショパンはヤバイ。現代を生きる我々がそれを知っていることが作品の価値でもある。だからシンフォニーを創ろうと思ったときにモーツアルトの影は消せないような気がする。同じように現代の油彩画家達が筆を持てば、何百年も前の巨匠たちが亡霊のように筆先を誘うのかもしれない。

ピカソは絵を描こうと思ったときにピカソの様な絵を描こうなんて思わなかっただろうし、ピカソとは違う、もしくはピカソを超える絵を描こうとも思わなかったはずだ。でも同じように彼はルーベンスやダビンチを超えようと思ったのかもしれない。超えたかどうかは知らないけど、彼は偉大な油彩画家として歴史に名を残した。何故か?それはピカソの時代にはまだ油彩画が生きていたからなんだろう。

芸術にとって道具の変化の問題は大きい。バッハがもう少し遅く生まれていたらどうだろう。ピアノが主流になった時代に彼の緊張感のある旋律は生まれただろうか?逆にショパンがチェンバロの時代に生まれていたらどうだろう。彼の繊細なタッチは生まれただろうか?ジョージ・マーチンの時代に現代のミキサーがあったらビートルズはどうなっていただろうか?歌麿がフォトショップを手にしたら版画を刷っただろうか?それを空想するのは楽しいけど意味が無い。

油彩画自体が先端技術やその表現方法に劣ると言うのではない。油彩には油彩の素晴らしさがる。ただし油彩技術を利用した表現方法で当時のような絵を描いてもピカソを超えることは出来ない。現代の方法で現代のモチーフを表現し現代の壁に飾ることが現代の美術の姿であるべきだと思うだけだ。伊万里焼の製法をコピーして現代の最先端技術で焼き直せば素晴らしいクオリティーの大皿が出来るかもしれない。でもそれは偽者でしかない。美しさとは別のモノサシの影響も否めないが、それらの間にはピカソの絵とそのポスターくらいの隔たりがある。

芸術は誰が作るのか?それは人であることに間違いはない。ただ絵を描くのは画家だが、芸術を作るのは画商だ。芸術とは金銭的価値が認められる作品を表す言葉だ。芸術家とは職業であり換金出来る作品を造れる人の呼称だ。作品には好き嫌いがあっても良し悪しはつけられない。だから一般的な優劣をつける事は出来ない。だが画商はそこに絶対的な評価として値札を付ける。展覧会の入選という称号はそのオプションなのか、もしくはそれこそが画商の親玉なのかは知らないが、画商が値段を付けることで芸術家が生まれ、芸術家の作品となれば画商は更なる高値を付ける。ボクが知らないだけで芸術性とは美しさとは違うベクトルのモノサシなのかもしれない。

○○美術館の彫刻や、○○大聖堂の壁画には値札が無い。値札の変わりに保険会社がものすごいアマウントのポリシーを発行することで芸術作品の証明となっているのかもしれない。

絵画や交響曲にはあるべき場所がある。多くの血を流し征服した土地には新しい支配者が豪華な宮殿を建てる。その壁面を彩るのが絵画であり、服従させた貴族や権力者たちを平伏させる玉座の為のBGMが交響曲だ。そこには崇高な芸術性が無くては意味が無い。

芸術は美しいが善悪とは別の次元で成り立つような気がする。むしろ邪悪な香りにこそ妖艶な美が宿るのかもしれない。大聖堂の壁に輝く崇高な宗教画は美しいがそれが善だとは思えない。教会にそんな予算があるならばひとつでも多くのパンを分け与えるべきだと思う。

あるべき場所を失った芸術はもう必要とされていない。だから終わってしまった方がいい。通勤ラッシュの車内で聞くMP3プレイヤーに交響楽は必要無い。すぐに飽きて忘れてしまう音楽が丁度いい。集合住宅の壁には絵画を飾るスペースが無い。せいぜい19インチの液晶画面を飾る程度で充分だ。芸術は支配階級だけのもで、庶民相手の芸術など成立しないのかもしれない。

文学もそうじゃないかと思う。庶民が文字を読めなかったころに学校に通える選ばれた人達が文学という作り話の色事に思いを馳せる。まあ文学なんて所詮その程度のもんだ。現代ではそんな文学の役割をTVドラマが果たしてるように思える。TVなら字なんか読めなくてもOKだ。わざわざお金を出して嵩張る本を読む必要も無い。本屋の商売を除けば、庶民相手に物語を配布する手段として文学は適当でなくなった。それでも今は携帯電話の小さい画面で通勤通学の間に読める携帯文庫が流行っているらしい。今後は長編文学よりもこのような携帯電話の小さい画面に適したショートセンテンスの文章の方が重宝されるかもしれない。ただ目先の利益はさらなる文学の衰退の危機だと思う。本のデジタルデータ化を進めれば近い将来作家と呼ばれる職業は成り立たなくなるかもしれない。本はコピーするより買った方が早いから複製されないだけだからね。

芸術とは所詮カネなのか?と問われてもボクは金銭的評価無しに芸術は語れないと答えるしかない。芸術は血であり魂だからこそ人間臭い。人間の欲望には権力の匂いが付きまとう。権力の元に芸術作品が集まり値が上がる。だけど値札の無い美しい絵だってある。豪華に額装され美術館に飾られようと、教室の壁に画鋲で貼られようと、美しさには変わりがない。芸術なんて所詮ただの言葉だ。絵の美しさに比べるまでも無い。評価なんてくそくらえだ。

だからもし君がステキな絵を描いたなら誰にも見せずにこっそり寝室にでも飾っておいたほうがいいよ。

「活字愛好家として芥川賞ってどうよ?」

その問いに対してボクは意見が無い。受賞作品を読んでないし、選考システムも知らない。だから当たり前の意見しかない。芥川賞というシステムに興味はあるけど関心は無い。第一ボクは活字愛好家なんかじゃないよ。

ボクが気になる賞はヴィンス・ロンバルディー杯だけだもん。

昔オフコースが 「 I LOVE YOU 」 という曲を歌っていた。『ああ早く9月になれば…』という歌詞の意味が今ようやく解った気がする。

 

08/03/30

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