編制

《マルグリット・ビュヒナーT》

 嫌な顔、とはこういったものの事であろう、マルグリット・ビュヒナーは自分の今の顔を思い浮かべてそう思った。いや、顔の造り≠フ話ではない。嫌そうな表情、である。風貌には自信があった、並み以上には。十九歳の女性にしては良い意味で大人びているし髪の手入れだって欠かした事は無い。稽古の邪魔になるのでかなり短く刈り込んでいるが、艶やかな黒髪はそれでも十分魅力的に見える筈である。小柄ながら鍛練のお陰で体型は抜群だし、少なくとも皆は「可愛い」と言ってくれる。道場の師範とか、行き付けの八百屋のおじさんとか、石切り屋の主人とか、教会の神父さんとか、乾物屋の……なんだ、全部年寄りばかりじゃないの。
「マリー! ねえ、どうするの?」
 手を引かれ、マルグリット・ビュヒナー、マリーは我に返った。そうだ、今はそんな事はどうでも良い。此処を如何に乗り切るかが重要なのだ。良いではないか、年寄りでも。若い奴は口は達者だがどうにも裏があるように思えてならない。打算的と言うのか真実味が無いと言うのか。第一、目がいやらしい。
「マリーったら! ねえねえ!」
「え? ああ、そうね」
 何がそうなのか、しかしミッチは三つ編みを振り乱し激しく頷いて「そうよ」と言うと、彼女達を囲う連中を見廻した。最近は特に運が悪い、男運が、マリーはミッチと同じく周囲を見渡してそう思った。ナーガールジュナ連邦領とギーゼキング公国領の中間の無防守地帯、何時もは静かな森の一本道。バセットの鳴き声や小鳥の囀{さえず}りが心地良い、生い茂った枝葉の隙間から射す日差しの柔らかい散歩にもってこいの一本道である。もっとも今日は散歩ではなく、付いて来ると言って聞かなかったミッチと共に食料の買い出しで隣町へ向かっていたのだが。
「さあて、可愛いお嬢ちゃん達。怪我ぁしたくなかったら、持ち物ぜーんぶ置いてきな。金目のものも、そうじゃあないものもだ。こいつが見えるだろ?」
 メフメトの褐色の毛皮で全身を覆い同じくメフメトの牙の首飾りを下げた筋骨隆々の禿げ男が時代物の長身銃を、マリーと彼女の脚の後ろに身を隠している幼いミッチに交互にかざす。露出した太股を抱えられてくすぐったい。マリーは禿げ男の格好を改めて眺め思う、今時そんな格好じゃ誰も驚かない、と。十一歳のミッチだって、である。メフメトは猛獣の部類に入る。だがメフメトを仕留める事が昔ほど困難ではなく、銃さえあればきっとミッチにだって可能なのだから、その毛皮を羽織っても無意味だとマリーは思うのだが彼女の眼前の、禿げ男を筆頭とするこの連中は赤茶色の毛皮の威厳を信じて止まない様である。
「おら! さっさとしやがれ! 風穴開けるぜ!」
 押し黙ったままのマリーに向け禿げた毛皮男が再び怒鳴った。マリーは片方の眉を僅かに動かし、男の手にある長身銃の銃口を上目遣いで睨む。かつては森の王者≠ニまで呼ばれた猛獣メフメトをあっと言う間に死へと追いやった銃器の発明と発達。最新式であれば一発で人間を上半身と下半身に分割してしまう威力もあると聞くが、男の手にあるのは持ち主よりも年上であろう骨董銃だ。急所を外せばバセットを仕留める事さえ可能かどうか解ったものではない。こんな連中、相手にするだけ時間の無駄と言うものだ。稽古の前の準備運動にすらならないだろう。馬鹿馬鹿しいし、手早く済ませるに限る。
(ご、ろく、なな、……八人か。)
 眼球だけを動かし取り巻きの位置を確かめ、両拳を軽く握り、鼻から息を吸い込み尖らせた口からゆっくり吐く。踵を僅かに浮かし背を軽く曲げる。
(親玉から、かな、やっぱ。)
 体に染み付いている型≠フ第一手を思い浮かべ、マリーは長身銃を構えた禿げ男の眉間の辺りを睨み付ける。肌着に軽く羽織っただけの麻編みの衣服の下で全身の筋肉を緊張させ必殺の一撃を繰り出すべく溜め≠作ったところで、まだミッチが彼女の太股をがっちりと抱えている事に気付く。マリーは並外れた集中力と研ぎ澄まされた感覚を持つが、時として敵∴ネ外の無関係なものを意識の外へ追いやる癖があり、師範に何時も注意され指摘されている。傍目からは決して解らない攻撃態勢≠保ったまま、マリーはミッチに離れるよう呼びかける。
(ミッチ! ミッチ! 離れてよ! 仕掛けるから!)
 マリーはミッチにだけ聞こえるように殆ど唇を動かさず囁き、尻で彼女を軽く突付く。だがミッチの方は毛皮男を物珍しそうに見詰め「ひゃー」と溜め息を吐き、マリーの合図には一向に気付かない。それどころかミッチは突き飛ばされまいと益々腕に力を込めてマリーの鍛え上げられた太股を掴む。彼ら山賊はミッチにとって親子連れバセットと同じくらい珍しいのだ。長い耳と新雪色の美しい毛並みの小柄なバセットは、子供に大人気の食用%ョ物である。生まれたばかりの子バセットを連れた親子は警戒心が強く人里にはめったに姿を現わさない。バセットと同じく山賊も人目に触れる事は少なく、ミッチの複雑な価値観はそれらをほぼ同等と見なしたようだった。
(ミッチ! ちょっと!)
 尚も試みるマリーだったが事態は変わりそうに無かった。体をくねらせ貧乏揺すりの如く信号を送るがミッチは「メフメトだあ」などと唸ってばかり。
「ミッチぃー!」「てめえ何やってんだ!」
 とうとうしびれを切らした二人が同時に叫んだ。マリーと毛皮男、どちらも返事を聞けずに無視された者同士である。ミッチの頭のてっぺんを見下ろしていたマリーが「あっ」と声を上げた直後、乾いた銃声が響いた。周囲の木々から鳥達が一斉に飛び立ち、茂みがざわめいた。威嚇だった。マリーの顔の真横をかすめたらしく鼓膜が震え、きーんと耳鳴りがした。素早くミッチを引き剥がし、マリーは毛皮男に向かって身構えた。両拳を腹の高さに上げ、全身を強張らせる。
「黙示流を甘く見ない事ね、覚悟なさい!」と凄むマリーの背後で音がした。勢い良く放り出されたミッチが転んだらしい、が、力いっぱい引いた弓の如き集中力を見せるマリーの意識には届かない。
「やろうってのか! 地獄を見るぜ!」
 毛皮男が負けじと言うと残りの連中が同じく長身銃を構え、撃鉄を起こす金属音が合唱となる。マリーの革靴が砂利とこすれる音がして、暫しの静寂。風の音すら聞こえないほどの沈黙、顔を伝う汗の音が聞こえてきそうな静けさ、そして!
「ぎゃわーーーーーん!!」
 ミッチの鳴き声だ。
「え? ミッチ! どうしたの!」
 マリーは素早く振り返り地面を蹴って十歩ほど後方のミッチにあっという間に飛びついた。
「ミッチ! 何? 何処ぶつけたの? 痛い? 大丈夫?」
 顔をぐちゃぐちゃにして後頭部を地面に打ち付けたと訴えるミッチ。マリーはミッチの打撲跡をさすって「ごめんなさい」と繰り返す。だがよほどの激痛らしくミッチは泣き止む気配さえ見せない。
「わーーん!」
「お、親方、あれ」
 暫くして、完璧に無視された形の山賊達の一人が、呆けている親玉の肩を叩き地面を指差す。指し示した先、直前のマリーの立ち位置には岩が埋もれており、そこに彼女の足跡がくっきりと残されていた。それは露出した花崗岩の岩盤だった。足跡周囲にはひび一つ無く、その穴はまるで端からそうであったようにさえ見えるほどである。
「な、な、なんじゃこりゃ?」
 どうにかそれだけ言うと毛皮男は、泣き喚くミッチをあやすマリーを見る。それは普通の女で、美味しい獲物にしか見えないのだが……。
「て、て、て……」
「て? なんでがす? 親方ぁ」
「て、て、て……」
 毛皮男は口元に手をかざし、両脇を固めていた子分二人の耳元で「撤収だ」と小さく小さく囁いた。両脇の子分はそれを隣の仲間に伝え、聞いた仲間がまた隣に伝える。瞬く間に命令が伝わり、全員が毛皮男を見詰めた。彼が大きく頷くと全員がそれに「へいっ」と小さく応える。その後の、メフメトの毛皮を羽織った禿げ男を筆頭とする彼らの撤収の手際の良さは、さすが百戦錬磨の山賊といったところか。足音一つ立てず煙の如く消え去り後には体臭すら残らなかった。ただ一つ、彼らのものではない、岩盤に刻まれた足跡を除いては。
「痛ぁーい!」
「ごめんなさい! ミッチ、大丈夫?」

