No.98

冬の空は好きじゃない。

それを決めるのもボクじゃない。

ボクが見てるものは冬の空でさえない。

ボクは冬の空なんか好きじゃない。

 

ボクが見ていると思い込んでいる空は、ボクの脳髄が作り出した映像であり、脳内モデルとしての青い空だ。ボクには水晶体の眼前に広がるそのままの空を見ることさえ叶わない。

犬の視界がモノクロで不完全だと思う人がいるかもしれないけど、カラーで見える人の眼の方が異常なのかもしれない。闘牛はマタドールの赤い布に興奮して突進するというが、そんなのインチキだ。牛の眼も犬と同様に白黒に見えているのだから牛は色に興奮なんかしない。赤色(血の色)に興奮してるのは人間様だけだ。

そもそも「色」や「明るさ」などという物理量は存在しない。光とは電磁波のことだ。太陽から地球に降り注ぐ電磁波の周波数は430〜500ナノメートルの間が最も強い。人間の眼は太陽の電磁波の反射を利用して空間認識するように進化した。だから430〜800ナノメートルの間に反応するように出来ている。携帯電話から発する電磁波の周波数は太陽光よりずっと長く20〜37センチくらいなので人の眼には映らない。逆に紫外線・X線・ガンマ線の周波数は短すぎてこれも見ることが出来ない。また人の眼には感度のずれた三つの感覚受容体がある。このために脳が電磁波である光に色を付けることが可能になる。430ナノメートル付近は青色に、500ナノメートル付近は緑色に、700ナノメートル付近は赤色に着色される。明暗とは電磁波の強さのことだ。

想像してみて欲しい。人が生れるまでの地球には抜けるような空の青も、瑞々しい草木の緑も、燃えるような夕焼けの赤も無かったということだ。人に携帯電話の電磁波が見えないように、人が生れる前の地球は景色なんて無く、ただ電磁波が飛び交っていただけだ。色や明るさという物理量が存在しないと言ったのはこういうことだ。

海底の地形を映像化するソナーや、体内の臓器を映し出すレントゲンと同じように、人間の眼は電磁波を利用して空間情報を解析するセンサーに過ぎない。脳はセンサーが集めた情報を色分けして解りやすい画像を作りモニター画面に映し出す。自意識はそのモニター画面に映った映像をさも現実のように感じている。

聴覚にも同じような事がいえる。遠くで音がすれば遠くで音が鳴った気がするし、誰かと話をしていれば誰かの口から声が出てる気がする。でもそれもウソだ。耳は20Hzから20キロHzの空気の縦の振動を感じる感覚器官だ。耳が拾うのは鼓膜のすぐそばの空気の振動であって、けして遠くの音源の音を拾ってるわけじゃない。人間には二つの耳があり両方の耳が拾う音の到達時間の誤差から脳が音源の位置を逆算し、あたかも音源で音が鳴っているように自意識を錯覚させる。TVや映画で人の口から声が聞こえるように感じるのはとんでもない脳のアクロバットだ。鳴ってるのはスピーカーに間違いないのに自意識はいとも簡単に脳に騙されてしまう。

触覚だってそうだ。指先で熱いものに触れば指先が熱いと思うが、それだってウソだ。指先は温度や圧力を測るただのセンサーだ。熱いとか硬いとか感じるのは指先じゃなくて脳に決まっている。脳があたかも指先が熱いんだと意識を騙しているんだ。電子体温計で体温を確認するときはデジタル表示を見るはずだ。センサー部分を見る人はいない。

嗅覚は気体のセンサー。味覚は液体のセンサーだ。味覚は液体のセンサーだと言うと固体を舐めても味が解ると指摘する人がいるかもしれないが舌は味覚(科学的センサー)と触覚と温度(物理的センサー)等を測れる複合センサーであって固体に味があると思う人は完全に脳に騙されている。人間の触覚器官は凄く優れてると思ってる人がいるかもしれないが、性能はたいしたこと無い。温度なんてせいぜい0℃から90℃くらいの狭い範囲しか測れない。凄いのは僅かな情報から多くの結論を引出す脳に他ならない。

物事の好き嫌いを決めるのも自意識じゃない。自意識に出来るのはそれを嫌う理由を探したり、好きだと感じた原因をでっち上げることくらいだ。そこにクオリアは無い。好き嫌いの判断は自意識に届く以前に脳がシナプスの多数決で決めてしまっている。その証拠にボクがそれを見た瞬間に青い空だと理解していた。ボクは目に写るものが青い空だと判断するまでの過程について何一つ知らされていない。

