No.95

愛にもいろいろなカタチがあると思うのだけど、愛というものが存在するならば、真実の愛などという特別な愛なんか無い。どれだけ計算高く醜く酷いものでも愛は愛だ。崇高で純粋なもの意外は愛と呼ばないのならば愛なんてものは最初から無い。前にもそんなことを書いたと思う。

人生の上で恋愛というやつは本当は一度でいいのかもしれない。恋愛というものを特別視するならば、二度目以降のものは恋愛と呼ぶべきじゃないのかもしれない。人間が一度しか死ねないように、人間の構造上恋愛も一度しか出来ないのかもしれない。

たとえば初めて映画を観る人は、その内容に大きな感動を覚えるかもしれない。同じ映画を二度目に観るときは最初には気がつかなかったディティールに気を配る余裕が生まれるかもしれない。でも既に知ってしまったストーリー展開の驚きは失なわれている。さらに初めて感じた映画館の暗がりに映し出される銀幕の明るさや空気を震わす音の大きさなんかには慣れてしまって映画館に対する驚きも薄くなっている。つまりは最初に観た時の感動は二度と味わうことが出来ない。それを理解せずに最初に抱いた感動を再度得ようと別の映画を探すようになれば、その時点で目的を見失っている。欲しいのは感動であって、それが映画である必要が無いと言うことだ。

恋愛も同じで最初の恋愛を通り過ぎてしまうと二度と同じ感動は味わえないのかもしれない。初めて手をつないだときの感覚やキスをした時の高揚は絶対に再現されない。それでも新たな感動を得ようと思えば相手や環境や趣向を変えることくらいしか思い浮かばず、見もせぬ感動大作を探し回る羽目になる。それこそありもせぬ真実の愛を求めて。

一部の恵まれた人類は新しい快楽を求めて貪欲に突き進んできた。腹いっぱいに飯を食える快楽を知れば、旨いものを食べる快楽を求め、旨いものを喰えばさらなる旨いものへと欲求は突っ走る。知れば知るだけ世の中には旨いものがあるような気がするが、それは真実の愛を求めることに等しい。それを喰った時点でその美しき目的は価値を失う。ハードルが上がるのではなく飛ぶ方向が変わるだけだ。こうして秘境を求める人間によって地球上のあらゆる秘境が暴かれ失われていった。それは脳内の秘境、つまりは未経験の領域が失われていくことと同義なのかもしれない。

人間が生きていく上で必要な行動には快楽が付きまとうという。生きているだけで身近な快楽に満足出来たはずなのに、それが習慣になれば慣れによって快楽は失われ、さらなる快楽を得る為に見知らぬ土地を探す旅に出る。建築家は巨大な建物を造り、詩人は唄を詠み、画家は絵の具を重ね、宗教家は神と対話し、科学者がヘロインを作った。人は脳髄の支配からは逃れられない事を知る代わりに脳髄の快楽物質を活性化させる術を身に着けた。そうまでしなければ人は退屈な人生に耐えられなかったのかもしれない。以前に人が悟れないのは人の寿命が足らないせいかもしれないと思ったが、人が自分を騙しきるのには寿命が長くなりすぎてしまったのかもしれない。

「人生をやり直したいと思うか」と、問われればやり直したい岐路は思い当たる。でも、もしその瞬間に戻れるならば現在の記憶ごと全て奪って行って欲しい。さもないとちょっとキツイ。

永遠の愛なんてものは無いとキッパり言い切れば、そりゃそうだろうけどねって笑われるだけだろう。でも20年間叶わぬ思いを持ち続けている人の話をしたら、大方の人はちょっと引くだろう。20年なんて永遠に比べれば僅かな時間だけど、人の20年はけして短くない。いい加減なもんだ。

二度目以降の恋愛は偽者だと言ってるんじゃない。同じではないと思うだけだ。夢が叶う人よりも挫折した人の方が圧倒的に多いし、最初から夢を持てなかった人だって少なく無いはずだ。それでもみんな生きている。生きて生活してるから何かを感じ、何かに気づき、何かを見つけるんだろう。

その中で見つけたものの価値と比べようというのかい?

それは酷だよ。

知ることが幸福とは限らない。真実よりも綺麗な嘘がいい。納得出来るならその方がずっといい。

真実?なんだそれは。

それをなんと表現しようと、どんな名前を付けようと各々の勝手にすればいい。なんと呼ばれようと、それはそのままの姿ですでにそこに在るんだから。無理に消してしまおうとか、大げさな修飾語をつけなくても、何も変わらない。そっとそのまま、ほおっておけばいいんだよ。

 

 

08/05/27

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