 ナーガールジュナ連邦の都市、ボーヴォワールの外れに一軒の掘っ建て小屋があった。苔だらけの大きな門の上に掲げられた看板と思しき板切れには『ビュヒナー霊式黙示流拳術道場』と刻まれている。東方伝来の古武術、霊式黙示流拳術=Bその奥義を身に付けた者は聖典に登場する戦神〈戡族{かんぞく}〉に匹敵する力を得、世界を制する三賢帝〈叡族〉と人の身でありながら渡り合えると言われている=B歳を経たメフメトを指の一振で粉砕し、銃弾を掌で弾けるらしい=B纏った闘気は嵐を呼び、雄叫びは暗雲を晴らすようである=B霊式黙示流拳術、それは文字通り最強≠フ格闘技なのであろう=B
 リタルダンド大陸で唯一、霊式黙示流拳術を後世に伝えんとするビュヒナー家の道場には門下生が二人いた。今年六十八歳になる第百二十一代霊式黙示流拳術師範ハルメット・ビュヒナーの一人娘、道場の家事全般をこなす働き者にして次期黙示流伝承者の役目を押し付けられた薄幸の少女、マルグリット・ビュヒナー十九歳。そして、二年前にビュヒナー家に引き取られた戦災孤児にして道場のお荷物、ミッチ・ビュヒナー十一歳。……つまり! 霊式黙示流拳術は、風前の灯火なのであった!
〈壊し屋マリー〉と〈我がままミッチ〉、今日も二人は黙示流とは全く関係の無いおつかいで東奔西走していた。はー、南無阿弥……合掌。

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