赤いものがある。丸い形をしている。甘酸っぱい匂いがする。

よって、それはリンゴという果物だ。

リンゴを見てそんなことを考えるヒトがいるだろうか。

ヒトの脳髄は膨大な情報処理をしているが、その殆どが意識されることが無く、意識されなかったものはエピソード記憶にとどまることは無い。そしてわずかに残ったエピソード記憶だけが、自我の全てであり、現実と呼ばれる。

ヒトの脳は視覚情報で得たリンゴを観察すると同時に脳内に記憶されている脳内モデルのリンゴを比較をする。比較対照があるからこそ、このリンゴは赤く熟れてるなぁとか、大きくは無いけど形が綺麗だなぁとか感想を持つことが出来る。それ以外にも重さや硬さや味なんかの情報もしっかり準備されている。これらはエピソード記憶による脳内モデルであってリアルタイムの視覚情報ではない。

空の写真を見たときにもヒトの脳は空の脳内モデルを準備している。カメラを横に振ると山や木が見えて来る人がいるかもしれないし、高層ビルの先端がフレームに入ってきた人がいるかもしれないし、または鳥が横切る想像をした人もいるかもしれない。でもこれは空の写真じゃない。Photoshopで青色にグラデーションをかけただけのJPEG画像だ。これに雲や飛行機が写り込むはずが無い。

仮にこれが空の写真だったとしても、これは空なんかじゃなく、PCの画面だ。そこに空の高さも清々しさもあるはずが無い。でもヒトは簡単に錯覚してしまう。否、騙されるのはヒトではなく脳が自ら己の意識を騙すんだ。脳髄は持ち主を錯覚させる為に膨大な情報処理を続けている。なんの為に?そうでもしないと自意識が穏やかに生きていけないからだ。

きっと自分がボクだと思いたがる自意識は脳髄のアウトプット端子にちょこっと付けられたちっぽけな装置なんだろう。脳の70%は使われていないなんていうけどきっとウソだ。ボクがボクだなんて錯覚する自意識こそが脳のオマケなんだと思う。

そもそも何故自意識が生れたのか。生きる為にエピソード記憶を利用する最良なツールが自意識だというがボクには解らない。解っていることは自意識を持った種族が厳しい淘汰の競争に勝ち残ったという事実だけだ。

地球に比べればヒトはちっぽけだが、同様に、脳に比べれば自意識はさらにちっぽけな存在なのかもしれない。

「何故脳と自意識を区別するのか?」そう問われればこう答えたい。

「何故自然と人を区別するのかと。」

心臓に自意識があれば、肝臓や腎臓は隣人で人体は街かもしれない。細胞に自意識があれば人体は宇宙かもしれない。生憎ボクには細胞や自然に自意識があるかどうかなんて解らない。

まあいい。

脳と自意識の相性が良い人にはボクの言葉はたぶん届かない。でもきっとその方が上手に生きられるような気がする。

とどのつまり、ボクがやっている事は美しい詩を目の前にしてインクの成分を考えるようなものだからね。

 

冬の空が好きだ。

雲ひとつ無い空が好きだ。

とびきり晴れた空が好きだ。

中央公園から見上げる広い空が好きだ。

馬鹿馬鹿しいくらい青一色の空が好きだ。

脳内で複雑に絡み合うニューラルネットワークに異変が起こる。冬空の冷たい匂いが引き起こしたシナプスの連想ゲームは遠い昔に何度も強く発火したシナプスにたどり着き再びそっと火を点ける。眠っていたシナプスは爆発的に燃え上がり、それをきっかけに圧倒的なクオリヤが意識に降りてくる。

突然の心のふるえに対し自意識は感情の関連付けに間に合わない。何の対策を取る間もなく飽和し涙が流れる。

自意識が慌てはじめる前にボクは思考をシャットアウトする。今大事なのは理屈じゃない。刹那の間、この脳細胞が作り出すクオリアの津波に身体を委ねた。ドーパミンがもたらす高揚感だけを抱きとめた。

なぜ自意識がつくられのかは解らない。

でも、現実も、虚構も、自然も、愛も、正義も、インチキも、夢も、信じる神も、結局全てはここにあるし、ここにしかない。

おのずからしかり。

わはは、ザマアミロ。世界はこんなにも美しく、そして涙はこんなにも熱い。

カメラのフレームを振るまでもなく、それはそこにある。

そこにあるからこそ、青い空が心に刺さる。

もう解ったよ。降参だ。

ボクが好きなのは冬の空なんかじゃない。

09/12/24

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